平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

聖霊について深く学ぶ<上>(2016.5.4 祈り会)

2016-05-05 19:17:29 | 祈り会メッセージ
2016年5月4日祈り会メッセージ
『聖霊について深く学ぶ(上)』
【使徒8:1~17】

はじめに
 私は平和のためには私たちがもっと深く聖霊について理解する必要があると、最近ますます強く感じるようになっています。そのためには、ヨハネの福音書についての理解を私たちがもっと深めるべきです。ヨハネの福音書は、読めば読むほど聖霊について書かれた書であるという確信が私は深まっています。
 それは一つには、イエスさまご自身が人々に聖霊について教えている場面がいくつもあるからです。イエスさまはニコデモやサマリヤの女に個人的に聖霊について教えましたし、或いはエルサレムの仮庵の祭に集まった人々に対して、そしてまた最後の晩餐の場では弟子たちに対して聖霊について教えました。
 しかし、ヨハネの福音書は、このように表立った場面だけでなく、聖霊(または御霊)という言葉が一言も出て来ない場面においても聖霊とは何かということについて、熱心に教えています。その代表が、ヨハネ4章27節から42節までの、サマリヤの町の人々がイエスさまに出会った箇所です。この箇所には「霊」という文字は一文字も出て来ませんが、この箇所は全部、霊的な話です。この箇所については、この祈祷会や礼拝のメッセージで既に何度も開いていますから、皆さんも御承知の箇所ですが、今回は、この箇所をもっと深堀りしたいと願っています。この箇所を集中的に深く学ぶことで、多くの方々に聖霊についてもっと深く知ってもらえるようになるのではないかと考えるようになりました。ですから今執筆中のヨハネの福音書についての本の原稿も、まず、このヨハネ4章27節から42節までに多くのページを割いて丁寧に説明したいと考えています。
 ただし、この箇所をじっくり学ぶとしたら、この箇所と重ねられている使徒の働き8章もまたじっくりと学ぶ必要があると思います。そこで、きょうはまずは使徒8章を開き、来週ヨハネ4章を開くことにしたいと思います。そうして来週の祈祷会を越えると、その次の礼拝はペンテコステ礼拝ということになります。

ピリポのサマリヤ伝道
 では、きょうは使徒の働き8章を開きましょう。1節から見て行きます。この8章1節の前の7章では、ステパノがユダヤ人たちに石で打たれて殺されたことが記されています。
 では、8章1節と3節までをお読みします。

8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

 次の9章では、サウロが迫害のためにダマスコ方面にまで遠征して行ったことが書かれていますから、サウロはエルサレムだけでなく周辺の町も行き巡ってイエスを信じる者たちを迫害していたようです。しかし、この迫害があったために散らされた人々によってイエスさまの教えが広く伝わるようになりましたから、とても不思議な気がします。その散らされた人の一人がピリポでした。

8:4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
8:5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

このピリポは福音書に登場する使徒のピリポではなくて、ステパノと一緒に選ばれた、御霊と知恵とに満ちた評判の良い人たち七名の中のピリポです。6節から8節、

8:6 群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
8:7 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。
8:8 それでその町に大きな喜びが起こった。

 このピリポの働きは、マルコの福音書に出て来るイエスさまの働きを思い出させます。ですからピリポは霊的にも優れた能力が与えられた働き人だったことがわかります。さて、ここで話がシモンに飛びます。9節から11節、

8:9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
8:10 小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。
8:11 人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。

 シモンは魔術を使う怪しげな人物でしたが、彼が魔術で人々に超自然的なことに関心を抱かせておいたから、ピリポの伝道も上手くいったという側面もあるかもしれません。何も起きていない所に行って、いきなり人を癒しても、人々は驚くだけで信仰にはつながらなかったかもしれません。それはマルコの福音書のイエスさまを思い出してみても、何となくそんな気がします。

聖霊を受けたサマリヤ人
 しかし12節、

8:12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
8:13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。

 こうして、ピリポが説くイエス・キリストについての教えを信じたサマリヤの人々はバプテスマを受けました。しかし聖霊は下っていませんでした。14節から16節まで、

8:14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
8:15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
8:16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

 先ほども見たようにピリポは霊的に優れた能力が与えられていた人物でした。そのピリポが説く教えをサマリヤ人たちは信じ、バプテスマを受けたのに聖霊は下らなかったということです。普通はイエスを信じれば聖霊を受けることになっていますから、どうして聖霊が下らなかったのかは謎です。注解書を何冊か見てみましたが、これは不思議なことだとしています。しかし、多くの聖書学者の見解としては、これがサマリヤ人たちという、ユダヤ人以外に最初に聖霊が下った事例であるからエルサレムの初代教会のリーダーであるペテロが立ち会う必要があったのではないかということです。 私も、そうなのだろうなと思います。使徒ではないピリポでは聖霊が下らなくて、使徒のペテロとヨハネが手を置かなければ聖霊が下らないのであれば、現代の私たちにも聖霊が下らないことになります。ペテロとヨハネは2000年前の使徒だからです。
 しかし、私たちは聖霊を受けたことを豊かに感じています。ですから、ペテロとヨハネと会ったことがない私たちにも聖霊は注がれます。そういうわけで、このサマリヤ人への聖霊の注ぎに関しては、ユダヤ人以外の最初の聖霊の注ぎということで本当に特別な事例としてペテロが現場に行くのを待って聖霊が注がれたということで良いのではないかなと思います。
 そして17節、

8:17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 以上の使徒8章の箇所がヨハネ4章でサマリヤ人たちがイエスさまと出会った箇所と重ねられています。

おわりに
 このヨハネ4章の箇所は来週の祈り会でじっくりと見ることにしますが、最後に一ヶ節だけ、もう何度もご一緒に見ている節ですが、ご一緒に読んで、メッセージを閉じたいと思います。
 ヨハネ4章42節を、ご一緒に読みましょう。

4:42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 お祈りいたしましょう。
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