現在、全国高校野球選手権熊本県予選の熱戦が繰り広げられている。40年近く前に他界した僕の叔父は、昭和初期に九州学院の野球部で活躍した。叔父が尋常小学校を卒業して特待生として九学に入学した昭和2年(1927)、夏の甲子園出場をかけた県大会の決勝戦(宇土戦)が雨のため順延となったが、試合日が日曜日(安息日)となるためやむを得ず棄権したという珍記録が残っている。1年生だった叔父はまだ出場機会はなかったと思うが、いったいどんな気持だったのだろう。その叔父はキャッチャーとしてメキメキ頭角を現し、最上級生となった頃は県下随一のキャッチャーと評価されていたらしい。九学を卒業後は、当時、優秀な若手を集めていた熊本のノンプロチーム「オール熊本」の一員として熊本市役所に勤務した。その後、先輩に誘われて鳥栖鉄道管理局に移籍し、当時最強と言われた門司鉄道管理局の一員としても活躍したようである。
わが京町に公許の遊郭がつくられた明治7年から約3年間、京町の住民は遊女のことを「ノスカイ」と呼んでいたそうである。北原白秋の詩「柳川」を思い出す方もあるかもしれない。
「もうし、もうし、柳川じゃ、柳川じゃ。銅(かね)の鳥居を見やしゃんせ。欄干橋を見やしゃんせ。(馭者は喇叭の音をやめて、赤い夕日に手をかざす。)薊(あざみ)の生えたその家は、……
その家は、旧いむかしの遊女屋(ノスカイヤ)。人も住まはぬ遊女屋(ノスカイヤ)。」- 後略 -
「イヤだな」という気持を表す熊本の方言に「ノサン」という言葉がある。「ノスコッジャニャア」と言ったり、「ノスカイ」というのも同じで、風紀上よろしくないという意味で遊女のことを「ノスカイ」と呼んだようで、これは柳川も同じだったようだ。「ノサン」という言葉は九州各地で使われているようで、これももとは都言葉だったのかもしれない。
明治10年の西南戦争で京町遊郭が全焼すると、今度は新たに二本木に遊郭がつくられた。熊本は軍都として発展していくことになるが、すると遊女のことを「エビス」と呼び始めたそうだ。「エビス」というのは七福神の恵比須様のことだが、恵比須様はいつもタイ(鯛)を抱いていらっしゃる。つまり「エビス」はタイ(隊)を抱いているというわけだ。お後がよろしいようで。
▼白秋の詩「柳川」の世界観を唄う「水辺立秋」
「もうし、もうし、柳川じゃ、柳川じゃ。銅(かね)の鳥居を見やしゃんせ。欄干橋を見やしゃんせ。(馭者は喇叭の音をやめて、赤い夕日に手をかざす。)薊(あざみ)の生えたその家は、……
その家は、旧いむかしの遊女屋(ノスカイヤ)。人も住まはぬ遊女屋(ノスカイヤ)。」- 後略 -
「イヤだな」という気持を表す熊本の方言に「ノサン」という言葉がある。「ノスコッジャニャア」と言ったり、「ノスカイ」というのも同じで、風紀上よろしくないという意味で遊女のことを「ノスカイ」と呼んだようで、これは柳川も同じだったようだ。「ノサン」という言葉は九州各地で使われているようで、これももとは都言葉だったのかもしれない。
明治10年の西南戦争で京町遊郭が全焼すると、今度は新たに二本木に遊郭がつくられた。熊本は軍都として発展していくことになるが、すると遊女のことを「エビス」と呼び始めたそうだ。「エビス」というのは七福神の恵比須様のことだが、恵比須様はいつもタイ(鯛)を抱いていらっしゃる。つまり「エビス」はタイ(隊)を抱いているというわけだ。お後がよろしいようで。
▼白秋の詩「柳川」の世界観を唄う「水辺立秋」
水前寺成趣園の真夏の宵を彩る「出水神社薪能」は今年、第60回を迎えます。今年の番組のメインは「羽衣 替ノ型」。「羽衣」は最も人気があり、演じられることも多いのですが、今回の「羽衣 替ノ型」というのは、金春流の特別な演出が加えられたバージョンです。どう違うかは下記の【見どころ】を参照ください。
昨年の「出水神社薪能」では公演の途中で土砂降りとなり、最後まで見ることが出来ませんでしたので、今年はなんとか天気が持ってくれることを願っています。
◆日 時 8月3日(土)18:30~
◆会 場 水前寺成趣園内・出水神社能楽殿
◆主演目 金春流「羽衣 替ノ型」シテ 本田光洋
◆観能料 無料
※18時以降は水前寺成趣園の入園料も無料となります。
▼「羽衣 替ノ型」について(能楽金春ニュースより)
【あらすじ】漁師の白竜が三保の松原で、天の羽衣を見つけます。そこへ天人が現れ羽衣を返して
欲しいと頼みます。白竜は返す代わりに天人の舞楽を所望します。天人は舞を舞い天
空へ飛び立ちます。
【見どころ】一般にも広く知られている人気曲です。上演頻度も高いのですが何度見ても面白い曲
です。筋も分かりやすく、のどかで明るい曲です。後半の舞が特に見どころ。
今回は小書(こがき:特殊演出)「替ノ型」での上演。終盤の破ノ舞がなくなり、
キリの謡に緩急がつくなど、より華やかさを増します。
2015年の出水神社薪能「羽衣」
昨年の「出水神社薪能」では公演の途中で土砂降りとなり、最後まで見ることが出来ませんでしたので、今年はなんとか天気が持ってくれることを願っています。
◆日 時 8月3日(土)18:30~
◆会 場 水前寺成趣園内・出水神社能楽殿
◆主演目 金春流「羽衣 替ノ型」シテ 本田光洋
◆観能料 無料
※18時以降は水前寺成趣園の入園料も無料となります。
▼「羽衣 替ノ型」について(能楽金春ニュースより)
【あらすじ】漁師の白竜が三保の松原で、天の羽衣を見つけます。そこへ天人が現れ羽衣を返して
欲しいと頼みます。白竜は返す代わりに天人の舞楽を所望します。天人は舞を舞い天
空へ飛び立ちます。
【見どころ】一般にも広く知られている人気曲です。上演頻度も高いのですが何度見ても面白い曲
です。筋も分かりやすく、のどかで明るい曲です。後半の舞が特に見どころ。
今回は小書(こがき:特殊演出)「替ノ型」での上演。終盤の破ノ舞がなくなり、
キリの謡に緩急がつくなど、より華やかさを増します。
2015年の出水神社薪能「羽衣」
熊本市中央区の熊本交通センター跡地に建設中の大型複合商業ビル「サクラマチ クマモト」は、9月14日に開業することがアナウンスされた。それに向けて工事が急ピッチで進められているが、最近、立て続けに2件の火事騒ぎが発生した。工期が押している影響ではないかと心配される。
開設されたホームページには完成予想図なども公開されているが、細かいレイアウトなどはまだ詰まっていないところも多いようだ。2015年3月に閉館した交通センタープラザのシンボルだった泉の広場の観音様は今、浄国寺(北区高平2丁目)で帰座の日を待っている。しかし、ご住職の話ではまだ遷座の時期も場所も決まっていないらしい。お帰りになる前に一度お参りに行くとしよう。
開設されたホームページには完成予想図なども公開されているが、細かいレイアウトなどはまだ詰まっていないところも多いようだ。2015年3月に閉館した交通センタープラザのシンボルだった泉の広場の観音様は今、浄国寺(北区高平2丁目)で帰座の日を待っている。しかし、ご住職の話ではまだ遷座の時期も場所も決まっていないらしい。お帰りになる前に一度お参りに行くとしよう。
10年前に買った軽自動車のマイカーが老朽化してきたことや昨今の高齢者の事故多発を考え、最新の事故防止対策を組み込んだ新車に替えることにした。昭和43年に初めてマイカーを購入してから約50年。たしか10台目になると思う。免許返納の日もそう遠くないことを考えると、おそらくこれが最後のマイカーとなるだろう。10年間愛用した旧車には心から感謝したい。引き取られて去って行く時はさすがに寂しさが込みあげた。その後、加藤神社で新車のお祓いを受けた。
わが町京町の西端、かつて西方寺丁と呼ばれた一角に、草創期の日本映画をリードした牛原虚彦監督の旧居跡があります。現在は集合住宅が建ち、痕跡は何も残っていませんが、上熊本方面へ下る西方寺坂を通る度、牛原監督が活躍した時代の日本映画に思いを致しています。
牛原監督は旧制中学済々黌、五高を経て東京帝国大卒。映画監督を志し、大正9年(1920)松竹蒲田撮影所に入社します。「山暮るる」で監督デビュー後に渡米、ハリウッドで喜劇王チャールズ・チャプリンに学びます。帰国後は「彼と田園」「陸の王者」などのヒット作で名女優田中絹代を世に送り出すなど、草創期の日本映画に足跡を残しました。
現在、監督のお孫さんにあたる牛原陽彦氏が開設しておられる「牛原虚彦」名のフェイスブック(下記参照)があります。旧居跡の正確な位置をお尋ねしたところ、懇切丁寧に教えていただきました。
牛原虚彦監督の旧居跡
熊本市内でも指折りの急坂・西方寺坂
チャップリンと牛原虚彦監督
牛原監督は旧制中学済々黌、五高を経て東京帝国大卒。映画監督を志し、大正9年(1920)松竹蒲田撮影所に入社します。「山暮るる」で監督デビュー後に渡米、ハリウッドで喜劇王チャールズ・チャプリンに学びます。帰国後は「彼と田園」「陸の王者」などのヒット作で名女優田中絹代を世に送り出すなど、草創期の日本映画に足跡を残しました。
現在、監督のお孫さんにあたる牛原陽彦氏が開設しておられる「牛原虚彦」名のフェイスブック(下記参照)があります。旧居跡の正確な位置をお尋ねしたところ、懇切丁寧に教えていただきました。
牛原虚彦監督の旧居跡
熊本市内でも指折りの急坂・西方寺坂
チャップリンと牛原虚彦監督
昨夜、高校の後輩Nくんの訃報が届いた。病を得て長く、最近状態があまりよくないことは聞いていた。5級下なのでまだ70まえ。この長寿時代には早過ぎた感は否めない。
彼は僕などは及びもつかない一流の水球選手だった。彼との思い出で忘れられないのは、彼が高校3年の時、済々黌水球部が長年続けていたインターハイの全国大会出場を逃した時のことだ。その前年はインターハイで優勝したが、3年生がごっそり卒業し、春先はさすがにチーム力が落ちていた。しかし、夏頃になると前年とは違うチームの形が整いつつあった。その軸となっていたのがフォワードのNくんと同級生のバックスMくんだった。当然、全国大会には行けるものと思っていた。ところが九州大会で3位以内に入れず、全国大会の出場権を逃したのである。彼らのショックは大きかった。それから、残るもう一つの目標、国体へ向けて猛練習を再開した。Nくんを始め、メンバーの目の色があきらかに変わっていた。連日、激しい練習が重ねられた。合宿も行い、チームは見違えるほど強化されていった。それでもチーム浮沈のカギを握っているのはNくんだった。彼には試合によって出来不出来の差が大きいという難点があった。そこで国体に向けた試合形式の練習では、コーチから、彼のマンマークには必ず僕が付くように指名された。その頃、僕は大学を出て熊本に帰ったばかりで、仕事の合間に暇さえあれば泳いでいたので、まだ幸い大学の現役時代と変わらない体力を有していた。しかし、夏休みが終わりに近づき、国体が迫って来た頃、彼の体力とスキルの上達は目ざましく、僕は対応しきれなくなっていた。国体では優勝もありうると確信したのはその頃である。そして、前年のインターハイと同じ福井で済々黌は優勝した。
高校卒業後、彼は早稲田大学に進み活躍した。日本代表にも選ばれたが、日本水球がアジアの中で低迷する時期だったこともあり、オリンピックに出場することはかなわなかった。
今日、お通夜でお棺の中に眠る彼の顔を見ながら、「僕も後を追うのに大して時間はかからんよ」と、いつも友人を見送る時と同じ言葉をつぶやいた。
福井国体(昭和43年)におけるNくん
彼は僕などは及びもつかない一流の水球選手だった。彼との思い出で忘れられないのは、彼が高校3年の時、済々黌水球部が長年続けていたインターハイの全国大会出場を逃した時のことだ。その前年はインターハイで優勝したが、3年生がごっそり卒業し、春先はさすがにチーム力が落ちていた。しかし、夏頃になると前年とは違うチームの形が整いつつあった。その軸となっていたのがフォワードのNくんと同級生のバックスMくんだった。当然、全国大会には行けるものと思っていた。ところが九州大会で3位以内に入れず、全国大会の出場権を逃したのである。彼らのショックは大きかった。それから、残るもう一つの目標、国体へ向けて猛練習を再開した。Nくんを始め、メンバーの目の色があきらかに変わっていた。連日、激しい練習が重ねられた。合宿も行い、チームは見違えるほど強化されていった。それでもチーム浮沈のカギを握っているのはNくんだった。彼には試合によって出来不出来の差が大きいという難点があった。そこで国体に向けた試合形式の練習では、コーチから、彼のマンマークには必ず僕が付くように指名された。その頃、僕は大学を出て熊本に帰ったばかりで、仕事の合間に暇さえあれば泳いでいたので、まだ幸い大学の現役時代と変わらない体力を有していた。しかし、夏休みが終わりに近づき、国体が迫って来た頃、彼の体力とスキルの上達は目ざましく、僕は対応しきれなくなっていた。国体では優勝もありうると確信したのはその頃である。そして、前年のインターハイと同じ福井で済々黌は優勝した。
高校卒業後、彼は早稲田大学に進み活躍した。日本代表にも選ばれたが、日本水球がアジアの中で低迷する時期だったこともあり、オリンピックに出場することはかなわなかった。
今日、お通夜でお棺の中に眠る彼の顔を見ながら、「僕も後を追うのに大して時間はかからんよ」と、いつも友人を見送る時と同じ言葉をつぶやいた。
福井国体(昭和43年)におけるNくん
祇園橋際ポケットパークの「永田いねとチモ」像の台座に取り付けられたプレートに、「民謡おてもやんは名古屋さんざい(名古屋甚句)の影響を受けた」と記載されていることに関し、このブログの6月4日の記事で、「さんざい」とは「散財唄」のことではないかという説を唱えてみた。「散財唄」というのはお座敷でのさわぎ唄の別称のことだが、その後、名古屋甚句についていろんな文献を調べるうち、別の考えが浮かんできた。名古屋甚句は江戸末期流行した「そうじゃおまへんか節」がもとになっているといわれるが、今日では「前唄二題、本唄三題、名古屋名物」などで構成されている。このうちの本唄三題を俗に「名古屋三題」と呼ぶことがあるようで、ひょっとしたら「三題(さんだい)」を「さんざい」と聞き間違いした可能性もある。下の映像「名古屋甚句(本唄三題)」を聞いていると、名古屋巡業の際、この唄を聞いてインスパイアされた永田いねが「おてもやん」を作った気持がわかるような気がする。
唄は水野詩都子、三味線は、先月、熊本で行われた「くまもと全国邦楽コンクール」で最優秀賞を受賞した本條秀五郎。
▼永田稲(嵐亀之助)一座の興行ポスター(五福公民館に展示)
唄は水野詩都子、三味線は、先月、熊本で行われた「くまもと全国邦楽コンクール」で最優秀賞を受賞した本條秀五郎。
▼永田稲(嵐亀之助)一座の興行ポスター(五福公民館に展示)
昨日来の雨がやまない。県内では降り始めから既に300㍉を超えた地区も多く、まだしばらくは降り続くという予報に河川の氾濫や土砂崩れなどの被害がさらに広がることが懸念される。今日は朔日ということもあり、藤崎八旛宮と加藤神社に参拝し、災いがこれ以上拡大しないことを祈った。