日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

この期に及んで、「NATO加盟を取りやめたい」とのゼレンスキー大統領。どうして今さらそんな寝言を言うのか、最後まで戦って、あなただけでも「玉砕」するべきではないのか。あなたの致命的な判断の誤りによって

2022-03-17 | 日記

この期に及んで、「NATO加盟を取りやめたい」とのゼレンスキー大統領。どうして今さらそんな寝言を言うのか、最後まで戦って、あなただけでも「玉砕」するべきではないのか。あなたの致命的な判断の誤りによって、どれほどの命が奪われたことか。「あの(悲惨な)戦争」の歴史の教訓を、「日本人」だからこそ、世界に向けて発信するべき時ではあるまいか。ー〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)世界平和を希求する反ロシア・反中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリスト〉の関係と、それらの関係を結び付ける「システム」と、そこでの関係を問い直すとき(続・続・続・続)ー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき


(最初に一言)

やっぱりなあ、なのだ。米国との日本の「あの戦争」の流れと酷似している。我々は最後まで戦いウクライナを守り抜く。今のウクライナはまだ負けてはいない。ロシアの無法な要求には決して「妥協」などしない等々と繰り返していたゼレンスキーだが、この間にも犠牲者は増えるばかり。

あの戦争時の日本の指導者も同様なことを繰り返していた。そして、その指導者の意向を汲んだ国民の中から、指導者と一致団結して戦うとの決意表明として、「欲しがりません、勝つまでは」との大合唱となっていく。日本国内では、戦争に反対表明する者など、誰一人としていないかのような空気が醸成されていく。

結局、指導者もそれに従った国民も、最後まで戦うことをしないで、途中で降参となったのだ。それは仕方がない。どんなに威勢のいいことを言っても、大きな力の前ではどうにもならないのだから。たとえウクライナや日本が闘わないでも済むような道を選ぼうとしても、先ずは戦えと、その後で、何某かの落ちどころというか妥協点を、何とかして見つけてやるから、とにかく戦えという具合に、戦争へと引き込まれてしまう。そうすることによって、金儲けに与れる勢力が存在しているのだ。

それはそうだとしても、そんなにまでして戦いながら、その間にも多くの者が命を落とすことを余儀なくされたことに、この指導者やその指導者を支持した国民は、犠牲となった国民に対して、一体どのような「言葉」がかけられるのだろうか。彼らに仕方なく従うしかなかった国民もいただろうし、それどころか戦争に反対していた国民もいたであろう。

これに関連して言及すれば、ウクライナにおけるロシアとの戦争に反対する国民の声はほとんどまったく、国際世論には反映されることもないのは、どうしてだろうか。ウクライナ国内には、戦争反対を叫ぶ国民は誰一人として存在しなかったのだろうか。そんなことはない。ところが、国際メディア期間を介して報道される情報は、ロシアにおける反戦を訴える人たちが弾圧されているという情報だけが流されるのみで、ウクライナのそれは、まったく知る術もない。

それはともかくとして、そんな国民を力でもって、戦争へと追いやった責任を、彼らウクライナ指導者は、どのようにして引き受けるというのだろうか。もっとも、彼らは米国の操り人形であるから、その責任を自分たちだけが引き受けるのはできないと、最後の最後になって、悪足掻きをするかもしれない。哀れなのはウクライナを離れざるを得なかった国民同様に、今もとどまっているウクライナ国民というしかあるまいが、いずれにせよ、戦争へと引き込まれてしまったのだ。それが今回のウクライナ危機とその後のあのムゴイ戦争である。


この話は、日本の原発事故を巡る、原発支持者とその反対者、そのいずれに対しても判断を示せないで、事故後私たちは騙されてしまった、私たちは安全だといわれてそれに従っただけ云々と自らの卑怯な正当性を訴える人たちから成る人間関係の下で、事故後に、どのような責任の所在を巡る「犯人捜し」が展開されたか。その間も、それから今に至るまでも、原発事故の放射能汚染による身体被曝(被爆)により、多くの人々が苦しみ続けている。

私には、あの戦争も、あの原発センソウも、その責任の取り方というか、ほとんど責任の所在が曖昧模糊とされてしまい、誰も責任を取ろうとしないままに、無責任な結末を迎えて、しばらく経つと、あとはそのまま、何もなかったかのように、以前の状態に戻ってしまった、としか見えないのだが。

だが、これまた、仕方がないことだろう。それはそうだとしても、だからこそ、こんなバカな歴史の繰り返しに対して、もしまたそれが引き起こされようとしたときには、私たちは声を大にして、「もうそんな愚は避けたほうがいい」と叫ばなければならない、と私は言わざるを得ないのである。そして、そのためには、その思いを共有できる者たちとの「連帯」は、どうしても避けられなくなる。たとええ「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎し」の私のような者であれ、そうすることに躊躇はしない。今後、こうした連帯の必要性は日に日に増してくる、そんな政治情勢の展開が予想されるのではあるまいか。


勿論、こんなことを言ったとしても、またまた悲劇・喜劇は、今回のウクライナ危機に際しても繰り返されてしまった。日本があの戦争で米国には勝てない、結局は負けてしまうとわかりながら、それでも戦争へと突入して、そしてその通りとなってしまった。同じ轍をウクライナもロシアとの戦争で踏むに違いない。

もっとも、あの戦争時の日本と異なり、今のウクライナには、米国を筆頭としたあれやこれやの支援が提供されているのだが。それは連日の報道にもあるように、米国政府・議会におけるウクライナへの武器提供や資金援助にも示されている。問題は、誰がそれを負担するというのか。ロシアだけが財政難で苦しんでいるのではない。それは米国とて同じなのだ。その財政難の米国が国民の税金で賄えないような負担を、誰に一時的に、イヤ永続して補填・補充してもらっているのか。それこそ、グローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)を構成する戦争屋の中心勢力である「ウォール街」の国際金融資本勢力なのだ。

それに関連して、ここで付言しておきたいことがある。日本対米国の戦争というとき、日本を、また米国を戦争へと積極的に巻き込もうとする勢力が存在していたということである。私の場合は、私の語る「システム」の下でその勢力が作り出され、そうした勢力を、「システム」が戦争を引き起こすように使っている、とみているのだが。

いずれにせよ、今回のウクライナ危機においても、あの戦争を引き起こしたのと同様な動きが確認できるのではあるまいか。それに関して付言すれば、あの戦争は、私の語る「システム」論で描かれる{[Aの衣食足りて(経済発展)→Aの礼節を知る(民主主義の発展)]→(×)[Bの衣食足りて・足りず(経済発展)→Bの礼節を知る・知らず(民主主義の発展)]→×[Cの衣食足りず(経済発展)→Cの礼節を知らず(民主主義の発展)]}の〈「システム」とその関係の歩み〉に貢献するものであったということだ。

そして今回のウクライナ危機におけるロシアとウクライナ(アメリカ)の戦争は、{[Bの衣食足りて(経済発展)→Bの礼節を知る(民主主義の発展)]→(×)[Cの衣食足りて・足りず(経済発展)→Cの礼節を知る・知らず(民主主義の発展)]→×[Aの衣食足りず(経済発展)→Aの礼節を知らず(民主主義の発展)]}の〈「システム」とその関係の歩み〉に貢献するものとして、同時に、そのために仕掛けられた戦争である、と私は理解している。

*なお、このモデルは1970年代以前と1970年代以降の共時態型モデルである。それに関連した他のモデルは省略している。詳しくは拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」-「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ』(晃洋書房 2014年)の88-91頁のモデルを参照されたい。

そこで私が読者にお伝えしたいのは、戦争は、一人や二人の指導者等によって、また彼らの個人的な野望とか征服欲云々でもって、引き起こされたりはしないということである。あの戦争を、A級戦犯や、東条英機の、また天皇による戦争として、あるいは今回のウクライナ危機を巡る戦争をプーチンと彼の個人的野心とか精神的な病?が引き起こした戦争としてもっぱら描くだけでは、私がここで示した〈「システム」とその関係の歩み〉の抱える戦争を導く大きな原因というか宿痾などは、さらさら見えてこない、と私は言わざるを得ない。

もっとも、それこそが、私の語る「システム」が望んでいることに違いないのだ。その好例は、「システム」が国際メディア機関やバイデン米国大統領を使って、何度もプーチンによる戦争とか、プーチンによる犯罪云々の話を、繰り返し繰り返しさせているところにも示されよう。


(最後に一言)

前回記事でも指摘したように、私はあの戦争について、改めて学び直す必要性を痛感している。もっともそこでの私の関心は、歴史のどの「地点」で、私たちが戦争から逃げられなくなったのかを、逆に言えば、その地点に至るまでは逃げられるかもしれないということでもあるが、を確認するためである。もっとも、この物言いは、それ自体おかしいことである。なぜなら、私はしばしば、私たちは私の語る「システム」の中に、あたかも「総力戦体制」の下に総動員されているかのような姿で、生きている云々と、語ってきたのだから。

それはそうなのだ。私たちは「システム」の中で、いつも戦時体制状態に置かれている。その中での「平和」であるから、恐ろしい平和な社会ともいえよう。それゆえ、なおさら、私たちは、戦争をすぐそこに迎えようとするときにおいても、その始まりを確認する嗅覚が鈍くなるのも当然のことのように、私には思えてくる。それゆえ、そこからアレヨアレヨといったこととなり、うろたえるばかりとならざるを得なくなる。

それゆえ、戦争が実際の戦闘を介して、誰の目にも明らかとなった時には、その戦争から逃げおおせるのは難しくなる。戦争がはっきりとわかった時には、大変な状況・状態にあるに違いない。しかも、日本は島国で、どこへもそう簡単には、逃げられない。

それを踏まえるとき、私たちは政治に対してしっかりと向き合う必要があることは言うまでもないはずだが、ここでもまたこの政治がどうにもならない始末だから、ーーー。だが、もし戦争に巻き込まれないように、戦争から逃げおおせたいと考えるのならば、私たちは目の前の政治が、たとえどんなに腐ったものだとしても、そこから断じて逃げてはダメだろう。逃げずに、政治と向き合い、政治に対して、私たち一人一人が、自らの声を発するべきであろう。たとえ、それがダメモトだとしても、それを続けていく事が大事ではあるまいか。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする