平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

復活したイエスと出会う喜び(2014.4.20 イースター礼拝)

2014-04-20 18:50:13 | 礼拝メッセージ
2014年4月20日イースター礼拝メッセージ
『復活したイエスと出会う喜び』
【ルカ23:33~46/ヨハネ1:35~40】

はじめに
 きょうは十字架で死んだイエス・キリストがよみがえったことを祝うイースターの日です。日本語では復活節や復活祭などとも呼ばれます。復活祭の「祭」は「祭り」ですから、クリスチャンが多い国では文字通り「お祭り」として賑やかに祝われます。
 では、十字架で死んだイエス・キリストがよみがえったことが、どうしてそんなに、お祭りをしてまで祝うべき、喜ばしいことなのでしょうか。聖書とはあまり縁の無い暮らしをしている日本人の目には奇妙なこととして映るかもしれませんね。死んだ者が生き返るなどという非科学的なことを信じて、それをお祭りしてお祝いするなんて、ちょっとおかしいのではないかと思う方もあるかもしれませんね。

私たちは自分がしていることをわかっているか
 きょうのこのメッセージでは、イエス・キリストがよみがえったことが、どうして、そんなに喜ばしいことなのかについて、お話ししてみたいと思います。
 このことを考える上で、最初の鍵となる聖句が、きょうの礼拝の始めのほうで交代で読んだルカの福音書の中にあります。ヨハネの福音書は、また後で見ますから、何かを挟んでおいていただいて、ルカの福音書の23章を開きましょう(新約聖書p.167)。
 まず33節、

23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

 この、「どくろ」と呼ばれている所というのは、エルサレムの町の城壁の外にある場所で、ゴルゴタの丘やカルバリの丘とも呼ばれる場所です。ここでイエス・キリストは十字架に付けられました。続いて、34節、

23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

 このイエスが言われた、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という言葉は、きょうのメッセージの鍵となる言葉ですので、週報の3ページ目の上にも書いておきました。
 まず、このイエス・キリストの言葉について、ご一緒に考えてみましょう。
 イエス・キリストは神の子ですから、天の神さまのことを「父」と呼んでいました。ですから、人々は、神の子のイエスを十字架に付けるという大変なことをしていました。十字架刑はとても残酷な刑ですから、人々が何をしていたのか、これはとてもわかりやすいと言えるかもしれません。しかし、こういう特別な現場のことではなく、もう少し日常的なことではどうでしょうか。私たちは毎日の暮らしの中で、自分が何をしているのか、自分でわかっているでしょうか。まず、このことを考えてみたいと思います。
 私たちは、自分が何をしているのかが、わかっているのかどうか、まず私たちが朝起きたら何をしているか、考えてみましょう。
 私たちは、朝起きたら、顔を洗って、歯を磨きます。それから男の人だったら、髭を剃ったり、女の人だったらお化粧をしたりするかもしれません。それから朝ごはんを作って食べて、トイレへも行きます。そうして、それぞれ学校へ行ったり、会社へ行ったり、或いは主婦の方でしたら、家事をするでしょう。食器を洗ったり洗濯をしたり、掃除をしたりします。
 これらのことに関しては、私たちは、自分が何をしているのか、よく分かっていますね。しかし、これらの歯を磨いたり朝ごはんを食べたりしていることが分かっているなら、自分が何をしているのかが、わかっていることになるのでしょうか。そうではなくて、聖書は、もっと深いレベルのことを私たちに問い掛けているのではないでしょうか。
 私たちが顔を洗ったり、歯を磨いたりする時、私たちは、そのことの意味をあまり深く考えずにしています。それと同じで、2千年前にイエス・キリストを十字架に付けた人々は、そのことの意味をあまり深く考えずにイエスを十字架に付けていました。聖書はそのようなことを私たちに問い掛けているのではないでしょうか。
 このことに関しては、一旦置いておきます。あとでまた考えることにして、次へ進みたいと思います。

十字架で死んだ後に復活したイエス
 いま開いているルカの福音書には、十字架に付けられたイエスが死んだ時の様子も書かれています。次に23章の44節から46節までを、私のほうでお読みします。

23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 このようにイエスは大声で叫んだ後に息を引き取られたことが書かれていますから、ここでイエスは死にました。そして、この後、イエスの遺体が墓に葬られたことが書かれています。そして、24章には、死んだイエスがよみがえって弟子たちの前に現れたことが書かれています。そして、ルカの福音書の続編として、同じルカが書いた使徒の働き(使徒行伝)には、よみがえったイエスに出会った弟子たちが、その後、どのような働きをしたかが書かれています。皆さんには、是非、ご自身で聖書を読んでいただいて、弟子たちがどのような働きをしたかを味わっていただきたいと思います。
 きょうのメッセージでは、2000年前のイエスの弟子たちのことについては、これぐらいにしておきます。それは、弟子たちとイエスとの出会いのことよりも、私たちとイエスとの出会いのほうが、実はもっともっと重要だからです。

現代の私たちに語り掛けるイエス
 それでは、次にヨハネの福音書を開きましょう。ヨハネの福音書1章の35節から40節までです(新約聖書p.174)。まず35節から37節までを、私のほうでお読みします。

1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

 ここには、ヨハネの二人の弟子がイエスについて行ったことが書かれていますね。そして、少し飛ばして40節には、次のように書いてあります。

1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。

 ここには、ふたりの弟子のうちの一人はアンデレであったことが書いてあります。しかし、もう一人は誰であったのかについては、書いてありません。
 実は、この名前が明かされていないもう一人とは、私たちのことです。
 そんな馬鹿な!だってこれは2千年前の話でしょ、と思う方もいるかもしれませんね。しかし、イエス・キリストは十字架で死んでからよみがえり、今も生きておられる方ですから、このヨハネの福音書に書かれていることが現代のことであったとしても、少しもおかしくはありません。
 逆に、もしイエス・キリストが2千年前に死んでしまっていたなら、2千年後の現代において、世界中でクリスマスやイースターをお祝いするようなことにはなっていなかったでしょう。イエスの弟子たちによってキリスト教の教えが広められることもなく、イエスの教えはイエスの十字架と共に死に、その教えも葬り去られたことでしょう。しかし、イエス・キリストはよみがえり、弟子たちに現われて力を与えましたから、力を得た弟子たちは力強く教えを広め始めました。そして、その教えは、弟子たちの次の弟子たちに受け継がれて行きました。そうしてイエス・キリストはその次の弟子たちにも力を与えましたから、迫害などの困難なことがあっても、弟子たちはイエスの教えを後の時代においても、次々に広め続けて行くことができました。
 日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルもまた、その弟子たちの一人です。ザビエルもまた、よみがえったイエス・キリストと出会って力をもらいました。そのような力をもらっていなければ、どうしてスペインからわざわざ危険な目に遭いながら、東洋の片隅の日本にまでキリストの教えを伝えることができたでしょうか。
 いまNHKの朝の連続ドラマで『花子とアン』を放送中ですね。ヒロインの花子は明治26年生まれの村岡花子という実在の女性です。彼女は若い時にキリスト教系の女学校で学びました。その女学校には外国人の女性宣教師が何人もいました。この女性宣教師たちも、よみがえったイエス・キリストと出会って力をもらい、キリストの教えを日本に伝えるために外国から日本に来た人たちでした。明治時代の話ですから、今のように飛行機もありません。そんな時代に女性が外国から船に乗ってキリストの教えを伝えに日本に来ることができたのは、彼女たちがよみがえったキリストと出会ったからこそです。よみがえったキリストに力をもらったのでなければ、西洋の女性が外国の東洋での宣教に一生を捧げることなど、とうてい考えられないことです。
 或いはまた、もう少し現代に近い話で言えば、マザー・テレサもそうですね。マザー・テレサはヨーロッパのマケドニア地方で生まれ育ちましたが、18歳の頃にインドに赴き、やがて、よく知られているようにインドの貧しい人々の最後を看取るための施設を作って、インドで生涯を終えました。マザー・テレサももちろん、よみがえったイエス・キリストに出会って力をもらい、生涯をインドの貧しい人々のために捧げたのでした。
 ですから、ヨハネの福音書の1章で弟子たちがイエスと出会った場面は、決して2千年前だけの出来事ではなく、この2千年の間に無数の人々に次々と受け継がれ続けて来たことです。そうして現代に至り、現代でも起こっている出来事です。この教会に集っている人々の多くもまた、今も生きておられるイエス・キリストと出会っていますし、私もまたその中の一人です。
 ただし、よみがえった後のイエス・キリストは2千年前の最初の弟子たちの前には目に見える形で姿を現わしましたが、その後は目には見えない霊的な存在として、私たちの魂に語り掛ける存在となりました。ですから、ザビエルにしてもマザー・テレサにしても、イエスと出会ったと言っても自分の目ではっきりと見たというよりは、魂でイエスとの出会いを感じたのだと思います。私もそうですし、この教会の教会員の皆さんの多くもそうだと思います。
 そういうわけで、多くのクリスチャンの場合、イエスと出会ったと言っても、出会った時にはっきりと、出会ったことがわかったというよりは、後から振り返ってみると、あの時に出会っていたのだなと分かる場合がほとんどではないかと思います。
 よみがえったイエス・キリストは、そんな風にして、私たちの魂に語り掛けて来ます。

私たちの魂は何を求めているのか
 では、どんな言葉で語り掛けて来るのでしょうか。その代表的な言葉が、38節の、

「あなたがたは何を求めているのですか。」

であると言えるでしょう。イエス・キリストは、このように私たちが何を求めているのかを、問い掛けて来ます。
 では、私たちは何を求めて、何のために毎日を生きているのでしょうか。私たちは、毎朝起きると、顔を洗い、歯を磨き、朝ごはんを作って食べて、トイレに行きます。私たちは、そのように顔を洗うために生きているのでしょうか。歯を磨くために生きているのでしょうか。もちろん、そんなことのために生きているのでは、ありませんね。
 では私たちは、何を求めていて、何のために生きているのでしょうか。どんな願望を持って毎日を生きているのでしょうか。
 私たちが普通に持っている願望として、おいしい物を食べたいなあとか、もっとお金があると良いなあ、などという願望がありますね。お金がたくさんあれば、より一層おいしい物を食べることができますから、給料がたくさんもらえる会社で働きたいという願望もあるかもしれませんね。
 では、私たちは、おいしい物を食べるために、毎日を生きているのでしょうか。もしイエス・キリストに、「あなたがたは何を求めているのですか」と聞かれたら、私たちは、イエス・キリストに、

「私はおいしい物を食べることを求めています」

などと答えるでしょうか。誰も、そんな風には答えないでしょう。イエスさまがそんな答を期待して、私たちに「あなたがたは何を求めているのですか」と聞いているとは思えませんね。イエスさまは、もっと心の奥底の、深い所にある魂のレベルで私たちが何を求めているのかを聞いているのでしょう。
 では、私たちは、どう答えたら良いでしょうか。
 一体どう答えたら良いのか、そのことを改めて考えてみると、どうも答に困ります。そんな心の奥深い所にある願望のことなんて、そんなに簡単には答えられそうもありませんね。それで、弟子たちも思わず全然関係ないことを聞いてしまったのではないでしょうか。弟子たちはイエスさまに聞き返しました。「先生。今どこにお泊まりですか。」しかし、これでは、全く返事になっていませんね。でも、こんな風に質問を返すのが精一杯だったのでしょう。
 「あなたがたは、何を求めているのですか」
という質問は、それほどまでに答えくいに質問だということです。それは、つまり、私たちが何を求めて何のために生きているのか、良くわからずに生きているということです。
 このことは十字架のイエス・キリストが、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言ったことと、強く関係しています。私たちは、朝起きて顔を洗ったり歯を磨いたりしていることは良くわかっていますが、もっと深いレベルで何をすべきかがわかっていないので、結局、自分が何をしているのか、よくわからないでいます。

イエスに従えばわかる
 では、自分が何をしているのかが、よくわかっていない私たちは、一体どうしたら良いのでしょうか。戸惑う私たちにイエス・キリストはこのようにおっしゃいます。39節です。

「来なさい。そうすればわかります。」

 「来なさい。そうすればわかります。」これは、今は自分が何を求めているのかがわからなくても、イエス・キリストについて行けば、いずれはわかるようになるということです。
 私たちには、それぞれに心の奥深い所で求めていることがあるはずです。おいしい物が食べたいとか、お金が欲しいとかいうような表面的な願望ではなくて、もっと心の奥深い所にある魂が求めていることがあるはずです。
 それは一体何でしょうか。それは、イエス・キリストに付いて行くことで、段々とわかって来ます。ですから、イエスさまは私たちに、「来なさい。そうすればわかります」と、おっしゃって下さっています。
 このことは、すぐには、わからなくても、少しずつわかって来るものです。教会学校のお友達なら、そのことがわかるのではないでしょうか。聖書についての話や、イエスさまのことは、1回や2回ぐらい話を聞いたぐらいでは、よくわからないでしょう。でも、毎週、教会学校に出席していると、自分の奥深い所にある魂が何を感じて、何を求めているのかが、何となくわかって来るでしょう。

神の領域である魂のこと
 では、イエス・キリストに付いて行って、聖書の言葉に親しむようになると、どうして心の奥深くにある魂の求めていることが、わかるようになるのでしょうか。それは、イエス・キリストが永遠の中を生きる神の子だからです。魂のことは、神の領域のことですから、神にしか扱えません。人間は残念ながら魂を自分では扱えません。自分の魂であっても自分では扱えません。しかし神さまなら扱えますから、神さまに付いて行くことで、私たちは自分の魂のことが段々とわかるようになります。十字架の死からよみがえった神の子イエス・キリストはこれまで、遠い昔から現代に至るすべての人々の魂に語り掛けて来ました。
 2千年前の人々は、その神の子であるイエス・キリストを十字架に付けてしまいました。そんな人々を見て、イエスさまは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言ったのでした。
 そしてイエスさまは、現代においても、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言っています。現代の「彼ら」というのは、私たちのことです。私たちの多くは、自分の魂が何を求めているのかを知ろうとしていません。そして、私たちの魂に語り掛けている聖書の神さまのことも知ろうとしないで、ただ表面的な満足感だけを求めて、日々を暮らしています。神の子のイエスさまは、いつも私たちの魂に「あなたがたは何を求めているのですか」と問い掛けているのですが、私たちの多くはそのことに気付かずにおり、或いは気付いていても無視をして好き勝手に暮らしています。そのようにイエス・キリストを無視したり軽視したりする態度は、2千年前の人々が神の子イエスを十字架に付けてしまったのと変わりありません。ですから、イエス・キリストは現代においても、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言っています。
 しかし、もし私たちが「あなたがたは何を求めているのですか」というイエスの魂への語り掛けに耳を傾け、そして「来なさい。そうすればわかります。」という招きに従って行くなら、やがて自分の心の奥深い所にある魂が何を求めているのかがわかるようになります。魂の領域のことがわかるようになることは、大きな喜びであり、素晴らしい恵みです。
 ですから、この大きな喜びを知ったクリスチャンは、イエス・キリストが十字架の死からよみがえったイースターをお祝いします。私たちはクリスマスも盛大にお祝いしますが、クリスマスに生まれたイエスが十字架で死んだきりになってしまっていたなら、私たちはこの大きな喜びを味わうことはできませんでした。ですから、イースターはクリスマスよりも、もっともっと喜ばしい日なのです。クリスチャンがイースターを盛大にお祝いするのは、それ故です。

おわりに
 こうしてクリスチャンは、朝起きた時には、単に顔を洗ったり、歯を磨いたりするだけでなく、神様にお祈りをして、魂に平安を感じながら、一日を始めることができます。これは本当に素晴らしい恵みです。
 神の子のイエスは私たちの魂に、
 「あなたがたは何を求めているのですか。」
と問い掛け、
 「来なさい。そうすればわかります。」
と私たちを招いています。この招きに従うなら、私たちは自分の魂が何を求めているのかがわかる、素晴らしい喜びを味わうことができます。
 「あなたがたは何を求めているのですか。」
 「来なさい。そうすればわかります。」
 このように私たちに話し掛けて下さっているイエス・キリストに付いて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント