(加筆・修正版)〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストの
(加筆・修正版)〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)世界平和を希求する反ロシア・反中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリスト〉の関係と、それらの関係を結び付ける「システム」と、そこでの関係を問い直すとき(続・続)ー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき
(最初に一言)の前に一言
いろいろと熟考した挙句に、前回記事は「削除」することにした。その替わりとして、記事の一部をカットして、私の言わんとするくだりを残しながら、文章を書き直したことをここで断っておきたい。その辺の事情も含めて、以下に話を進めていきたい。
記事投稿後に、いつものことだが、あそこのくだりはあれでよかったのか、やはり少し論理の飛躍があるだろう、もう少し具体的に言及したら等々、数限りない問い返しの中で、頭が疲れてくる。そんなこんなで、今回もまた、一時、「下書き」にして、もう少し考え直すことにした次第。そして、前回記事は削除しようと判断した。
やはり、植草氏のように、現実の政治の中で活動・活躍されている方に対して、普遍的価値や普遍主義と真正面から向き合ってほしい云々の、私の物言いは、私の一方的な押し付けに似たお願いというよりも暴力でしかない、と私自身が判断したからである。それはできない相談というのが、至極当然のことなのだ。
今のウクライナ危機を巡るロシア発、ウクライナ発の情報戦にも示されるように、私たちはグローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)の所有するメディアによる情報操作とその影響から何とか免れながら、私たちの知・情・意のバランス感覚を保つのは至難の業だと言えよう。とくに、欧米の礼賛してやまない普遍的価値と普遍主義の抱える問題を考察した者ならば、おそらく、そうしたバランス感覚の取り方の難しさを痛感しているに違いない。
たとえば、私のように、学問世界の隅の方でl普遍的価値や普遍主義を批判的に考察する者ならまだしも、たとえば国連総会やその他の国連機関で、また日本の国会で、私のような考え方を、現実政治の世界で行動している政治家が世に問うた瞬間に、その政治家は自らの政治生命を失うのは目に見えている、と私はみている。とくに、今のウクライナ危機を巡るウクライナのゼレンスキー大統領を取り上げるというか持ち上げているメディアの姿勢を目の当たりにするとき、あとは押して知るべしとなる。
それにもかかわらず、私は政治の世界はともかくとして、学問研究の場においては、あらゆる事物を疑うことから学びは始まるべきだと考えてきたのだ。それゆえ、私は、私自身の考えをもとに、これまで普遍的価値と普遍主義に関して問い続けてきたのだ。その結論というか、その到達点というか、それらが拙論や拙著、そしてこのブログの記事となって示されている。
こうした私の立場から見れば、政治学、とりわけ比較政治学の学問世界において、普遍的価値や普遍主義は疑うことのできない・許されない「物差し」となっており、その意味では、現実の政治の世界を支持する相互に補完しあう関係にあるのだ。これは、ある面で恐ろしい話だ。というのも、政治の暴走に対して、学問の分野から歯止めをかけることができないことを意味しているからだ。それどころか、アメリカ政治を見るとき、アメリカ政治の「無法」を、学問に従事する者たちが支持・応援するような研究業績が、これでもかというほどに列挙されるのだ。
こうした点を踏まえながら、私が読者に伝えたいと常々考えているのは、普遍的価値や普遍主義の抱える問題を、的確に理解してお区ことの重要性であった。もとより、私たちは覇権システムの中で生きている限り、親分の言うことややることには、容易には逆らえないし、逆らうことを避けるべきだ、と私はみている。その意味では、親分の提供する普遍的価値や普遍主義を、現実社会の中では、認めざるを得ない、甘受せざるを得ない、と私も言うしかあるまい。
それはそうだとしても、もしそうした親分や覇権システム、「システム」の提供する普遍的価値や普遍主義の抱える問題に関して、私たちが前もって学習しておけば、それはそれで、私たちが覇権システムや私の語る「システム」で生きていく中で、少しでも私たちの命と暮らしを守る上での安全保障に寄与すると、私はみているのである。
その際、ここで留意すべき問題は、私たちはいつも議論を「すり替えられている」ことに気が付くべきだということだ。すなわち、彼らは、欧米の自由な民主主義という「価値(観)」を共有する云々の話に終始しているだけで、決してその価値(規範)や価値観として共有されているものが、それではどのようにして現実のものとなるかに関しては語らないのである。その点に留意して、論を続けよう。
とくに普遍的価値の実現の歩みとしての普遍主義を理解しておれば、グローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)から弾き飛ばされる市井の人々の安全保障を考慮する際、はるかに有利な地点を確保できるに違いないのだ。私の語る「システム」の構造、それは1970年代まではA、B、Cから、1970年代から今日にかけてはB、C、Aからそれぞれ構成されるのだが、その「システム」の構造の形成と発展の歩みは、すなわち、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」として描かれるのだが、それこそまさに、普遍的価値の実現の歩みとしての普遍主義を体現したものに他ならないのである。
このように、私の語る「システム」論から描かれる一つの「システム」という観点から、「市民革命」発の普遍的価値と普遍主義を語り直すとき、そこに示される「システム」に組み込まれた数限りない差別と排除の関係の存在から、改めて普遍的価値と普遍主義の抱える宿痾に気が付くことができるのである。この気づきは、たとえ現実世界においては普遍的価値や普遍主義に対して公然たる異議申し立てが許されないとしても、それにもかかわらず、はるかに大切なことだ、と私は理解している。
それは、記事の冒頭において、そしてこれまた何度も拙論でも語ってきたように、私の語る「システム」において「してはならないこと」を銘記させるのだ。たとえば、軽々に戦後秩序の総決算だとか、国連憲章に、さらには「近代憲法」としての日本国憲法に、そして自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値に対して、現実世界の政治に携わる者ならば、異議申し立てをすることは「してはならない」ことである、と教えているのである。
ここにこそ、私が長年抱えてきた苦しさというか、歯がゆさがあるのだ。少し以前のブログ記事でもふれたように、電車の中で、タバコを吸いながら座席を独占していた不届き者に対して、それを注意した高校生が殴られ蹴られたとの報道があったが、力(暴力)を持たない者が、いくら「机上の正義」を振りかざして異議申し立てをしても、グローバルな巨大な力(暴力)を背後に持って、自分たちに都合のいい正義を押し通す集団(勢力)の前では、ぼこぼこにされるだけだということである。
本来ならば、これほどおかしなことはないはずなのだ。おかしなことが、私たちの学問の世界ばかりか、現実の世界において、まかり通っているのだ。これは原子力関係の世界を一見すれば、すぐにわかることだ。こうしたおかしなことが平然とまかり通っている私たちの社会の、その延長線上に今のウクライナ危機を巡る国際政治の動向と国際世論を介したメディア報道と続くのではあるまいか。
いずれにしても、私の語る「平和な民主主義」社会の実現のためには、すなわち、自由や民主主義や人権や平和といった普遍的価値の実現のためには、あからさまな暴力が、帝国主義が必要となるのである。おかしなことは言を俟たないのだが、これが悲しいかな現実なのだ。それこそ、私たちの「あの戦争」とその後の占領期の出来事を理解すればすぐにわかることであろう。
付言すれば、今のウクライナとロシアの交渉を見てもわかるように、「戦争」を一方で遂行しながら、その間に、お互いに有利となるような「落ちどころ」としての「平和」の地点を探しているではないのか。私たちもそうであった。途中からは、もう戦争から足を洗うなんてことは許されなくなり、最後の最後まで引きずられてしまい、挙句は原爆を二発も投下される始末。そこにも見られるように、徹底的に暴力でもって相手をこれでもかと殴り続け、殺しながら、その挙句、私たちの欧米産の「平和」で自由な民主主義社会に、あなた方も加入できて良かったね、なんて、これほど馬鹿にされた話などないではないか。
さらに、それ以上に、アホというかおかしいのは、そんなことをされても喜々として、私たちは騙されていたのだ、私たちはどこかおかしかったのだ、あの人たちはやはりすごいし、素晴らしい人たちだよ、解放軍だよ、なんて。そうなんだよ、やはり自由な民主主義はいいもんだよ。その民主主義社会になれたから、私たちは戦後の豊かで平和な社会を実現できたのだよ云々と、もう歯止めなく「戯言」の繰り返しをして、あれからもう何十年たったのだろうか。
その間、私たちは決して問わなかったのだ。その平和な、自由な民主主義の社会は、どうやって実現できたのかという問いかけを、私たちは自らに向けて発すことはなかったのだ。私たちは自らの身体でもって、自らを傷つけ、相手を傷つけ、血を流しながらも、その歴史を、自らの頭で、言葉でもって書き留めることをしなかったのだ。その代わりに、私たちがこれまでおこなってきたのは、先の欧米産の自由な民主主義という価値(観)でもって書き直す作業であったのだ。
それゆえ、価値(規範)のレベルの話だから、決してあからさまな力というか暴力とは、つまり帝国主義とは、覇権システムとは結び付けられないままに、民主主義の話が語られてきたのである。私たちが「せっかく」自らの手を汚し、近隣諸国を侵略して、傷つけ殺しあいながらも、そうした「貴重な体験・経験」としての「帝国主義」が何らいかされないままに、片隅に放置されたままに、時間ばかりが無為に過ぎ去ってしまったのである。
以上、ここまでが、削除した前回記事の話をもとにして、改めて追加修正した記事内容である。それでは、いつものように、話を進めていきたい。
(最初に一言)
ウクライナの悲惨な状況を見ている今この瞬間こそ、私たち日本人が「あの戦争」から学んだ教訓をしみじみと噛みしめ直すときではないかと思うのだが、どうも現状は異なっているようだ。ウクライナの大統領はウクライナを守るために最後まで国民の仲間と共に戦っていて、指導者として立派であるとか、ロシアの侵略に対して、徹底抗戦しているウクライナ人の姿に敬意を表するとか、挙句はウクライナ人と一緒に、我々も戦っているという気持ちを伝えるために、できる限りの支援をしよう云々の大合唱であるから、もうあの戦争の教訓なんて、遠い過去のことでしかないのだろう。
戦うべきではないし、そんなことをしても、何の益にもならない。戦争によって、誰かを儲からせてはならない。私たちはもっと考えるべきなのだ。何故、今もウクライナに残っている国民を、もっと早くにウクライナから脱出するように、それこそ国際世論を喚起させてでも、そうするようには動けなかったのか、動かなかったのか。それを許さなかったウクライナ側の事情は何なのか。18歳から60歳までの男子国民を、彼らの意思に反してまでも、ウクライナ国外へ自由に移動させないような法律を、どうして私たちはロシアの「不法」批判・非難と同様に、その非・人道性を攻撃しないままでいるのか。
それらに関連した情報提供を、私たちは本来ならばメディアに要求すべきであろうが、そんな風には現状ではならないから、私たち自身の手によって、そうした情報を得る努力をしなければならないのは確かであろう。明日は我が身である。今の日本は、あっという間に、戦争準備体制に導かれてもおかしくない空気の中にある。
本来ならば、護憲勢力や第9条論者の出番だろうが、残念なことに彼らが活躍する場面は、そう多くはないに違いない。あの安倍元首相ですら、自由、民主主義、人権、法の支配を、たとえ価値や価値観のレベルであったとしても、当然のことのように語る時代なのだ。そこには対・中国問題や、対・北朝鮮問題があるのは確かだとしても、またその主張の内容の有る無しを別にしても、今や与党も野党も、「憲法を守る」という点においては、遜色のない立場にあるのは疑いようもないのである。
その両者の違いといえば、第9条を積極的に支持するのか、あるいは消極的に支持するのかという次元にとどまってしまい、肝心の国民の態度も、今では第9条それ自体の「有意義性」にこだわっているようにも思えなくなっている。その証拠が、今のウクライナ危機を巡るメディア報道に関しても何ら違和感を抱いていない人たちが多いことにもうかがわれるのではあるまいか。
それゆえ、野党は、これまで以上にその存在感と存在意義を示す努力が必要なはずなのに、相も変わらず、ただただ憲法を守る云々に終始したままではあるまいか。今の格差社会の問題に向き合う中で、憲法を守るということは、結局のところ、持たざる者の生活や人権を守れないということに、野党は気が付くべきなのだが、もう私はそんなことをいまさら言うことはしない。野党は終わっているのだから。
それゆえ、私たちは、そうした野党終焉状態?を前提として、「ウクライナ」の二の舞にならないためには、換言すれば、あの戦争の惨禍を再び繰り返さないためには、一体どうすればいいのかに関して、私たち自身が積極的に情報発信を介して、そこから戦争に巻き込まれることなく、私たちの命と暮らしを守る方策・方途を見つけ出していかなければならない。
*勿論、本当に野党が終わってしまってはダメなのは当然だろうが、それにしても、今の状況・状態はヒドイを通り越している。彼らは、もう党勢拡大を望んでなどいないかのように、ひたすら現状維持に躍起となっているようにしか見えない。野党といっても少しその意味を異にしている維新だけが、自民党に飽き足らない不満なお灸票を。ここぞとばかりに集票して、「改憲」勢力を大きくしているから、これもまた、私には脅威として映るのだ。
(最後に一言)
少しそうした様を想像しただけでもわかるように、何もしないで、ただただ今まで通り政府の言うことに従いながら、最悪の場合は戦争に巻き込まれ手も仕方がないとの現状維持の方が、簡単なことだろう。だが、私たちはこれまで何度、「政府の言うとおりにしていれば安全だ、大丈夫だ」を繰り返してきたのだろうか。その挙句、何度も悲惨な経験・体験をする羽目になったのではなかろうか。そして、その都度、言ってきたように、またそれを繰り返すのだろうか。「私たちは知らなかった。知らされていなかった。安全だ、大丈夫だと教えられてきたから。私たちは騙されてしまった。」と。
私には何となく明日の日本と日本人の姿が見えるようで、悲しくなるだけである。また、同じ過ちを繰り返すと同時に、「もう二度と悲惨な戦争を繰り返さないことを誓います」と、言うに違いない。歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇としてではないのだが、そうしたマルクスやヘーゲルにかかわる言ではなく、ごくごく簡単な意味で使うとき、以下のようになる。
すなわち、とても二度くらいでは済まないだろうし、庶民にはいつも悲劇で、大金持ちにはいつも喜劇となる、そんな戦争ー森友・加計・さくら疑惑問題を巡る攻防戦から、コロナ戦争、そして現下のウクライナ危機ーの繰り返しだが、もういい加減にしろとしか、言いようがない。これではもう、「野生の王国」の動物以下ではなかろうか。イヤ、動物にも失礼だろうが。