平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

信仰から信仰へ(2015.10.4 礼拝)

2015-10-05 06:27:52 | 礼拝メッセージ
2015年10月4日礼拝メッセージ
『信仰から信仰へ』
【ローマ1:16,17】

はじめに
 きょうの礼拝後には会堂問題勉強会を予定していますから、メッセージは少し短めのものを準備しています。
 きょうの聖書箇所のローマ1章の16節と17節は前回の聖書箇所にも含まれていました。実は来週の礼拝メッセージも、この箇所からにしたいと考えています。3回連続で取り上げて、すこしじっくりとこの箇所を味わいたいと願っています。
 この16節と17節を見る前に、前回と前々回もご一緒に読んだ11節を、今日もまたご一緒に読みたいと思います。

1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。
 
 パウロは地上生涯のイエス・キリストからの教えを受けたことはありませんでしたが、復活したイエス・キリストにダマスコ途上で出会ってからは、聖霊を通して霊的なイエス・キリストから霊的な教えを直接受けていました。そうしてパウロの霊性は高いレベルに達して、それを保っていました。そのように高い霊性を持つパウロから見ると、ローマの教会員の霊性のレベルは何とも物足りないものでした。パウロはローマの教会に行ったことがありませんでしたが、ローマの教会の内情については仲間からの報告を聞いただけで、これは何とかしなければならないと思ったぐらいにローマの教会員の霊性のレベルは問題があったことが伺えます。

いつの時代でも困難であった深い信仰の伝道
 この霊性の問題は、当時のローマ教会だけではなく現代のクリスチャンの問題でもあります。欧米のクリスチャンも、日本のクリスチャンも、世界中のクリスチャンが同じ問題を抱えていると思います。ですからローマ人への手紙を書いたパウロに霊感を与えてこの手紙を書かせた聖霊は、当時のローマの教会員に対してはもちろんのこと、現代の世界中のクリスチャンに対しても、もっと霊的に成長してもらいたいと願っているのだと私は受け留めます。それが霊的に聖書を読むことだと私は考えます。霊的に聖書を読むとは、現代を生きる私たちに向けて聖霊がどのようなメッセージを発しているのかを感じながら読むことと言えるでしょう。
 現代を生きる私たちは、伝道が困難な時代の中にいると言われています。しかし、本当に霊的に深いレベルの信仰を多くの人々が持つための伝道という意味では、いつの時代にあっても困難であったのだと私は思います。日本は70年前の終戦直後から、しばらくの間はキリスト教ブームの中にあったと言われています。多くの人々が教会に押し掛けたそうです。私の父も、その一人でした。しかし、私の父がそうであったように、その当時教会に押し掛けた人々の多くは、やがて教会から離れて行きました。そのように教会から離れた人々は深い霊性が養われることがなかった人々でしょう。すると、戦後のキリスト教ブームの頃というのは、表面的には伝道がしやすい時代であったと言えるのかもしれませんが、本当の意味での信仰の伝道という点では、やはり伝道が困難な時代であったのだと言えるでしょう。深いレベルの霊性を養うための伝道は、今も昔も困難であると言えるのだと思います。
 いま私は「伝道」という言葉を使っています。この「伝道」は信仰の初心者を導くための活動の言葉として私たちは用いています。しかし、このいわゆる「伝道」によって導かれた人々の多くが、深い霊性が育たずにやがて教会を離れてしまうとしたら、果たしてそれを「伝道」と呼んで良いのかという気がします。伝道という言葉は、もっと深い霊性にまで導くための言葉として用いるべきだという気がします。その深い霊性へと導く伝道のために私たちは工夫を重ねて行かなければならないのだと思います。
 これから新しい会堂を建設する私たちは、是非とも、人々を深い霊性へと導くことができる伝道活動を行いたいと思います。そのためには、まず私たちの霊性が深められなければなりません。そのために、このローマ人への手紙の学びが祝されることを願っています。

霊的に聖書を読むとは
 さて、先ほど私は、ローマ人への手紙を書いたパウロに霊感を与えてこの手紙を書かせた聖霊は、当時のローマの教会員に対してはもちろんのこと、現代の世界中のクリスチャンに対しても、もっと霊的に成長してもらいたいと願っていると私は受け留めると言い、そのように聖霊が現代の私たちに向けて発しているメッセージを感じ取ることが、霊的に聖書を読むことなのだと言いました。このことについて、もう少し説明しておきたいと思います。
 皆さん、よくご存知の聖句だと思いますが、第二テモテの3章16節と17節(新約聖書p.416)をご一緒に読みたいと思います。

3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

 16節に「聖書はすべて、神の霊感によるもの」とあります。パウロがテモテに宛ててこの手紙を書いた当時、「聖書」とは旧約聖書のことでしたが、新約聖書も同様です。旧約聖書も新約聖書も、すべて神の霊感によるもので、神が聖書の記者に霊感を与え、聖書の記者はその霊感を感じて、それぞれの書や手紙を、それぞれの時代に書きました。モーセ五書を書いたと言われるモーセは約3500年前に、詩篇の詩の多くを書いたと言われるダビデは約3000年前に、パウロの手紙は約2000年前にというように、それぞれの記者が聖書の書を書いた時代は異なります。しかし、それぞれの記者に霊感を与えた聖霊は一つであり、永遠の中におられますから現代の私たちとも共にいて下さり、聖書を読む時には霊的な導きを与えて下さいます。モーセやダビデやパウロに霊感を与えた聖霊は私たちにも霊感を与えて下さっているのですから、聖書の書物は当時の人々に向けられて書かれただけでなく、現代の私たちに向けても書かれているということを読み取らなければならないと思います。

浅い信仰から深い信仰へ
 そして、きょうの聖書箇所からも私たちは聖霊によって現代の私たちに宛てられたメッセージを読み取りたいと思います。ローマ1章の16節と17節を交代で読みましょう。

1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 きょう注目したいのは、17節の「その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」という言葉です。「その義」というのは「神の義」のことです。神の義は、信仰に始まり信仰に進ませる」とパウロは書いています。この「神の義」については、来週学ぶことをしています。その前に、きょうはこの「信仰に始まり信仰に進ませる」について、見ておきたいと思います。
 この「信仰に始まり信仰に進ませる」の箇所は、ギリシャ語では「信仰から信仰へ」となっています。このように単に「信仰から信仰へ」だけですと、わかりにくいので新改訳聖書では「信仰に始まり信仰に進ませる」というように訳しています。
 この「信仰から信仰へ」を現代のクリスチャンである私たちは、どう受け留めるべきかということに関して私は、「浅い信仰から深い信仰へ」と受け留めたいと思います。「浅い信仰から深い信仰へ」とは、「霊的に浅い信仰から霊的に深い信仰へ」ということです。先ほど言った戦後のキリスト教ブームの頃のことで言えば、多くの人は浅い信仰にとどまっていました。そうではなくて、もっと深い信仰へと進んで行かなければならないということです。
 浅い信仰であっても救われているのですから大きな恵みではありますが、しかし、浅いレベルの信仰にとどまるのなら、極端な言い方をすれば、それは神社の神を信仰しているのと、あまり変わらないレベルと言えるでしょう。もちろんキリスト教の聖書の神を信仰の対象とするのと神社の神を信仰するのとでは根本的に違いますから両者は大きく異なります。しかし信仰のレベルということで言うなら、たとえキリスト教の聖書の神を信仰していても浅いレベルにとどまって礼拝を捧げているのなら、レベル的には神社に参拝しているのと、あまり変わらないと言っても過言ではないでしょう。イエス・キリストを信じるなら誰にでも聖霊が注がれます。しかし、せっかく聖霊が注がれているのに、その聖霊の恵みに気付かないでいるなら、信仰のレベルとしては神社に参拝するのと大きくは変わりません。神社には何万回お参りしても聖霊が注がれることはありません。ですから聖霊の恵みに気付くことなく礼拝を捧げているとしたら、神社への参拝と同じレベルにとどまっているということになります。しかし自分に聖霊が注がれていることの恵みに気付き、それを感じながら礼拝を捧げるなら、霊性は礼拝を捧げる度に深まって行き、さらに大きな恵みをいただくことができるようになります。私たちが伝道する時には、この素晴らしい恵みをも、お伝えできるようになりたいと思います。それを、どのようにお伝えしたら良いのか、私自身も模索している中にありますが、様々に工夫を重ねて行きたいと思います。

旧約の信仰から新約の信仰へ
 ここまで現代に向けられたメッセージの観点から考えました。ここからは聖書の時代に戻りたいと思います。この「浅い信仰から深い信仰へ」について、パウロの時代で言えば、旧約の信仰から新約の信仰へ、ということになるでしょう。このように旧約から新約への移行を示すみことばは、聖書の中では、いくつもの箇所で見出すことができます。
 きょうは2箇所を挙げて、礼拝メッセージを閉じることにします。先ず、ヨハネの福音書1章の16節と17節です。交代で読みましょう。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 この恵みの上にさらに恵みを受けたというのは旧約の律法の恵みの上に、さらに新約の聖霊の恵みを受けたということです。ヨハネの福音書には、この聖霊の恵みのことが書かれています。律法を守る信仰だけでは残念ながら信仰は浅いレベルにしか達することができませんでした。深いレベルの信仰は、すべての人に聖霊が注がれることによって実現しました。
 そして、もう一つの箇所は、これまでに何度も開いて来た箇所ですが、エレミヤ書の31章です(旧約聖書p.1302)。エレミヤ書31章の31節から34節までを、交代で読みましょう。

31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 主はエレミヤを通して33節で仰せられました。「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」これは聖霊の恵みのことを言っていますね。この聖霊の恵みをいただいていることを霊的によく理解できていないら、私たちの信仰は浅いレベルにとどまったものになってしまいます。

おわりに
 ですから聖書を読む時、私たちは聖霊の恵みを意識しながら読むことができるようになりたいと思います。
 そうして私たちが霊的に整えられて、いつも霊的な礼拝を捧げることができるよう、お祈りしたいと思います。
 お祈りしましょう。 

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