平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

神が共におられる心強さ、おられない恐怖(2015.1.28 祈り会)

2015-01-29 20:57:13 | 祈り会メッセージ
2015年1月28日祈り会メッセージ
『神が共におられる心強さ、おられない恐怖』
【出エジプト3:7~12】

はじめに
 祈り会の出エジプト記の学びは、きょうが2回目です。前回は3章の1節から6節まででした。神の山ホレブにやって来たモーセは、燃える柴の光景によって主のみもとに引き寄せられ、主から「モーセ、モーセ」と言葉を掛けられました。そして、5節と6節で、主はモーセに「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」、「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と仰せられました。

モーセへの主のことば
 きょうは、その続きです。
 主は、エジプトで奴隷になっているイスラエルの民の叫びを聞きました。それで主は彼らをエジプトの手から救い出し、カナンの地に連れ上ると仰せられました。そして、モーセをそのリーダー役に任命したのでした。10節、

3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
 
 モーセは、この主のことばに驚き、そして言いました。11節、

 3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」

 モーセは、そんな大役は自分にはとても無理だと思いました。しかし、主は仰せられました。12節、

3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

 主は、「わたしはあなたとともにいる」と仰せられました。このことばに力を得たのでしょう、モーセは13節で、「今、私はイスラエル人のところに行きます」と言いました。主の、「わたしはあなたとともにいる」ということばは、他のどんなことばにも代えがたい、大きな力を与えてくれることばであると言えるでしょう。

ギデオンへの主のことば
 きょうは、このモーセの他にも似たような経験をしたギデオン、エリヤ、そしてイエス・キリストについても見てみたいと思います。まず、ギデオンです。士師記6章を開いて下さい(旧約聖書p.423)。時間の関係で詳しい説明は省きますが、このギデオンの時代、イスラエル人はミデヤン人に苦しめられていました。士師記6章の6節をお読みします。

6:6 それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。すると、イスラエル人は【主】に叫び求めた。

 この状況は、モーセの時代にエジプトで奴隷になっていたイスラエルの民が叫びの声を上げたのと少し似ていますね。主の使いがギデオンのもとに来たのは、そんな時でした。11節と12節、

6:11 さて【主】の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。
6:12 【主】の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。【主】があなたといっしょにおられる。」

 ギデオンは酒ぶねの中で小麦を打つほど臆病な者でしたが、主の使いはギデオンに「勇士よ」と呼びかけ、「主があなたといっしょにおられる」と言いました。そして、今度は主ご自身が、ギデオンに仰せられました。14節から16節までを、お読みします。

6:14 すると、【主】は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
6:15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」
6:16 【主】はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」

 14節で主はギデオンを遣わすと仰せられましたが、15節でギデオンは尻込みをします、そんなギデオンに対して主は16節で、「わたしはあなたといっしょにいる」と仰せられました。そして、この後ギデオンは主にしるしを求めて、このことばが主によるものであることが間違いないことを知りました。そうして、ギデオンは戦いに出て行きました。

エリヤへの主のことば
 次に見たいのは、列王記第一の19章のエリヤがすっかり弱りきってしまった箇所です(p.619)。ここは18日の礼拝でも開いた箇所ですから、簡単に見るだけにしますが、19章4節で、エリヤは「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」と主に言いました。このように、すっかり弱ってしまっていたエリヤに主は御使いを使って食べ物を与え、またご自身もエリヤに声を掛けられました。ここで主は「わたしはあなたとともにいる」とは言っていませんが、主はエリヤとともにいることを、ご自身の言動を持って示されました。そうして、主はエリヤに新たな命令を与えました。15節ですね。

19:15 【主】は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。
 
 エリヤは主がともにいて下さることで、また新たな力を得て、新たな使命を果たすために再び立ち上がりました。

神が共におられない恐怖
 これらのことを思い巡らしている時、私はふと、主イエスのゲッセマネの祈りと十字架の場面を思い出しました。まず、ルカの福音書からゲッセマネの祈りの場面を見ましょう。ルカの福音書22章の41節から43節までをお読みします。

22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

 43節に、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけたとあります。これは、先ほどの列王記第一19章で、御使いがエリヤを力づけたのと良く似ていると思います。この43節と44節は、下の脚注によれば、写本によっては欠くものもあるようです。ですから、原典においてこの43節と44節が存在したかどうかは、よくわかりませんが、イエス・キリストが何に苦しんでいたのかということを考える上では、とても良い助けになると思います。
 それは、こういうことです。モーセもギデオンもエリヤも、主が共にいて下さることを知ることで力を得ることができました。そして、十字架を目前にしたイエスさまも、御使いが現れて力づけたことで、力を得ることができました。それは裏返せば、主がともにいて下さらないことほど恐ろしいことはない、ということになるでしょう。
 イエスさまは十字架で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました(マタイ27:46)。それは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。イエスさまは私たちの罪を背負って十字架に付けられました。人間の場合、罪を背負ったままの者は神との関係が絶たれていますから、神と和解せずにそのまま死んでしまえば神との関係を永遠に回復できない可能性が極めて高いと言えます。イエスさまは、その恐怖を味わったのだと言えるでしょう。とげの付いたムチで打たれ、十字架に釘付けにされることも、もちろん大きな恐怖です。しかし、それにも増して、神さまとの関係を絶たれることのほうが、イエスさまは神を良くご存知であるがゆえに、もっと大きな恐怖であったことでしょう。私たちの罪を背負ったイエスさまは、その恐怖の中で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んだのだということを、きょう私は教えられたように思います。モーセとギデオンとエリヤが、神が共におられることで力を得て恐怖を乗り越えたこと、そのことの裏返しの場面が、イエスさまの十字架であるということを教えられたと感じています。

おわりに
 幸いなことに、神と既に和解して神との関係を築いている私たちは、死に際してイエスさまのような恐怖を味わうことはありません。しかし、聖霊を汚して神との関係を築く機会を失った者は、永遠に赦されません。このことが、いかに大きな恐怖であるかを、イエスさまの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という叫びは表しているように思います。
 きょうは、モーセに始まって、あちこち色々な箇所を見ましたが、最後に、もう一箇所、イエスさまが「聖霊を汚す者は永遠に赦されない」と、おっしゃっている箇所を見て、終わりたいと思います。マルコの福音書から見ましょう。マルコ3章の28節と29節を交替で読みましょう(新約聖書p.69)。

3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

 お祈りいたしましょう。
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