平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

イエスが行われたしるし(2015.8.2 礼拝)

2015-08-04 00:55:02 | 礼拝メッセージ
2015年8月2日礼拝メッセージ
『イエスが行われたしるし』
【ヨハネ21:25】

 きょうは聖書を開く前に、私がこの沼津教会に着任した前後に遡って、ここまでの会堂問題の流れを振り返ってみたいと思います。
 私がこの沼津教会に着任したのは2年ちょっと前の2013年の4月です。そして最初の1年間は準備の期間であったと思います。この準備の期間も、この教会にとっては重要な期間であったと思います。この最初の1年に、私はA兄の協力を得て、この教会の土地と建物の所有権の移転を行いました。今はこの教会の土地と建物の所有権は教会にありますが、それまでは銀行から受けていた融資の関係で前任の先生の所有物になっていました。融資の返済が完了した時点で所有権を教会に移す必要がありましたが、まだ手続きがされていませんでした。それで先ずは、この会堂の土地と建物の所有権の移転が完了しないことには新会堂に取り組めないわけです。
 幸い、私は前にいた教会でも土地と建物の所有権移転の手続きを経験していて、どんな手続きが必要かを知っていましたから、2013年にこの教会に着任して直ちにこの手続きに取り組むことにしました。私は前の教会で取り組んだ時には手続き全体の流れがなかなか理解できなくて大変に苦労しました。教団からの指示書には、まず法務局に行って相談すること、それから県庁の手続きも進めるとあるのですが、なぜ法務局と県庁の両方に行かなければならないのか、最初は理解できていませんでした。他の多くの教会の牧師先生にとっても同様だったと思います。いちおう法務局に相談に行くのですが、手続きの流れがよく理解できなくて後回しにしているうちに、手続きされないまま月日が経ってしまうのです。前の教会がそうであり、沼津教会もまたそうでした。
 いま教会の土地と建物の所有権移転の手続きの話をしていますが、なぜこんな話をしているかというと、今の私たちの会堂問題の下地となる準備作業は2年前から始まっていたのだということを話したいわけです。2年前というよりも、もし私が前の教会で手続きを経験していなかったら、沼津教会の手続きは大幅に遅れたことと思いますから、私が前の教会に滞在していた4年前から既に沼津教会の会堂問題の準備が始まっていたとも言えるのかもしれません。
 いま思い出しても本当に大変だったなと思うのは、沼津教会の場合は前の教会の場合よりもさらに手間が掛かったことでした。前の教会の場合は法人格を持っていませんでしたから、元牧師の所有になっていた土地と建物は教団本部に移転させました。この時の経験で私は、移転を受ける側の組織の規則を県庁に提出する必要があることを知っていました。この所有権の移転が組織の規則に則って行われているかを県庁が審査するためです。そして県庁の審査を通れば、法務局で所有権移転の登記をする際に発生する登録免許税の非課税証明書を県庁が発行してくれます。この非課税証明が得られないと、例えば1千万円の価値がある不動産の所有権移転登記では20万円の登録免許税が掛かります。
 さて、前の教会の土地と建物の本部への所有権移転の場合は、本部の規則がしっかりしていましたから、問題はありませんでした。しかし、沼津教会の場合は宗教法人格を持っていますから土地と建物は本部ではなくて沼津教会に移転することになります。その場合、県庁に提出する規則は本部の規則ではなくて沼津教会の規則です。そして私が引き継いだ沼津教会の規則は、現状とは異なる古い規則のままになっていました。ですから、土地と建物の所有権を移転する手続きの前に、先ずは教会の規則を現状に合ったものに変更する必要がありました。これは私も前の教会では経験しておらず初めてのことでしたから、大変なことになったなと思いました。幸いA兄が全面的に協力して下さり、A兄は東京の本部と静岡の県庁にも足を運んで下さって、規則の変更の仕方についてアドバイスを受けて来て下さいましたから、本当に感謝なことでした。この規則の変更だけで約半年間掛かりました。
 次に問題となったのが、先週も少し話しましたが、この教会の土地は本体の土地にプラスして小さな土地が2つくっ付いていたことでした。土地の本体は32年前に前任の先生が購入したものであり、小さな土地は15年前に隣の地主さんから所有権が移転されたものです。このように取得した経緯の異なる土地を法務局が一括して所有権移転の登記をしてくれるのかという問題がありました。そして非課税証明を発行する県庁の担当者も法務局の細かい手続きのことまでは知りませんから、私が法務局提出用に準備している書類の書式を見て、これで本当に所有権が移転できる見込みがあるのですかと私は聞かれました。もし、これで確実に所有権移転ができる見込みがないなら県庁としては非課税証明書は発行できないとのことでした。それで私は県庁に非課税証明願を出す前に法務局に何度も足を運んで小さな土地と本体の土地の両方を一括して所有権移転の申請をする書類のチェックを受け、何度か作成し直して、ようやくこれで大丈夫という段階になって、改めて県庁に非課税証明の発行願いを申請して非課税証明を得ることができました。そして年が明けて2014年の1月にようやく沼津教会のこの土地と建物の所有権の移転が完了しました。
 私たちの教会が新会堂の取得に向けて第一歩を踏み出したのは去年の7月ですが、こうして振り返って見ると、それ以前にも準備作業が随分と積み重ねられていたのだなと思うことです。
 この所有権移転が完了した2014年の1月の教会総会で私たちは2012年に掲げた2017年に献堂式を行うという目標を改めて確認しました。そのためには2014年は非常に重要な年になるということを私は申し上げました。そして翌月の2月から会堂祈祷会をスタートさせました。
 そうして、昨年の5月に屋根に上がった時に屋根の腐食の進行が思っていたよりも深刻であることがわかり、幹事会で報告しました。その時に与えられたみことばが、出エジプト25章8節の、

出25:8 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。

でしたから、このみことばを報告書に添えました。
 私は聖別された空間である聖所を造る必要を感じていました。今のこの会堂は残念ながら聖別された空間ではありません。普段は日常生活の場として使っているこの部屋を日曜日に礼拝堂として使っています。そうではなくて私たちの霊性がより整えられるためには聖別された空間を持つ必要があると感じていました。それで、昨年の7月の会堂建設委員会では、今のこの会堂をリフォームして礼拝堂として使い続けるのではなく、新しい会堂を取得することを提案して決めました。中古であれ、建て替えであれ、新築であれ、とにかく、この礼拝堂を使い続けることはしない決定をしました。これが新たな第一歩でありました。
 この7月の会堂建設委員会の日の礼拝で開いた箇所が、きょうの聖書交読でご一緒に読んだヨシュア記3章です。実はこの7月の少し前の6月に、私はB先生に励まされていました。6月に静岡教区と東関東教区合同の1泊2日の牧師研修会がありました。この研修会中の食事の時に静岡教区のB先生とゆっくり話す機会があったのですが、B先生はこのヨシュア記3章を引きながら、まず私たちの側で一歩を踏み出すのでなければ奇跡は行われないのだというアドバイスをいただきました。或いはまた東関東教区のC先生からも、頭で計算している間はどうしたってできないのだ。しかし踏み出せば主が助けて下さるのだというアドバイスを受けました。これもヨシュア3章と同じですね。
 ヨシュア記3章をご一緒に見てみましょう。まず3章1節、

3:1 ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。

 このヨシュア記3章には、ヨシュアに率いられたイスラエルの民がいよいよヨルダン川を渡って約束の地のカナンに入って行ったことが記されています。それまでイスラエルの民はモーセに率いられて40年間荒野を放浪しました。モーセは約束の地に入ることが許されず、イスラエルの民を率いるリーダーの役割はヨシュアに引き継がれました。そうして、このヨシュア3章でいよいよヨルダン川を渡ります。少し飛ばして5節、

3:5 ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、【主】が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」

 ヨシュアは民に、「主が不思議を行われる」と言いました。主が不思議を行われる方であることは、私たちもよく知っていますね。私たちは皆、生まれも育ちも違いますが、今こうして一つの所に集まって神の家族として共に礼拝しているなんて、実に不思議なことだと思います。この不思議なことをされる主が、イスラエルの民がヨルダン川を渡る時にも不思議を行おうとしていました。6節、

3:6 ヨシュアは祭司たちに命じて言った。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。

 ヨシュアは先ず祭司たちに神の箱をかついで民の先頭に立つように命じました。そして、13節のように言いました。13節、

3:13 全地の主である【主】の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」

 この時、ヨルダン川の水量は歩いて渡るには無理なほどでした。特に大勢いた女性や子供たちが渡るには危険を伴いました。そのヨルダン川の水を主が止めて下さるのを待ってから渡るのでなく、ヨシュアは祭司に先ずは水の中に足を浸すように命じました。そうすれば水がせきとめられると言うのですね。14節から17節までは交代で読みましょう。

3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。
3:15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、──ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが──
3:16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。
3:17 【主】の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真ん中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

 15節と16節にあるように、神の箱をかつぐ祭司たちの足が水に浸った時に、水はせきとめられ、民はヨルダン川を渡ることができました。このように人間の側で先ず第一歩を踏み出すことで神さまは不思議を為して下さいます。
 1年前の7月、私たちは神さまがこのような不思議を為して下さることを信じて新会堂の建設に向けて一歩を踏み出しました。そして、1年が経ち、これは本当のことだったのだなと今改めて思っています。お金の細かい話をするのは、どうかとも思いますが、神さまが為して下さった不思議の証として次に述べさせていただきます。
(中略)
 これらは、主の不思議としか言いようがありません。私たちの側で一歩を踏み出すなら主が不思議を為して下さるというのは本当だったのだなあと、改めてしみじみと思うことです。
 週報にも書きましたが、先週、関西の方からもご支援がありました。これも私はそれまで全く予期していないことでしたから、これも主の為された不思議と思い、御名を崇めました。主が為された不思議なこととは、主イエスが為されたことと同じです。
 最後に、きょうの聖書箇所のヨハネ21章25節についてお話しして、きょうのメッセージを閉じたいと思います。

21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。

 ヨハネの福音書は、ご承知の通り、イエスが行われたしるしについて書かれた書でもあります。ヨハネ2章11節には、「最初のしるし」について、次のように書いてあります。

2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 またヨハネ4章54節には、「第二のしるし」について次のように書いてあります。

4:54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。

 この「最初のしるし」と「第二のしるし」の他にもヨハネの福音書のイエスさまはベテスダの池にいた病人を癒し、五千人の給食の奇跡を行い、盲人の目を開け、また死んだラザロをよみがえらせたりしました。そして、このヨハネの福音書の最後は、きょうの聖書箇所の、

21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。

で締めくくられています。
 世界も書かれた書物を入れることはできまいとはどういうことか、それは私たちに対してもイエスさまはたくさんの奇跡を行って下さっているからです。私たちの教会にこの1年に起こった不思議なこともそうです。先ほどの話をもう一度簡単に繰り返します(中略)。これらを奇跡と言わずして何と言うべきでしょうか。まさに奇跡だと思います。そして、D兄という良き働き人が備えられていたことも奇跡のようなことだと言えると思います。D兄はわずか2週間足らず短い間に奇跡のような働きぶりをして下さいました。
 イスラエルの民がヨルダン川を渡る時、神の箱をかついだ祭司の足が水の中に浸って初めて奇跡が起きたように、私たちの側で先ず一歩を踏み出さなければ奇跡は起きないのだということは本当のことだったのだなと改めて思うことです。これらは皆、イエスさまがして下さったことです。
 信仰の喜びというのは、私たちに永遠の命が与えられて死んだ後によみがえることができるという喜びももちろん大きいですが、私たちの目の前でこのような奇跡が行われることを実際に本当に見ることができるというのも大きな喜びだと思います。
 イエスさまは、これからも私たちに多くのことをして下さることでしょう。そのイエスさまを信頼して、イエスさまを中心にして一つになって歩んで行くことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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