忙しいほうがいい。でも本当は・・・

時間が止まってしまうと、いろんなことを
考えてしまいます。
だから忙しいほうがいい。

でも、本当は・・・

高橋是清の財政政策~リフレーション政策~後編

2011-04-07 23:01:11 | のんきの聖書物語
高橋是清の財政政策~リフレーション政策~前編の続きです。

前回の記事を書いたとき、のんきは・・・よもやこの国に、こんな事態が起こるなんて考えていもいませんでした。
そして、今この記事を記そうとしていることに、何か運命的なものも感じます。

それは、今から記そうとしている、この、「高橋是清」の政策こそ、今、この国が巻き込まれている「東日本大震災」における諸問題を解決しうるべきソリューション
となる、実効的な手立てであるからです。

前回までの記事で、「井上準之助」が実行した財政政策を示してきましたね。


彼の取った政策は、現代風に言うと、「金融経済のグローバル化」「財政の緊縮」「企業経営の締め付け」。この3点です。

第一次世界大戦からの時代流れを見ると、

・第一次世界大戦に伴う戦争特需→終戦に伴い外資がアジア地域に戻ってきたことに伴う不景気→関東大震災→昭和金融恐慌→政権交代→世界恐慌(昭和恐慌)

近年の時代の流れを見ると

・米国経済の好調にけん引された小泉政権下の好景気→先物取引伴うエネルギー価格の高騰→リーマンブラザーズの破綻→政権交代→東日本大震災

時系列こそ多少前後するものの、第一次世界大戦後の日本経済の流れと、近年の経済の流れは、本当によく似ていると思います。

そして、昭和金融恐慌から日本を立ち直らせたのが高橋是清。リーマンブラザーズの破綻から日本どころか、世界経済に回復の道を示したのが麻生太郎さん。
で、政権交代が起こって、積極財政政策から財政再建政策へと移行、と。

で、政権交代後の井上準之助の取った政策がダメダメなとこと、民主党政権の政策がダメダメなとこまでそっくりです。

昭和恐慌の発生後、第二次若槻内閣の崩壊に伴って誕生した「犬養内閣」。

犬養毅によって再び大蔵大臣として指名された高橋是清は、就任後、まず「金輸出」を再び禁止しました。

この当時の「金」とは、国力を図る指標のようなものですから、現在でいえば「国債」のようなものです。「金輸出解禁」とは、すなわち「外貨建て国債の発行」と同じ
ようなものです。そして通貨の発行国が管理する、「管理通貨制度」へと移行します。

金輸出を再度禁止し、経済の流れが為替変動の影響を受けにくくしたわけですから、これは同時に「デフレ防止策」ともなります。
また、是清は「日銀による赤字国債の直接買い受け」を実行し、いわゆる「市場の金融緩和」を実行しました。
そして、市場に投入した資金が海外へ流出することを避けるため、「資本逃避防止法」を制定し、海外の証券への投資を禁止します。

う~ん。で、この次が彼が批判される要因となることでもあるんだよな~


今の日本だったら、日銀に直接買い取らせてまで発行させた「赤字国債」を財源に、たとえば「公共事業の発注」を行ったりして、民間の消費拡大に充てるのでしょうが、
彼はこれを、「公共事業」ではなく、「軍事予算の拡大」に充てました。時代背景もあります。今とは違いますから、そのことで彼を責めるのは筋違いかと思います。

そして、結果的に彼の取った政策は、4年間で「インフレ率」を2%に抑え、尚且つ7%を超える経済成長率を記録したのだそうです。
日本経済は世界で最も早くデフレから脱却し、かつ世界恐慌の影響から解放されたのです。

アメリカも、欧州各地域も世界恐慌の影響を受け、経済の復興ができずに苦しむ中、ただ一国、日本だけが右肩上がりの経済成長を遂げるにいたったのです。

ですが、日本には「エネルギー」がありません。金輸出を禁止したことにより、円安が進行したことも手伝って、日本は外貨を獲得するため、紡績を中心とした輸出政策を
展開します。

これに対抗して、ヨーロッパ各国やアメリカは「ブロック経済体制」を敷き、ドル・ポンド・フランなど、各通貨圏を閉鎖して、他通貨での輸出品に対して高額の関税を
課し、日本に対する経済制裁体制を敷きます。

俗にいう、「ABCD包囲網」とういうやつですね。 「A(アメリカ)、B(イギリス)、C(中国)、D(オランダ)」の通貨圏による経済制裁の名です。

石油の獲得ができなければ、日本にとっては死活問題です。
アメリカは、この日本に対して、こんな要求を突き付けます。「アメリカの支配下に入れ」と。

有名な「ハルノート」というやつですね。

支配されることを潔しとしなかった日本は、燃料を獲得するため、結果的に太平洋戦争の開戦へと巻き込まれていくこととなります。
是清の取った財政政策が、日本を世界で一番早く世界恐慌の影響から解放させ、そのことが結果的に太平洋戦争へとつながった。

是清の政策が過度のインフレを起こす要素とならなかったことから、後の軍事費拡大へとつながる要素ともなりました。


これが、敗戦後GHQの支配下において、「財政法第5条」により、日本銀行が政府から直接国債の買取を禁止するにいたったいきさつです。

日銀総裁、復興国債引き受けは「市場に誤ったメッセージ送る」
最近、このニュースをよく目にすることがあるんじゃないでしょうか。

「日銀による政府からの国債の直接買い取りが必要だ」と。

矛盾するようですが、のんきはこういった世論には大反対です。
のんきは震災後の、日銀の動きには本当に感服しています。

そして、今回の日銀総裁の発言にも、「さすが日銀だ」と、本当にうれしく思いました。
経済からみる震災
で記しましたね。

のんきの考える復興策とは、「日銀による発行済み国債の買取」です。
日銀は、既に82兆円を超える資金を市場に投入済みです。

「短期債券」を積極的に購入することで、日銀は市場の「流動性」を高めました。買い取った債権こそ国債ではありませんでしたが、日銀が行った行為は、国債買い取り
と同じ意味合いのことを実行したのです。


民主党が取るべき復興策は、まずは「赤字国債の発行」です。これを行わずに「日銀の国債買取」へと直結してしまうのは、やはり民主党の経済観念の無さを感じさせられ
てなりません。こんなバカな案を絶賛する国民も国民です。

「日銀の国債買い取り」という最後の砦があるからこの国はさまざまな政策が実行可能になるのです。


日本は必ず復活します!!

改めて言います。


日本は必ず復活します!!


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高橋是清の財政政策~リフレーション政策~前編

2011-03-03 22:21:30 | のんきの聖書物語
ふい~。
ようやく続きを書く気になりました。

井上準之助の財政政策の続きです。


ちょっと振り返ってみますね。

田中義一内閣になり変って政権の座に就いた濱口内閣。
その濱口首相に財政政策を任されたのが是清とともにかつて日銀総裁として財政政策に協力した井上準之助。

準之助の取った経済政策は、

・前内閣の予算をすべてストップし、財政支出をカット。さらに翌年の予算も緊縮型予算を組んだ。
・公務員給与の1割カットを提唱した(ただし、実行されず)
・津島寿一を再度アメリカ・イギリスに派遣してアメリカ・イギリスの銀行からの1億円相当のクレジットの約束を取り付け、更に日本銀行には公定歩合の引き上げを、
 横浜正金銀行には円為替への介入と外貨集積を指示した。

そして、そのうえで「金輸出解禁」を実行。
ちょうどそのタイミングで全世界を襲ったのが、「世界恐慌」。

しかも、「金」の価格は当時の相場ではなく、戦前。金輸出を禁止する前の相場。
井上準之助の財政政策でお伝えしてますね。これをやってしまうと、「デフレ経済」に陥る、と。

世界中を襲った金融恐慌とダブルパンチで、彼の取った経済政策は、日本国内に襲い掛かりました。
Wikiから引用します。
『折りしも濱口内閣は金解禁に見合った為替相場を維持するためにデフレ政策を取っていたことから、金解禁から半年で日本の国内卸売物価は7%下落、対米為替相場は11.1%の円高、
アメリカの国内卸売物価は2.3%下落となり、その結果日本の国内市場は縮小し、輸出産業は円高によって国際競争力を失って不振に陥り、日本経済は二重の打撃を受けることになっ
た』

つまり、金の価格を安く設定して解禁したもんだから、為替相場は円高に推移し、日本の輸出品目は海外で価格が高騰し、逆にアメリカから輸入する品目は逆に値下がり。当然国内
製品は売れなくなり、国内製品の物価そのものを下落せざるを得ない。

為替政策そのものも中国が行っているドルペッグの真反対の政策。「必要な場合に正貨の現送を認めることを条件として顧客の請求に応じて無制限にドルを売って為替相場の維持を
図る』というとても乱暴なもの。

そして、日本国内は深刻なデフレ経済へと陥ったのです。


しかし、この濱口首相。どんだけ楽観的なんや、と思うのですが、そんな状況にあっても尚、緊縮財政政策を打ち、14億5千万円にまで歳出を削ったのだそうです。
前田中義一内閣の予算が17億7千万円でしたから、合計で18%を超える財政削減を行ったんです。

その理由が、『アメリカが恐慌に陥っても世界経済の中心であるイギリス・ロンドンのシティが安定していれば、恐慌はじきに収まるものと判断』したから。

・・・

この辺りは、ルーピー鳩山あたりを彷彿とさせますね。

『実際には第一次世界大戦後に再建された新たな金本位制は、諸外国においても正貨不足から軒並みデフレの原因となっていたため不況から脱するどころか、むしろ各国を不況に
追い込んでいた』というのに・・・。


国内が深刻な不景気に見舞われる中、濱口は凶弾に倒れ、若槻禮次郎(わかつきれいじろう)が再び首相の座につきます。が。第二次若槻内閣でも井上準之助は大蔵大臣として留任。
その後も国内銀行の反乱(投資的なドル買い)、満州事変の勃発による公定歩合の引き上げ(←これも不景気下にやる政策じゃないですよね)、そして閣内からの反乱により、ついに
第二次若槻内閣は崩壊。

ここに、「犬養毅内閣」が誕生するに至るのです。

犬養の所属する政党は立憲政友会。若槻のいた民政党と対立する政党。田中義一が所属した政党ですね。



ふ~・・・。やっとここまで来た。



ついに登場するんです。「高橋是清」。

政権を引き継いだ犬養がまず一番最初に行ったのは、「解散総選挙」。そして、政権基盤を安定させたうえで、いよいよ、「高橋是清」を再び大蔵大臣の座へと任命します。


引っ張ってるわけじゃないですよ。流れを説明しようとすると、準之助の政策を比較的に説明する方がきっとわかりやすい、と・・・。


ではでは、次こそ是清の政策の説明へと移りましょう。今日はこのあたりで・・・。


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井上準之助の財政政策

2011-02-11 23:17:39 | のんきの聖書物語
「リフレーション政策」というタイトルで記事を起こそうとしていたのですが、その間にもう一つ記事を挟みます。
是清の行った、「リフレーション政策」をテーマにしたかったのですが、是清が表舞台から姿を消している間に登場した「井上準之助」という人物。

この人物の執り行った財政政策が、とくに是清と比較する上で、また現在の民主党政治と比較する上でもサンプル的にとても興味深い内容なので、今回はこの人物に
スポットを当ててみたいと思います。

高橋是清の財政政策の続きです。

「で、でさぁ~あ、『リフレーション』って、なんなの?
現れましたな、ひよこさん。

「リフレーション政策」。これ、世界恐慌の影響を受け、一気に経済状況が冷え込んだ日本の経済を救い、世界で最も早くデフレ経済から脱却させた、高橋是清の
財政政策なんだよ。

「世界で最も早く!?

そう。 すごいでしょ。
っていうより、「意外だ」って感じる人の方が多いんじゃないか、と思うんです。

世界恐慌が発生したのが1929年。この世界恐慌が原因で、世界は第二次世界大戦に突入する・・・。「世界恐慌」の記事で、のんきはそんなことを
お伝えしましたね。

第二次世界大戦で、日本はドイツ・イタリアと組み、連合国軍を相手に戦い、アジアを侵略しようとした悪事がたたって、日本はぼろ負け。やっぱ正義には
勝てないんだよね・・・っていうようなイメージをお持ちの方はきっとこの国には多くいらっしゃるはず。

きっと日本は、世界恐慌の後、不景気に見舞われて戦争を起こすしかなくなったに違いない、なんて思っていませんか?


だけど、世界恐慌の後、高橋是清のおかげで、日本は、「世界一速くデフレから脱却した」。
「・・・ よくわかんない」

 「デフレ」ってよく耳にしますよね。のんきもブログの中でよく話題にします。
今の日本の景気は「需要」と「供給」のバランスのギャップが問題で、供給の量に対して需要の量が圧倒的に不足しているため、物価が極端に値下がりしている、と。

そう。当時の世界恐慌下でも、日本は同じような状況にあったんですね。では、なんで当時の日本はそんな状況になったんでしょう。


是清が大蔵大臣を務めた田中義一内閣。昭和金融恐慌から見事に脱却し、是清が去った後、田中義一内閣は暴走。昭和天皇の逆鱗に触れ、義一内閣は総辞職。
政党は立憲政友党から立憲民政党に交代。財政政策はこれまでの積極財政政策がら緊縮財政政策に転換されます。

この、濱口内閣が執った財政政策が、「金解禁」、「緊縮政策」、「産業合理化」の3政策。そう。濱口首相は、ついに金輸出解禁をやっちゃったんです


濱口首相から命を受け、この一連の流れの中、財政政策を断行したのが「井上準之助」。「高橋是清の財政政策」の中で登場しましたね。

是清の後を受けて日銀総裁となり、昭和金融恐慌の折、片面の日銀券を大量に刷って、不景気の脱却の一翼を担った、あの井上準之助です。


う~ん。しかし、彼の財政政策を見るに、ホント日本が体験した「バブル崩壊」のデジャブを見ているようです。

ちょっと難しいのですが、負けずについてきてくださいね。


まず、この当時の政治状況として、

金輸出解禁に反対であった「田中義一」内閣は是清退陣後の首相の暴走により、田中義一内閣は総辞職した。
金輸出解禁に反対であった田中義一内閣と、その当時の政権与党である「立憲政友会」否定されたわけだから、当然続いて政権に就く政権与党は、
「立憲政友会」と「イデオロギー的に対立する立場にある」政党である


この理屈、わかるでしょうか。

思い出してくださいね。麻生内閣は、「自民党」を象徴していましたから、麻生内閣がどんなに良い政策を行ったかどうかは一切関係なく、麻生内閣が「自民党政権で
ある」という理由だけで麻生内閣は退陣に追い込まれ、結果的に誕生した政党は、「自民党のイデオロギー」を否定する政党である「民主党」でしたね。

民主党は、野党時代から麻生内閣のすべてを内容の如何は一切関係なく、「自民党の政策であるから」という理由だけで否定し(批判じゃないですよ)、その実現性は
一切考慮せず、理想論のみで全く対立する政策を主張し、国内の社会情勢や国際情勢と整合性を一切とることなく、野党時代に主張していた政策をそのまんま断行しよ
うとしましたね。

バカとしか言いようがありませんが。


井上準之助が行った財政政策とは、まさしくこの民主党政策を彷彿とさせるようなものであったのです。

しかも、民主党政権では衆参二院制の長所が生かされて、決してその愚かしい政策がすべて素通りするような結果にはなりませんでしたが(衆議院で2/3を確保している
間は別でしたけど)、井上準之助の財政政策は、ものの見事に断行され続けたのです。


少し時代を過去に戻します。

当時の日本国通貨は、第一次世界大戦の勃発に伴い、「金輸出」が禁止され、外貨のやり取りによって相場が変動する「為替相場制」となっていました。
第二次世界大戦後、アジア市場にヨーロッパが戻ってきたことにより日本の好景気は頭打ちとなり、戦後、貿易収支は赤字続きで、日本の為替相場は、戦前の「金本位制」
当時に比べて、円の価値は大幅に落ち込みました。

戦前の相場が100円=49.875ドル(1ドル=2円5厘)という金額だったのだそうですが、その価値を大幅に下回ったのです。
この、100円=49.875ドル(1ドル=2円5厘)という値は、当時の「金の価値」に由来するものです。

たとえば、金貨に「一円」と記しているとします。ですが、この「一円」の価値は、戦前の一円の価値であり、井上準之助が財政政策を担当するようになった当時、その
一円金貨には、昭和金融恐慌の影響も受けて、すでに戦前の「一円」の価値はなくなっていました。

ですが、濱口内閣当時、金輸出は禁止されていましたね。

たとえば、今の日本で、「一円玉」とか、「十円玉」とか、「百円玉」なんてのがありますよね。だけど、たとえば一円を構成しているのはアルミニウム。一円玉の重さは
1gですが、では一グラムのアルミニウムの価値が1円か、というと決してそんなことはありませんよね。

けれども、一円玉は「一円」として日本国内では流通しています。

これは濱口内閣当時も一緒。一円玉の実質的な価値が一円であろうが無かろうが、一円玉は「一円」として国内では流通していたのです。

だけど、仮に「金輸出」を解禁してしまうと・・・。
この「一円玉」の価値はどうなってしまうんでしょう。

1. 当然、国内で「一円」で流通しているんだから、一円は一円。もう一度金の価値を戦前の価値に合わせて輸出を解禁すればいいじゃん。
2. 円の価値は戦前に比べれば大幅に低下しているんだから、いくら硬化に「一円玉」って書かれてたって、一円の価値はないんだよ。国際的な金の価値に合わせて、一円玉
  の価値を見直すべきだよ

さて。皆さんならどちらの選択肢を選ぶでしょうか。
































考えたかな?

普通だと「2」を選びそうだけど、これ、実はそれぞれにデメリットがあるんです。
「1」だと、今まで外国に1円で販売できたものが、戦前の「正貨」価格のまま金輸出を解禁してしまうことで、輸出製品の金額が大幅に跳ね上がり、輸出産業が大ダメージを
受けます。代わりに輸入品の金額が大幅に値下がりし、国内製品でさえ国産の物が売れなくなり、日本国経済が大幅な「デフレ」社会へとシフトしてしまうこと。

「2」だと、そもそも「金本位制」とは、国内に有する金の総額に国内の通貨価値が裏付けされるわけですから、保有する金の価値を低下させることは、日本の通貨価値を低下
させることにつながります。当然、輸入品の金額は上昇し、国内経済は「インフレ」経済へと突入することになるのです。


濱口内閣が選んだのは・・・。

ご想像通り、「1」。旧平価=戦前の価値で金輸出を解禁したのです。
もちろん、何の策略もなく、ただ無節操に解禁したわけではありません。

井上準之助の取った財政政策。
1.前内閣が定めた昭和4年度当初予算の5%にあたる9,000万円のカット(16億8千万円)を行って続いて昭和5年度予算も緊縮型予算(16億1千万円)とした。(Wikiより)

どっかで聞いたような話ですね。前内閣の予算をすべてストップし、財政支出をカット。さらに翌年の予算も緊縮型予算を・・・。
まあ、どっかの民主党とかいう政党は、緊縮予算を組むと言いながら、その翌年も根拠のない豊満財政予算を組んだのですが。

2.公務員給与の1割カットを提唱した(ただし、実行されず)。(Wikiより)

いゃーん。 口だけ、ってところがどっかの民主党とかいう政権にそっくり~。

3.津島寿一を再度アメリカ・イギリスに派遣してアメリカ・イギリスの銀行からの1億円相当のクレジットの約束を取り付け、更に日本銀行には公定歩合の引き上げを、
 横浜正金銀行には円為替への介入と外貨集積を指示した。

この辺りは・・・どっかの民主党とかいう政権にはまねのできない芸当ですね。
どちらかというと、彷彿とさせるのは「橋本龍太郎」。前記しましたね。『日本が体験した「バブル崩壊」のデジャブを見ているよう』だと。

そして、『これによって保有外貨が3億ドルに増加し、また為替相場が48ドルまで戻ったのを見た濱口内閣は11月21日に来年(1930年)1月11日をもって旧平価による
金解禁を実施することを発表した。』(Wikiより)のです。

また、Wikiにはこうも書かれていますね。
『濱口や井上は、金解禁や財政再建とともに重要視していたのは、産業の構造改革であった。

明治以来の政府(官僚・軍部)と政商・財閥のもたれ合いの上に発達を遂げた日本の産業の国際競争力は決して強いものとは言えなかった。

特に第1次世界大戦後の不況の長期化はこうした日本経済の悪い体質にあると考えた濱口や井上は金解禁によるデフレと財政緊縮によって一時的に経済が悪化しても問題
企業の整理と経営合理化による国際競争力の向上と金本位制が持つ通貨価値と為替相場の安定機能や国際収支の均衡機能によって景気は確実に回復するはずであると考え
たのである。』

井上が金輸出を解禁したのは「1930年1月11日」。そう。「世界恐慌」発生の直後だったのです。


まるで東西冷戦構造が崩壊し、国内の資金が流れだそうとしているそのさなかに不動産融資の「総量規制」を行い、バブル崩壊へのトリガーを引いた橋本龍太郎大蔵大臣を
彷彿とさせるのです。

さて。ずいぶん記事も長くなりました。この続きは、いよいよ次回記事、「リフレーション政策」へと託すこととしましょう。


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高橋是清の財政政策

2011-01-28 21:04:58 | のんきの聖書物語
う~ん

なかなかこの記事を記すには体力と根気が必要となりそうなのですが・・・。

がんばってみます。

「高橋是清の財政政策」。
高橋是清の続きです。

前回の記事では、第一次世界大戦の終息により、アジア市場へヨーロッパが戻ってきたことから、日本経済が一気に不景気に転換したこと。
その状況で関東大震災に見舞われ、返済が不能となった債権が「不良債権化」したこと。

そして、第一次若槻禮次下、片岡直温大蔵大臣が、実際には破綻していない東京渡辺銀行が、「破たんした」という誤った発言を行ってしまい、このことが原因で日本が恐慌に
見舞われたことをお伝えしました。

この一連の流れにより発生した恐慌を、「昭和金融恐慌」と言います。
恐慌そのものは一旦終息したものの、当時の財閥であった「鈴木商会」が倒産。その煽りを受けて鈴木商会との関係性が深かった台湾の「台湾銀行」が休業に追い込まれ、金融不安は
一気に深刻化しました。


恐慌を引き起こした若槻内閣が退陣し、この内閣を継承したのが田中義一(ぎいち)内閣。田中首相に請われ、「昭和金融恐慌」を終息させるまで、という条件で大蔵大臣として
内閣入りしたのが高橋是清氏。

さて。高橋是清。彼は一体どんなマジックを使ってこの恐慌を終息させたのでしょう。


きっと現在なら、こんなことを言われるはずです。「とんでもないばらまきだ」って。

まず、是清が行ったのは、「支払猶予措置」。銀行から借主への支払督促をある一定期間行わないようにする「モラトリアム」措置。そう。みなさんの記憶には、国民新党の党首で
あった亀井静香さんが行ったあの金融モラトリアム法が記憶に新しいかと思います。

高橋是清が行ったのは、日銀から市中銀行(民間の金融機関)に向けた、緊急融資政策。これ、聞こえはいいですが、要は日銀券をバンバン印刷して市中銀行にばらまいた、って
表現した方がわかりやすいと思います。何と、この時是清は緊急措置として、紙幣を片面だけしか印刷していないものを増刷したのだそうです。

是清が目指したのは、国民の金融に対する不安をぬぐい去ること。片面しか印刷していない紙幣を銀行の店頭に積み上げさせたのだそうです。
実際、当時の日本国民はその山のように積み上げられた紙幣を見て、恐慌に対する不安をぬぐい去ることができたのだとか。実際に恐慌は沈静化したのだそうです。

是清は、この政策を実行するに当り、自分に代わって総裁となった井上準之介と協力し、この政策を実行しました。

しかもこの時、田中義一内閣はこのとんでも緊急措置を実行するため、府県知事を大幅に人事異動。政府に批判的な府県知事を免職や休職扱いにし、さらに政府に批判的な社会主義者
や共産主義者(いわゆる左派。左翼と呼ばれる人たちのことです)を一掃するため、治安維持法の改正(最高刑を死刑とした)まで行ったのだそうです。


さて。この一連の流れ。皆さんはどう感じるでしょうか。

「右側」と「左側」でもお示しましたが、いわゆる「左派」とは反体制派。ですから、当然「革新主義者」、いわゆる「リベラル」が多く存在する勢力でもあります。


戦後の日本を思ってみてください。やはり、自民党に代表される「右派」を社会党や共産党に代表される「左派」が責め立て、政策の実行を難しくしていた現状があったかと思う
のです。

もし、昭和金融恐慌の折、高橋是清の金融政策を左派や反体制派によって邪魔されていたら・・・。

そう。同じようなことが最近ありましたよね。
リーマンショック後の日本です。

のんきの中では、高橋是清氏と、麻生太郎当時内閣がとてもよく似たイメージで映っています。
まず、リーマンショック後。麻生政策の実行は、小沢一郎率いる民主党により、その政策の実行を2ヶ月以上も遅らされました。

そして、景気を回復させるための段取りを整えたにも関わらず、左翼マスコミにより、誤った印象を植え付けられ、政策はとん挫。左翼民主党へとその政策の実権は移り渡った
のです。

これ、実は田中義一内閣においても全く同じようなことが起きます。
当然、これだけ強硬なことを行ったわけですし、麻生内閣と同じようにその効果を国民が実感できるようになるにも時間がかかったはずです。

そして、是清が政権から去った後、この政治システムの大幅な改正は、田中内閣の暴走を招き、当時昭和天皇の逆鱗に触れ、内閣総辞職へと追い込まれます。


わかりますでしょうか。是清が執った政策は「積極財政」。しかも過剰ともいえるかなり思い切った積極財政政策です。
そして彼を登用したのは田中義一総理。つまり、田中総理が批判を受けて内閣総辞職になったことによって、結果的に是清の政策が否定された形となったのです。


田中義一氏の後を引き継いだのは濱口雄幸総理大臣。田中義一氏の所属した政党が立憲政友党。濱口総理が所属したのが立憲民政党。

立憲政友党を今の自由民主党とすれば、立憲民政党は今の民主党のようなものです。

濱口総理は図らずも是清とともに積極財政政策の後押しをした日銀総裁、井上準之介を大蔵大臣として迎えます。井上準之介の執った政策は、金解禁、緊縮政策、産業合理化。
続く第二次若槻内閣も同様な政策を継続し、そしてそんな中、濱口総理の時代。世界は「世界恐慌」に見舞われることとなるのです。


過去の記事でも、何度もお示ししましたが、不景気経済下で実行する緊縮財政政策は、国民の家計を非常に苦しめます。
麻生総理や故小渕総理の執った経済政策は、「ケインズ経済学」に基づいています。

つまり、積極的な公共投資を必要な分野に行うことにより、乗数効果を引き起こし、結果的にGDPの拡大につなげていく、という手法。

是清は、図らずもこのケインズの理論と同じ理屈に基づいて、ケインズよりも前にケインズと同じ理論を既に実践していたのです。


世界恐慌の煽りを受け、日本経済は「昭和恐慌」へと突入します。
緊縮財政政策を続ける濱口総理、若槻総理。そして、世の中は再び是清の登場を必要とします。

是清の執った「リフレーション政策」。緊縮財政政策が続けられる中、人々の手元には資金が不足し、やがて「デフレ経済」へと突入します。
そんなデフレ経済を救った是清の政策。財政法第5条が制定される原因ともなった政策です。


さてさて。次回記事テーマは「リフレーション」。のんきは、この政策こそ、今の日本経済を低迷から脱却支える起死回生の一手であると思えてなりません。
「リフレーション政策」。一体どんな政策なのか。それでは、次回記事をお楽しみに~


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のんきの聖書物語 番外編~聖人の起こす奇跡~

2011-01-06 22:17:57 | のんきの聖書物語
さてさて。高橋是清の記事で、なかなか盛況な反応があったことは、のんきにとって光栄です。

んで、次回の記事に託す、って書いてますから、やっぱり続きを、と思うのですが、その前に。 ちょっと番外編をば。

のんきの聖書物語」の名にふさわしい記事だと思います。


ってことで、「のんきの聖書物語 番外編~聖人の起こす奇跡~」。始まり始まり~。

のんきがこの記事を記そうと思ったのは、最近であった、ある人物が原因です。

のんきの中では、「4番目の人」です。一人目は、これからの政治観などでご紹介した、F氏。二人目は、暗殺者・・・などでご紹介した、師匠。

この二人との出会いが、のんきを政治に関心を持たせるに至った、最大の原因であったことは、昔お伝えしたことがありますね。

三人目は、のんきはまだブログの中でご紹介していません。のんきの中では、まだご紹介できる段階に至っていない人物です。
ただ、ひょっとするとのんきを、「真実」の中枢に導いてくれる可能性のある人物ではあります。

で、本日ご紹介する人物が四人目。名前は、「4番目の人」。なぜ4番目と呼ぶのか。実はこの人、「真実の中枢」か、もしくはそこにかなり近い位置にいた人物なのでは
ないか、と思えるからです。

っていっても、意味わかんねぇ~って感じですよね。まあ、のんき的には、「それでいい」んですが。

さて。この人物との出会い。なぜのんきにこの「番外編」を記そうと思わせるに至ったのか。
実はこの人物、キリスト教を信仰しているのだそうです。うん。それだとよくある話ですよね。

って思わせぶりだけど、別に「4番目の人」がすごい話をしていた、ということをテーマにしたい記事じゃないんです。
この人物とした話の中で、のんきの目からうろこが落ちた、もしくは落ちそうになった話、というのはどちらかというと東洋の話。まあ、「のんきの聖書物語」に加えても
構わないような話ではあるんですが、それはまた別の機会に。

「4番目の人」の話は、後半は主に宗教の話となりました。

「宗教」の経典に書かれている話って、何か特別なことが記されているわけじゃなく、意外と今の時代だと、「それって当たり前じゃん」っていうような内容が記されている
場合が多いです。「4番目の人」も同意見でした。

んで、「4番目の人」が言ったことばの中に、「良くキリストが祈りをささげると、立てない人が立ち上がれるようになったり、目が見えない人が見えるようになったり、と
いう奇跡が語られますが、キリストは『奇跡』を起こすことを重視されるのが嫌だったんです」っていうような趣旨の表現が登場しました。

彼の話の中で、その「奇跡」をキリストが起こしていたことが、あたかも「当然のこと」であるかのようにして話が進められていたのですが、のんきはここにビビッと来たんです。

んで、サブタイトルが、「聖人の起こす奇跡」となっているのです。


というのも、のんきの中に、その「聖人が起こす奇跡」として、論理的に説明が可能な「症状名」が思い浮かんだのです。


その名前は、「身体表現性障害」。

人間の感覚神経を通じて脳まで届けられた情報は、脳から電気信号として身体にフィードバックされ、さまざまな反応として身体に表現させます。

って書くと難しいけど、たとえば臭いにおいを嗅いだら鼻をつまんだり、おいしいものを見るとよだれが出たり、そんな話です。


脳からの命令が、身体にフィードバックされる際、脳からの命令は、「視床下部」という部位を通過して全身に届けられます。
ところが、人間はストレスを受けすぎると、この「視床下部」が誤作動を起こし、脳からの命令を身体に対して正確に伝えようとしなくなります。

で、身体は本来作動しなければならない動作を行うことができなくなり、たとえば、「立てなくなる」「歩けなくなる」「物が見えなくなる」「音が聞こえなくなる」「全身が
痙攣する」「声が出せなくなる」・・・etc、さまざまな「身体的障害」が発生します。

もちろん、本当に身体のどこかに障害があるわけではありませんから、お医者さんにかかって、どこを調査したところで、体に異常が見つかることはありません。
異常が見つかりませんから、時に「誤診」をされることがあります。

「詐病」なのではないか、と。つまり、本当は歩けるし、聞こえるし、見えるのに、「歩けないふり」「聞こえないふり」「見ないふり」など、「演技」をしてるのではないか、
と疑われてしまうのです。

原因は、身体的な障害ではなく、視床下部に対して「ストレス」が与えるダメージが原因です。
「摂食障害」などは、実際に動物で実験が行われ、視床下部の一部を破壊すると動物は食事をしなくなり、過剰な刺激を与えると、過剰に食事をとりすぎる、という異常が実際に
確認されているのだそうです。


実際に異常があるわけではありませんから、いわゆる「対症療法」を行うことは、まったくと言っていいほど意味をなしません。歩けるようにする治療、見えるようにする治療、
聞こえるようにする治療は効果が無いのです。

では、どのようにすればこれらの症状は回復するのか。これは、「視床下部」にかかるストレスを軽減させてやることがとても大切になります。


「身体表現性障害」。

つまり、脳や身体に与えられた過度のストレスが視床下部にダメージを与え、実際のストレスとは一見関係なさそうに見える、「身体的症状」として表現されてしまう障害です。

過度のストレスが原因ですから、この症状を発症する人の中には、うつ病を発症している人が多く、つまりうつ病に対する対処方法は、そのまま身体表現性障害の対処方法につな
がる可能性がある、ということが言えます。

もちろん、ストレスもさまざまで、実際にうつ病に至っていない人も多くいるわけですから、そういう人にうつ病の薬を処方することは、誤った投薬方法だと言えます。
薬が原因で、別の身体的症状を発症する可能性すらありますから。


この障害から回復させる方法とは、まず第一に本人に現在起こっている症状は実際に身体的な異常があって発症しているものではない、ということを認識させること。
つまり、脳に体が脳からの命令を勘違いして作動しているんだ、ということに気づかせることが大切になるようです。

その上で、視床下部がストレスにさらされ、誤作動していることが原因であるわけですから、そのストレスの原因となる要素を取り除いてやることが大切です。
原因を取り除かずとも、中には本人が「脳の命令を体が誤って受信しているんだ」と気づくだけで回復する人もいるようです。


そこで、思い返して欲しいのが、「聖人の起こす奇跡」。
たとえば、その聖人が、とても「聞き上手」な人だったとしましょう。周りの人は自分に支持や命令ばかりして、自分の話をちっとも聞いてくれなかった。
そのことがストレスとなり、身体表現性障害を発症していた。ところが、その聖人に話をよく聞いてもらい、とてもすっきりして、それ以来障害は発症しなくなった。

また、「プラシボー効果」というものもあります。
これは、身体表現性障害の全く逆。障害として出ていたものが、思い込みによって治った、というパターン。

たとえば、世間から「神である」「奇跡を起こす」と話題の人物が、突然自分の前に現れて、患部に手をかざした。話をとことん聞いてくれた後、一言、「さあ、目を
あけてごらん」。目を開くと、今まで見えなかったはずなのに、急に視界が開けた・・・。

あり得ない話でもない、と思います。伝説のようなものですから、たとえば10人に同じことを試して、たった一人しか結果が出なかったとしても、そこが誇張されて
伝承されるケースもあるでしょう。

「聖人の起こす奇跡」。ひょっとして、そんなものだったんじゃないのかな。
のんきは「4番目の人」と話をしていて、ふとそんなことを思いました。


まあ、のんきはお医者さんではありませんから、今日、断定的に表現しているものの中にも、ひょっとすると誤っているものもあるかも知れません。

ですが、もしこの記事をご覧の方の中に、「立って歩けないのに全く検査に引っかからない」とか、「急に耳が聞こえなくなったのに原因がわからない」とか。
思い当たる節のある方、一度この名前をお医者さんに問いかけてみると、意外とあっさりと問題は解決したりするかもしれませんよ。


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高橋是清

2011-01-03 16:59:23 | のんきの聖書物語
本年の第一回目の記事のテーマは、このテーマにしようと思います。



まあ、例によってちょいと難しい記事にはなるのですが、最近、この高橋是清氏について、ちょいと関心をのんきはもつようになりました。

初めて名前を出したのか、とのんき自身も思っていたのですが、実は

↓こちらの記事
日露戦争物語

で一度名前を出していたことにのんきは気づきました。っていうより、今回のテーマを記すにあたって調べていて、初めて気づいた、と言った方が正しいかも。
自分で書いた記事なのにねぇ。

年末、第2部が放送された坂の上の雲ですが、我が松山の英雄、日露戦争に日本が勝利することができた理由は、秋山兄弟の活躍だけではなかったのです。

高橋是清氏が戦費を獲得するためにイギリスやアメリカを、彼が東奔西走したおかげで、日本はロシアに勝利することができたのです。

しかも正岡子規や秋山真之に英語を教えたのも彼だったんですね・・・。とっても意外です。


ではでは、のんきがなぜこの高橋是清氏に関心を持ち、一度調べてみたい、と思うようになったのか。
理由は、この日露戦争云々は全く無関係で、関心を持った、というよりもむしろ、「この高橋是清という人物はだれだろう」と、心に引っかかるような感覚を覚えさせたのは、この法律。

財政法第5条:
すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り入れてはならない。
但し、特別の事由がある場合において、国会の議決を経た金額の範囲内では、この限りでない。


日銀のホームページからも参照できます。

この法律のことを知ったのは、やはり三橋貴明さんの本。
ジパング再来 大恐慌に一人勝ちする日本
三橋 貴明
講談社


んで、この法律が制定されるきっかけを作ったのが、この高橋是清氏であったわけです。

財政法が制定されたのが1947年3月31日。日本が敗戦し、GHQの管理下に置かれたのが1945年。GHQから撤退したのが1952年ですから、ちょうどGHQの支配下で制定された法律、
ということになります。

この項目が作られた理由は、当時大蔵大臣であった高橋是清が日銀に当時大日本帝国の国債を大量に引き受けさせ、その政策が、「高いインフレ率」を引き起こしたから、という情報が、
ネットで検索をかけると出てきます。

実際の物価上昇率は年率で10%を記録したのだとか・・・。つまり、1月に1000円で購入できたものが、年末には10000円支払わなければ購入できないほどになった、ということ・・・。
訂正。済みません。年率10%では、1000円で買えていたものが1100円になる計算でしたね。 お詫びして訂正いたします。
ketaさん、ご指摘、ありがとうございました。しかしなぜこのような露骨なガセネタを掲載してしまったんだろう・・・。お恥ずかしい限りです。


で、どちらかというとのんきはこの高橋是清氏に対して、ネガティブなイメージを抱いていたのです。


ところが、経済のことを調べ、学べば学ぶほど、のんきの中にさまざまな疑問がわいてきました。なぜならば、のんきが考えている、現在の日本の景気を回復させるための財政政策こそ、
高橋是清が執り行ってきた財政政策そのものだったからです。そこで、カテゴリー「のんきの聖書物語」の中で、この「高橋是清」氏のことを記事にしてみようと思ったわけ。

ってことで、「高橋是清」。
「世界恐慌」の続きです。

第一次世界大戦中、当時世界経済の中心であったヨーロッパ諸国は、ヨーロッパ内の戦争に必死で、アジア地域は「ヨーロッパ不在」の状態になっていました。

事実上、アジア地域は日本が独占する状態になっていたので、大戦中の日本は好景気に沸いていました。
一方で戦争のための物資を供給するため、日本では船舶・海運業が発達し、「成金」という言葉が生まれたのもこのころなのだそうです。それまで債務国であった日本が、一気に債権国として
転換を図ることに成功した時期でもありました。

ところが、大戦終了後、戦争特需が終息し、ヨーロッパが生産活動を回復し、アジアに戻ってくると、一転して不景気に見舞われます。景気が落ち込む中で日本を襲ったのが「関東大震災
(1923年9月)」。震災により、返済が不能となった手形(震災手形と呼ぶのだそうです)が「不良債権」と化します。


第一次世界大戦に少し話を戻します。大戦中は、どの国も「金本位制」を取っていましたから、国力の指標となる「金」が海外へ流出することを防ぐため、「金輸出の禁止」をどの国も
政策として行っていました。ところが、戦直後、アメリカは早々にこの金輸出を解禁し、1922年、ジェノア会議で世界各国に対しても金輸出の解禁を迫る議決がなされます。


高橋是清氏は、日銀副総裁として振るった日露戦争の折の手腕が評価され、1913年、第一次山本權兵衞内閣大蔵大臣として就任します。
1918年、原敬内閣でも大蔵大臣を務め、1921年、原敬が暗殺された後、彼の政権を引き継いで、第20代内閣総理大臣の座に就任します。


この時彼が執っていた政策が、「積極財政策」。裏付けとなる「金」が必要であったため、彼はこのジェノア会議に従わず、金輸出解禁を先送りすることになります。
結果、大幅な貿易赤字を記録し、是清は国外で日本が保有している「金」を売却し、その是正に充てようとしましたが、追いつかず、彼は半年で政権の座を追われることとなります。


ただし。「世界恐慌」でもお伝えした通り、後の世界が大恐慌の渦へ巻き込まれていく原因を作ったのは、世界各国が金輸出解禁を行い、結果、一国だけ景気の良かったアメリカに
「金」が集中してしまったから。結果、欧米各国は再び金輸出を禁止し、ブロック経済という超保護主義政策を執り行うに至りました。


そのことを考えると、是清はひょっとして経済の先を見通す目があったのでは、と、そのような想像をのんきは思い浮かべてしまいます。
是清に代わって首相の座に就いた加藤友三郎は、是清の政策を否定して結成された内閣ですから、「金輸出解禁」を謳います。


開催された帝国会議で是清率いる立憲政友会は時期尚早として金輸出解禁に反対し、また政権第2党の憲政会は逆に解禁を主張。金輸出解禁は先送りされたまま、1923年8月24日、加藤友三郎
はガンのため逝去。時期首相が選定されない状況の中、日本を関東大震災が襲います。

震災に伴う金融措置の配慮から金輸出解禁はさらに先延ばしにされます。


震災手形が不良債権化する中、誕生したのが「第一次若槻禮次」内閣。前加藤高明内閣のスタンスを受け継ぎ、「金輸出解禁」を公約として、若槻内閣において、大蔵大臣を務めた
片岡直温という人物が、ある失言を口にします。

東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました

実際には破綻していませんでした。にも拘わらず、この発言を行ってしまったせいで、第一次世界大戦後、鬱積していた日本国内の金融不安が表面化し、一気に顕在以下してしまったのです。

まるでどこかの民主党政権みたいですね。

奇しくも大正天皇が崩御し、昭和天皇が誕生した、その翌年の議会における失態であったようです。

ただし、片岡氏は不良債権を処理するため、当時の野党総裁と根回しを行い、震災手形を処理するための法案の提出にこぎつけるなど、意欲的に政策に取り組んでいた
ということは事実であるようです。その点は民主党さんとは大違いですね。


しかし、恐慌を引き起こした責任はおいそれとまぬかれるものではありません。

若槻内閣は総辞職し、立憲政友会の田中義一が総理大臣として元老院より大命を下されることとなるのです。
この時、是清は田中義一氏に政友会総裁の座を譲り、すでに政界から引退していたのですが、田中氏の要請を受け、彼は再び大蔵大臣として政権の座に復帰するのです。

ここからですよ、高橋是清のすごさをまざまざと見せつけられるのは。


ってことで、今回の記事はここでおしまい。

続きは次回記事へと託すことにいたします。


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「世界恐慌」

2010-12-19 10:55:46 | のんきの聖書物語
さて。ずいぶん回り道をしましたが、のんきの聖書物語。いよいよ、第二次世界大戦前。「世界恐慌」に突入です。

「世界恐慌」。よく話には聞きますよね。ひょっとすると、「第二次世界大戦の原因になった」くらいの情報までは把握している人もいるかもしれません。

だけど、きっと答えられない人が多いと思うんです。

「世界恐慌って何?」

のんきもその口です。

情報を手繰り寄せてみると、「1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを端緒として世界的な規模で各国の経済に波及した金融恐慌、および経済後退(Wikiより)」
という情報に出会うことができます。

じゃあここで疑問になるのは、「なんでニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したの?」っていうことと、「そのことがなんで世界規模で混乱をもたらしたの?」ってこと。
ですよね~。


んで、そんなことを記事にしようと思って、一生懸命情報を調べて見たのですが、調べれば調べるほどのんきの頭の中にクエスチョンマークがたくさん浮かんできます。


世界恐慌が発生した場所は、ニューヨークのウォール街。ニューヨーク証券取引所と言うところです。

なんでのんきの頭の中にクエスチョンマークが浮かぶかというと、世界恐慌のもととなったウォール街が存在する場所はニューヨーク。アメリカ合衆国です。
ウォール街で株価が大暴落するまで、アメリカはかつてないほどの高経済。好景気下にあり、とてもそんな株価の大暴落がおこるようなそぶりなど全く見せていないこと。Wikiによれば、
「永遠の繁栄」と呼ばれるほどに米国は経済好況だったのですから。

理由は、「第一次世界大戦」。戦場はヨーロッパでしたから、ヨーロッパの経済は混乱し、相対的にアメリカの経済況感は上昇します。今までヨーロッパに集まっていたお金が、アメリカへ
集中するようになっていました。世界の「金」の半分以上がアメリカへ集まっていたのだそうです。

アメリカでは空前の「投機マネーブーム」が起きて、アメリカ人は借金をしてでも株を購入する、そんな風潮が出来上がっていたのだとか。
いわゆる「暗黒の木曜日」と呼ばれる、ウォール街大暴落が発生するその日までに、6年前の5倍もの平均株価を記録するまでに至っていたのだそうです。


うん。よく似た状況をのんきは二つ知っています。

一つは日本の「バブル経済」。もう一つはリーマンブラザーズ崩壊直前の世界経済。

そう。この時、アメリカでは、「バブル経済社会」が発生していたんですね。


「暗黒の木曜日」とは、つまりそんなアメリカのバブル経済が崩壊した、ってことなんですね。
う~ん。なるほど~。

当初、GMの株価が下がり始めたのをきっかけに、木曜日、金曜日、そして月曜、火曜と、立て続けに株価が暴落し、火曜日には株価は約17%も下落した、という事件。
だけど、「なぜ株価は低下したのか」という明確な理由には、出会えませんでした。

というよりも、きっとこの株価の暴落は、世界経済に深刻な影響を与えるほどに深刻なものではなかったのだと思います。
実際、情報として見られる内容も、当時は現在ほど株価が与える経済への影響は大きなものではなく、実際に投機ブームが起きていたのはアメリカ国内だけでしたから、本来であればアメリカ
国内への悪影響だけで終わっていたという内容となっています。


じゃあ、なんで世界恐慌は発生したのか。本来であればアメリカの景気を悪くするだけで済んだであろう株価の暴落が、世界経済にまで影響したのか。

・・・難しい。 ホンマ、難しいわ・・・

そもそも、当時の世界各国が主に用いていたのは「金本位制」。前記したように、世界の半分以上の「金」がアメリカに集まっていました。
紙幣は「金」と交換する形で銀行から民間へ支給されていたわけですが、ということは「金」の量がすなわちその国の「国力」を意味していました。

「金本位制」を取っている国では、「金の価値」に対して通貨の価値が固定されていました。ですから、もし、本来「金の価値」を上昇させることができる国がそのための役割を担わなかった
としたら・・・。

つまり、「世界恐慌」が発生した原因は、そんな「金本位制」の特色がもたらした恐慌であったのです。

ウォール街大暴落が発生したとき、アメリカの大統領であった人物は、ハーバート・フーヴァー氏。アメリカの第31代大統領です。
そう。のんきが感じたように、このフーヴァー大統領も、この「暗黒の木曜日」から続く4日間の株価の下落を、「大したことはない」と考えたようです。

で、「しばらくすれば元の景気に回復する」と考えました。これを、「自由放任主義」っていうんだそうですよ。 立派な経済用語なんだそうです。
趣旨は、「政府が企業や個人の経済活動に干渉せず市場のはたらきに任せること」。フーヴァーは、国内経済が大不況に陥り、財政出動が最も重要な政策である、と考えられる中、この
「自由放任主義(レッセフェール)」に基づき、「財政の緊縮」を図ったのです。

また、大暴落が起こった以降も、金がアメリカへ流入する流れは全く変わりませんでした。金がアメリカへ入ってくる、ってことは、アメリカの民間人の手元に「金」が大量に手に入る、って
ことで、当然金塊と紙幣を交換しようとする率も高まるはずです。高まる、ってことは、金塊と交換するための紙幣の量も増える、っていうこと。

今の日本みたいに、中央銀行が発行する紙幣の量をコントロールする時代じゃありませんから、金の量が増えれば、本来であれば、「紙幣の増刷」を行うことがアメリカの中央銀行、つまり
FRBとしては当然行うべき政策でした。でした、って過去形にするってことは、つまりFRBがそういう政策をとらなかった、ってこと。金は何も対価を紙幣とせずとも、資産はほかにも
あるわけですよね。

んで、紙幣と交換されない、っていうことは、「金の価値」が上昇しない、っていうこと。アメリカにドンドン金が流入するのに、肝心のアメリカが金の価値を上げるような政策をとらない。

ヨーロッパ地域にとってはたまったものじゃありません。とくに、第一次世界大戦の敗戦国。ドイツやオーストリアにとっては、その影響は計り知れないものがあったのです。
「ドイツ」と「ハイパーインフレーション」でお伝えしましたね。
ドイツのルール地方が戦勝国に占領されたのが1923年。その後、過度のインフレ経済に陥っていくわけですから、ドイツにとってみればまさに「弱り目に祟り目」。

フランスとベルギーにルール地域を占領され、インフレ経済に苦しむ中、アメリカのせいで金の価値はドンドン低下していく。こうやってみてみると、ドイツが第二次世界大戦を引き起こす
までに至る原因は、ドイツ以外の国の責任が大きいような気さえしてきます。

そして、フーヴァー大統領は1931年6月、さらに対外的に「スムート・ホーリー法」という法律を制定します。アメリカへの輸出品に対して、記録的な高関税を課し、自国の経済のみを保護
するような政策へと走ったのです。

他国もまた、アメリカに対して報復関税を課すに至ったのですが、この法律は結果的にヨーロッパ各国のアメリカへの輸出金額は伸び悩み、第一次世界大戦でヨーロッパがアメリカに対して
作った負債は、ヨーロッパ地域へ深刻なダメージを拡大させる結果にとなりました。

ついに1931年5月、オーストリアではクレジットアンシュタルト銀行が破たん。続いてドイツ第2位の規模を誇るダナート銀行が破たん。7月に閉鎖となり、大統領命令でドイツの全銀行が
閉鎖。企業は次々と閉鎖し、ドイツの経済恐慌はドイツ・東欧だけにとどまらず、全世界へと波及するに至ります。


また、フーヴァーの財政保護政策やスムート・ホーリー法は世界各国のみならず、アメリカそのものの経済も大崩壊させるに至ります。数年の間にGDPが4割の縮小、失業率は全国で25%、
都市部の失業率は50%にも至ったのだそうです。続くフランクリン・ルーズベルト大統領の元、アメリカ経済は一時的に回復するのですが、1930年代、通貨圏ごとに形成されたブロック経済
は、やがて後に発生する第二次世界大戦の主因ともなっていくのです。


う~ん。難しかった~

「ブロック経済」。実は、世界恐慌の中、唯一日本だけは、この「保護主義貿易」に頼らずに景気を回復させていきます。

「高橋是清」の登場です。是清さんの政策は、のんきとしては勉強したかった分野でもあるだけに、ちょっと嬉しいです。

「ブロック経済」と「日本」。しかし歴史って繰り返されますよね~。今の日本の不景気だって、きっと歴史上の人物たちが振るってきた伝家の宝刀を学ぶだけで、きちんとその解決方法
も見えてくると思うのですが・・・。


次回ののんきの聖書物語はそんなお話をしてみたいと思います。


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「ドイツ」と「ハイパーインフレーション」

2010-12-11 01:14:10 | のんきの聖書物語
この記事もねぇ~。実は、のんきの聖書物語をお休みしている間に知ったネタなんですよね~。

一応、歴史の中の1ページではあるのですが、現代の問題を見つめる上でも勉強になるお話です。

さて。では、ここで問題です。
第二次世界大戦がはじまったのはなぜでしょう。



























はい。 答えは、「ドイツがポーランドに侵攻したから」です。
ドイツ。有名なナチス政権のことですね。


はい。それでは再度質問です。「ナチス政権が誕生した理由は?」
































わかんないでしょ~。
今日のテーマはこの、「ナチス」が登場する一因となった、「ハイパーインフレーション」のことをテーマにしたいと思います。


「ハイパーインフレーション」。皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか。
「日本の借金」問題でもときどき登場する名前です。

のんきのブログをご覧の方にはもうご理解いただいている方もいるかと思いますが、「日本の借金」とは、正確には「日本国政府の負債」。95%が国内の金融機関から借りていて、
その金融機関の資金を支えているのが国民の預金。だからこれは実は>国民にとっては「資産」なんだ、というお話。

んで、それでも「借金は問題だ」と言い張る人たちに対して、実は借金問題には決定的なソリューションがあるんだよ、と。日本銀行券を増刷して、国債を買い取ればいいじゃん、
っていうお話。

んで、その次に登場するのが、そんなことをすれば、「ハイパーインフレーションになる」という、得体のしれない主張。

だけど、じゃあ「ハイパーインフレーション」って何なの?って問いかけると、きっとその人たちは答えられません。きっと、こんな風に言うと思うんです。

「そりゃあ、物価がとんでもなく上昇して、紙幣が紙切れになるんだよ。そう、ドイツみたいに
って。

だけど、今の日本で、本当にそんなことが起こりうるんでしょうか。


それでは、まず最初に、こんなことから詰めてみましょう。

そもそも、「ハイパーインフレーション」って何?

っていうこと。
実は、というよりも、当然なのですが、「ハイパーインフレーション」にはきちんとした定義があります。

Wikiによりますと、「猛烈な勢いで進行するインフレーション。月率50%程度から、極端な場合、一日単位や数時間単位で貨幣価値が大きく変わることもある。」とされています。
ハイパーインフレーションの定義とは、「月率で50%以上」。年率換算で13000%の物価上昇を言います。ちなみに、この定義付けを行ったのは、経済学者の「フィリップ・ケーガン」氏。
ケーガンさんの具体的な情報はgoogle先生も教えてくれません。

で、この「ハイパーインフレーション」。実際に達成したのは、「第一次世界大戦後のドイツ」、「第二次世界大戦後のハンガリー」、そして有名な「ジンバブエ」。この3つの国しかあり
ません。

では、「第一次世界大戦後のドイツ」。一体なぜこの「ハイパーインフレーション」が発生したのでしょう。

「第一次世界大戦後」。戦時下では、さまざまな「物資」が破壊されます。しかも、「生産」の中心は「兵器」で、兵器産業以外の「産業」は結果的に衰退します。
第一次世界大戦で敗北したドイツは、実際には戦地となることはなかったようですが、人材がもっぱら戦地に投入され、また人材の枯渇も影響して、工業生産力が低下し、経済的にも、
社会的にも混乱していたのだそうです。ドイツ帝国の崩壊は、戦争そのものによる崩壊というよりも、内部からの「革命=ドイツ革命」により、帝政が終わりを告げたことによるものでした。

日露戦争日清戦争でも同様ですが、敗北した国は、戦勝国に対して、「賠償責任」を背負わされてきました。今回の第一次世界大戦でも同様に、「過去に類をみないほど
多大な損害を生み出した戦争(Wikiより)」の責任を、戦勝国は「敗戦国」に背負わせようとしたのです。

「ヴェルサイユ条約」において、ドイツでは今回の戦争に対する賠償責任をすべて背負わされることが決まりました。

当然ドイツはまともに支払えるわけがありません。戦勝国である「連合国軍」はドイツに対して、「お金が払えないのならルール地方を占領する」と通告してきました。


↑ルール地域です。(Wikiより)
ドイツ帝国は、ルール地域の「ルール工業地帯」の発展がけん引してきました。

ドイツはルール地域を占領されることは、工業による生産=経済活動が行えなくなるわけですから、ドイツにとっては死活問題を意味していました。

1923年1月、フランス軍とベルギー軍は「石炭とコークスによる支払いを確保するため」との名目のもと、ルール地方を占領を開始しました。

「ドイツ国民はこれに激怒し、ドイツ政府はルール地方の炭鉱や工場の労働者に対してストライキを呼びかけ、賃金を保証するために紙幣を増刷しました。」(Wikiより)

はい。みなさん。ここ、重要です。

「ドイツ政府はルール地方の炭鉱や工場の労働者に対してストライキを呼びかけ、賃金を保証するために紙幣を増刷しました。」
「ドイツ政府はルール地方の炭鉱や工場の労働者に対してストライキを呼びかけ」=生産が行われないわけですから、当然物資が不足します。

物が不足する中で、「賃金を保証するために紙幣を増刷」する。この行為は、当然のごとく「ハイパーインフレーション」を引き起こす結果となるのです。

物が不足する中で紙幣を配る、という行為は、物価の高騰をもたらします。国民は、「お金はいくらでも出すから、物をよこせ」という感情になるのです。
結果、ドイツの財政は破綻し、当時の内閣は退陣を余儀なくされました。

さて。このことと同じことが現在の日本でおこるかどうか。

答えは「No」です。なぜならば、現在の日本の状態は、当時のドイツとはまるで逆の状況、つまり「物余り」の状態にあるからです。

当時のドイツが「お金はいくらでも出すから、物をよこせ」という状態なら、日本は「お金をいくら渡されようが、必要ないものはいらないんだよ!」という状況です。
配られたお金は、消費ではなく、将来のための貯蓄へと回されるのです。

こういったドイツ政府の行為は、「弱腰外交」や「裏切り」とのそしりを受け、「極左」や「極右」と呼ばれる勢力の台頭を許してしまうこととなりました。

後のアドルフ・ヒトラーの躍進を招く結果となったのです。


さて。次回のテーマは「世界恐慌」。少し後に伸びてしまいましたが、いよいよ日本が第二次世界大戦へ巻き込まれていく様子。
「なぜ日本はあの戦争を起こしたのか」。そんな謎に迫ってみたいと思います。


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「共産主義」

2010-12-06 23:35:40 | のんきの聖書物語
かっかっかっか~
ついにのんきは「のんきの聖書物語」を復活させる気になりました。

う~ん。第1回から、数えること実に31回。余りに長くなりすぎちゃって、知人から、「ちょっと難しいよ~」っていう意見を多くいただいたので、ちょっとお休みしてました。

まあ、最近ののんきの記事は、「難しい」って思える記事もきっと多かったでしょうから、どっちもどっちか~

一番最後の記事を記したのが去年の10月28日ですから、何と1年以上もお休みしたことになりますねぇ。

同じ傾向の記事も続いていたので、いくつかのシリーズを使い分けながら、ちょっと気色を変えるために、復活させてみることにしました。

ってことで、今回のテーマは「共産主義」。
「戦後」への布石の続きです。

前回の記事では、今回のテーマを「世界恐慌」と表明していたのですが、その前に。世界が第二次世界大戦の渦へと巻き込まれていく流れの中で、世界恐慌以前に、一つ大きな
テーマが隠されていましたので、今日はそのテーマを掘り下げてみたいと思います。

んで、その前に。のんきは第一次世界大戦後、崩壊したロシアに誕生したソビエト連邦が、「ユダヤ的経済システム」を取らなかった、という表現をしていますが、実はこれ、誤りです。
ソビエトの用いた「共産主義」。「右側」と「左側」で「左翼」のことを解説していますが、この「左翼思想」の行き着いた先がこの「共産主義」。

「共産」の名のごとく、「みんな、平等」の考え方を発展させて、「全員の財産を、国で共有する」っていう考え方にまで突き進んじゃったんですね。

だけど、この「共産主義」。体系化したのが、有名な「カール=マルクス」です。「マルクス主義」とか、「マルクス・レーニン主義」なんて言葉が登場しますよね。

皆さん。忘れてはいけません。このシリーズは、「のんきの聖書物語」。現代まで脈々と続くユダヤ人の聖書物語を追い続けることが目的です。

この、「カール=マルクス」。実は、「ユダヤ人レビ(ラビ)族」の末裔です。

「ユダヤ人レビ(ラビ)族」。詳しくは、王国の誕生をご覧ください。
ユダヤ人とは、「ヤコブ」の子孫たちのことを言う、と上記記事に書いてあります。支族は「12支族」なのですが、「13番目の支族」。つまり、司祭階級にある、「レビ一族」がこの13番目
の支族に当たるわけですが、このレビ一族。「モーゼ」も、「キリスト」も、このレビ一族に所属しています。

そう。レビ族とは、ユダヤ人の中でも、由緒ある血統の一族。マルクスはその末裔なのです。

資本主義だけがユダヤ的システムのように錯覚しそうですが、共産主義もまた、ユダヤ人によって生み出されたシステム。「資本主義」と「共産主義」とは、一見まったく別物のようにも
見えますが、この二つの思想は、いわば「兄弟」なのです。

そして思い出してください。ユダヤ人とは、よその国を支配しておきながら、勝手によその国で同族争いを行い、分裂してまたよその国を支配しようとする、そんな民族性を持っています。
「資本主義」と「共産主義」には、そんなユダヤ人の性格が、ものの見事にこめられているんじゃないか、と思います。そして、その「ユダヤ的手法」とは、「タルムード」と呼ばれる、
レビ一族の中で口伝されてきた「ユダヤ的手法」を成文化し、まとめたものの中に記されている、と言います。

つまり、「共産主義」とは、ユダヤ人が世界を支配しやすくするために、「資本主義」のアンチテーゼとして生み出したものではないか、と。う~ん。怪しい。


実は、今日、本当に記事にしようと思っていたのは、『「ドイツ」と「ハイパーインフレーション」』というテーマだったのですが・・・。
共産主義のお話で、大分スペースを割いてしまいましたので、このテーマは次回へ譲るとしましょう。

それでは、次回、「ドイツ」と「ハイパーインフレーション」をお楽しみに~


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「戦後」への布石

2009-10-28 10:44:53 | のんきの聖書物語
日露戦争物語の続きです。

「戦後」。これは、ほとんどの国で「第二次世界大戦後」のことを言いますよね。

日露戦争が起こったのが1904年頃。日本が開国し、世界歴史の渦に巻き込まれてい
く中で、世界の距離は急速に縮められてゆきます。

イギリスで起こった産業革命後、蒸気機関が開発され、「蒸気船」「蒸気機関車」
などといった人力に因らない「移動手段」が活発に用いられるようになります。

1870年、世界で初めてガソリン車を作ったのがユダヤ系オーストリア人のジークフ
リート・マルクス。1876年、ドイツのニコラウス・オットーがガソリンエンジンを
開発。ゴットリープ・ダイムラーがこれを改良。

アメリカのライト兄弟が初めて飛行機の有人飛行に成功したのが1903年。

第1次世界大戦、初めて飛行機は軍事兵器として転用され、この頃には機関銃も開発
されていたため、その殺傷能力もものすごいものとなっていたのでしょう。

第1次世界大戦において、国別の戦死者はドイツ177万人、オーストリア120万人、イ
ギリス91万人、フランス136万人、ロシア170万人、イタリア65万人、アメリカ13万
人となっています。

日本は、日露戦争の折にイギリスと結んだ日英同盟を準拠に、1914年8月、第1次世
界大戦へ参入。

「モンロー主義」=ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸は相互に干渉しないという思想
のもと、中立を保っていたヨーロッパも、ドイツからの裏切りを受け、国民感情の
高まりとともに1917年、一次大戦へ参戦します。

ドイツ・オーストリア・オスマントルコ・ブルガリアの中央同盟国と、イギリス・
フランス・ロシアを中心とする連合国の間で大戦は行われました。

これに途中から日本、アメリカ、そしてイタリアが参入した形です。

勝利したのは連合国側でしたが…。

この大戦の結果、ヨーロッパの君主制は大きく崩壊し、ドイツのホーエンツォレル
ン家、オーストリアのハプスブルク家、オスマントルコのオスマン家、そしてロシ
アのロマノフ家は、歴史の表舞台から姿を消してしまいます。

ドイツ・オーストリア・オスマントルコは中央同盟国なのでわかりますが、なぜか
連合国側であるロシアまでも体制の崩壊を迎えたのです。

ロシアは、ドイツ・オーストリアには敗戦することが多く、大戦の途中でヨーロッ
パから撤退し、そのしわ寄せを受けた労働者側からの反乱を呼び起こしたのです。

「ソビエト連邦」の誕生です。正式名「ソビエト社会主義連邦共和国」。中心と
なって活躍したのはレーニンですが、連邦誕生(1922年)の2年後、レーニンは死
去。この後権力を握るのが「ヨシフ・スターリン」でした。

「ソビエト連邦」。つまり、戦後東西冷戦構造の一翼を担う国家です。

ソビエトはユダヤ的経済システムを取らず、結果第二次世界大戦の引き金ともなっ
た「世界恐慌」の折も、そのあおりを受けず、経済的発展に成功していたようで
す。

また、日本は第一次世界大戦への貢献からイギリス、アメリカ、フランス、イタリ
アとともに「五大国」の一員に加えられ、この後、アメリカとともに世界的な地位
が大幅に向上することとなります。

で、日露戦争当時もそうなのですが、日本って、「捕虜の扱い」が非常に丁重なん
です。日露戦争当時のロシア人(松山)、第一次世界大戦当時のドイツ人(徳島)
って、両方とも四国だったりするんですが

どちらの地域でも、日本人は捕虜ととっても仲良くなってしまいます。

ということで、次回は「世界恐慌」。

世界が大きく揺らいだ「世界恐慌」の中で、いち早く立ち直り、経済的な回復を見
せた「日本」。一体、そんな日本がどうして第二次世界大戦の渦中へと巻き込まれ
ていったのか。


次回をお楽しみに~。


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