今日やっと「沈まぬ太陽」を観た。普通に面白いし、感動もした。しかし、今ひとつ共感はできなかった。帰ってからその理由をつらつら考えてみた。第一に、どこで感動したのかと振り返ると、すべて御巣鷹山での航空機事故現場や犠牲者とその遺族のエピソードの部分である。いくらフィクションですと言っても、御巣鷹山の悲惨な事故は厳然たる事実であり、ドラマに関係なく、その事実の重みが圧倒的に迫ってくるのだ。この点は「クライマーズハイ」にも同じことが言えた。一方、主人公とその家族については共感できるところがあまりない。左遷ったって、当時はまだ、海外勤務は選ばれた人が行く、つまり栄転だった会社が多いはずだし、しかも任務が新規事業の立ち上げなら、普通もっと燃えるはずだ。だいたい、会長や社長と直に話せる人なんて、ほんのひと握りの恵まれた人だ。家族のことだって転勤族には当たり前の話で、彼やその家族が特別不幸だったわけじゃない。また、労組の描き方も、実際、僕の労組執行部の経験から言っても納得できなかった。さらにつけ加えるなら、上司や官僚などの描き方がステレオタイプでリアリティに欠ける点も気になった。
まぁ、何だかんだ言っても最近の邦画の中では力作であることは間違いないし、それなりに面白い作品であることには異論はない。
※あくまでも個人の感想です
まぁ、何だかんだ言っても最近の邦画の中では力作であることは間違いないし、それなりに面白い作品であることには異論はない。
※あくまでも個人の感想です
記事拝読させていただきました。
航空機事故は文庫本では御巣鷹山編として一冊あります。それは、それだけで読むのもつらい大変な記録だと思いますね。
むしろアフリカ編の上下と会長室編の上下とは別の世界な気もします。
山崎豊子氏の航空機事故遺族の方や日本航空への取材も相当困難を極めたことを氏が別の機会に語っていますね。
このモデル・小倉寛太郎氏および全体の話は事実に近いと同時代に日航に勤務した人から聞いたことがあります。
創作もいくらか入っているようですが、私はそんなことを頭において観ていました。ただ、カラチ〜テヘラン〜ナイロビ勤務は、栄転ではないと思います。
またパンフで520の棺を用意したかったけど、入りきらなくて減らしたというのを読んで、520人ひとりひとりに名前と人生があったのに、じゃあ誰を入れて誰を外したの?と思いました。
御巣鷹から20年以上経ちました。作り手に当時の生々しい痛々しさへの想像が欠けてるように感じました。その辺も「む」と思ってしまった原因かもしれません。
エッ!そんなことがあったんですか!劇中の社長のお詫び行脚と同じレベルじゃないですか!
悲しいことですけど、ご遺族以外の人々には風化が進んでいることは否定できないですね。