平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

神のみことばの分厚い恵み(2015.1.7 祈り会)

2015-01-08 23:00:38 | 祈り会メッセージ
2015年1月7日祈り会メッセージ
『神のみことばの分厚い恵み』
【マタイ25:18、伝道者1:2、詩篇119:81,82、イザヤ40:8、ヨハネ1:14、エペソ3:17~19】

はじめに
 きょうは始めに、きょう引用するみことばを挙げておきたいと思います。全部で6箇所あります。この6箇所以外にも挙げたい箇所がありますが、あまりに多くなり過ぎますから、6つだけにしておきます。前半は私の証しで、後半はみことばの学びですが、前半の証しは後半の学びとも関係していますから、始めにみことばを全部挙げておくことにします。あちこち開くと時間が掛かりますから、聞いていていただければ良いです。

マタイ25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
伝道者1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
詩篇119:81,82 私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と言っています。
イザヤ40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
エペソ3:17-19 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

証し
 まず前半は、私のお証しです。
 昨年の12月7日の交換講壇での藤本先生の説教は、ルカの福音書のザアカイの記事の、イエスさまがザアカイに「降りて来なさい」とおっしゃった箇所から学んだということを聞きました。ザアカイは大変に上昇志向の強い人物であったので出世を目指し、そうして取税人のかしらになり、金持ちにもなることができました。そのように上を目指してばかりいたザアカイは人目もはばからずに木の上にも登り、イエスさまがどんな方なのかを見ようとしました。そんなザアカイに対してイエスさまは「降りて来なさい」と言われたのですね。
 考えてみると、私も大変に上昇志向の強い人間です。上昇志向は強いけれども簡単には上に登ることができず、一方、周囲の人々は自分よりも早く上へ行くのであせったり悔しい思いをしたり、そんなことを繰り返していました。そんな風に上を向く必要はないのかもしれませんが、周りに優秀な人がたくさんいるので、刺激を受けて、自然に上を向いてしまうんですね。特に学生時代を過ごした北海道では、大きなことを考えている人たちがいましたから、私も大きなことを考えて、もっと上を目指したいと思っていました。
 また北海道の大学を離れてからは、1年間、アメリカの研究所で研究員をしましたが、そこもまた優秀な人たちがたくさんいましたし、帰国して助手として就職した名古屋の大学にも優秀な若手がたくさんいて、刺激を受けました。昨年のノーベル物理学賞を受賞した天野浩さんも、面識はありませんが、私も天野さんも、まったく同じ時期に名古屋の大学の工学部の助手をしていました。そういう人たちが多くいる環境では、やはり自然と上昇志向になって行きます。しかし、私は33歳の時に、そういう場所から降りることにしました。研究室の教授に付いて行けなくなったので、名古屋の大学を退職することにしました。当時、私は材料工学の研究をしていましたが、教授に付いて行けないという理由で研究の現場を離れるからには、もう材料の世界では生きては行けないだろうと思いました。それで、次の仕事は何をすべきか随分と悩みましたが、悩んだ末に辿り着いた結論が、外国人に日本語を教える日本語教師になることでした。それで、日本語教師になるための勉強を始めました。その時の私は、もう大学からは完全に離れて、町の日本語学校の先生になるつもりでいました。しかし、町の日本語学校にはもうベテランの先生方がたくさんいて、日本語教師になる勉強をしたからと言っても、そう簡単にプロの日本語教師になれるわけではないということを、日本語教師になるための勉強を始めてから、初めて知りました。プロとしてではなく、ボランティアの日本語教師の口ならたくさんありましたが、プロの日本語教師として、その給料だけで生活できる人は非常に少ないということを、日本語教育の勉強を始めてから、初めて知りました。そうこうしているうちに私の無職の期間も1年以上になり、もう日本語教師になるのは、あきらめようと思いました。
 それで前に研究員をしていたアメリカの研究所でまた雇ってもらうことになりました。前に1年間そこで研究をしていた時に、そこそこ良い働きをしましたから、また雇ってくれると言うのですね。それで私は日本語教師の道は断念して、またアメリカに行くことにしました。ところが、研究所の側では雇ってくれることになったのですが、そのための予算の承認がなかなか得られないということでビザの申請もできないでいました。それで何ヶ月間か待機している時に、東京の大学の留学生センターで日本語の教員の募集をしていることを知り、応募したら運良く採用されることになりました。
 そうして私は再び、大学で教員として働くことになりました。この東京の大学もまた優秀というか、頭の良さで言えば、かつて私が在籍していた北海道や名古屋の大学のさらに上を行く頭の良い人たちが集まっている所でした。そういう環境にいて刺激を受け、私はまた上を目指すようになって行きました。
 ところがそんな私に神様は降りて来るように言って下さったのだと思います。私は大学を辞めて牧師になることになりました。そうして今度こそ、私は下に降りたはずなんですが、そんな私に神様はヨハネの福音書の重大な秘密を教えて下さいました。
 これをどう解釈したら良いのか、私が思うに、神様は私の上昇志向の強いことを利用しようとして牧師として召し出したのではないかという気がします。どういうことかと言うと、ヨハネの福音書には2世紀以降に気付かれていない構造があるなどということは、普通の人では考えたことがないと思います。牧師の世界でも、ほとんどの先生がそうだと思います。アウグスティヌスやルターやウェスレーも気付いていなかったことだなどと言えば、何を傲慢なことを言っているのだという顔をされます。しかし、私はかつて大学で、世界の最先端の研究をしている人たちがたくさんいる環境にいましたから、アウグスティヌスやルターやウェスレーが気付いていないことがあったとしても、ぜんぜんおかしくないと思っています。神様は、そんな環境にいた私を用いようと考えて、私をいったん大学の競争社会から下に降ろして、そうしてヨハネの福音書の重大な秘密を教えて下さったのではないか、そんな気がしています。
 どうして私がこんな証しをすることにしたのか、それは一昨日、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』で取り上げられていたウイルス学者が、私が所属していた北海道の大学の剣道部の後輩だったからです。彼は私より9つ年下で、ちょうど私が名古屋の大学の助手をしていた時に、現役の大学生でした。その頃、私は名古屋の大学の剣道部で稽古をしていて、学生とよく稽古をしていましたから、北海道の大学の剣道部の稽古にも夏合宿の時などに参加していました。それで、現役時代の彼とも稽古をしたことが何度かありました(彼のほうが私よりずっと強かったですが)。それで一昨日はテレビで彼がエボラ出血熱のウイルスの研究者として奮闘している姿を見て、私の頑張りは全然足りないなあと思い、刺激を大いに受けました。
 彼の頑張りを見て私が大いに刺激を受けたのは、今回に限って言えば、私がまた上を目指そうという思いになっているのではなく、私は神様から託されているタラントを土に埋めてしまっていると感じたからだと思います。いちおう私はヨハネの福音書についての本の第2弾(第1弾はボツ)を書くべく努力をしているつもりではいますが、疲れればすぐに寝てしまいます。それで、なかなかはかどりません。そういう中で、今回、テレビで後輩の奮闘を見ていて、これではいかんと思い、マタイの福音書の5タラントと2タラントと1タラントのしもべの箇所を示されたというわけです。マタイ25章18節、

マタイ25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

 これがたぶん、今年の私のみことばになると思います。当初私は、私個人のみことばは昨年と同じみことばにするつもりでいました。昨年のみことばは、ヨハネ8:32の「真理はあなたがたを自由にします」でした。先日の礼拝メッセージでも話しましたが、私たちは直線的な時間観にあまりに支配されていますから、まだまだ全然自由になれていません。ですから、このための働きを引き続きしなければならないと思い、今年も昨年と同じ、「真理はあなたがたを自由にします」にする予定でいました。
 しかし、一昨日、NHKの番組で剣道部の後輩の頑張りを見て、私はまだまだ頑張りが足りなくて神様に託されたタラントを土の中に埋めているような申し訳ない思いになりました。それゆえ私は、もっと頑張らなければならないと思っています。この頑張りたいという思いは、ザアカイが上を目指すのとは、今回に限って言えば違うのではないかという気がしています。以上が私の個人的な証しです。ここで一曲、賛美歌を挟みます。

<賛美歌>

みことばの恵み
 きょうの前半では、始めに6つのみことばを読みました。一つめは、マタイの福音書からの、「ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。」(マタイ25:18)で、これは先ほど話した通り、私の頑張りがまだまだ足りないことを示されて、このみことばを今年の私のみことばとしたいという話をしました。
 そして、どう頑張りたいかということを、これからの後半でお伝えできたらと思います。それは、神様のみことばの分厚い恵みを、もっと皆が感じることができるようになるための働きをしなければならないということです。
 神様のみことばの恵みは、信仰を持つ者なら受けることができますが、信仰を持つ者であっても、あまり受けていないと思われる者がいます。その、みことばの恵みを受けていない信仰者の代表のような存在が、私は伝道者の書の伝道者ではないかという気がしています。伝道者は、「空の空。すべては空。」と言いました。このようにすべてが空しいのは、伝道者がみことばへの飢え渇きがほとんど無い(ように見える)ためではないかと思います。伝道者は、この書の中で人間のことばには何度か言及していますが、神のみことばには、一切言及していません。それが空しさの原因ではないかと私には思えます。
 この伝道者と好対照なのが詩篇119篇の詩人です。詩篇119篇は、詩人によるみことばへの愛の告白のような詩です。
 詩篇119篇は、8節ずつが一つのグループになっていて、全部で22のグループがあります。この22という数はヘブル語のアルファベットの数です。そうして、詩篇119篇の最初のグループの1節から8節までは、すべてへブル語の最初の文字のアレフで始まり、2番目のグループの9節から16節まではすべて2番目の文字のベートで始まるという構造になっています。この構造を知っただけで、詩人のみことばへの愛がたっぷりと感じられますが、詩の内容も、みことばへの飢え渇きを強烈に詩ったものです。176ある節の大半からみことばへの愛が感じられますが、きょう引用したのは、81節と82節です。

詩篇119:81,82 私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と言っています。

 この強烈なみことばへの愛が、伝道者の書の伝道者には、どうも感じられないような気がします。それゆえ伝道者は空しいのではないでしょうか。
 さて、このみことばの恵みで幸いなことは、「神のことばは永遠に立つ」ということです。イザヤ書40章8節をお読みします。

イザヤ40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。

 神のことばは永遠に立ちますから、私たち人間はどの時代を生きる者であっても、神様からみことばの恵みを受けることができます。

神の側から見た信仰者との歩み
 そして、ヨハネの福音書は、このことばが神であったと言っています。ヨハネ1章1節でヨハネは、

ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

と書き、そしてヨハネ1章14節では、

ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と書きました。ことばはイエス・キリストという人となって私たちの間に住んで下さいました。そして、それは単に福音書の時代のことだけではありません。そのことは、ヨハネの福音書の構造が教えてくれています。例えば、1章47節にあるイエス・キリストのナタナエルへのことばを見ると、このように書いてあります。1章47節、

ヨハネ1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

 この教会では、もう何度も話して来た通り、ここにいるナタナエルとは創世記の時代にいるヤコブのことです。つまりイエスさまは創世記の時代のヤコブと福音書の時代のナタナエルの両方と、同時に共にいることになります。私たち人間の側から見ると、遥か昔の創世記の時代にイエスさまがヤコブと共にいて、それからまた、ずっと後の時代になって、今度は福音書の時代においてナタナエルと共にいる、というように見えます。しかし、イエスさまの側から見れば、イエスさまは、ヤコブともナタナエルとも同時にいることになります。つまりヤコブとナタナエルは縦につながっているのではなくて、横並びになっています。もし私たちが御父と御子との親しい交わりの中に入れていただくことができるようになるなら、そのようなイエスさまの側からの時代の見方ができるようになります。それがヨハネの永遠観を身に付けるということです。
 人間の側の直線的な時間観で神が共におられるということを見ると、アブラハムの時代があって、その次にイサク、その次にヤコブ、その次にヨセフというふうに縦にしか、つながって行きません。それら全ての信仰者と神様は共におられるとい言っても、縦につながっているのであれば神様の恵みは細い線でしかありません。これではあまりに細い恵みしか私たちは受け取ることができません。
 しかし、それでも私たちは豊かな恵みを神様からいただいているように感じています。それは恐らく、私たちと同じ時代を生きる教会の兄弟姉妹方がいるからでしょう。私たちは教会でみことばの分かち合いをします。すると、恵みが何重にも重なって素晴らしい恵みをいただくことができます。
 しかし、私たちは同じ時代を生きるクリスチャンからだけではなく、すべての時代を生きる信仰者と共に神の恵みの分かち合いをすることができる、というのがヨハネの福音書の永遠観が示していることです。

人知をはるかに越えたキリストの愛
 神はアブラハムと共に歩みました。そしてモーセとも共に歩みました。ダビデとも共に歩み、ペテロとも、アウグスティヌスとも、ルターとも、ウェスレーとも共に歩み、そして現代の私たちとも共に、すべての者と同時に横並びで歩んで下さっています。そして、そこから注ぎ出される神の愛は、正に人知を遥かに越えた膨大なものです。時間を一本の直線で考えてしまうと神様からの恵みは細いものになってしまいますが、神様からの恵みとは、もっと立体的なものです。エペソ3章の17節から19節までをお読みします。

エペソ3:17-19 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 パウロは、人知を遥かに越えたキリストの愛には広さ・長さ・高さ・深さがあるということを示唆しています。神様の愛とは、そのようにボリュームがあるものです。しかし、私たちが時間を直線で考えてしまっているなら、神様の恵みは、もっとずっとやせ細ったものになってしまいます。

おわりに
 先日の礼拝では「愛弟子を1世紀から救出しよう」という話をしましたが、愛弟子もまた神様の側から見ればアブラハムやモーセやダビデと共に歩んでいる者です。そのようにして愛弟子は神様からの分厚いみことばの恵みを受けているのですから、私たちは、この愛弟子を1世紀から救出しなければなりません。
 この素晴らしく分厚いみことばの恵みを多くの方々と分かち合えるように、皆さんと共に進んで行きたいと願っています。
 一言お祈りさせていただきます。
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