日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(加筆・修正版)どうすれば覇権システムの中で私たちの命と暮らしを守ることができるのか。現状ではとても守れそうにないことを、連日のウクライナ危機報道に接して思い知らされるのみ。第9条に代わる何かが必要だ

2022-03-09 | 日記

 

 

(加筆・修正版)どうすれば覇権システムの中で私たちの命と暮らしを守ることができるのか。現状ではとても守れそうにないことを、連日のウクライナ危機報道に接して思い知らされるのみ。第9条に代わる何かが必要だ。たとえば、日本国家は、国民の命と暮らしを守るために、有事の有無にかかわらず、「避難・脱出回廊の常時開設」を義務として背負い、いかなる国民もいつ何時でもその権利を行使できる云々の条項が必要だ。ー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」
と「センソウ」を再考するとき(続・続・続・続)

*日本国憲法とその第9条は、日本人を国民として覇権システムに、そして私の語る「システム」に、組み込むのを当然としていることを、改めて私たちは銘記しておかなければならない。その意味において、第9条は、確かに戦力の不保持、交戦権の限定的放棄を謳ってはいるものの、同条は、覇権システムの中で存続すること自体を、疑問視したり、そのシステムから離れることを目指してはいないことを、改めて確認すべきである。

(最初に一言)


とは言ったものの、難問だ。とてもできそうにもない。だが、これは大事なことなのだ。それはそうなのだが、有事の際、普通の日本人を、どこの国が受け入れてくれる。ベトナムではないだろう。技能実習制度を介してあれだけひどい仕打ちをしているのだから。韓国には、どの面下げていけるだろうか。北朝鮮は、とても無理だろう。中国はどうか。これまで靖国にはいくなと言われても、馬鹿な政治家が何度も参拝するのを許してきたからなあ。あの戦争や歴史教科書、その他いろいろなことを考えると、ここも無理だろう。

**記事投稿後、肝心なことを言うのを忘れていた。おかしなものだ。日本人が好きな色の白い人たちの住む欧米諸国はどうかという話を、どうしてなのか言及していないことに、ずっと後というか、今しがた気が付いた次第。日米安保体制の下、戦後一貫して奴隷の如く奉仕させられてきた米国は、有事の際に普通の庶民を受け入れてくれるのだろうか。またあれほど自由、民主主義、法の支配、人権といった普遍的価値を共有するとして、対・中国包囲網に加わっていた他の白人の支配する諸国はどうだろうか。残念ながら無理だろう。私にはそれが分かっていたので、欧米諸国に関しては、書き留めることさえしなかったのに違いない。

そんなこんなで、結局は、どこにも逃げられそうもない。それを考えただけでも大変だ。それでは、仕方なくこの日本にとどまるしかないのか。ロシアによる爆撃によって廃墟と化した今のウクライナの惨状を見るにつけ、明日の日本と重なってしまう。日本は四方を海に囲まれているから、簡単には逃げられない。爆撃もされ放題となりかねない。それでも、安倍や菅、小泉、さらには竹中等々は、ちゃっかり、国民のお金(税金)を元手にして彼らの利権蓄財を介して人道回廊ならぬ「利権回廊」をつくっているだろうから、最後には逃げられてしまうのが落ちだろう。


それはさておき、私には、「プーチンの暗殺指令」といったニュースが公然とネット空間で飛び交う中、世界各地で「平和」を願う大合唱の動きが、皮肉にも、私を覇権システムの中に押し留めてしまい、そこから逃げ出すことを断じて許さないような響きとして伝わるのは、一体どうしてなのか。

あまりにも常軌を失したメディア・言論空間の中で繰り返される狂気と化した平和や民主主義を礼賛する言説の洪水は、何かもうイジメの構図そのものではあるまいか。すなわち、必ずどちらか一方に、そしてその一方は、あらかじめメディアを総動員しながら「善」とされ、他方は「悪」とされているのだから、もうどちらに加わるかは、押して導氏なのだ。

その約束事をもし、破ろうとするならば、それは恐ろしい顛末が待ち受けているかのようだ。さらに、傍観者の立場はさらさら許されないといった重苦しい雰囲気が漂っている中で、私たちに踏み絵を迫るように思えて仕方がないのだ。どちらか一方に与しろと迫るやり方に対して、「それはおかしいのではないか」という声をかけた瞬間、もうこれでもかというばかりに猛バッシングの嵐が待ち受けているように思えるから、これでは自由だとか民主主義がどうだのとか、ましてや平和云々を論じることもできない。

そんなことさえ許さない今の風潮なのだ。そうした圧力というか暴力を私たちに行使しているものの「正体」こそが、民主主義的手続きをある時は要求し、またある時はそうした手続きで選ばれた政権をクーデタで公然と転覆させても何ら恥じることさえしない「不当な勢力」ではあるまいか。

私は今でもはっきりと覚えている。民主主義的手続きを経て選出されたチリのアジェンデ政権を、暴力でもって打倒した米国の民主主義政権と米国CIAのクーデタ工作、そしてそれと連動しながら、米国に支持・支援されたチリのピノチェト将軍の指導する軍事政権の誕生の歩みを。これは、ウクライナにおける歴史と酷似しているのではあるまいか。

この時、世界中でそれは断じて許されない、ピノチェト軍事政権の不当な暴力支配と米国の民主主義政権の過ちを許してはならない云々の世界的大合唱は残念ながら、おこらなかったのだ。それどころか、むしろ逆に、そうした暴挙を歴史の表舞台から目につかないように、メディアの報道は、この時も偏向報道に努めていたのだ。その偏向報道は、今回のウクライナ危機においても、「健在」ぶりを発揮している。そこには、それを可能とさせる、私の語る「システム」の下でつくり出されたグローバルな巨大な権力集団の存在が確認できる、と私はみている。そして、今まさに「システム」は、この権力集団を使って、現下のウクライナ危機を演出することにより、{[B]→(×)[C]→×[A]}で描かれる世界・セカイのさらなる発展に向けて邁進中なのだ。

****またまた記事投稿後に、〈現下のウクライナ危機を「演出」〉の箇所が気になって仕方がなくなり、ヤマカッコとカギカッコで、何とか誤解を避けようとして、追加修正した次第である。「演出」などの軽い言葉を使いたくはなかったのだが、私の語る「システム」はそんな風に、何ら罪悪感など持ち合わせてはいないのだ。それは「システム人」としての私たちも、自分たちに火の粉が及ばない限りは、対岸の火事でしかないはずだ。明日は我が身となって跳ね返ってくる覇権システムと「システム」の中で生きているはずなのに、いつもながら、それが現実の私たちの姿である。

(最後に一言)

ずっと以前の記事で、私は「阿修羅掲示板」について、もうそろそろ「卒業」したい云々と述べていたが、その際、そうはいっても、おそらくはこれからも見ることをやめないだろう、と述べていたのだが、実際、今もずっと見ている・聞いている。

とくに、こうした危機の際には、コロナ危機も含めてだが、「(阿修羅)総合アクセスランキング(瞬間)」には、救われる思いでいっぱいだ。下手な学術論文(オットー、これはまさに私自身)など足元にも及ばない記事がいっぱい、詰まっている。読者のコメントからも学ぶものが多々ある。これでもか、と私の無知を知らされるのだが、それはそれでありがたいというしかない。

もとより、すべてにわたり賛成というか納得するわけでもないのだが、それにもかかわらず、今の偏向した時代にあって、バランス感覚を確認・保持させてくれる上で、とても貴重な言論空間であるのは間違いなかろう。私自身も投稿を何度か試みたのだが、なかなかうまくできないので、投稿はあきらめた次第。それでも、これからもお世話になるだろうから、陰ながら応援していきたい。


***(付記)

それにしても、私たちは臆面もなく「人道回廊」などの用語を使うのだが、そもそも私からすれば、よく言えるワイ、なのだ。私はいつも論じているように、私の語る「システム」論の世界・セカイの中で、私たちは生きている。それは、覇権システムとそれを前提としてつくり出されてきた世界資本主義システムと世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」空間である。

それに関しては、これまでも何度も私は語ってきているが、ここでは(2022,2,26)の記事(私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき)のある下りから引用貼り付けておきたい。

そこで、私は次のように述べていた。すなわち、ーーー「システム」に突き当たるのではあるまいか。その最初は、個人や集団や共同体(国家)間における自由とか主権として位置づけられる自己決定権の獲得とその実現をめぐる力(暴力)と力(暴力)の争奪戦を介した親分ー子分関係に見る差別と排除の関係を前提として作られてきた覇権システム・

次に、その覇権システムを構成する親分ー子分関係を前提として、親分に都合のいい、それゆえ子分にはたとえ理不尽な関係だとしても、「衣食足りて礼節を知る」の営為とその関係のネットワークが張り巡らされていく。それは、当然ながら、子分においては、「衣食足りず礼節を知らず」の営為とそのネットワークも同時並行的に作られていく。

そこから、力のある個人、集団、共同体から、力のないそれらの間に、私の語る「システム」論で提示している{[Aの衣食足りて(経済発展)→礼節を知る(民主主義の発展)]→[Bの衣食足りて・足りず(経済発展)→礼節を知る・知らず(民主主義の発展)]→[Cの衣食足りず(経済発展)→礼節を知らず(民主主義の発展)]}の営為のグローバルな関係のネットワークが作られてきたということなのだ。なお、このモデルは1970年代までの世界・セカイの関係を示すものである。また、以下のモデルでは、(経済発展)、(民主主義の発展)は省略していることを、ここで断っておきたい。

個人間、集団間、共同体間においても、先の図式のような関係が成立すると同時に、それらの関係にはすべて、差別と排除の関係が刻印されている。それゆえ、たとえば、私たちが後生大事に唱え続けてきた基本的人権とその実現に関しても、こうした差別と排除の関係が該当することから、私がこれまで何度も言及してきたように、{[Aの人権]→(×)[Bの人権]→×[Cの人権]}の関係が成立することになる。ーーー、と。ーーー

それゆえ、私たちが「人道」というとき、それは差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきた「システム」の提供する「「道徳」であるということなのだ。何とも恐ろしい人道ではあるまいか。当然ながら、そんな道徳と結びついた回廊が安全なはずがない。私たちの生きている世界・セカイである「システム」(空間)それ自体が、差別と排除と何ら矛盾しない人道を絶えず提唱していることに、もうそろそろ気が付く時ではなかろうか。


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