平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

わたしが道であり、真実(本当)であり、命です(2021.6.27 礼拝)

2021-06-28 10:11:20 | 礼拝メッセージ
2021年6月27日礼拝メッセージ
『わたしが道であり、真実(本当)であり、命です』
【ヨハネ14:1~6】

はじめに
 礼拝では、ヨハネの福音書13章から17章までの「最後の晩餐」の記事を学んでいます。しばらくの間は、この学びを続けたいと思います。

 この「最後の晩餐」におけるイエス様の話の学びを始めた時、どれくらいのペースで進めるかは、まだ決めていませんでした。同じことを繰り返しているような箇所は飛ばして前へ進めたほうが良いのか、それともじっくり腰を落ち着けて、先を急がずに学んだほうが良いのか、どちらにするかは決めていませんでした。

 そうして、ここまで学んで来て、急がずにゆっくり学ぶことにしようかと今は思っています。じっくり学ぶことで、まるで自分自身がこの最後の晩餐の席に付いていて、イエス様から直接、話を聴いているような不思議な感覚を味わえるようになると思います。急ぎ足で読むと、この場にイエス様といるのはペテロやヨハネやユダで、自分がここにいるという感覚にはなかなかならないだろうと思います。しかし、この箇所をじっくりと読み、イエス様のおっしゃることの一言一言を噛みしめるなら、自分もまた、この席に座っていて、話をイエス様から直接聴いているような感覚を味わえるようになると思います。この感覚を皆さんと分かち合えるようになりたいと思います。

 さて、きょうは14章の1節から6節までを学びます。特に注目したいのは、6節です。イエス様はおっしゃいました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 この6節の中でも、特に「真理」に注目したいと思います。きょうは次の3つのポイントで話を進めます(週報p.2)。

 ①「真理」は「偽り・嘘」の反対語で「真実・本当」
 ②サタンは嘘の情報をエバとアダムに与えた
 ③黙示録22章の水辺の「いのちの木」への道

①「真理」は「偽り・嘘」の反対語で「真実・本当」
 6節を見る前に、1節から5節を見ておきたいと思います。まず1節、

ヨハネ14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

 イエス様が何に対して「心を騒がせてはなりません」とおっしゃっているのか、定かではありませんが、前の13章の33節のことで「心を騒がせてはなりません」ということなのかもしれません13章33節、

13:33 子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。

 この「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言ったことに対して心を騒がせてはなりません、ということなのかもしれません。弟子たちが今は来ることができない場所とは、天の父のみもと、天の御国のことです。その場所のことに、次の14章2節でイエス様は言及します。2節から4節、

2 「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」

 父の家に弟子たちもいるようにするため、イエス様は場所を用意しに行きます。しかし、「父の家」とはどこのことなのか、弟子たちには分かりませんでした。5節、

5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

 道とは、天の父のみもとへの道です。イエス様はその父のみもとへの道そのものです。なぜならイエス様は父と一つのお方だからです。ですから、イエス様を信じて付き従っていれば、父の家へ行くことができます。6節、

6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 ここでイエス様はご自身が道であり、真理であり、いのちであるとおっしゃっています。この中の「道」と「いのち」は比較的わかりやすいと思います。「道」とは「父のみもとへの道」であり、「いのち」とは「永遠のいのち」のことです。一方、分かりにくいのは「真理」ですね。

 ただし、「真理」というと分かりにくいのですが、1番目のポイントの表題に挙げたように、この「真理」とは「偽り・嘘」の反対語の「真実・本当」のことであると分かると、がぜん分かりやすくなると思います。

 先週の礼拝メッセージで、ヨハネの福音書とヨハネの手紙第一は、互いに補い合う関係にあると話しました。ヨハネの福音書で分からないことがある場合には、ヨハネの手紙第一を見ることで分かるようになる場合があると話しました。今週も、ヨハネの手紙第一を助けにして、「真理」を分かるようになりたいと思います。

 週報p.2に載せた第一ヨハネ1:6を見て下さい。

Ⅰヨハネ1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。

 ここに太字で示したように、「真理」は「偽り」の反対のことばとして使われています。ですから、「真理」よりも「真実」と言ったほうが分りやすいと思います。或いはもっと分かりやすくするなら、「嘘か本当か」の「本当」と言えば分かりやすいことと思います。「真理」というと、とても格調が高くて高尚な響きがあって、それが却って意味を分かりにくくしているように思いますが、「嘘か本当か」の「本当」と訳せば、ヨハネ14章6節のイエス様のことばは、もっとずっと分かりやすくなるでしょう。「真実」を使うなら、

「わたしが道であり、真実であり、いのちなのです。」

となり、「本当」を使うなら、

「わたしが道であり、本当であり、いのちなのです。」

となります。

 この「真理」のギリシャ語は「アレーセイア」です。このギリシャ語を英語では「truth」と訳しています。「truth」という英語を聞くと、「真実・本当」という日本語が思い浮かびますから、

「わたしが道であり、真実であり、いのちなのです。」

とするのが、分かりやすい訳であろうと思います。

②サタンは嘘の情報をエバとアダムに与えた
 この「最後の晩餐」の学びのシリーズでは、この「最後の晩餐」の背後には「神vs悪魔」の対決の構図が見えるという話も何度かして来ています。その「神vs悪魔」の対決という観点からイエス様の「わたしが道であり、真実であり、いのちなのです」を味わうと、一層わかりやすくなるだろうと思います。父のみもとへ行くには、悪魔のつく嘘に惑わされることなく、イエス様の真実のことばに聞き従う必要があります。

 人はもともと、創世記2:9(週報p.2)にあるように、「いのちの木」が中央にあるエデンの園に住んでいました。創世記2:9

創世記2:9 神である主は、…(エデンの)園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。

 この、いのちの木が中央にあるエデンの園にいた時の人は、永遠のいのちに近い所にいました。しかし、サタンがエバに嘘をついて「善悪の知識の木」の実を食べさせたので、人はエデンの園から追放されて「永遠のいのち」を失いました。サタンは蛇として現れてエバにこのような嘘をつきました。

創世記3:4「(中央にある木の実を食べても)あなたがたは決して死にません。」

 食べてはならない木の実を食べたエバとアダムは、食べてすぐに死んだわけではありませんが、エデンの園を追放されて永遠のいのちを失いましたから、この蛇の言ったことは嘘でした。結局、アダムとエバは死にました。

 こうして、人はサタンの嘘のことばに惑わされて神から引き離されて、闇の中をさまよい歩くようになってしまいました。そんな私たちにイエス・キリストは真実のことば、本当のことばを与えて下さり、天の父のみもとへ伴って下さり、永遠のいのちを与えて下さいます。

 このように、ヨハネ14章6節は、このことばの背後にはサタンの嘘による惑わしがあることを念頭に置いて読むと分かりやすいだろうと思います。サタンの嘘に惑わされるなら、私たちは永遠のいのちを得ることができません。

③黙示録22章の水辺の「いのちの木」への道
 きょうのメッセージでは、創世記2章のエデンの園の「いのちの木」に言及しました。そうして創世記2章のエデンの園の「いのちの木」に思いを巡らしている時に、黙示録22章の水辺にある「いのちの木」のことも思い起こしました。そうして、天の父のみもとへの道は、黙示録22章の水辺の「いのちの木」への道であることを、示されています。

 この黙示録の「いのちの木」は、天から降って来る聖なる都、新しいエルサレムにあります。週報p.2に記したように黙示録20章10節で私たちを惑わしていた悪魔が火と硫黄の池に投げ込まれた後、黙示録21章で新しい天と新しい地が到来します。その箇所、黙示録21章の1節から4節までをお読みします。

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 この新しいエルサレムに、もはや死はありません。この都に入れられる者には永遠のいのちが与えられているからです。悲しみも、叫び声も、苦しみもありません。ヨハネ14章でイエス様が示して下さっている道は、究極的には、この新しいエルサレムへの道です。

 そして、この都には「いのちの木」があります。今度は黙示録22章の1節から5節までをお読みします。1節から5節までのうちの1節と2節は、週報p.2に載せました。黙示録22章の1節から5節、

黙示録22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

 もはや暗闇の夜はありません。私たちを惑わす悪魔もいません。そうして私たちはいのちの水の川のほとりにいのちの木の実がなる都で、御父と御子とともに永遠の平安の中で過ごすことができます。この黙示録21章と22章の光景を思い浮かべながらヨハネ14章を読むと、イメージが膨らむことを感じます。ヨハネ14章の父のみもととは、この黙示録21章と22章のような場所です。ヨハネ14章の1節から4節までをお読みします。

ヨハネ14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」

 この世にいる間、私たちは悪魔から様々な偽りのことば、嘘を聞かされます。そうして悪魔は私たちを神様から引き離そうとします。しかし、イエス様につながっているなら、私たちは真実のことば、本当のことばに導かれて神様から離れることはありません。そうして私たちは、黙示録21章と22章に描かれているような新しい都へと導かれて行きます。

おわりに
 ヨハネ14章6節でイエス様はおっしゃいました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 この「真理」とは、「真実・本当」です。悪魔の嘘に惑わされることなく、イエス様の真実のことば、本当のことばに耳を傾けて、イエス様に付き従うことで、新しいエルサレムへと導かれたいと思います。

 そこには、いのちの水の川が流れていて、川のほとりにはいのちの木があります。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていて、こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいます。

 そこには、もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもありません。もはや夜もありません。神である主が私たちを照らすので、ともしびの光も太陽の光もいりません。

 イエス様の真実のことば、本当のことばに聞き従いながら、この新しいエルサレムへと導いていただきたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りをしましょう。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
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