平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

一人一人に着せられる力(2014.4.9 祈り会)

2014-04-09 23:46:47 | 祈り会メッセージ
2014年4月9日祈り会メッセージ
『一人一人に着せられる力』
【使徒2:1~13】

はじめに
 先聖日の聖餐式礼拝は多くの恵みをいただけて感謝でした。
 祈祷会では「使徒の働き」を学んでいます。きょうから2章に入ります。先週は1章の14節までを読みました。15節から26節までは、飛ばします。この箇所には、イエスの12人の弟子のうちの一人のイスカリオテのユダが死んで欠けができましたから、代わりにマッテヤが選ばれて11人の使徒に加えられたことが書かれています。
 イエスが天に上った後、彼らはこのようにして過ごしていました。先週も学びましたが、12弟子の他にも婦人たちやイエスのマリヤ、およびイエスの兄弟たちも集って、みな心を合わせ、祈りに専念していました。
 そうして、2章1節に、五旬節の日の出来事が書かれています。この使徒の働き2章の出来事については、毎年の五旬節の日、すなわちペンテコステの日には必ずと言って良いほど引用される箇所だと思います。今年のペンテコステの日は6月8日です。きょうは、その2ヶ月前に当たりますが、この箇所の学びをしておきたいと思います。

五旬節の日にくだった聖霊
 1節と2節、

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

 聖霊がくだる時というのは、本当にこのような響きが起こるものだと思います。私も、一度、このような経験をしました。
 神学生の2年生の時、私は聖日のご奉仕は深川教会でしていました。そして、この1年間のご奉仕も終わりに近づいた頃に、礼拝で説教をする機会を与えていただきました。そして、説教が終わった後の感謝祈祷では、横山先生が祈りを捧げて下さいました。そのお祈りの最中に、私は正に使徒2:2にあるように、会堂全体が響き渡るようにして聖霊がくだるのを感じました。この日の説教の後で、説教に恵まれたとおっしゃって下さった教会員の方がいらっしゃいましたが、実は一番恵まれたのは説教者である私だったと思っています。横山先生の霊的な祈りを聞けたことは、本当に素晴らしい経験でした。実は、この日の説教はヨハネの福音書の2章のカナの婚礼の場面からでした。当時、私は神学生の2年生でしたから、まだヨハネ2章のガリラヤのカナの婚礼の背後には使徒の働き2章のガリラヤ人への聖霊の注ぎがあることには気付いていませんでした。そのことに頭で気付いたのは、この時から2年後のことですが、既にその2年前に、霊的には横山先生の祈りによって気付きが与えられていたのかもしれません。霊的な気付きというのは、そうやって天から与えられるものだと思います。

キリストの証し人になる力を与える聖霊
 3節、

2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

 こうして、この五旬節の日に、イエスの弟子であるガリラヤ人たちに聖霊がくだりました。このことは、1章8節でイエスさまが予告された通りですね。

1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

 このイエスさまの予告通り、弟子たちには聖霊がくだりましたから、弟子たちは力を受けました。その力とは、イエス・キリストの証し人になるための力です。先週、ルカの福音書の24章を開きましたが、きょうは、もう一度、ルカ24章の終わりの方を開きたいと思います。45節から49節までを交代で読みます。49節は、ご一緒に読みます。

24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。
24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 ここにも、先ほどお読みした、使徒の働きの箇所と同じことが書いてあります。48節までに、弟子たちはイエス・キリストの証し人であり、弟子たちはその証しをするための力を着せられるとイエスさまは弟子たちにおっしゃいました。

力を着せられる私たち
 この、「力を着せられる」という表現は、面白い表現だなと思います。力とは正に上から与えられるものであって、何かの鍛錬によって自分で力を付けるのとは全く違うのだということを、しっかりと読み取りたいと思います(以降、「着せる」の解釈はギリシャ語までは遡らず、新改訳の「着せる」で感じたことを語ります)。
 この「着せられる」で思い出したのは、私の兄の娘である姪が、まだ小さかった頃のことです。この姪は、今では結婚して子供も一人います。この姪が、まだ3歳ぐらいの時だったと思いますが、家族で箱根への一泊旅行に行った時でした。私の父もまだ健在で、私の両親と、兄と妹、そして兄の家族と皆で箱根旅行に行きました。そして旅館で一泊して次の日の朝、兄のお嫁さんが姪に、前の日と違う服を着せようとしたんですね。すると、姪は、この服が気に入らなくて「着るのは嫌だ」と言い出しました。でも旅行中で他に着せる服がありませんから、親は娘に、「この服しか無いから着なければダメ」と言って、強引に着させようとしました。そうしたら、姪はワンワン泣き出して、着ることを拒否しました。結局どうしたか、良く覚えていませんが、こんな我儘な子だったら将来が思いやられると思ったことを覚えています(しかし、この姪は立派に成長しましたから、私の心配は杞憂でした)。
 先週も話ましたが、教報の院報の欄に「私の神学生時代」というコラムがあって、私に5月号への原稿依頼が来ています。明日の10日が原稿の締切日なので、きのう原稿を書きました。そして、冒頭の聖句を、このルカ24:49の、「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」としました。伝道のご奉仕をするためには、本当に、神様に力を着せていただかなければ、何事も為し得ないと思います。神学院という所は、その伝道のご奉仕をする力を神様に着せていただくための訓練の場だと思います。その訓練の場は、いろいろと規則の多い所で、その規則に自分を当てはめて行くことは、大変であり、多くの苦痛を伴いました。しかし今では、それは神様に力を着せていただくために必要なことであったと思っています。神様が私に着せようとする服がLサイズである時に、もし私の体のサイズがLLだったら、Lまで体を絞らなければ神様に力を着せていただくことはできません。

一人一人に着せられる力
 そして伝道の使命が与えられている教会においても同じように考えるべきであろうと私は考えます。私たちに聖霊が与えられているのは、私たちがイエス・キリストの証し人となるためです。4節に、

2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 弟子たちは皆、ガリラヤ人であったのに、9節以降にあるように、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たちの言葉で、話し始めました。これは皆、イエス・キリストの証しをするために与えられた外国語を話す力です。
 10年ほど前、まだ私が洗礼を受けてから間もない頃のことですが、高津教会の同世代の兄弟たちの集まりの中で、私は、このガリラヤ人たちのように聖霊によって韓国語を話せるようになりたいと発言したことがあります。それは当時の私が韓国人留学生への留学生教育をしていたからです。これを聞いていた藤本先生は、きっと心の中で、「こいつは全然わかっていないな」と思っていたことでしょう。もし私が韓国人に韓国語でイエス・キリストを宣べ伝えたいと思っていたなら、神様は私が韓国語を話せるようにして下さったかもしれません。でも私は、単に自分の仕事が上手く行くために韓国語が話せるようになりたいと思っていただけですから、私は、この使徒の働き2章の意味が全くわかっていませんでした。
 神様が私たちの教会に、聖霊の力という服を着せて下さろうとしているのは、この地域の方々に、イエス・キリストを宣べ伝えるためです。このことを、私も含めて私たちが勘違いするとしたら、力を着せていただくことは不可能であろうと思います。何か勘違いをしているようでしたら、3歳の頃の私の姪が、この服を着るのは嫌だと我儘を言ったのと同じことになってしまうと思います。
 神様がこの教会に求めていることは、一体何なのか、神様の御心を知るのは簡単ではありませんが、神様が着せて下さろうとしている力とは何かを、私たちは霊性を整えて知る努力をしなければならないと思います。

おわりに
 先日の聖日の午後、私は河村先生に、ヨハネの永遠観をどう広めて行ったら良いかについて相談しました。そして、先生からいくつかの有益なアドバイスをいただくことができました。それで私は、少し戦法を変える必要があるかなと思っているところです。
 これは私に関することですが、神様が私たちに聖霊の力を与えようとしていることは確かなことですから、皆さんのお一人お一人にとっても、神様が着せようとしてらっしゃる服が、それぞれにあるのだと思います。お一人お一人が異なる賜物を与えられていますから、それに合った力を神様は着せようとしておられると思います。それが何なのかを見誤ると、伝道の働きが思ったように進まないということになります。
 私たちの一人一人に神様が何を求めていらっしゃるのか、さやかに神様の声を聞くことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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