忙しいほうがいい。でも本当は・・・

時間が止まってしまうと、いろんなことを
考えてしまいます。
だから忙しいほうがいい。

でも、本当は・・・

のんきの宗教観~外伝

2010-03-07 09:59:45 | のんきの宗教観~総集編
昨日は、久し振りに高校時代の友人たちと飲み会をしました。

そうねぇ・・・。その中に一人、中学校時代、もっと言えば小学校からずっと交友のある友
人が一人います。

JRオタクだったんですが、それが高じてわざわざ松山から東京にまで行ってJRに就職し
たと言う、つわものです。現在も交友関係のある友人の中では、最も古い友人ということに
なるでしょうか。

考えてみれば、のんきももう云十云歳。長かったような、あっというまだったような…。
のんきの歩んできた歴史でさえ、これほどに厚みのあるものなのに、これを全世界で考えて
みると・・・

ってことで、のんきの宗教観~外伝。「仏教」と「ヒンドゥー教」・・・で書ききれなかったことヾ(;´▽`A``
の続きです。

お約束しましたね、「ガンダーラ」のお話。
いわずと知れた、「西遊記」の目的地(?)です。


こちらは英語版。


歌詞中で、ゴダイゴは、「Thay say it was in india.」と唄っていますね。

「ガンダーラはインドにあるらしいよ」みたいな意味でしょうか。

では、その「ガンダーラ」。一体どこにあるんでしょう。
(Wikiより)
左上の方に、「Gandhara」と書かれていますね。ここが、「ガンダーラ王国」のあった場所
です。

現在のパキスタンとアフガニスタンの国境あたりですね。

当事は、充分「インド」と呼ばれていた場所だったのでしょうが、「インドにあるらしい
よ」というと、ちょっと正確ではありませんよね。

西遊記は、中国の唐代僧侶、三蔵法師がお供に孫悟空、猪八戒、沙悟浄を引き連れて、天竺
までありがたい経典を取りにいくお話。

「あれ~? ガンダーラは?」

 実は、のんきはTVドラマ西遊記って、完全に見たこと、ないんですよね~。
で、この「ガンダーラ」っていう歌の歌詞と、この歌が「西遊記」に使用されていた、と言
うことで、長らく勘違いいたしておりました。

ちなみに、「三蔵法師」っていう言葉も、実は正確じゃないみたいです。「三蔵」って言う
のは、「経蔵・律蔵・論蔵」という、3つの経典のこと。三蔵法師は、この「三蔵」に精通
した僧侶のこと。つまり、西遊記に登場するのは「三蔵法師」ではなく、「玄奘三蔵」。

玄奘たちが目指したのは、天竺の「ナーランダ僧院」という場所で、上記地図では右上(北
東)の端あたりになります。

中国からこのナーランダ僧院へ向かうためには、ガンダーラの地を通過しなければなりませ
んでした。ってことで、ガンダーラとは、天竺(=インド)へ向かうための通り道に存在し
た国の名前です。

ゴダイゴが唄うガンダーラには、「インドにあった理想郷」というような意味合いが持たさ
れているのだそうです。

ガンダーラ王国そのものは、紀元前6世紀ころから存在したらしく、ガンダーラが最も繁栄
するのは、イラン系遊牧民族の「月氏(がちし)」がインドに築いた王朝、「クシャーナ朝」
の時代。「月氏」が漢字表記になっていることからもわかるように、月氏とは、始皇帝の時
代の中国史にも登場する民族です。

2世紀半ばに登場したカニシカ王(カニシカ1世)は仏教に帰依し、仏教を手厚く保護しま
す。ガンダーラが発展したのもこのとき。ガンダーラには、中国からだけでなく、西方、つ
まりヨーロッパからも様々な民族が来訪し、ガンダーラの地にはインドだけでなく、ギリ
シャやイラン=ペルシャの影響を大きく受け、「ガンダーラ美術」というものが誕生しま
す。

世界で一番初めに作られた仏像は、このガンダーラで作られたものです。


カニシカ王の死後、ガンダーラはゾロアスターの王朝であるササン朝ペルシャの支配を受け
ますが、仏教美術はそのまま繁栄を続けます。しかし、450年頃、ヒンドゥー教のイラン系遊
牧民族である、エフタルの侵攻を受け、ここにガンダーラ美術は終焉を迎えることと成るの
です。

エフタルが再び息を盛り返したササン朝に駆逐され(558年)、更にササン朝がイスラム帝国
に滅ぼされ(651年)たころ、再びガンダーラでは仏教が盛んとなりますが、次第にヒンドゥー
の勢いに押され、仏教の寺院が次々と破壊され、イスラムの侵入を受け、やがてガンダーラ
は歴史から姿を消していくこととなります。

玄奘が中国を発つのが629年。ナーランダ寺院で5年間唯識阿頼耶識も参照)を学び、各地の
仏跡を参拝した後、膨大な経典を長安に持ち帰るのが645年。
ガンダーラ美術は衰退し、その勢いが失われていた時期だったということがわかりますね。

孫悟空のモデルとなったと思しきものがハヌマーンというヒンドゥーの神。中国では、密教
は道教に押されて滅亡してしまいますが、孫悟空は道教の神様でもあります。こうしてみる
と、密教は道教に吸収されてしまった、と考えるほうが正しいのかもしれません。

西遊記は、インドの叙事詩である、「ラーマヤーナ」の影響も受けているようです。

ちなみに、孫悟空も、猪八戒も、沙悟浄も、みんな「仙人」なのだそうです。
孫悟空こそ、猿軍団のボスでしかありませんでしたが、猪八戒は摩利支天という、仏教の守
護神の一人である、バラモン教から移殖された神様の一人に使えていた仙人。
沙悟浄は天帝(=毘沙門天)に使えていた仙人。

う~ん。たかが「西遊記」。されど、奥の深い話です。

ってことで。


のんきの宗教観~外伝でした。


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「仏教」と「ヒンドゥー教」・・・で書ききれなかったことヾ(;´▽`A``

2010-03-01 09:00:12 | のんきの宗教観~総集編
うん。ついに2月が終わっちゃいましたね。
気がつけば3月ですよ。昨日は「ん?、よく考えると明日は3月やん」なんて思いました。

昨日は松山のアメブロガーさんたちが企画したイベントがあって、のんきも誘われて顔を出
してました。gooブロガーののんきとしては、とてもうらやましいような思いもありましたね。
まあ、そのお話は別の記事でご紹介するとしましょう。

ってことで、『「仏教」と「ヒンドゥー教」・・・で書ききれなかったことヾ(;´▽`A``』。
「仏教」と「ヒンドゥー教」後編の続きです。

さて。不思議に思いますよね。何でカースト制度なんて不公平な身分制度を持つヒンドゥー
がインドでは大多数となり、平等で多くの人たちを受け入れるスタンスを持つ仏教が隅に追
いやられちゃったのか、と。

これは具体的な情報が出てこないので、幾つかの情報からの推察、と言うことにはなるので
すが、先ずは第一義として、ヒンドゥー教は日本で言う神道と同じような意味合いがあるの
ではないか、ということ。あるのではないか、と言うより、実際そうなんでしょうね。

バラモン教そのものは異民族の宗教ですが、これが土着の宗教をうまく吸収したことによっ
て、市民権を得た、ということでしょうか。日本の神道が仏教を吸収したように。

アショーカ王の死後、インドは「クシャーナ朝」という、イラン系民族と見られる「大月
氏」による統治を受けます。この「クシャーナ朝」の時代、最盛期を迎えるクシャーナ朝支
配下の国に、「ガンダーラ王国」という名前が登場します。

ガンダーラのお話は、次回記事で「外伝」として別にご紹介してみます。

クシャーナ朝で最も隆盛を誇ったカニシカ王は仏教に帰依し、仏教はカニシカ王の下、厚く
保護されます。

うん。矛盾するようですが、考えてみれば、これが仏教が衰退する一因となったんですね。
と言うのも、クシャーナ朝はあくまでイラン系の外来王朝。「支配」されていたわけです。
ですから、クシャーナに続く王朝、グプタ朝はインドの土着王朝で、クシャーナ朝との差を
明確にするため、でしょうか。バラモン教を国教とし、2代目のチャンドラグプタ2世の時
代。『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』という叙事詩が編纂され、バラモン教はヒンドゥー
教として台頭し始めます。同時に仏教はこのころから衰退しはじめます。

しかし、歴史的に見てみると、本来仏教とヒンドゥー教は対立するようなものでもなかった
のではないか、と思うのです。

仏教の聖典である「仏典」は、キリスト教の新約聖書がそうであるように、釈迦の弟子たち
がシャカの言葉を集める作業を行い、後に文字化されたもの。そして、やはりキリスト教が
そうであるように、仏滅の100年ほど後、仏教はその仏典の解釈の差から上座部と大衆部の
二つに分かれます。

また、紀元後、在家者と釈迦の墓の守護者たちの間から、「出家することなく在家のままで
も仏となる教え(大乗仏教)」が興ります。実は日本や中国、韓国に広まったのはこの仏派。
のんきの家系の宗派である浄土真宗の大本がこれになります。

また、ヒンドゥー教の勢いに押されつつあった当事のインドで、ヒンドゥー教の呪術的な要
素を吸収したもの、「密教」が誕生します。当初は呪文を唱えることで、「現世利益」を追
い求めようとした、単純なものであったようですが、衰退しつつあった仏教は、この密教を
体系化することにより、ヒンドゥー教に対抗しようとします。

しかし、仏教の密教化は、修行僧には受けが良かったようですが、大衆に受け入れてもらう
ことができず、却って仏教は衰退することとなるのです。

この、体系化された密教は、空海(弘法大師)らによって、中国から日本にも伝えられ、
(真言集)「阿修羅」「帝釈天」「弥勒菩薩」「大黒天」など、ヒンドゥーの神々が仏教の
世界にも登場するようになります。

しかし、11世紀にいたると、現在のアフガニスタンの辺りに、イラン系の民族がイスラム教
国を打ちたて、北インドへと侵攻して来ます。

北インドでは、13世紀に至るまで、イスラム教国による覇権争いがなされます。
そんな中で密教は、偶像崇拝を嫌うイスラム教国により、また呪術的なものが攻撃され、イ
ンドから密教は滅亡せされられてしまうに至ります。

この後、インドは世界的な騒乱の渦へと巻き込まれていくことになります。南インドのヒン
ドゥー王朝であるヴィジャヤナガル王国の最初の王朝であるサンガマ朝が滅びる頃(1486年)、
キリスト教国であるポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがカリカットへとやってきます。ポル
トガルはインド洋上にポルトガル海上帝国を築き、ここを拠点に東洋との交流を開始しま
す。
日本と初めて接触する時期もこの時期となります。

インドは北からイスラム教、南からキリスト教の脅威にさらされることとなります。
16世紀に入ると、北インドからイスラム勢力が南下し、「ムガール帝国」というインド史上
最大のイスラム教国が築かれます。

一方で16世紀初頭。1600年、インドにはイギリスの貿易会社、「東インド会社」が設立され
ます。東インド会社は税制などをコントロールし始め、徐々に徐々にインドを「植民地」と
して支配し始めます。

インドの地域産業を壊滅させ、インド人を困窮させたあと、1855年、イスラム王朝ムガール
帝国は滅亡。1877年にはイギリス領インド帝国が誕生します。

例えば、日本に来航したマシュー・ペリーも、何もわざわざアメリカからはるばる来航した
わけではなく、この当事拠点としていたインド洋からやってきたのです。

こういったインドの姿…。後に東アジアで繰り広げられた、「ユダヤ的手法」の最も典型的
な姿といえるかも知れません。

事実、中国はユダヤ教ラビ族の末裔であるカール・マルクスの考えた「共産主義」に支配さ
れ、(※ラビ族=ユダヤ教の司祭階級。バラモン教のバラモンのようなもの。参照《レビ=ラビ》
韓国では現在国民の3割がキリスト教を信仰するに至っているわけですから。

ちなみに、空海が中国より持ち帰った「密教」。1週間の記事に「宿曜経」として記していますね。
インド占星術は、日本に伝えられた際、「密教」の一部として紹介されたのだそうです。

ま~ね~。長らくお伝えしてきました「のんきの宗教観総集編」ですが、世界の宗教って、
奥が深いですよね~。

日本に現在伝えられている仏教も、釈迦が考えた仏教とは大きく姿を変えているわけです
し、中国がバビロニアから影響を受けた思想もコンフューズされたようなもの。キリスト教
やユダヤ教からの影響がないかというと、そういうわけでもないと思うのです。

宗教は、どんな事情があれ、結局アニミズム(自然崇拝)が姿を変えたものだと思うので
す。自然を哲学する上で宗教が生まれ、宗教からまた哲学が生まれる。

唯一信教の共通点は、「宗教から生まれた宗教」だということではないでしょうか。
自然環境や社会環境によって、根源は同様であったものが、様々に変化し、姿を変え、やが
て思想と思想が対立する。

だけど思うのです。どのような思想であれ、信仰であれ、「他者に強要しようとした瞬間」
に本質を失ってしまうと思うのです。

信念をもち、救われたいと思うものを救う。これこそが本来宗教のあるべき姿ではないで
しょうか。

以上で、「のんきの宗教観 総集編」はおしまい。次回、「外伝」を少しだけ記して、また
新たなテーマへと移ってみたいと思います。


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「仏教」と「ヒンドゥー教」後編

2010-02-27 09:53:55 | のんきの宗教観~総集編
今日の前説は、こんなネタから。

皆さんは、こんな疑問を持ったことはないでしょうか。

「インドって、何でインドっていうの?」

う~ん。何ででしょう。

ってことで、『「仏教」と「ヒンドゥー教」後編』。「仏教」と「ヒンドゥー教」前編の続きです。
「え~っっっ。放置なん? 放置なん?
あ、ひよこさん。ご心配なさらずに。これからご説明いたします。

仏教やジャイナ教がヴェーダの教義を否定し、バラモン教から分派したのが紀元前5世紀
頃。

そして、紀元前520年頃、インド北西部、つまり現在のパキスタンに相当する地域は西側
からアケメネス朝ペルシア、つまり現在のイラン=イラン・アーリア人の国に支配されてし
まいます。

さらにペルシアは、紀元前331年、古代ギリシャに興った古代マケドニア王国のアレクサン
ダー大王によって滅亡させられ、紀元前326年、インド北西部はアレクサンダー大王による支
配も受けることとなります。

インド北西部、つまりパキスタン地域は、インド・アーリア人がドラヴィタ人を支配すると
き、主にその拠点とした地域。つまりもっともバラモン教の信仰の熱かった地域だといえま
す。

また、その後インドは、マウリヤ朝マガダ国のアショーカ王によって統一されるわけです
が、アショーカ王は、このときに自らの行った行為の凄惨さを悔い、仏教に帰依します。
このことにより、仏教はこの時期、バラモン教をしのぐ勢いで信仰をされるようになったの
です。

バラモン教にとっては大ピンチですね。
元々、異民族であるアーリア人が、ドラヴィタ人を支配するために作られたのがバラモン教。
ですが、バラモン教はその権威を維持するため、「支配者の宗教」でい続けるわけにはいか
なくなりました。

バラモン教に土着(先住民族)の民族宗教や民俗信仰が吸収されるようになったいきさつに
はそんなことがあったんですね。

当事、インダス川は、インドでは「スィンドゥ(sindhu・)」と呼ばれていました。元々、
サンスクリット語で「水」や「大河」を意味する言葉であったようです。

ペルシャでは、このインダス川、「スィンドゥ」が訛って「ヒンドフ」という呼び名で呼ば
れていました。

そして、ペルシャでは、インドの人々のことを、「ヒンドゥー(ヒンドフの向こう側に住む
人々)」と読んでいたのです。

 もうお解りですね。ヒンドゥー教のヒンドゥーとは、インドにこのペルシア語の
「ヒンドゥー」が逆輸入されたもの。バラモン教がその存在を維持するため、必死に土着の
宗教との融和を計り、ペルシア人がそれを総括して呼んだ呼称が「ヒンドゥー教」。恐らく
当事はヒンドゥー教に相当する明確な呼び名すらなかったのではないか、と思われます。

後にインドが植民地時代へと突入した際、イギリスがこのインドの宗教を総括して「ヒン
ドゥー教」と呼称したことから、ヒンドゥー教はヒンドゥー教と呼ばれるようになったよう
です。

一方、更にこの「ヒンドゥー」。更にギリシャへ移ると「インドス」、ローマ語では「イン
ディカ」と呼ばれるようになったのだそうです。つまり、これがインド人の国が「インド」
と呼ばれるようになった理由。

ただし、インドの正式名称はヒンディー語で「भारत」。バーラートと呼びます。

つまり、ヒンドゥー教とは、「インド教」。=「インダス川の向こう側に住む人たちの宗
教」と言う意味なんですね。正式にヒンドゥー教といわれるようになったのが植民地時代、
ということは、それまではヒンドゥー教とバラモン教の明確な区別はなかった、ということ
なのでしょうか。

バラモン教であった時代も含めれば、ものすごく長い歴史を持つ宗教といえるでしょうが、
そう考えるとヒンドゥー教という宗教は、意外に歴史の浅い宗教であったといえるかもしれ
ません。これは意外ですね。ちなみにインドの植民地時代がスタートするのは1877年のこと
になります。

ちなみに、現在のインドで信仰されている宗教はヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒
13.4%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.9%、 仏教徒0.8%、ジャイナ教徒0.4%となります。

意外でしょう? カーストという身分制度がありながら、ヒンドゥー教は広く国民に受け入
れられ、一方で仏教はあるかないかわからないくらいの少数派へと衰退してしまっているん
です。

ちなみに、現在の仏教徒の数は、

中国 - 1億人
日本 - 9千万人
タイ - 6千万人
ベトナム - 4千万人
ミャンマー - 3800万人
スリランカ - 1400万人
カンボジア - 1200万人
韓国 - 1100万人

となっています。しかし、中国は共産国として、特にチベット仏教がえげつない弾圧を受け
ている様子は我々日本人の脳裏にも新しいところ。文化大革命の折は仏教のみならず、キリ
スト教やその他ありとあらゆる宗教的なものが大弾圧を受けていました。

ミャンマーもやはり軍事政権が幅を利かせていて、仏教V.S.軍事政権の構図はよくTV
でも見かけますよね。

これは意外に思われるかもしれませんが、韓国でも仏教は李氏朝鮮のときに大弾圧を受けた
時期があり、現在では住民の約2割程度にとどまっています。実は、韓国で信仰されている
宗教は、仏教よりもキリスト教信者の方が多く、韓国では全体の約3割がキリスト教徒なの
です。

こうやって見ると、意外と仏教って、マイノリティなんですね。


それでは、次回は「仏教」と「ヒンドゥー教」の関係について、前編と後編では書ききれな
かった部分をもう少し、書き表してみたいと思います。


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「仏教」と「ヒンドゥー教」前編

2010-02-24 10:27:48 | のんきの宗教観~総集編
のんきのブログでは、時折、とくにこころの問題等を表現する際、仏教的な表現を拝借する
ことがよくあります。また、時にタイトル名として採り上げ、その考え方そのものを記事と
することもあります。

もちろんのんきの家庭は仏教の宗派(浄土真宗)で、仏教を信仰している、と言えなくもな
いかもしれません。ですが、うちには神棚もありますし、正月には神社めぐりをします。

一年で考えれば、お寺に赴く回数より、神社に赴く回数の方が多いでしょう。何も熱烈な仏
教の信者だとか、そういうわけでもないのです。

「バビロニア」と「中国」~その意外な関係性とは・・・でもお伝えしたように、のんきもまた、
仏教と神道の双方を信仰する数多くいる日本の国民の中の一人なのです。精神的な信仰から
言えば、「無信教」。どの信仰にも帰依しない人間です。

故に、仏教的な表現をよく拝借することは、のんきの信仰とはほぼ無関係と言ってよいで
しょう。まあ、のんきが受けてきた道徳教育そのものが仏教的な思想も含まれていますか
ら、厳密に言えば影響を受けていないわけではないでしょうが。

なのになぜ、のんきのブログでは仏教的な表現をよく拝借するのか。これは、仏教の考え方
には、納得できるものが多いからだ、とも言えると思います。

もともと、仏教には他の宗教とは明らかに異なる特徴があります。それは、アブラハムの宗
教がそうであるように、例えば絶対的な信仰の対象と成るものを有していなかったり、例え
ば日本の神道がそうであるように、アミニズム=自然崇拝をそのルーツに持っていなかった
り・・・。

仏教とは、元々、厳密に言うと宗教ではなく、「哲学」や「思想」に相当するものであるよ
うです。

ってことで、「仏教」。宗教から見る「インド」の続きです。

元々アーリア人がドラヴィタ人を支配するために作ったバラモン教ですが、混血がすすみ、
両者を明確に分ける区別が曖昧になってきたことは記事中でお伝えしたとおり。

仏教の開祖であるガウタマ・シッダールタが生存した当事、ちょうどヴェーダの編纂が完了
した時期で、バラモンという階級に反発する思想家たちが王族の階級である「クシャトリ
ア」に多く生まれました。

当事のインドで広く信仰されていたのが、「ウパニシャッド哲学」。
「輪廻転生」、つまり人は永遠に生まれ変わり続ける、という考え方。カーストと言う制度
は、そういう考え方の基に成り立っています。現在のカースト(ヴァルナ)は前世に行った
行為の結果だ、と。来世で良いカーストに生まれ変われるよう、現世で努力しなさい、って
いう考え方です。

もちろんそれだけではないのですが(宇宙の根源であるブラフマンと自分(ヒト)自身の
根源であるアートマンが実は同じものである、っていう考え方とか)、「なぜ仏教は生まれ
たのか」という視点で見たときに、この輪廻転生の考え方はとても重要であるようです。

当事のインドは、16の大国や多くの小国がたくさん存在し、とても混乱していた時代なの
だそうです。そんな中、「六師外道(外道=仏教以外の宗派)」を初め、バラモンという
ヴァルナ(階級)を否定する多くの思想家たちが自由な思想を展開する時代・・・。ガウタ
マ・シッダールタが生まれたのは、そんな時代でした。

思想家たちは、ヴェーダ(バラモンの聖典)を否定しながらも、講義でのヴェーダのでもあ
るウパニシャッドをその考え方の基盤としていました。

当事のインドは戦禍の耐えない混乱の中にあったわけですから、「生きる」ということは、
同時に飢饉、疫病、戦乱、天災など、様々な苦しみを背負っていくということ。「輪廻転
生」とは、生まれ変わることによってまた同じ苦しみを背負い続けると言うこと。

日本の「無常観」ともよく似ていますね。
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消
え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(from方丈記)

現代語訳はがんばって調べてね~

ガウタマ・シッダールタは、紀元前五世紀ころ、「シャーキャ族王・浄飯王(じょうぼんお
う)の男子として現在のネパールのルンビニで誕生」したのだそうです。王様の息子だった
んですね。

シャーキャ族は、農耕民族だったらしく、シッダールタはその「無常」を感じていました。

ここからはWikiをそのまま引用します。
ある時、釈迦がカピラヴァスツ城の東門から出る時老人
に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、生ある故に老も病も死もあ
る(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の
苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった
のだそ
うです。

ちなみに、「生老病死」の四つの苦しみに、

愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離する苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - あらゆる精神的な苦しみ

の四つの苦しみをあわせて「八苦」。これが「四苦八苦(しくはっく)」の語源であるよう
です。

ちなみに、「シャーキャ族」。これを漢字で書くと…。「釈迦族」 。
釈迦とは、釈迦牟尼(しゃかむに)=釈迦族の聖者の略称なのだそうです。

仏陀とは「悟りを開いた人」と言う意味で、仏教では基本的に釈迦のみをさす言葉、なのだ
そうな。

仏教は、バラモンの特殊性を否定しており、このことがバラモンの階級を快く思っていない
クシャトリアたちに広く受け入れられたのが仏教が得た民意の実情です。

バラモン教は時代が進むにつれ、地域の民族宗教・民間信仰が徐々に徐々に取り込まれてゆ
き、当初その信仰の中心であったインドラ・ヴァルナ・アグニがなりを潜め、やがて土着の
神であるヴィシュヌやシヴァがその地位を向上させていきます。

紀元後1世紀ころになると、バラモン教は当初の勢いを完全に失われてしまいました。

ですが、4世紀ころ、当事の新しい王の支持を受けて、バラモン教はヒンドゥー教として
生まれ変わるのです。


長くなりましたね。では、次回は「仏教とヒンドゥー教」後編。話題の中心をヒンドゥー教
へとスライドさせて、記事を記してみたいと思います。


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宗教から見る「インド」

2010-02-22 23:10:28 | のんきの宗教観~総集編
このところ、のんきのブログには、以前には見られなかったような傾向が見られるようにな
りました。

1つ目は、のんきのブログの「閲覧者」の数が、「訪問者」の約三倍弱、と言う状態が維持
されるようになってきた、ということ。これは、つまり一人の訪問者の方が、平均して約3
つののんきの記事を読んでくれている、ということ。

当然、のんきのブログで閲覧者の多い記事は、「トップページ」ということになるのです
が、のんきもやはり他の方のブログを訪問する際、特に忙しいときなど、斜め読みしてしま
い、ついつい「読んだつもり」になっていることもよくあります。ごめんちゃい。

ですが、平均して3つの記事が読まれている、ということは、それだけ関心を持って記事を
見てくださっている方がいる、ということですから。 めちゃくちゃ嬉しいんです。

もう1つは、最近ブログの更新が以前に比べるとスローペースになっていますし、あしあと
返しも頻度が大体週1回~2回程度しかできなくなっているんですが、にもかかわらず、訪
問者の数がある一定以上の数を維持し続けている、ということ。

これは嬉しいですね。本当に励みになります。

っていうことで、今日のタイトルは『宗教から見る「インド」』。「太陽暦」と「太陰暦」の続きです。

インドで信仰された考え方のうち、最も古い時代のものと思えるものがヴァーストゥ・シャ
ーストラ。このことは、何度か記事にもしましたね。 時代はインダス文明の時代。
まだアーリア人の侵攻を受ける以前の時代の話です。

この当事、遺跡として発見された多くの都市では、「インダス式印章」という2枚が対に
なった印象が発見されています。

これは、主に商取引に利用されていたらしく(通貨手形のようなもの)、興味深いのは、こ
の印章と同じものが、メソポタミアの遺跡からも発見されている、と言うこと。

つまり、アーリア人が侵攻してくる以前の時代から、インドは中東の地域との交流があった
のだ、ということを意味しています。

この印章の中に、後のヒンドゥー教でブラフマー、ヴィシュヌと並んで最高神としての地位
を手に入れる、「シヴァ神」の原型を表したもの、と考えられる印章が含まれています。

バラモン教がアーリア人がドラヴィタ人を支配するために作られた宗教であることは、「ヴェ
ーダ」と「アヴェスター」
の中でも記したとおりですが、この「バラモン教」。その聖
典である「ヴェーダ」は、地元民たちを支配するため、アーリア人たちが口承してきた神話
の中に、インド土着の神々も取り入れてゆきました。

その中の一人が「シヴァ神」。これは、元々ヴェーダにおけるインド神話がしるされた部分、
「リグ・ヴェーダ」の中では、暴風雨神「ルドラ」の別名として描かれています。ルドラと
は、インドや東南アジアにおける季節風、「モンスーン」を神格したもの、なのだそうで
す。時に嵐をもたらしますが、同時に雨による恵みももたらす、「破壊」と「治癒」の二面
性をもった神、であったそうです。

やがてヒンドゥー教においては完全に同一化され、リグ・ヴェーダの時代は脇役に過ぎな
かったシヴァ神は、最高神としての地位を手にしてゆくこととなるのです。

ちなみに、「シヴァ神」には民俗の信仰によって、いくつもの別名があります。その中のひ
とつがマハーカーラ。「大いなる暗黒」という意味なのだそうです。

ちなみに、これが中国で漢訳された際、どのように約されたかというと…。













「大黒天」。 そう。日本においては福をもたらす七福神の一人とされる、あの大
黒様です。


Wikiによれば、「大黒」の音読みと「大国主命」の「大国」の音読みとが同一であるため、
習合(さまざまな宗教の神々や教義などの一部が混同ないしは同一視される現象のこと)さ
れ、あのような柔和で優しいイメージを持っているのだとか。

意外です。

話を元に戻します。バラモン教が生まれたのは紀元前13世紀頃。元々はドラヴィタ人を支配
するために作られたこの宗教ですが、やがて時代が進むにつれ、アーリア人はドラヴィタ人
との混血が進み、血統的にはアーリア人そのものはドラヴィタ人へ吸収されてしまい、唯一
言葉や宗教のみでその種族分けがなされるようになります。

紀元前10世紀頃から編纂の始まった「ヴェーダ」は、やがて紀元前5世紀、その完成を見る
こととなり、バラモン教は初めて宗教としての体裁を整えることとなりました。

しかし、ここに明示された「ヴァルナ(カースト制度)」。ご記憶ですね。元々はドラヴィ
タ人を支配するために作られた身分制度です。しかし、時代が進むにつれ、混血が進み、ド
ラヴィタ人とアーリア人との差は明確ではなくなってしましました。

頂点に立つバラモン(=ブラフミン)とは、アーリア人という、その血統の特殊性は否定さ
れ、ゆえにこれに反発する多くの宗教もここに誕生を見ることとなります。

「仏教」や「ジャイナ教」といった、バラモン階級の特殊性を否定する宗教が生まれたので
す。

また、これらの宗教は、バラモンの存在を快く思っていなかったうえから2番目の階級、つ
まりクシャトリア(王族)の階級に広く支持されました。

一方でバラモン教は、更に民族宗教・民間信仰を取り入れて変化し、それまで「インドラ」
や「ヴァルナ」、「アグニ」、といった神々が中心でしたが、やがて土着の信仰の影響を強
く受けていた「シヴァ神」や「ヴィシュヌ神」がその地位を高めてゆくこととなるのです。

さて。漸く「仏教」が登場しましたね。それでは、次回記事は、「仏教」と「ヒンドゥー
教」の側面から、インドやその周辺の国々を見てゆきたいと思います。


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「太陽暦」と「太陰暦」

2010-02-20 22:41:29 | のんきの宗教観~総集編
太陽暦のさきがけが「シリウス暦」で古代エジプトより始まったことは暦(こよみ)でお伝え
したとおりなのですが、では、この「太陽暦」の対極ともいえる「太陰暦」はいったいどこ
で考案された暦法なのでしょう。

これは、実は紀元前2千年頃のバビロニア。「バビロニア暦」と呼ばれるものです。
月の満ち欠けを利用して一月をカウントしていくのですが、月の月齢は約29.3日。これを一
月としていると、1年間で実際の季節の変化とは約11日ほどの誤差が生じます。

3年で約1ヶ月のずれとなるため、多くの太陰暦を利用している地域では、3年に一度、「閏月
(うるうづき)」という月を付け加えていました。

これでほぼ太陽暦と似通った暦法となるので、これを「太陰太陽暦(または太陽太陰暦)」
と呼びます。

古代中国でも、このバビロニア暦と同じ、太陰太陽暦が用いられていました。

多分。中国独自の暦法です。だけど…。ひょっとすると、ねぇ。

まあ、多くは語りますまい。
暦とヨーロッパにも書いてありますように、ヨーロッパでは、カエサルのエジプト上陸以降、
彼が持ち帰った太陽暦(カエサル暦)の方が太陰暦よりも市民権を得ることとなります。

記事中には記しませんでしたが、実は太陽暦が太陰暦を抑えて支持されるようになったのに
は、それなりに理由があります。

これは、エジプト暦がなぜ生まれたのか、と言うことを考えてみるとよく分かります。
エジプト暦は、ナイルの氾濫が決まった時期に起こること、これを恒星シリウスの動きを
使ってこの時期を特定しました。

ナイルの氾濫の後に残った肥沃な土地を利用して畑作農耕を行っていたわけですが、太陽暦
はきれいに季節の変化を捉えるため、氾濫の時期だけでなく、駆りいれの時期までも推測す
ることができ、農耕を行ううえで、非常に有効でした。

裏を返せば、太陰暦は農耕を行ううえではとても不便。ギリシャの人たちはとても苦労して
いたと思うのです。

これは、実は中国も同じ。中国では、ある方法を使って、この季節を特定する手段としてい
ました。

ということで、「バビロニア」と「中国」~その意外な関係性とはの続きです。

十二次の導入以降、中国では、太陽が十二次(もしくは十二辰)のどのエリアに位置するの
かによって、季節を特定する、「二十四節気」という手法が用いられるようになりました。

これは、十二次のエリアの両端を「節気」とし、その節気と節気の中間を、「中気」とし、
2等分したもの。十二の節気と十二の中気によって構成されています。

この二十四節気の導入以降、中国は年は太陰暦で計り、季節は二十四節気=太陽暦を用いて
測定する、という手法を用いるようになりました。

ちなみに、二十四節気というとあまり耳なじみがないかもしれませんが、そもそも、節気と


立春(2月4日)、啓蟄(3月6日)、清明(4月5日)、立夏(5月6日)、芒種(6月6日)、小
暑(7月7日)、立秋(8月7日)、白露(9月8日)、寒露(10月8日)、立冬(11月7日)、大
雪(12月7日)小寒(1月5日)

のことをさします。中に耳慣れた言葉もあるでしょう? 立春・立夏・立秋・立冬とか、啓
蟄とか…。

ちなみに中気とは、

雨水(2月19日)、春分(3月21日)、穀雨(4月20日)、小満(5月21日)、夏至(6月21日)
大暑(7月23日)、処暑(8月23日)、秋分(9月23日)、霜降(10月23日)、小雪(11月22
日)、冬至(12月22日)、大寒(1月20日)

のこと。春分・秋分や冬至・夏至とか、大暑とか大寒とか。耳慣れた言葉ですよね。

多くの日本人は、これらの節気や中気が「旧暦の行事だ」と考えている(のんきもそう考え
ていました)でしょうが、それは誤りだ、ということですね。

しかもこの習慣が生まれる大本となった発想が「西洋」の文化の大本となるバビロニア文明
にあったのかもしれない、と考えると。。。 夢が広がります。

話が横道にそれましたね。 では、いよいよ次回は再びインドのお話へと戻してみます。

次回「仏教」と「ヒンドゥー教」のお話。・・・になると思うんです、多分。
どうぞお楽しみに。


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「バビロニア」と「中国」~その意外な関係性とは・・・

2010-02-19 10:55:22 | のんきの宗教観~総集編
考えてみれば、このシリーズ、元々日本に生まれながらにして牧師の息子という十字架を背
負わされたのんきの知人の苦悩を思って書き始めたんですよね…。

日本で信仰されている宗教の割合はというと、神道が約1億700万人でダントツのトップ。
続いて仏教が約8,900万人です。キリスト教はというと、約300万人で、数字だけ見ると多い
ようにも見えますが、全体の割合で考えると、やはりマイノリティとしての立場を否めない
わけです。(その他が約1000万人)

しかし合計してみると、実に2億9000万人。日本の人口を大きく上回る数字と成ってし
まいます。

とはいえ、神道と仏教の間には、日本人にとって、仏教伝来時から大きな想念の差はなく、
同一のもの、として捉えられていた傾向があります。「神仏習合」と言われ、実に明治時代
を迎えるまでその捉えられ方は続いていました。

ですから、日本人の中には、仏教と神道を同時に信仰している人もたくさん存在します。

キリスト教に関しても、有名な話で、キリスト教は信仰していないといいながらクリスマス
を祝ったり、バレンタインの風習を大切にしたりしていますね。

だけど、そんな日本の姿って、実は世界の縮図的な世界観なのではないか、っていうのが今
回のシリーズのテーマ。

のんきの宗教観~総集編から続くシリーズです。
三大宗教であるキリスト教、イスラム教、仏教。だけど仏教を信仰している人って意外と少
なくて、ヒンドゥー教の信者の数の方が仏教徒より多かったりします。

ちなみにキリスト教徒が20億人(33%)、イスラム教徒(ムスリム)が13億人(22%)、ヒンドゥー
教徒が9億人(15%)。これに続くのが仏教で3億6000万人(6%)となっています。ちなみにこ
れに続くのが儒教・道教で2億3000万人(4%)なのだそうです。

三大宗教というのは、どれだけ多くの人が信仰しているのか、と言うことではなく、どれだ
け多くの地域で信仰されているのか、という意味合いであるようです。

だけど、これらの宗教の間に、そもそもどれほどの違いがあるの?ってこと。住んでいる地
域や気候、環境によって、それぞれの地域に合わせた変化を遂げただけなのでは?と。

改めて、そんな視点で見てみてね。

ってことで、前置きは長くなりましたが、占星術から見る宗教の続きです。

古代中国における天文学的な手法として、「十二次(じゅうにじ)」という考え方がありま
す。月の通り道を27分割して利用する「二十七宿(ナクシャトラ)」によく似た手法が用い
られる、「二十八宿」のことはご紹介したことがあると思うのですが、この「十二次」。

登場するのは中国の戦国時代。始皇帝によって中国が始めて統一される以前の中国。この頃
から用いられるようになります。時期にして紀元前3世紀前後。

太陽の通り道を12等分して、それぞれに「星紀(せいき)」・「玄枵(げんきょう)」・
「娵訾(しゅし)」・「降婁(こうろう)」・「大梁(たいりょう)」・「実沈(じっち
ん)」・「鶉首(じゅんしゅ)」・「鶉火(じゅんか)」・「鶉尾(じゅんび)」・「寿
星」(じゅせい)・「大火(たいか)」・「析木(せきぼく)」という名前が与えられてい
ます。

このやり方…。どこかで見たことがありますね。 そうです。古代バビロニアの天
文学の起源ともなった、「黄道十二宮」。この手法とそっくりなのです。このことから、十
二次とは、バビロニアから中国に何らかの過程を経て伝えられたものではないか、というこ
とが否定できないらしいんです。

もちろん、肯定するだけの充分な資料もまだないわけですが、だとすると、中国の天文学や
占術は、インドより影響を受ける前に、既にバビロニアから何らかの影響を受けていたと言
うこと。そう考えると、とても面白いですよね。

ちなみにこれらの十二次のエリアには、後に別の名称が与えられます。「子・丑・寅・卯・
辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」。あ、勘違いしちゃいけませんよ。これら十二支の名称
は、十二次以前から存在していたんです。ちょうど数が一緒だったんで、順序こそ逆になり
ましたが、これらの動物の名称が与えられたんです。これを、「十二辰(じゅうにしん)」
と呼びます。

ですが、このことはもう1つ、のんきたち日本人にとって、切っても切り離せない存在の登
場を暗示しています。

それは、十二次を用いて行われていた中国独自の習慣と関係があります。

中国では、十二次を木星の動きと併用して用いていました。木星は、約12年に一度、天球
を1周します。1周するんです。

中国にはその年の名称を、木星が位置する十二次のエリア名で言い表していました。

どういうことか解るでしょうか。例えば、今年、木星はどの位置にあるのでしょう。

のんきの手元にそんな資料はありませんが、のんきには想像することができます。

皆さんにはわかるでしょうか。


























想像できましたか? 多分「寅」の位置にあると思います。なぜでしょう。










それは、今年が寅年だから。 なぜ生まれ年に十二支が用いられるようになったの
か。そもそも、なぜ12年に一度、生まれ年が変化する設定になったのか。そんなルーツの
1つにバビロニアの天文学が関与していた可能性があるとは。

そうだったらとっても面白いです。面白いでしょう?

もう1つ。この十二次の考え方は、中国にまた別の風習をもたらしました。

それは、「二十四節気」。いや~、どんどん話がインドから外れていく~

ってことで、次回は十二次の考え方が中国にもたらした、もう1つの変化。「二十四節気」
のことを記事にしてみたいと思います。

・・・必ずインドに戻ってきますから。


どうして 宇宙は 時間も、星も、月も全て12で回りつづける?

星が話す 

振り返る「時」と 新たなスタートを迎えるための「時」と・・・

                   DEEN~Twelve



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占星術から見る宗教

2010-02-18 12:19:50 | のんきの宗教観~総集編
宗教的なものが目立たず、西洋では哲学的なものを「宗教」として受け止めているのに対し
て、、中国ではこれを「学問」として受け止められています。

「儒教」「道教」などがその代表ですね。

そんな中国の中で、唯一宗教的な性格を持っているのが、「陰陽五行説」。
しかし、その陰陽五行説ですら、「インド」の影響を受けているのではないか、というのは
のんきの宗教観~総集編Vol.3でお伝えしたとおり。

その元と成ったインドの思想が、「ヴァーストゥ・シャーストラ」。
この「ヴァーストゥ・シャーストラ」こそ、アーリア人が侵入する前。ドラヴィタ人の間で
信仰されていたのではないか、と思われる、「土着の宗教」だと思うのです。

例えば、このヴァーストゥ・シャーストラの中で五大元素とされている「地・火・空・水・
風」のうち、「火」を表す「アグニ」。この名前は雷神インドラに次いで、火神として重要
な位置に据えられています。
また、「風」を表す「ヴァーユ」は、風神ヴァーユとして、インドラと共に空界を占める存
在として位置づけられています。

また、ヴァーストゥ・シャーストラと共に、インド土着の概念として登場するのが「ナク
シャトラ」。月の通り道のことです。この名前はリグ・ヴェーダ(インド神話)の中に、ブ
ラフマンを擬人化したものである「ブラフマー」の息子、「ダクシャ」の娘として登場しま
す。

元々このナクシャトラという概念を用いて行われていたのが「インド占星術」。

ってことで、「占星術から見る宗教」。「ヴェーダ」と「アヴェスター」の続きです。

インド占星術がギリシャ占星術の影響を受けているのは1週間でお伝えした通り。

メソポタミア時代の大国、古代バビロニアでは、大規模な天体観測が行われ、この時代に、
天の星々を神々と結びつけることが行われ、同時に黄道(太陽の通り道)を12分割し、そ
れぞれの位置に属する12の星座の名を取って、「黄道十二宮」が設定されました(順序や
名前は現在のものとは若干異なるようです)。

こういったバビロニアの考え方を組み入れて、紀元前1500年頃のギリシャで、「ギリシャ神
話」が誕生します。口承されてきたギリシャ神話は文字化され、紀元前8世紀頃、詩人ヘシ
オドスらによって、初めてギリシャ神話は体系的にまとめられることとなります。

1千年紀中ごろにに黄道十二宮は占星術と結び付けられ、「バビロニア占星術」が誕生します。

この「バビロニア占星術」は紀元前三世紀頃ギリシャに伝わります。ギリシャに伝えられた
バビロニア占星術は、アレクサンダー大王の占領か、「ヘレニズム時代」を迎え、初めてホ
ロスコープを用いた手法が登場します。

このギリシャで生まれた「ホロスコープ占星術」は紀元後2世紀頃までにインドにも伝えら
れ、インド土着の占星術と融合され、独自の発展を遂げたのが現在の「インド占星術」です。

同じ頃、中国でも「六壬神課(りくじんしんか)」と呼ばれる占術が登場します。
元々、中国にも「天文」と呼ばれる占星術のようなものが存在したのですが(三国志や
項羽と劉邦の話などで天体の事象から戦況を占ったりする逸話を見たことがあると思いま
す)、本来星の配置よりも天体の現象(流星とか、月食とか、日食とか、彗星とか)を重要
視していましたから、いわゆる西洋の天文学とは異質なものです。

ですが、この「六壬神課(りくじんしんか)」。明らかにホロスコープ占星術の影響が見ら
れるのです。成立したのは今からちょうど2千年前ころ。インドにホロスコープ占星術が伝
わったのと同じ時期です。

六壬神課で興味深いのは、中国のそれよりも、これが日本に伝えられた後の話。

有名な「奇門遁甲」。そして「太乙神数」という術法とともに日本へ伝えられ、日本の「陰
陽道」が生まれたのです。六壬神課は陰陽師必須の占術とされ、有名な陰陽師、「安倍晴
明」は子孫のため、その術法を書物にて書き残しています。


こちらは安倍晴明によって封じられた鬼が晴明の子孫たちと共に戦うお話です。
作品的には、のんきの中ではB級なので、お勧め度は低いですが…

しかし、このバビロニアと中国の関わり。 実は、もう少し興味深い話があるの
です。


ちょっとインドのお話が飛んじゃってますが、次回はそんな「バビロニアと中国」のお話。

お楽しみに~。


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「ヴェーダ」と「アヴェスター」

2010-02-15 09:07:06 | のんきの宗教観~総集編
ってことで、「インド」と「イラン」の続きです。

バラモン教は、元々アフガニスタンの地域に居住していたアーリア人がインドに元々居住し
ていたドラヴィタ人を支配するために作った宗教であることは前回お伝えしたとおりです。

ですが、支配するために作られた、とはいえ、そんなパッと出の、重みも深みもないような
ものが、現代に至るまでインドそのものの社会構造に影響を残すようなものとなれたのか、
というと、そんなことはありません。

この、バラモン教の教えには、それなりの「重み」や「深み」に相当するものが既に存在し
ていた、ということです。

バラモン教の聖典である「ヴェーダ」は、どのようにして出来上がったのかと言うと、元々
「リシ」と呼ばれる「聖者・聖仙」たちが口承してきたものが、紀元前1000~500年頃に文
字化され、編纂されてできがったもの、なのだそうです。
ちなみにリシたちは、中国では「仙人」と呼ばれるようになります。

リシとは、本来ヴェーダを全て身につけた伝説上の賢者、なのだとか。そしてカーストの司
祭階級であるバラモンは、このリシの末裔という位置づけになるそうです。

ただし、リシの伝承というものは、本来バラモン教における身分、格付けなどを定めるもの
ではなく、イラン・アーリア人と別れる前の時代から、アーリア人に共通して受け継がれて
いたもの、という性格であるようです。

インドに移住したアーリア人たちが作った宗教は「バラモン教」ですが、イランに移住した
アーリア人たちは、「ゾロアスター教」という宗教を成立させます。

このゾロアスター教の聖典の名が「アヴェスター」。アヴェスターもまた、ヴェーダと同じ
ようにアーリア人たちの間で長らく口承されてきたものをゾロアスターの開祖であるザラス
シュトラらが編纂したものです。

ちなみにこのゾロアスターとは開祖であるザラスシュトラの英語読みで、ギリシャ語読みが
変化したもの、なのだそうです。

つまりはバラモン教もゾロアスター教も、大本は同一。これがインドとイランに分かれて、
それぞれ別々の変化を遂げた、ということですね。

たどってみると、バラモン教にも、ゾロアスター教にも登場するものとして、「アスラ族」
と「デーヴァ(於バラモン。ゾロアスターではダエーワ)族」という神の一族があります。

アスラ族の代表の神様が「ヴァルナ神」と「ミトラ神」。デーヴァ族の代表が「インドラ
神」。

ちなみに、デーヴァ族の「デーヴァ」は、ギリシャでは「ゼウス」と呼ばれています。
語源のルーツが一緒なんですね。

また、デーヴァ族の「インドラ神」のお話は、インドやイランだけではなく、メソポタミア文明
の一角をなした紀元前14世紀頃の「ヒッタイト」という国の神話にも登場します。
アーリア人たちの信仰の起源となったものは、遠く離れたメソポタミア地域でも広まってい
たと言うことですね。

ゾロアスター教に至ると、「アスラ族」は一族という性格を失い、アスラ族の主神「ヴァル
ナ神」が「アフラ・マズダー」と名を変え、ゾロアスター教の創造神として、その地位を手
にします。一方でアスラ族に敵対する「デーヴァ族」は、やはりその一族としての性格を失
い、「悪神ダエーワ(絶対悪の象徴である、もう一人の創造神アンラ・マンユに使える神の
総称)」としての、悪魔的な性格を手にします。

アンラ・マンユの逸話は、キリスト教の聖書にも影響を与えています。キリスト教で登場す
る「サタン」とは、すなわちこのアンラ・マンユに相当するもの(影響を受けた、と言う
だけで、それそのものである、ということではないようですが)です。

ところが、同じ存在が、ヴェーダの世界では、全く逆の性格を手にします。

ただし、元々ヴェーダのうち、神話が記された部分、「リグ・ヴェーダ」の中では、「アス
ラ族」に対して、悪役的なイメージはなかったのだそうです。ただ、インドラV.S.ヴァ
ルナという神々同士の争いの中で、アスラ族の呪術的なイメージがクローズアップされ、後
のインドでは、「アスラ=悪役」としてのイメージが定着していったようです。

ちなみにインドラは、中国では「帝釈天(たいしゃくてん)」と呼ばれます。仏教の中では
釈迦の側近として活躍し、後のヒンドゥー教で創造神としての地位を手に入れるブラフマー
と共に、仏教の世界では「二大護法善神」と呼ばれるのだそうな。

んでちなみに、アスラは中国に至ると「阿修羅(あしゅら)」と書き表されます。

阿修羅には怒りの神としての印象が強いですよね。これには逸話がありまして。

元々、阿修羅とは「善神」。なのにどうして鬼神のようなイメージがあるのか。

仏法の逸話だと思うのですが、阿修羅には一人の美しい娘がいます。しかし、この娘さん。
・・・阿修羅に強姦されてしまいます。阿修羅が帝釈天に対して起こした戦争は、娘をおか
された阿修羅が、怒り狂って起こした戦争なのです。

結果、阿修羅は帝釈天に敗れ、天界を追放され、修羅界へと落とされてしまいます。

阿修羅の「阿」とは、中国では「~ちゃん」というような意味合いもあるらしく、阿修羅の
ことを「阿」を省いて「修羅」と呼称することもあるようです。

ちなみに↓このお話にはそんな阿修羅と帝釈天の戦いの逸話が登場します。


ちなみにアスラ族のもう一人の神、「ミトラ」もまた、仏教の世界では「弥勒菩薩」として
名を変えて呼ばれるようになっていたりします。

ねぇ。こうやって見ると、全く別物であるはずの宗教が、なんだか別物に見えなくなってく
るでしょう?

バラモン教はなぜその姿を消し、「ヒンドゥー教」と呼ばれるようになったのか。

そして、肝心の「仏教」の誕生とは。

次回記事は、そんな視点から「宗教」を見つめてみたいと思います。


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「インド」と「イラン」

2010-02-14 10:28:03 | のんきの宗教観~総集編
インダス文明って、紀元前1800年頃に滅亡しています。ですが、「なぜ滅亡したのか」と言
うことについては、実はよく分かっていないそうです。

有力な説として、現在唱えられているのが「環境の激変による都市機能の荒廃」なのだそう
です。

まあ、要は大地震が起こったことによって川の流れに大きな変化が起きて、民族間の行き来
に深刻な影響を与えたことが原因である、と。

ただ、このときインダス文明を形成していたドラヴィタ人までが滅んだ、というわけではな
いようです。

紀元前1300年頃、ドラヴィタ人たちは、西方より、「アーリア人」たちの侵攻を受け、「被
支配民族」となります。

ドラヴィタ人たちの一部は、南インドに移住し、現在も彼らは主にこの南インドに居住して
います。

ってことで、インダス文明の続きです。
タイトル名が「インド人」と、なぜ「イラン人」なのか。

これには、前記した「アーリア人」の存在が関係しています。

アーリア人、って、もともと「中央アジア(ロシアの南、中国の西側、中東地域の北側))」
に居住していた民族で、紀元前2000年頃~1500年頃にアフガニスタン辺りに移住します。

アフガニスタン。イランとパキスタンの間の地域です。

ここからアーリア人は二手に分かれ、それぞれ西と東に移住します。

西に移住した民族が「イラン人」東に移住した民族が「インド・アーリア人」となります。
アーリアとは、「サンスクリット語(=インド・イラン語)」を起源としていて、意味は
「高貴な」。アーリア人たちの「自称」で、どれだけ上から目線なんって感じです。

古代ギリシャの人たちは、西側へ移住したアーリア人たちが住む土地を、「アリアナ」と呼
びました。この、「アリアナ」が変化して後に「イラン」と呼ばれるようになります。
イランの地域は、一時期、「ペルシャ」などとも呼ばれていましたね。

ちなみにパキスタンは、インドがイギリスから独立するときに分裂するまでインドの一部で
した。

「でさ~あ、確かバラモン教のお話じゃなかったっけ
 そうでしたね。

では、バラモン教のお話。バラモンは、正しくは「ブラーフマナ(ブラフミン)」。「ブラ
フマン(宇宙の根本の原理から派生した意味で、物質世界を変える儀式や犠牲(生贄)の力)
を持っている人」=司祭のことを意味します。

バラモンとは、すなわちバラモン教やヒンドゥー教における身分制度、「カースト制度」の
一番上の位の階級ですよね。

日本の士農工商とよく似ています。カースト制度にはその他、カーストの最下級身分である
「シュードラ」よりも低い身分として、これらのカーストに収まらない人々のことを、パン
チャマ(不可触)としています。士農工商の下に設置された、「えた・」とよく似
ていますね。

日本の士農工商は、武士が農民を支配するために作った身分制度でしたね。
では、カースト制度はどうでしょう。やはり、カースト制度も、あるカテゴリーの人々が、
あるカテゴリーの人々を支配するためにできた身分制度でした。

では、誰が、誰を支配するために・・・?

ヒントは文中で幾つか登場していますね。
「紀元前1300年頃、ドラヴィタ人は、アーリア人の侵攻を受け、被支配民族となりました」

つまり、アーリア人がドラヴィタ人を支配するために作られた制度こそ、この「カースト制
度」であったわけです。

イランでは、アーリア人たちは地元民族たちとの混血が進み、やがて地元民族はアーリア人
に吸収される形でその姿を消してゆきました。

ですが、インドでは身分制度が設けられ、きっちりと「インド・アーリア人」と「ドラヴィ
タ人」と言う形で、それぞれの血が残ったと言うことなのです。もっとも、厳密には歴史が
進む過程で双方の混血が進み、現存の民族が、凡そ純血であるとはとてもいえない状態にっ
はなっているようですが。

インドの宗教を「インド」と言う視点のみから見たのではあまり面白くありませんね。

ってことで、次回はバラモンの聖典である「ヴェーダ」を中心に、周辺の諸国との影響を鑑
みながら、お話をしてみたいと思います。


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