甲斐さんが「スコップさん」としてEテレに出演される際に
「チャールズ・ブロンソンみたいなイメージ」と言われて
「『さらば友よ』の頃のチャールズ・ブロンソンね」と納得なさったそうですが
あの役のブロンソンは、やたら「イェーッ!」を連発するからなあ(笑)と
笑って聞き流していたんだけど
ラストシーンで、アラン・ドロンも「イェーッ!」って言うんだった…と思い出したトコへ
新聞のラテ欄の隅に、ちょこちょこ載っていた
スター・チャンネル「アラン・ドロン特集」の小さな広告に
ドロンの写真と「さらば友よ」のセリフ…
「奴は俺を裏切らない。俺もだ。絶対に奴を裏切らない」…を発見!
フツーに聴いてもカッコいいセリフですが
この映画の中の2人は、長い付き合いがある親友同士などではなく
ブロンソンがドロンを利用しようとつきまとう…という非友好的な間柄(汗)
か〜ら〜の、このセリフがグッと来るんですよねぇ♪
もっとも、他のドロン映画の広告にしても
番宣に取り上げられるくらいだから、カッコいいセリフばかりで
例えば「ボルサリーノ」からは「仲間の金は取らない主義でね」
「危険がいっぱい」からは「信用か、好きになれない言葉だ」が選ばれ
甲斐バンドの名曲と同じタイトルの「地下室のメロディー」からは
「8時に寝てたら女は釣れない」(笑)
「帰らざる夜明け」は、キスシーンの写真の横に
「安全だから来たんだろ?ウソつきだな」とのセリフが載ってましたけど
アラン・ドロンが口にするんじゃなかったら、ツッコミどころ満載でしょ?(笑)
甲斐さんなら「この男、これ言った後に鼻をすすった日にゃあ…(笑)」
…とでもツッコまれるのかな?(笑)
実際、新聞の読者投稿欄に…「ワンピースは好きだが
後ろ開きで、ファスナーのものは苦手だ」という女性が
「欧米映画の中の女性たちは、身支度の仕上げ…
ファスナーを上げることと、ネックレスの金具を留めること…になると
何も言わなくても側にいる男性が手助けしてくれる
…といったシーンを幾度も観た
つい最近、着替えていたら、近くに夫がいたので
背中のファスナーを上げてくれるよう頼んだ
夫は上げてくれたが、ひとこと言った
『こんなことも出来んようになったのか?』
映画の観すぎか、はたまた頼む人を間違えたか」と記されていたんですが
レディファーストに馴染みがない日本人男性に
「『キレイだよ』とささやき、腕を組んでお出かけ」は
ハードルが高いんじゃないかと…(苦笑)
まあ、甲斐さんに言わせれば「そう扱って貰えるようにレディらしくしろ」
ってことなんでしょうけど…(笑)
ともあれ…以前、kainatsuさんが
「父は、映画やドラマを観て、すぐに泣くんです(笑)」と話されたことに対し
甲斐さんは「それは、年を取って涙もろくなったんじゃないの
そういうことが判るようになったの」と、おっしゃってましたが
中井貴一さんも、NHK「SWITCH」の中で…
「涙もろくなった人が『年取ったからかなあ』とよく言うけれど
『経験値が上がったからかな』と言うべきだ」と話されてました
場数を踏んでいるというのは、それだけ悔しい思いを重ねて来たということ
もちろん、成功に酔った経験もあるが
それ以上に痛い経験を繰り返している
だから、諭す前に耳を傾けられるし
不遇な環境にある人への想像も深くなる…ということらしい
我が家のご贔屓コラムでお馴染み(笑)後藤正文さんも
「年を重ねるにつれて、いつしか涙もろくなって
映画やテレビ番組を観ながら、オイオイと泣いてしまうようになった
様々な作品につけられた『泣ける』というキャッチコピーに
毒づき続けた青春時代を経て
今や『全米が泣く』前に泣いてしまう自信がある」(笑)と記されてますけど
それもやはり「年齢のせい」というより
仏文学者・多田道太郎さんがおっしゃるように
「はっきり言えば、私たちは他人の『涙』に泣くのではなく
他人の抑制に泣く」んじゃないかと…?
「涙の記憶は誰にも数知れずあるから
他人のそれにも、ついほだされる
けれども、その時、人は『泣きたい気持ちをぐっと堪える
その抑制の身ぶり』に涙しているのだ」そうで
そこには「かつて、泣きたくても泣けぬ口惜しさを
必死で堪えた自分に対する憐憫」も含まれているのかも知れないんだとか…
アメリカの詩人メイ・サートンは…
年齢によって、人は異なる現実に触れる
不死身の青春、生業に忙しい中年を経て、老いを迎え
今度は「生きること自体」を玩味するようになる
若者に「手を貸す」喜びも持てるようになる
そういう変化と成長の中にこそ、人生の「冒険」はあるのに
人は、どうして「若さ」にばかりこだわるのか?との思いを
「若い時、ひなげしの花びらを通して輝く光に
心を奪われる時間があっただろうか」と綴っています
また一方で、ある僧侶の方は…「あの時は判らなかったけど
今だったら判るということが、人生にはよくある
他人に思いも寄らぬ受け止め方をされて戸惑う
他人の人生に意図せぬ屈折や傷を与えてしまい
そのことも後になって、ようやっと知る
気づいた時はもう取り返しがつかない
経験というのは、大抵そんな風に起こる
人生は、手遅れの繰り返しです」と戒めておられます(汗)
「身体能力は落ちていても、小説を書いていて
70歳という言葉の響きほど老いた感じはしてません」という北方謙三さんは…
「同世代にデビット・リンチという監督がいます
『ストレイト・ストーリー』という
老人がトラクターに乗って、遠くにいる兄を訪ねるロードムービーの中で
その途中に出会った若者たちと、こんなやり取りをする
『年を取って良いことはあるかい?』
『細かいことを気にしなくなる』
『じゃあ最悪なことは?』
『若い頃のことを覚えていることだ』
胸に迫りましたね」とおっしゃっているんだけど
それは「たぶん、我々は、ある例外的な瞬間にしか
自分の年齢を意識していないし
大抵の時間は、無年齢者でいるのだ」というミラン・クンデラの作品の言葉通り
かつては容易く出来たことが難しくなって来たりして
ふとした瞬間に年齢を思い出し、あるいは思い知らされ
もう二度と戻ることは出来ない若かりし日々の記憶が
実際に質量を伴っているかのように押し寄せて来るんじゃないかと…?
でも、落合恵子さんは…「親の介護を終えて、自分も老いると
人生を短編小説どころか、短い詩の一節のように思い始めた
人生を長編小説のように感じたのは、いつの年代までだったろうか
記憶はトレースした写しのようなものだから
実際の経験とは、どこかズレる
そういう上書きを重ねるうち
やがて、諦めなり、思い定めなりが筋を単純にしてゆく
逆に、記憶がとっ散らかって、筋が立たないこともあるが…」と記されていて
良くも悪くも強烈に刻み込まれた記憶だけが残る年齢になった頃
映画やドラマ、小説などを目にすると
それがきっかけで「自分にもそういうことがあった!」と
唐突に思い出したりするものなのかなあ?
それも、無意識の内に改ざんされていたりして…(汗)
ただ、生物学者・福岡伸一さんは…
「当たり前のことに気がつくのに時間がかかる
…年を取ることの良いことの一つです
遺伝子の一つを削除しても、マウスに何の異変も見られない
若き日のこの気づきが、欠損を生じても新たな均衡を立ち上げる
回復力や可塑性こそ、生命を生命たらしめているものだという
『動的平衡』の研究に繋がった
人生も日々の『修復』が基本かも知れない」と話されているのを聴いて
少し気が楽になりました(笑)
「チャールズ・ブロンソンみたいなイメージ」と言われて
「『さらば友よ』の頃のチャールズ・ブロンソンね」と納得なさったそうですが
あの役のブロンソンは、やたら「イェーッ!」を連発するからなあ(笑)と
笑って聞き流していたんだけど
ラストシーンで、アラン・ドロンも「イェーッ!」って言うんだった…と思い出したトコへ
新聞のラテ欄の隅に、ちょこちょこ載っていた
スター・チャンネル「アラン・ドロン特集」の小さな広告に
ドロンの写真と「さらば友よ」のセリフ…
「奴は俺を裏切らない。俺もだ。絶対に奴を裏切らない」…を発見!
フツーに聴いてもカッコいいセリフですが
この映画の中の2人は、長い付き合いがある親友同士などではなく
ブロンソンがドロンを利用しようとつきまとう…という非友好的な間柄(汗)
か〜ら〜の、このセリフがグッと来るんですよねぇ♪
もっとも、他のドロン映画の広告にしても
番宣に取り上げられるくらいだから、カッコいいセリフばかりで
例えば「ボルサリーノ」からは「仲間の金は取らない主義でね」
「危険がいっぱい」からは「信用か、好きになれない言葉だ」が選ばれ
甲斐バンドの名曲と同じタイトルの「地下室のメロディー」からは
「8時に寝てたら女は釣れない」(笑)
「帰らざる夜明け」は、キスシーンの写真の横に
「安全だから来たんだろ?ウソつきだな」とのセリフが載ってましたけど
アラン・ドロンが口にするんじゃなかったら、ツッコミどころ満載でしょ?(笑)
甲斐さんなら「この男、これ言った後に鼻をすすった日にゃあ…(笑)」
…とでもツッコまれるのかな?(笑)
実際、新聞の読者投稿欄に…「ワンピースは好きだが
後ろ開きで、ファスナーのものは苦手だ」という女性が
「欧米映画の中の女性たちは、身支度の仕上げ…
ファスナーを上げることと、ネックレスの金具を留めること…になると
何も言わなくても側にいる男性が手助けしてくれる
…といったシーンを幾度も観た
つい最近、着替えていたら、近くに夫がいたので
背中のファスナーを上げてくれるよう頼んだ
夫は上げてくれたが、ひとこと言った
『こんなことも出来んようになったのか?』
映画の観すぎか、はたまた頼む人を間違えたか」と記されていたんですが
レディファーストに馴染みがない日本人男性に
「『キレイだよ』とささやき、腕を組んでお出かけ」は
ハードルが高いんじゃないかと…(苦笑)
まあ、甲斐さんに言わせれば「そう扱って貰えるようにレディらしくしろ」
ってことなんでしょうけど…(笑)
ともあれ…以前、kainatsuさんが
「父は、映画やドラマを観て、すぐに泣くんです(笑)」と話されたことに対し
甲斐さんは「それは、年を取って涙もろくなったんじゃないの
そういうことが判るようになったの」と、おっしゃってましたが
中井貴一さんも、NHK「SWITCH」の中で…
「涙もろくなった人が『年取ったからかなあ』とよく言うけれど
『経験値が上がったからかな』と言うべきだ」と話されてました
場数を踏んでいるというのは、それだけ悔しい思いを重ねて来たということ
もちろん、成功に酔った経験もあるが
それ以上に痛い経験を繰り返している
だから、諭す前に耳を傾けられるし
不遇な環境にある人への想像も深くなる…ということらしい
我が家のご贔屓コラムでお馴染み(笑)後藤正文さんも
「年を重ねるにつれて、いつしか涙もろくなって
映画やテレビ番組を観ながら、オイオイと泣いてしまうようになった
様々な作品につけられた『泣ける』というキャッチコピーに
毒づき続けた青春時代を経て
今や『全米が泣く』前に泣いてしまう自信がある」(笑)と記されてますけど
それもやはり「年齢のせい」というより
仏文学者・多田道太郎さんがおっしゃるように
「はっきり言えば、私たちは他人の『涙』に泣くのではなく
他人の抑制に泣く」んじゃないかと…?
「涙の記憶は誰にも数知れずあるから
他人のそれにも、ついほだされる
けれども、その時、人は『泣きたい気持ちをぐっと堪える
その抑制の身ぶり』に涙しているのだ」そうで
そこには「かつて、泣きたくても泣けぬ口惜しさを
必死で堪えた自分に対する憐憫」も含まれているのかも知れないんだとか…
アメリカの詩人メイ・サートンは…
年齢によって、人は異なる現実に触れる
不死身の青春、生業に忙しい中年を経て、老いを迎え
今度は「生きること自体」を玩味するようになる
若者に「手を貸す」喜びも持てるようになる
そういう変化と成長の中にこそ、人生の「冒険」はあるのに
人は、どうして「若さ」にばかりこだわるのか?との思いを
「若い時、ひなげしの花びらを通して輝く光に
心を奪われる時間があっただろうか」と綴っています
また一方で、ある僧侶の方は…「あの時は判らなかったけど
今だったら判るということが、人生にはよくある
他人に思いも寄らぬ受け止め方をされて戸惑う
他人の人生に意図せぬ屈折や傷を与えてしまい
そのことも後になって、ようやっと知る
気づいた時はもう取り返しがつかない
経験というのは、大抵そんな風に起こる
人生は、手遅れの繰り返しです」と戒めておられます(汗)
「身体能力は落ちていても、小説を書いていて
70歳という言葉の響きほど老いた感じはしてません」という北方謙三さんは…
「同世代にデビット・リンチという監督がいます
『ストレイト・ストーリー』という
老人がトラクターに乗って、遠くにいる兄を訪ねるロードムービーの中で
その途中に出会った若者たちと、こんなやり取りをする
『年を取って良いことはあるかい?』
『細かいことを気にしなくなる』
『じゃあ最悪なことは?』
『若い頃のことを覚えていることだ』
胸に迫りましたね」とおっしゃっているんだけど
それは「たぶん、我々は、ある例外的な瞬間にしか
自分の年齢を意識していないし
大抵の時間は、無年齢者でいるのだ」というミラン・クンデラの作品の言葉通り
かつては容易く出来たことが難しくなって来たりして
ふとした瞬間に年齢を思い出し、あるいは思い知らされ
もう二度と戻ることは出来ない若かりし日々の記憶が
実際に質量を伴っているかのように押し寄せて来るんじゃないかと…?
でも、落合恵子さんは…「親の介護を終えて、自分も老いると
人生を短編小説どころか、短い詩の一節のように思い始めた
人生を長編小説のように感じたのは、いつの年代までだったろうか
記憶はトレースした写しのようなものだから
実際の経験とは、どこかズレる
そういう上書きを重ねるうち
やがて、諦めなり、思い定めなりが筋を単純にしてゆく
逆に、記憶がとっ散らかって、筋が立たないこともあるが…」と記されていて
良くも悪くも強烈に刻み込まれた記憶だけが残る年齢になった頃
映画やドラマ、小説などを目にすると
それがきっかけで「自分にもそういうことがあった!」と
唐突に思い出したりするものなのかなあ?
それも、無意識の内に改ざんされていたりして…(汗)
ただ、生物学者・福岡伸一さんは…
「当たり前のことに気がつくのに時間がかかる
…年を取ることの良いことの一つです
遺伝子の一つを削除しても、マウスに何の異変も見られない
若き日のこの気づきが、欠損を生じても新たな均衡を立ち上げる
回復力や可塑性こそ、生命を生命たらしめているものだという
『動的平衡』の研究に繋がった
人生も日々の『修復』が基本かも知れない」と話されているのを聴いて
少し気が楽になりました(笑)