平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

イエスの問い掛けに応答し続ける(2015.10.28 祈り会)

2015-10-29 08:05:36 | 祈り会メッセージ
2015年10月28日祈り会メッセージ
『イエスの問い掛けに応答し続ける』
【ヨハネ1:35~40】

はじめに
 先週の祈祷会では、イエス・キリストと私との交わりがどのようにして深められて行ったかを、いくつかの段階に分けて考えてみました。簡単に振り返っておきます。

 ①教会の会堂の中の雰囲気や教会員との交わりを通してイエスを感じる(※無意識)。
 ②教会の説教を聞いてイエスを感じる。自分で聖書を読んでも今一つわからない。
 ③聖書の共観福音書を読んで、福音書の時代のイエスとの交わりを感じる
 ④ヨハネの福音書を読んで、イエスが今の自分に語り掛けていることを感じる
 ⑤ヨハネの福音書のイエスは「旧約の時代」の預言者たちと共にいることを知る
 ⑥ヨハネの福音書のイエスは「使徒の時代」の使徒たちとも共にいることを知る
 ⑦ステレオ写真の立体視のように「旧約の時代」と「使徒の時代」の霊的イエスを同時
  に見ることで永遠の中にいるイエスとの交わりを、よりリアルに感じるようになる。
 ⑧ヨハネの福音書の「イエスの愛弟子」とは、実は自分のことであると知る。

 きょうは④の段階、すなわちヨハネの福音書を読んで、イエス・キリストが今の自分に語り掛けていることを感じることについて、もう少し深めてみたいと思います。

今の私に語り掛けるイエス
 私自身の経験を振り返って考えみると、イエスさまが今の私に語り掛けて下さっていることを十分に感じていないなら、イエスさまが「旧約の時代」の人々にも「使徒の時代」の人々にも語り掛けていることには非常に気付きにくいだろうと思います。それゆえ、先ずはイエスさまが今の自分に語り掛けて下さっていることを、繰り返し深く味わうことが格段に大事であろうと思います。
 ヨハネの福音書のイエス・キリストのことばの中で、私が最も身近に感じ、イエスさまが自分に語り掛けていると感じる箇所は、これまでにも何度も開いてきた箇所ですが、1章38節の、
「あなたがたは何を求めているのですか」
と39節の、
「来なさい。そうすればわかります。」
です。
 この二つのことばは、ヨハネの福音書におけるイエスさまの第一声と第二声です。この第一声の後には、「ラビ。今どこにお泊りですか」という二人の弟子の質問が入り、第二声の後には「そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った・・・」という説明があります。イエスさまの「あなたがたは何を求めているのですか」が自分に向けられていると感じない間は、二人の弟子の質問や、その後の状況説明が、とても気になりますが、不思議なことに、「あなたがたは何を求めているのですか」が自分に向けられていることを意識するようになると、イエスさまがどこの宿に泊まるのかということは、ほとんど気にならなくなります。それは、イエスさまが自分のうちに住み始めるということなのかもしれません。
 そして、「あなたがたは何を求めているのですか」というイエスさまの問い掛けが気になるようになると、「自分は何を求めているのか」を考えるようになります。すなわち、イエスさまの問い掛けに応答するようになります。そして、いろいろと考えてみるのですが、これは、すぐにわかるような問い掛けではないということが、わかって来ます。そこで、自分が何を求めているのかはイエスさまに付いて行けばわかる、それが「来なさい。そうすればわかります」なのだということがわかって来ます。

イエスの問い掛けに応答し続ける
 ここが、まずヨハネの福音書の理解の大きな分岐点になります。イエスさまの問い掛けが紀元30年頃の弟子たちに向けられたものか、2015年の自分に向けられたものなのか。これは、どちらが正しいかとう問題ではないでしょう。読者の霊性の整えられ方によって、どちらとも取れますから、どちらも正しいと言えるでしょう。しかし望ましいのは、イエスさまが2015年の自分に向けて問い掛けているのだと理解することでしょう。
 そして、このイエスさまの「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」は一回だけ応答すれば良いのではなく、常に応答し続けるべきものなのだと思います。なぜなら私たち一人一人の人生や教会のことなどは、刻々と情勢が変化して行くからです。これらの情勢に変化が生じた時に、自分で答を出すのではなく、常にイエスさまの問い掛けに応答することで答を探って行くべきです。
 例えば私たちの教会の会堂問題で言えば、当初は今回の土地のことなど一切、考えていませんでした。次に、今回の土地の一部を買う案が浮上して来ましたが、その段階では地主さんに関する情報を私たちは持っていませんでした。そして法務局で登記簿を取得したことで地主さんが誰かはわかりましたが、地主さんがどのような意向を持っているかは一切わかりませんでした。それが町内会の懇親会を経て地主さんの意向がわかり、教団の年会を経て教団も反対ではないことがわかりました。そうして、教会内で検討を始めたわけですが、臨時教会総会での承認に漕ぎ着けるまでには実に様々なことがありました。このように、会堂問題一つ取っても、情勢は常に変化し続けて来ましたし、これからも変化し続けて行きます。このような時に、私たちは何を求めているのか、そしてイエスさまは私たちにどう動いて欲しいとお考えなのか、御心を求めることが常に必要です。それが「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすればわかります」に応答し続けることだと言えるでしょう。

思い掛けない場にもいるイエス
 こうして常にイエスさまの問い掛けに応答し続けていると、思い掛けない場にもイエスさまの姿があることを感じることがあります。たとえば以前話したことがありますが、私がちょっと疲れた状態でJRの東海道線に乗っていた時、向かいに座っていたご婦人が野田秀先生の『教会生活のこころえ』を熱心に読んでいるのを見ました。この時に私は、このご婦人の中に住んでおられるイエスさまが、疲れていた私を励まして下さったのだと感じました。聖霊が注がれた者の中にはイエスさまが住んでおられますから、聖霊が注がれた者を通してイエスさまが人に語り掛けるということがあるのですね。
 このことを霊的に実感できるなら、旧約の時代の預言者の中にもイエスさまがいることを感じることができるだろうと思います。私がよく例に挙げる、ヨハネ4章のサマリヤの女にイエスさまが水を所望する場面(ヨハネ4:7)は、旧約の時代の預言者エリヤがやもめに水を所望する場面(Ⅰ列王17:10)と重ねてあるというのは、そういうことです。預言者エリヤには聖霊が注がれていましたから、エリヤの中にはイエスさまが住んでいました。そのイエスさまがエリヤを通して、やもめに「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませて下さい」(Ⅰ列王17:10)と言ったのですね。
 このことを理解するためには、先ずは私自身の中にイエスさまが住んで下さっていて、常に「あなたは何を求めているのですか」と問い掛けられていることを意識している必要があったのだなと、私はこの頃になって、ようやくわかって来ました。「旧約の時代」にも「使徒の時代」にもイエスさまがいることを多くの方々に理解していただくには、先ずは自分自身の中にイエスさまがいて下さり、常に応答している必要があるのだろうと思います。

おわりに
 さてしかし、こんなことを語ると、いかにも私の霊性が整えられているように聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。私自身もそんなに整えられた者ではありません。だからこそ、私は霊的に整えられやすい雰囲気を持つ、聖別された礼拝堂が是非とも必要だと思っています。
 祈祷会では、これからもしばらく、イエスさまと出会うことについて、考えて行きたいと思います。
 私たちの一人一人がいつも、イエスさまとの深い交わりを持つことができますよう、お祈りしたいと思います。
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