日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(加筆・修正版)〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストの

2022-03-15 | 日記

(加筆・修正版)〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)世界平和を希求する反ロシア・反中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリスト〉の関係と、それらの関係を結び付ける「システム」と、そこでの関係を問い直すとき(続・続)ー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき


(最初に一言)の前に一言

いろいろと熟考した挙句に、前回記事は「削除」することにした。その替わりとして、記事の一部をカットして、私の言わんとするくだりを残しながら、文章を書き直したことをここで断っておきたい。その辺の事情も含めて、以下に話を進めていきたい。


記事投稿後に、いつものことだが、あそこのくだりはあれでよかったのか、やはり少し論理の飛躍があるだろう、もう少し具体的に言及したら等々、数限りない問い返しの中で、頭が疲れてくる。そんなこんなで、今回もまた、一時、「下書き」にして、もう少し考え直すことにした次第。そして、前回記事は削除しようと判断した。

やはり、植草氏のように、現実の政治の中で活動・活躍されている方に対して、普遍的価値や普遍主義と真正面から向き合ってほしい云々の、私の物言いは、私の一方的な押し付けに似たお願いというよりも暴力でしかない、と私自身が判断したからである。それはできない相談というのが、至極当然のことなのだ。


今のウクライナ危機を巡るロシア発、ウクライナ発の情報戦にも示されるように、私たちはグローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)の所有するメディアによる情報操作とその影響から何とか免れながら、私たちの知・情・意のバランス感覚を保つのは至難の業だと言えよう。とくに、欧米の礼賛してやまない普遍的価値と普遍主義の抱える問題を考察した者ならば、おそらく、そうしたバランス感覚の取り方の難しさを痛感しているに違いない。

たとえば、私のように、学問世界の隅の方でl普遍的価値や普遍主義を批判的に考察する者ならまだしも、たとえば国連総会やその他の国連機関で、また日本の国会で、私のような考え方を、現実政治の世界で行動している政治家が世に問うた瞬間に、その政治家は自らの政治生命を失うのは目に見えている、と私はみている。とくに、今のウクライナ危機を巡るウクライナのゼレンスキー大統領を取り上げるというか持ち上げているメディアの姿勢を目の当たりにするとき、あとは押して知るべしとなる。


それにもかかわらず、私は政治の世界はともかくとして、学問研究の場においては、あらゆる事物を疑うことから学びは始まるべきだと考えてきたのだ。それゆえ、私は、私自身の考えをもとに、これまで普遍的価値と普遍主義に関して問い続けてきたのだ。その結論というか、その到達点というか、それらが拙論や拙著、そしてこのブログの記事となって示されている。

こうした私の立場から見れば、政治学、とりわけ比較政治学の学問世界において、普遍的価値や普遍主義は疑うことのできない・許されない「物差し」となっており、その意味では、現実の政治の世界を支持する相互に補完しあう関係にあるのだ。これは、ある面で恐ろしい話だ。というのも、政治の暴走に対して、学問の分野から歯止めをかけることができないことを意味しているからだ。それどころか、アメリカ政治を見るとき、アメリカ政治の「無法」を、学問に従事する者たちが支持・応援するような研究業績が、これでもかというほどに列挙されるのだ。

こうした点を踏まえながら、私が読者に伝えたいと常々考えているのは、普遍的価値や普遍主義の抱える問題を、的確に理解してお区ことの重要性であった。もとより、私たちは覇権システムの中で生きている限り、親分の言うことややることには、容易には逆らえないし、逆らうことを避けるべきだ、と私はみている。その意味では、親分の提供する普遍的価値や普遍主義を、現実社会の中では、認めざるを得ない、甘受せざるを得ない、と私も言うしかあるまい。

それはそうだとしても、もしそうした親分や覇権システム、「システム」の提供する普遍的価値や普遍主義の抱える問題に関して、私たちが前もって学習しておけば、それはそれで、私たちが覇権システムや私の語る「システム」で生きていく中で、少しでも私たちの命と暮らしを守る上での安全保障に寄与すると、私はみているのである。

その際、ここで留意すべき問題は、私たちはいつも議論を「すり替えられている」ことに気が付くべきだということだ。すなわち、彼らは、欧米の自由な民主主義という「価値(観)」を共有する云々の話に終始しているだけで、決してその価値(規範)や価値観として共有されているものが、それではどのようにして現実のものとなるかに関しては語らないのである。その点に留意して、論を続けよう。

とくに普遍的価値の実現の歩みとしての普遍主義を理解しておれば、グローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)から弾き飛ばされる市井の人々の安全保障を考慮する際、はるかに有利な地点を確保できるに違いないのだ。私の語る「システム」の構造、それは1970年代まではA、B、Cから、1970年代から今日にかけてはB、C、Aからそれぞれ構成されるのだが、その「システム」の構造の形成と発展の歩みは、すなわち、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」として描かれるのだが、それこそまさに、普遍的価値の実現の歩みとしての普遍主義を体現したものに他ならないのである。

このように、私の語る「システム」論から描かれる一つの「システム」という観点から、「市民革命」発の普遍的価値と普遍主義を語り直すとき、そこに示される「システム」に組み込まれた数限りない差別と排除の関係の存在から、改めて普遍的価値と普遍主義の抱える宿痾に気が付くことができるのである。この気づきは、たとえ現実世界においては普遍的価値や普遍主義に対して公然たる異議申し立てが許されないとしても、それにもかかわらず、はるかに大切なことだ、と私は理解している。

それは、記事の冒頭において、そしてこれまた何度も拙論でも語ってきたように、私の語る「システム」において「してはならないこと」を銘記させるのだ。たとえば、軽々に戦後秩序の総決算だとか、国連憲章に、さらには「近代憲法」としての日本国憲法に、そして自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値に対して、現実世界の政治に携わる者ならば、異議申し立てをすることは「してはならない」ことである、と教えているのである。

ここにこそ、私が長年抱えてきた苦しさというか、歯がゆさがあるのだ。少し以前のブログ記事でもふれたように、電車の中で、タバコを吸いながら座席を独占していた不届き者に対して、それを注意した高校生が殴られ蹴られたとの報道があったが、力(暴力)を持たない者が、いくら「机上の正義」を振りかざして異議申し立てをしても、グローバルな巨大な力(暴力)を背後に持って、自分たちに都合のいい正義を押し通す集団(勢力)の前では、ぼこぼこにされるだけだということである。

本来ならば、これほどおかしなことはないはずなのだ。おかしなことが、私たちの学問の世界ばかりか、現実の世界において、まかり通っているのだ。これは原子力関係の世界を一見すれば、すぐにわかることだ。こうしたおかしなことが平然とまかり通っている私たちの社会の、その延長線上に今のウクライナ危機を巡る国際政治の動向と国際世論を介したメディア報道と続くのではあるまいか。


いずれにしても、私の語る「平和な民主主義」社会の実現のためには、すなわち、自由や民主主義や人権や平和といった普遍的価値の実現のためには、あからさまな暴力が、帝国主義が必要となるのである。おかしなことは言を俟たないのだが、これが悲しいかな現実なのだ。それこそ、私たちの「あの戦争」とその後の占領期の出来事を理解すればすぐにわかることであろう。

付言すれば、今のウクライナとロシアの交渉を見てもわかるように、「戦争」を一方で遂行しながら、その間に、お互いに有利となるような「落ちどころ」としての「平和」の地点を探しているではないのか。私たちもそうであった。途中からは、もう戦争から足を洗うなんてことは許されなくなり、最後の最後まで引きずられてしまい、挙句は原爆を二発も投下される始末。そこにも見られるように、徹底的に暴力でもって相手をこれでもかと殴り続け、殺しながら、その挙句、私たちの欧米産の「平和」で自由な民主主義社会に、あなた方も加入できて良かったね、なんて、これほど馬鹿にされた話などないではないか。

さらに、それ以上に、アホというかおかしいのは、そんなことをされても喜々として、私たちは騙されていたのだ、私たちはどこかおかしかったのだ、あの人たちはやはりすごいし、素晴らしい人たちだよ、解放軍だよ、なんて。そうなんだよ、やはり自由な民主主義はいいもんだよ。その民主主義社会になれたから、私たちは戦後の豊かで平和な社会を実現できたのだよ云々と、もう歯止めなく「戯言」の繰り返しをして、あれからもう何十年たったのだろうか。

その間、私たちは決して問わなかったのだ。その平和な、自由な民主主義の社会は、どうやって実現できたのかという問いかけを、私たちは自らに向けて発すことはなかったのだ。私たちは自らの身体でもって、自らを傷つけ、相手を傷つけ、血を流しながらも、その歴史を、自らの頭で、言葉でもって書き留めることをしなかったのだ。その代わりに、私たちがこれまでおこなってきたのは、先の欧米産の自由な民主主義という価値(観)でもって書き直す作業であったのだ。

それゆえ、価値(規範)のレベルの話だから、決してあからさまな力というか暴力とは、つまり帝国主義とは、覇権システムとは結び付けられないままに、民主主義の話が語られてきたのである。私たちが「せっかく」自らの手を汚し、近隣諸国を侵略して、傷つけ殺しあいながらも、そうした「貴重な体験・経験」としての「帝国主義」が何らいかされないままに、片隅に放置されたままに、時間ばかりが無為に過ぎ去ってしまったのである。

以上、ここまでが、削除した前回記事の話をもとにして、改めて追加修正した記事内容である。それでは、いつものように、話を進めていきたい。


(最初に一言)

ウクライナの悲惨な状況を見ている今この瞬間こそ、私たち日本人が「あの戦争」から学んだ教訓をしみじみと噛みしめ直すときではないかと思うのだが、どうも現状は異なっているようだ。ウクライナの大統領はウクライナを守るために最後まで国民の仲間と共に戦っていて、指導者として立派であるとか、ロシアの侵略に対して、徹底抗戦しているウクライナ人の姿に敬意を表するとか、挙句はウクライナ人と一緒に、我々も戦っているという気持ちを伝えるために、できる限りの支援をしよう云々の大合唱であるから、もうあの戦争の教訓なんて、遠い過去のことでしかないのだろう。


戦うべきではないし、そんなことをしても、何の益にもならない。戦争によって、誰かを儲からせてはならない。私たちはもっと考えるべきなのだ。何故、今もウクライナに残っている国民を、もっと早くにウクライナから脱出するように、それこそ国際世論を喚起させてでも、そうするようには動けなかったのか、動かなかったのか。それを許さなかったウクライナ側の事情は何なのか。18歳から60歳までの男子国民を、彼らの意思に反してまでも、ウクライナ国外へ自由に移動させないような法律を、どうして私たちはロシアの「不法」批判・非難と同様に、その非・人道性を攻撃しないままでいるのか。

それらに関連した情報提供を、私たちは本来ならばメディアに要求すべきであろうが、そんな風には現状ではならないから、私たち自身の手によって、そうした情報を得る努力をしなければならないのは確かであろう。明日は我が身である。今の日本は、あっという間に、戦争準備体制に導かれてもおかしくない空気の中にある。

本来ならば、護憲勢力や第9条論者の出番だろうが、残念なことに彼らが活躍する場面は、そう多くはないに違いない。あの安倍元首相ですら、自由、民主主義、人権、法の支配を、たとえ価値や価値観のレベルであったとしても、当然のことのように語る時代なのだ。そこには対・中国問題や、対・北朝鮮問題があるのは確かだとしても、またその主張の内容の有る無しを別にしても、今や与党も野党も、「憲法を守る」という点においては、遜色のない立場にあるのは疑いようもないのである。

その両者の違いといえば、第9条を積極的に支持するのか、あるいは消極的に支持するのかという次元にとどまってしまい、肝心の国民の態度も、今では第9条それ自体の「有意義性」にこだわっているようにも思えなくなっている。その証拠が、今のウクライナ危機を巡るメディア報道に関しても何ら違和感を抱いていない人たちが多いことにもうかがわれるのではあるまいか。

それゆえ、野党は、これまで以上にその存在感と存在意義を示す努力が必要なはずなのに、相も変わらず、ただただ憲法を守る云々に終始したままではあるまいか。今の格差社会の問題に向き合う中で、憲法を守るということは、結局のところ、持たざる者の生活や人権を守れないということに、野党は気が付くべきなのだが、もう私はそんなことをいまさら言うことはしない。野党は終わっているのだから。

それゆえ、私たちは、そうした野党終焉状態?を前提として、「ウクライナ」の二の舞にならないためには、換言すれば、あの戦争の惨禍を再び繰り返さないためには、一体どうすればいいのかに関して、私たち自身が積極的に情報発信を介して、そこから戦争に巻き込まれることなく、私たちの命と暮らしを守る方策・方途を見つけ出していかなければならない。

*勿論、本当に野党が終わってしまってはダメなのは当然だろうが、それにしても、今の状況・状態はヒドイを通り越している。彼らは、もう党勢拡大を望んでなどいないかのように、ひたすら現状維持に躍起となっているようにしか見えない。野党といっても少しその意味を異にしている維新だけが、自民党に飽き足らない不満なお灸票を。ここぞとばかりに集票して、「改憲」勢力を大きくしているから、これもまた、私には脅威として映るのだ。


(最後に一言)


少しそうした様を想像しただけでもわかるように、何もしないで、ただただ今まで通り政府の言うことに従いながら、最悪の場合は戦争に巻き込まれ手も仕方がないとの現状維持の方が、簡単なことだろう。だが、私たちはこれまで何度、「政府の言うとおりにしていれば安全だ、大丈夫だ」を繰り返してきたのだろうか。その挙句、何度も悲惨な経験・体験をする羽目になったのではなかろうか。そして、その都度、言ってきたように、またそれを繰り返すのだろうか。「私たちは知らなかった。知らされていなかった。安全だ、大丈夫だと教えられてきたから。私たちは騙されてしまった。」と。

私には何となく明日の日本と日本人の姿が見えるようで、悲しくなるだけである。また、同じ過ちを繰り返すと同時に、「もう二度と悲惨な戦争を繰り返さないことを誓います」と、言うに違いない。歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇としてではないのだが、そうしたマルクスやヘーゲルにかかわる言ではなく、ごくごく簡単な意味で使うとき、以下のようになる。

すなわち、とても二度くらいでは済まないだろうし、庶民にはいつも悲劇で、大金持ちにはいつも喜劇となる、そんな戦争ー森友・加計・さくら疑惑問題を巡る攻防戦から、コロナ戦争、そして現下のウクライナ危機ーの繰り返しだが、もういい加減にしろとしか、言いようがない。これではもう、「野生の王国」の動物以下ではなかろうか。イヤ、動物にも失礼だろうが。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持

2022-03-12 | 日記

〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)世界平和を希求する反ロシア・反中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリスト〉の関係と、それらの関係を結び付ける「システム」と、そこでの関係を問い直すとき(続)ー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき

(最初に一言)の前に話しておきたいこと

コロナ禍の時にも感じたように、今のウクライナ危機に際してもまた、何かが蠢いているのを感じることができるのではなかろうか。それは、専門家と称される一群の人たちによる詐欺的誘導だ。人々に対して、あらゆる情報から適度な距離を保って、それらしき「真実」めいたものを探り出すことの大切さを説く代わりに、どちらか一方の「正しさ」を煽りながら、「正解」はそれしかないように人々を洗脳するかのように動いているのだ。

もとより、その理由は、私たちは「金の成る木」としての「システム」の中で生きていることから、何らかの権力・利害集団(勢力)と関係づけられて生きていかざるを得ないことによる。たとえば、その集団(勢力)には、自分の勤めている会社とか、病院とか、学校とか、役所とか研究所等々があるだろうし、またそれらの集合体である国家があるだろう。そうした権力・利害集団(勢力)の言うことを聞かなければ、飯にありつけなくなるのだから、どうしても、国内・国外の大きな権力・利権集団(勢力)の言うことに対して、異議申し立てをすることはできないことになる。

それがコロナ禍におけるコロナワクチン接種を巡る政府・マス・メディアを介した専門家の情報提供にも色濃く反映されている。米国政府とそれが奉仕する巨大な多国籍企業(この場合は製薬当関連企業)の圧力のもとに、日本政府、厚労省は動かざるを得ず、当然ながら、電通もその意を汲み、メディアを管理・指導することから、ワクチン接種を批判したり、イベルメクチン等の別の治療・予防薬を推奨する専門家がテレビの前で四六時中語ることなど土台無理ということになる。メディアがそんな専門家を呼ぶときは、どうしようもなくなったときだけである。たとえば、原発事故後、しばらくした後での「ほんのひと時」であったように。

食べていかなければならないから、どうしようもないのだ。それが、今のウクライナ危機を巡る動きの中にも明らかに見える。ここでも、私たちはどちらか一方に与するように導かれてしまう。ウクライナを擁護する権力・利権集団(勢力)を支持するのか、あるいはロシアを擁護する権力・利権集団(勢力)を支持するのか、とにかくそのいずれかを選択するように仕向けられている。

今の日本の立場は、米国に「従う以外に道はない」これに関して付言すれば、勿論そんなことはない。確かにそれは相当に難しいことだが、ひとしく覇権システムにつなぎ留められているとしても、何か他に道はあるはずだ。それを探す努力を怠ってはならないのだ。それはともかく、メディアに登場する専門家がどんな話をするのか、それはコロナワクチンに関してと同じように、彼らの話を聞くまでもないこととなる。

私のような、いずれの立場からも「自由」になりたいと思い行動する(家に閉じこもる)者は、そのいずれからも結局は嫌われ、イジメの対象とならざるを得ない。私の語る「システム」から見れば、ロシア(プーチン)もウクライナ(ゼレンスキー)もそれぞれの役割を演じながら「システム」を担い支えているのだから、とにかく「システム」からどうすれば少しでも離れられるのかを、思考することが大事だとなるのだが、どうもそれが許されないのだ。

「ナショナリズム」の立場であれ、「グローバリズム」の立場であれ、また「欧米の推進する民主主義」の立場であれ、「ロシアや中国の推進する民主主義」の立場であれ、それら両者は、私の語る「システム」論で描かれる世界・セカイ(「システム」)の維持発展に与っているという意味では、目に見える表面上の動きをよそに、水面下においては何ら対立や衝突もしていないことになる。

ここで、「民主主義」に関して少し述べておきたい。コロナワクチン接種やウクライナ危機での専門家と同様に、メディアに登場する「民主主義」や「民主化」研究の専門家たちも、彼らの背後に国内・国外の、それこそグローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)が控えていることから、彼らの披瀝する「民主主義」も、その意味では、相当な「偏向」した内容を含んでいることに留意しておいたほうがいい。

今のロシア対ウクライナ報道と同様に、民主主義対全体主義のかつての報道も、そこには数々の理解しがたい話が詰まっている。これに関しては、もう何度も拙著や拙論でも述べてきたことだが、たとえば『昭和史』(岩波新書・青版)における「あの戦争」に関する「三つの性格」を、各々個々バラバラに位置づけ理解していることにも、見いだされる。とくに、民主主義と帝国主義の関係を、「水」と「油」の関係として簡単に片づけていることだ。

これでは、「大英帝国」の「民主主義」と「帝国主義」が的確に語れないのは当然だろう。それは、覇権システムに置き換えても同じことである。大英帝国の建設の歩みの中で、すなわち、イギリスのナショナリズムの歩みの中で、民主主義の歩みと帝国主義の歩みが共に手を取り合いながら進んでいった歴史が描かれないことになってしまう・このことによって、いったい誰が喜ぶのだろうか。何が隠されてしまうのだろうか。

私の語る「システム」は大喜びするに違いない。私のように、差別と排除の関係から「システム」は構成されているとの批判も、これでは最初から話にならないのは目に見えている。そしてその「システム」の下でつくり出されたグローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)もそうに違いない。なぜなら、私たちの世界・セカイに対する批判は、決してそうした集団(勢力)やそれを動かす私の語る覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの「三つ」の下位システムから構成される「一つ」の「システム」にまでは及ばないからである。

それとの関連から言えば、これに関してもグレタ演説と彼女が進める気候変動を巡る話に関するブログ記事で、何度か指摘したことだが、気候変動に関して熱心に論じる若者を中心とした人たちは、CO2の削減を叫んでも、巨大な権力・利害集団(勢力)や「システム」の抱える問題を、これでもかとは訴えない。ましてや自由主義、民主主義、人権、経済発展と民主主義の発展の関係、さらには「市民革命」発の普遍的価値とその実現の歩みとしての普遍主義に関する論及はさらさらない。もしあるとすれば、それらを支持・擁護する時だから、これではどうしようもないことになる。

それどころか、彼らは、自分たちも結構、齢を重ねているくせに、自分たちを「子供」として位置づけ、温暖化をもたらしている責任を取るべき「大人たち」に対しての異議申し立てといった構図の中で、運動を展開している始末だから、ピントのズレも相当なものなのだが。それにしても、コロナワクチン接種やウクライナ危機を巡る報道も含めて、どうしてこんな風に何もかもが、ことさら何かを隠蔽すると同時に、何かを際立たせる動きの中に収斂されてしまうのだろうか。勿論、私のそれに対する返答は、読者も辟易しているだろう、私の語る「システム」論の観点からのそれであるのは言うまでもない。

いずれにしても、今のこの鬱陶しい雰囲気の中であるからこそ、普段は気が付かないことが見えてくるのに違いなかろう。だが、そのような時(とき)は、あっという間に過ぎ去ってしまい、またいつもと変わらぬ何も感じることのない日常が戻ってくるだけだろう。それでは、いつものように、話を始めたい。


(最初に一言)

世界を「ワン・ワールド」に向けて「ヒト・モノ・カネ」の国境を越えたその歩みを目指す動きとして、いわゆるグローバリゼーション(グローバル化)と言われる動きがある。それは1970年代以降から語られてきた。そしてその動きはナショナリズムと対極をなすものであると。最近では、米国のトランプ善大統領の下での米国第一主義を、グローバル化に真っ向から反対するナショナリズムとして位置づけ理解する議論が盛んであった。果たして、それは本当だろうか。


いわゆる大航海時代から、あるいはもっと以前から、私の語る一つの「システム」の形成とその発展に向けての歩みが見られたと、私はみている。さきの「ONE WORLD」に対比されるのが私の語る一つの「システム」である。その「システム」においては、たとえ、あらゆる「壁」がなくなったとしても、差別と排除とその関係としての「バリア」は絶えず存在しているのだ。その意味では、世界の人々が、1(%)対99(%)の関係に置かれて、大多数のものが99の中に位置づけられたとしても、その99それ自体の中は、私の語る「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係において、{[ ]→(×)[ ]→×[ ]}の関係として描かれるように、常に差別と排除の関係を担い支えているということに留意すべきである。付言すれば、「1」に関しても、そうした関係がみられるということだ。

それは、私の語る1970年代以前のA、B、Cの「システム」においても、また1970年代以降、今日にかけて発展中のB、C、Aの「システム」においても見出される関係である。とくに、後者の「システム」において、B、C、はナショナリズムの動きが、そしてAではグローバリズムの動きが顕著であるにもかかわらず、B、C、Aのそれぞれのグループにおいて、{[ ]→(×)[ ]→×[ ]}の関係を常に確認できる、と私はみている。

そして、私の語るB、C、Aの「システム」を、B、Cにおけるナショナリズムと、Aのグローバリズムとが相互に補完しあいながら、「システム」の一体的関係を構成しているのである。その意味において、私の「システム〉との関係において、ナショナリズムとグローバリズムの動きは、相互に対立するものではなく、それぞれが支えあう一体的関係を構成している、と位置づけ理解されるのである。

そうした関係は、1970年代以前のいわゆる当時のグローバリゼーションとして位置づけ理解される「インターナショナリゼーション」の時代においても、A、B、Cのそれぞれのナショナリズムの動きが相互に対立するというよりは、むしろ相互に関係づけられながら、一つの「システム」をつくり出すことに与っていた、と私はみているのである。

ナショナリズムもグローバリズムも、そして欧米の支持する民主主義もロシアや中国の支持する民主主義もまた同様に、私の語る一つの「システム」の「関係」の中で、相互に結び付けられる中で、一体的関係を構成していると、私はみている。それゆえ、先に示した〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)世界平和を希求する反ロシア・反中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリスト〉の関係は、たとえ表面的には相互に対立敵対しているかのように見えたとしても、実は、私の語る「システム」を、この場合は、B、C、Aの「システム」に該当するのだが、それを担い支えあう関係を構成しているのである。


なんと恐ろしいことであろうか。アのウクライナのゼレンスキーとロシアのプーチンが、簡単に言えば握手をする関係にあると、私は言うのだから。さらに、それに輪を重ねるように、世界平和を希求する世界市民としての存在であると自ら考えている人たちも加わっているということになることから、さらにわけのわからないことになってくるではないか。

今のウクライナの惨状を見るにつけ、世界各国の「軍産複合体」とそれに関係したグローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)は、喜色満面の様相を呈しているのではあるまいか。それこそ気色悪い話だが、彼らはここぞというばかりに株を操作し、銃弾の補充のための資金調達にいそしんでいるはずだ。「金の成る木」としての「システム」は戦争をこよなく愛する。戦争は「システム」の「高度化」には欠かせない手っ取り早い手段なのだ。

さらに、ロシアとウクライナの戦争を仕組んだ者たちの狙いは、B、C、Aの「システム」のさらなる発展である。そのためにはその先頭に位置する中国に、もっともっと働いてもらわなければ困るということだ。勿論、「金の成る木」としての「システム」が、先の権力・利害集団(勢力)を使い戦争を企てさせると同時に、中国を走らせるのだが。

とにかく、これで「一帯一路」構想(計画)の実現のめどはついたかに見える。戦火に苦しむ人たちのためにも、安価な日用品の供給か早速求められる。さらに、廃墟と化したウクライナを再建するためには、インフラ整備は急務だ。そのためには相当なお金が必要となる。ヨーロッパや米国経済だけではその肩代わりは難しいだろう。そこで中国とその傘下にある中央アジア、アフリカ諸国の出番となる。さらに、ブリックスの構成国であるインドやブラジルも、そしてそれに加えて東南アジア諸国も総動員されるだろうから、B、C、Aの「システム」の発展に向けて拍車がかかるのは必至となる。


(最後に一言)


勿論、ここでそれこそ馬淵氏らが説くように、ロスチャイルド財閥に代表される世界金融資本家云々の話も関連してくるだろうが、それはその道のプロにお任せするとして、私はあくまで、私の語る「システム」論の観点から論及していくのみである。

それは同時に、比較政治学のこれまでの「民主化」研究に異議を唱える作業とも関連していることは言うまでもない。経済発展と民主主義の発展の関係を軸とした民主化研究に対して、私は何度も語ってきたように、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」の観点から問い直す作業の必要性を説くと同時に、それに関連した枠組みを提示してきた。それが私の語る「システム」論として、拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」ー「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ』(晃洋書房、2014年)の中で語られている。とくに、88-91頁にある私のモデルを、読者には目をとおしてほしいのだ。

そこから私なりに得られた収穫は、私たちが規範としてきた自由主義的民主主義は、私たちの依拠すべき目標としてはならないとのことであった。それは、私の語る差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきた「システム」が提供する政治システムであり、それゆえ、その民主主義システムそれ自体も差別と排除の関係を免れないとするものであった。そこからまた、いわゆる、普遍的価値とその実現の歩みとしての普遍主義は、改めて批判的観点から再考されなければならないとの話につながっていくのである

だが、私の主張はそれこそ私の語る「システム」の前では何の力もないのは、これまた確かなことである。しかしながら、それはそうだとしても、私はこの闘いをやめるわけにはいかないのだ。気候変動を巡る若者たちを見ながら、彼らに何とかして、私の話を伝えたい。彼らの力になれるのならば、何とかしたいのだ。それは護憲論者や第9条論者に対しても、同じ思いである。

早く気が付いてほしいのだ。私たちの生きている現実の世界・セカイの姿をつくり出してきた仕組み(構造)に関して。世界の平和を叫べば叫ぶほど、戦争が導かれることになる。どうしてなのか。私の述べる拙著の副題とも重なる、あのフレーズを想起してほしい。すなわち〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉を。その文言の中には、それこそ大きな秘密が隠されているのである。その秘密をまずは解き明かしてほしいのだ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(削除・訂正版)〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオ

2022-03-10 | 日記

(削除・訂正版)〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)世界平和を希求する反ロシア・反中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリスト〉の関係と、それらの関係を結び付ける「システム」と、そこでの関係を問い直すときー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき(続・続)

 

*(2022,3,5)の記事がずっと「下書き」のままであることに先ほど気が付いて、びっくり。今日(2022,3,10)に改めて投稿し直した次第。以前の記事投稿後に、ナショナリスト=グローバリストの関係を図式に入れてないことに気が付いて訂正した。また、橋下氏の発言に賛成云々の私の真意が伝わらないと思い、そのくだりを削除して、新たに分を書き直した。それで投稿したと思っていたのだが、下書き状態のままであった。最近の私は、はっきりわかるのだが、悲しいかな、集中力と注意力?が低下した。

 

(最初に一言)の前に話しておきたいこと

とにもかくにも、今のウクライナ「危機」とそれを巡るメディアの報道は、不謹慎な物言いではあるが、「面白くもあり、面白くもない」のが私の正直な感想。私は、不謹慎な物言いというばかりか、毎日毎日が不謹慎というか、本来ならば許されてはならないような差別と排除の関係を何ら疑うことのない・疑うことなど許されない人間関係(環境)を元につくられてきた世界・セカイの中で生きているのだから、これはもはや不謹慎云々では済まされない話であるのは間違いないことなのだが。

それを踏まえた上で言うならば、今のネット空間は、それこそ「騙すゴミ」としての役割を演じてきたマス・メディアでは到底、期待も提供もできないような情報洪水の渦が巻いているほどに、一見したところでは、「盛況」であるが、その中身は何も語っていないというのが実情ではあるまいか。それはウクライナ危機に関しても同じだ。

たとえば、プーチン「善」(「悪」)として、またゼレンスキーを「悪」(「善」)として、もっぱら二項対立的図式で語る議論は論外だとしても、そもそもそうした議論の参加者たちは、彼らがそれこそ、いかなる「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為のネット・ワークの関係の中で、同時にまた、その関係の中のどの「地点・段階」に位置付けられているかの確認もしないで、好き勝手な話に終始して、それで溜飲が下がれば、一先ず良しといったお粗末極まりない状況・状態にしか思われないからなのだ。

換言すれば、私たちは自らの生を全うするために、何を食べているのか、またそれは自分を含めた他人とのいかなる関係の下で行われているのか、そしてまた、その食べ方自体を、どのように正当化・合法化しているのかといった自らの生き方を明示しない・できないままに、ひたすら自分の周りの出来事を、ああだ、こうだというだけなのだから、これほど簡単なことというか無責任なことはないだろう。

表面的には妥当というか、穏当な議論の一つに、以下のような類のものが散見される。すなわち、確かにプーチンの暴力行使は絶対に許してはダメだが、同時にまたウクライナのゼレンスキーが体現している欧米の国際金融資本やCIAの支持・支援を受けたネオコン・ネオナチ勢力を跋扈させてもダメだろうとの意見がある。その代表的論者の一人として、馬淵睦夫氏がいる。

私自身、馬淵氏から教えられることは多々あり、氏の「冷戦」に関する論は、とくに当時の米国とソ連の力の優劣関係に対する氏の評価には一目置かざるを得ないと思っている。だが、氏のロスチャイルド財閥に代表される国際金融資本が裏で暗躍して米国や日本をはじめとする世界各国の政治が大きく歪められてきたとのいわゆる「ディープ・ステート」論と、そうした政治支配が目ろんできたとされる「グローバリスト」である「共産主義者」による世界統一政府の樹立に向けての動き云々の話には、少し待ってほしいというのが、私の本音である。

もとより、私自身も、そうした主張や見方の説得力を認めないわけではないし、今のマス・メディアの垂れ流す偏向報道とは月とスッポンの良心的情報提供であるのは確かではあるとしても、そこにいつもとどまっている状況・状態ではやはりだめだというしかないのである。私がこだわりたいのは、そこに至る前に、まだまだ論及されるべき重要な問題が残っているということなのだ。

すなわち、「ディープ・ステート」の担い手たちは一体、いかなる「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の国際的ネット・ワークの関係をつくり上げてきたのか、そして、今またその関係をどのようにつくり替えようとしているのかに関する議論がもっともっと必要とされるのではあるまいか、と私は考えているのだ。たとえば、私の言う覇権システムとそれを前提とした世界資本主義システムや世界民主主義システムとそれらから構成される一つの「システム」との関係・関連から、先の「衣食と礼節」の営為の関係に、もっと目を向けてほしいというのが、私の協調したいところである。

たとえば、そうした論との関連において、プーチンの暴力行使や、ネオコン・ネオ・ナチ勢力がウクライナの東部の二州のロシア人や親露派系ウクライナ住民に対する暴力行使というとき、それらの暴力は、先の「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為のネット・ワークのいかなる関係に対して向けられたものなのか、同時にまた、その関係の中のどの地点・段階に対して向けられた行使であるのかについて、私たちが理解できるように、論を展開してほしいということだ。

いずれにせよ、馬淵氏の説くような議論からは、それでは私たちが今、あるいは今後どのようなことに注意しなければならないか等の問題など見えてはこないのは当然だろう。それに対して、私が指摘した「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)の営為」のネット・ワークの関係というとき、そこには当然ながら日本に暮らす私たちも含まれている。すなわち、ウクライナにおける出来事は、日本の私たちにとって地理的に遠い他人事の話ではなく、常に「共時的関係」として、先の関係を担い支えていることを確認できるに違いない、と私はみている。


それでは、いつものように話を進めていきたい。

(最初に一言)


今回記事のタイトルにあるように、私たちの議論は、ほとんどいつもプーチンとかゼレンスキーとか、習近平とか、ヌーランドとかソロスとか、あるいはディープ・ステートの国際金融資本とかを槍玉にあげて喧々諤々と論じるのだが、それらをナショナリズムとグローバリズムとの関係から、また親欧米派と反欧米派との関連から、それぞれ位置づけ直す作業が、まずは求められなければならない。

それから、これが一番大事な作業であると私は確信しているのだが、ロシアの「土着的なニオイの漂う?」・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)「世界平和」を希求する反・ロシア・反・中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストが、さらにどのような関係の下に位置付けられるかについて考察することが求められよう。なお、今回タイトルで示した記号、たとえば(VS<=)の意味するのは、今のところは両者の対立よりも、両者の利害関係における思惑で一致している状況・状態を表している。

言うまでもなく、私はそれを私の語る「システム」との関係において捉え直すことを、読者に訴えるのである。そうすることによって、はじめて個々バラバラに取り上げ考察しているときには見えなかった各々の利害勢力の抱えている問題が見えてくるのである。同時にまた、それらの勢力が「システム」を介して結びつく中で、それらの利害勢力が抱える問題と併せて、それらを結び付ける「システム」の抱える問題もまた見えてくるのである。さらにそこから、その「システム」の中で、それらの利害勢力が位置付づ直されることによって、改めて確認できる問題にも目を向けることが可能となる、と私はみているのである。


私がこうして提言している作業を介して、従来の一国枠的な、二項対立的思考の問題が浮き彫りになると同時に、改めて関係論の観点から、ナショナリズムやグローバリズム、自由主義や民主主義、人権、平和等の抱える問題が、これまで以上に鮮やかに確認できる、と私は理解している。その関連からいえば、護憲派や改憲派の抱えてきた問題が、悲しいほどに見えてくるのである。同時に、私の語る「システム」において、彼らの役目はもう終わってしまっていることを、確認できるに違いない。

なお、すでに、私はこれまで拙論や拙著においてそれに関して論述してきたことを、ここで述べておきたい。詳しくは、拙著『史的システムとしての民主主義』、『覇権システムかの「民主主義」論』『「日本人」と「民主主義」』『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」』を、また先の馬淵氏の議論の問題点に関しては、〈「歴史叙述」の「神話」に関する一考察」〉を参照されたい。


(最後に一言)


日本の政治家や官僚、知識人、ジャーナリスト、研究者等は、彼らの立ち位置がいかなるものであれ、日本国憲法を支持することを介して、「市民革命」の推進者が提唱した普遍的価値と、その実現の歩みとしての普遍主義の支持者として位置付け理解されることを自覚しておく必要があるだろう。

さらに、今日の対・中包囲網に際して、自由、民主主義、法の支配、人権といった普遍的価値とインド・太平洋の自由な活動を訴える立場を共有することによって、阿部元首相と憲法9条支持者との距離は一段と接近していることに、注意する必要がある。同時にそこから、彼らは、両者の立場の違いはあれ、新・欧米派として位置づけられることになる。さらに、そこからまた、彼らがそれを自覚できているかどうかに関係なく、彼らは覇権システムを支持・是認しながら、覇権システムを正当化・合法化しているのは間違いないのである。

すなわち、それは言い換えると、彼らが「親分ー子分」関係とそこにみられる差別と排除の関係を正当化・合法化しているということなのだ。おそらく彼らは、特に日本国憲法の積極的支持者は、9条支持者も含めて、自分たちはそんな差別と排除の関係など認めてもいないし許しもしないと反駁するに違いないだろうが、そうなのである。

それゆえ、彼らは憲法が具現化する普遍的価値や普遍主義に関しても、それらが差別と排除の関係に刻印されているなどとは認めないだろうが、それにもかかわらず、私の言うとおりなのだ。それゆえ、安倍元首相はともかく、自由や民主主義、人権といった普遍的価値を共有する立場にあると、9条論者や憲法支持者が声高に叫べば叫ぶほど、私には彼らが自ら、自分たちは差別主義者だと公言してはばからないでいる姿を見て、滑稽というか奇妙に思われるのだ。その彼らが、レイシストを糾弾するのだから、もう何をかいわんやなのだ。

それはさておき、私の語る「システム」は、その意味では差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきたのだが、そうした差別と排除の関係に対して、それでは土着的反欧米派のナショナリストは、また世界市民的親欧米的ナショナリスト=グローバリストは、従来の差別と排除の関係とは異なる、別の何かに替えるべく行動しているのかと問われれば、その答えはNoなのだ。

残念ながら、決してそうではないのだ、彼らはともに、その立場の違いはあれ、結局は私の語る「システム」を担い支えるように、行動しているだけなのだ。それゆえ、プーチンにも、ゼレンスキーにも、習近平にも、トランプにも、売電にも、さらに日本の首相にも、肩入れすることなどできやしないのである。

確かにそうなのだが、それにもかかわらず、私たちは覇権システムの中で生きている以上、力のある者や国家に背を向けて逆らいながら生きてはいけないのも、また確かなことなのだ。それゆえ、これまた何度もこのブログ記事でも述べてきたように、次期覇権国と目されている中国に逆らって生きることなど、まさに愚の骨頂となる。

それゆえ、日本と日本人は、最低でも。しっかりと向こう2,30年先の世界の様を見据えて行動しなければならないのだ。先の国連臨時総会でのロシア非難決議において反対ないし棄権した諸国は、私の語る「システム」論で描く{[B]→(×)[C]→×[A]}の「システム」とその関係の歩みにおいて、これから「システム」の「高度化」を担うB、やCの諸国であったことを肝に銘じておく必要があるのだ。

ブラジル、ロシア、インド、中国は、いわゆるブリックスを構成する国々であり、その傘下に置かれるであろう中東やアフリカ、そして中南米諸国の主だった国が、反対や棄権に回ったという事実を押さえておく必要があるだろう。また国の数ではなく、その国が占める人口数にも注意を向けておくべきなのだ。

それらのことを鑑みるとき、日本と日本人の行動は自ら進んで自分の首を絞めているようにしか見えないのだ。政治において大切なことは、「責任倫理」であり、「信条(道徳)倫理」ではないとは、かのM・ヴェーバーの至言であるが、私たちはいまだに「あの戦争」から何も学んではいないのではあるまいか。当時の日本はドイツやイタリアと組んだが、今そのドイツとイタリアは、米国と英国。仏国に他ならない。

注意しなければならないのは、これら米、英、仏国は最後は中国と組む。中国もしかりなのだ。結局、今回も日本と日本人は弾き飛ばされるに違いなかろう。否、もうすでに弾き飛ばされて、誰からも相手にされてはいないのが現実であろうが。それでも、これからも、中国の前に進んで頭を垂れる生き方に努めることが肝要だと、私は言い続けるしかあるまい。それは同時に、「山椒は小粒でもピリリと辛い」的な人間としての生き方を、この日本で生き抜く中で実践することを意味している。

何度も言うのだが、自分の国を守るために、命を賭してでも戦うなんて戯言は、決して言うべきではない。それは私の語る「システム」が喜ぶだけなのだから。とにかく戦いたくなければ、逃げ続けるしかあるまい。それは卑怯なことではない。卑怯・卑劣なのは、戦いたくない者を戦争へと導く者たちなのだ。

破廉恥極まりのない連中どもが、これからますます増えていくに違いないだろう。お願いだから、護憲派や第9条論者の中から、そんなアホどもが出てこないことだけを、祈念している。とは言え、歴史が教えてくれるのは、皮肉なことにアホな連中に真っ先に加わろうとするのは、「平時」において「平和」を訴え続けてきたものたちなのだ。(日本は、戦後一貫して、世界の戦争に加わることなく「平和」を守り続けてきた・守ることができたのだ、とそれこそ能天気に語っていたのがつい昨日のことではなかったろうか。)

私に言わせれば、そんな平時など、またそんな平和など、どこにもない。そして、「戦時」において語られる平和は、「金のなる木」としての戦争を常に組み込んできた「システム」が提供する「平和」(「パックス」)であり、日本国憲法の提唱してきた平和であることをゆめゆめ忘れてはならないのだ。それを今のウクライナの惨状が教えてくれているのではあるまいか。そんな轍を今また、踏むことだけはするべきではない。

それゆえ、逃げることを決めたのならば、最後まで闘え。どのようにして「私の語る「システム」と立ち向かえるのか、立ち向かえないとしても、そこから少しでも逃げる、巻き込まれない・巻き込まないで離れることのできる「へいわ」の在り方を、それこそ「もう、死んでしまう」と思うほどに、夢想すべきであろう。


(お詫び)

今日の朝の投稿記事には、この後に(付記)を付けていた。そこには、〈橋下徹さんがウクライナ出身学者と生放送で口論…”国外退去”発言が物議「じゃあ一体誰が国を護る」「よくこんな的外れなこと言えるな」 2022/03/04 06:59 橋下徹さんc 中日スポーツ 提供〉の記事を引用貼り付けて、いつも物議をかもす言動に終始する感のあるあの橋下徹氏がいつになく、「まともな発言」をしているように、私には思われたことから、その記事を引用貼り付けて投稿していた。

だが、その投稿後も、何かもやもやしたものが私の頭から消えることもなく続いていたので、その引用張り付けた文章は削除することにした次第。ご容赦を。それもあり、少しその辺の事情を述べておきたい。

私が共感したくだりは、ウクライナ出身の国際政治学者であるグレンコ・アンドリー氏が、〈ウクライナとロシア間に妥協点を作るのは難しく、戦況が有利かが結果に直結するため、国際社会の協力や支援が欠かせないとの見解を示した〉ことに対して、橋下氏が〈「その間にどれだけのウクライナの人たちが命を失うのか」と非難し、闘い続けると被害が甚大になると主張した。続いてプーチン大統領が高齢で長くは指導者として君臨しないとの見方を示し、積極的に国外退去を進めるべきだと助言〉したとの報道に接したからだ。

とくに、「積極的に国外退去を進めるべきだと助言」のくだりは、大事なところだ。そして、続けて、橋下氏の〈「祖国防衛。そこで命を落とす、それしかないんだって状況にみんななってしまうと国外退避することが恥ずかしいことだ、やっちゃいけないことなんだ、売国奴なんだっていう批判を恐れてしまう」と訴えた。〉のくだりも、私には、つい最近のテレビ番組で安倍元首相と「核武装の必要性、核のシェアリング」云々の発言を斟酌するとき、まるで別人格の橋下氏の発言にも聞こえるのだが、それはそうとしても、これまた至極常識的な内容と理解した次第。

橋下氏の発言に対して、 先のアンドリー氏は〈「もしここで降伏して、ロシアに全土を占領されたら結局犠牲者が増えるだけ」と反論。〉したのに対して、橋下氏は〈ウクライナの18~60歳の男性が国外退避できない現状を挙げ、さらに反論。〉したとのこと。これに対して、アンドリー氏は〈いら立ちを示し「20年後、ウクライナ人残りますか、という話です。ロシアの支配を受けて」などと訴え、言い争いはヒートアップした。〉とのこと。

このくだりは、まさに「あの戦争」の開始から敗戦、そして今日に至る「日本」と「日本人」の歴史と絡めて、再考すべき重要なところではあるまいか。最初から圧倒的な戦力の差のある米国と戦うことなど無謀であったのだが、そんな争いにどれだけの人が巻き込まれ、どのような悲惨な末路をたどったか、まだ昨日のことではあるまいか。

その戦争遂行中には、いろいろな情報が飛び交い、日本は勝利勝利の連続で、鬼畜米英はもうあと少しで降伏する云々。「大本営発」の情報合戦の渦中に巻き込まれてしまい、冷静な判断もできなくなるのは、当然だろうが、もう少し、過去から学び直すべし。今のマス・メディアの報道は、恐ろしく偏頗であり、もう異常というべきかもしれない。コロナの専門家もロシアの専門家もアメリカの専門家も、司会者やコメンテーターと同じ話を、結局はオーム返しのように、繰り返すだけ。

そして、なんと最後には、「今の日本ができるのは、世界平和を訴える声の輪の中にともに加わり、その声を世界大に広げていくことしかありません。」で幕となる。誰も語らない、語れないのだ。その世界平和とは、たとえば人間にたとえるとき、一体どのような形をしているのか、と。また、その世界平和は、どのようにして実現できるのか、この問いにもこたえられないのだ。ただ、平和を訴える人の数を増やして、その声の輪を大きくしていこうというのだ。

その声の輪に参加する人は、当然ながら、毎日の生活がある。その生活のために私たちは働く。その働く場所はいろいろあるし、働き方も千差万別だ。給料も異なる。その職場において、平和は保証されているのか。正規と非正規の考える平和は同じではないし、いじめを受けている生徒とイジメている生徒には、そもそも両者に共通する平和などはない。

彼らも、先の平和を訴える声の輪に加われば、それこそ平和になるのか。私の語る「システム」論で提示される「平和」とは、覇権国の親分の提供する平和、つまりは「パックス」だが、その平和と、今の反・プーチンを叫ぶ人たちの平和とは、同じなのかそれとも異なるのか。

同様に、今また「国際秩序」が脅かされている、国際秩序の変更を許してはならない云々の声が喧しく聞こえてくるのだが、それではその国際秩序とは、一体なんであるのか。覇権国の親分を中心に、世界の強大国が集まって、その下に子分を作りながら、覇権システムがつくられてきた。そこでの「親分ー子分」関係をもとに、親分の提供する先の平和(パックス)があるのだが、その平和を維持するために、覇権システムの親分たちは彼らの秩序を提供したのだ。それが国際秩序というものだ。

ここで私の言う国際秩序は、今のウクライナ危機を巡りメディアで報道されている国際秩序とは、どのように異なるのか、また同じなのか。これに関しても、メディアは当然ながら何も語らない。国際秩序と、それでは、フランス革命以降の普遍的価値や普遍主義とはどのような関係にあるのだろうか。

これらの問題については、もうすでにこのブログ記事でも論じてきたが、次のブログでそれについて取り上げてみたい。何か、話が、橋下氏に関する内容からそれてしまった感もあるが、最後に少しまとめておきたい。

とにかく、そのテレビ番組は紛糾したようで、最後には、〈見かねたMCの谷原章介が「橋下さん、やっぱりこれはウクライナの人にしか分からない歴史的な背景みたいなものがあるのかも」と間に入って激論を中断させた。〉となったということなのだ。〉ようなのだ。

その後、橋下氏に対しては批判。非難の声が上がったとされている。それは、
〈「じゃあ一体誰が国を護る」「プーチンが死んでも思想を継いだ次の指導者が出たら同じ」「生き残っても国が無くなったら意味ないと思ってるから皆必死になってる」「ウクライナ出身の人に対してよくこんな的外れなこと言えるな」など手厳しい意見が散見された。〉云々、と。

私には、橋下氏に対する批判は、それこそマトハズレ的な発言であると思うのだが、それにもかかわらず、この種の議論は、先の国際平和の声の輪とどこかで同調しながら、日本の言論空間を、国際世論という名の美名のもとに、脅迫されて委縮させてしまうことに手を貸すのは必至ではあるまいか。それこそ、私の語る「システム」の思うつぼではあるまいか。

いずれにしても、これでもかという具合に、私たちは「システム」の繰り出すご都合主義的な発言の前で翻弄されてしまうのは致し方ないとしても、それでも死にたくなければ、そんなウソ話に対しては断固として、言論空間で闘う以外に道はなかろう。

とにかく、今回はこの辺で。何かまとめきれない思いも強いのだが、自分の体のというか、頭の調子もあるので、悪しからず。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(加筆・修正版)どうすれば覇権システムの中で私たちの命と暮らしを守ることができるのか。現状ではとても守れそうにないことを、連日のウクライナ危機報道に接して思い知らされるのみ。第9条に代わる何かが必要だ

2022-03-09 | 日記

 

 

(加筆・修正版)どうすれば覇権システムの中で私たちの命と暮らしを守ることができるのか。現状ではとても守れそうにないことを、連日のウクライナ危機報道に接して思い知らされるのみ。第9条に代わる何かが必要だ。たとえば、日本国家は、国民の命と暮らしを守るために、有事の有無にかかわらず、「避難・脱出回廊の常時開設」を義務として背負い、いかなる国民もいつ何時でもその権利を行使できる云々の条項が必要だ。ー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」
と「センソウ」を再考するとき(続・続・続・続)

*日本国憲法とその第9条は、日本人を国民として覇権システムに、そして私の語る「システム」に、組み込むのを当然としていることを、改めて私たちは銘記しておかなければならない。その意味において、第9条は、確かに戦力の不保持、交戦権の限定的放棄を謳ってはいるものの、同条は、覇権システムの中で存続すること自体を、疑問視したり、そのシステムから離れることを目指してはいないことを、改めて確認すべきである。

(最初に一言)


とは言ったものの、難問だ。とてもできそうにもない。だが、これは大事なことなのだ。それはそうなのだが、有事の際、普通の日本人を、どこの国が受け入れてくれる。ベトナムではないだろう。技能実習制度を介してあれだけひどい仕打ちをしているのだから。韓国には、どの面下げていけるだろうか。北朝鮮は、とても無理だろう。中国はどうか。これまで靖国にはいくなと言われても、馬鹿な政治家が何度も参拝するのを許してきたからなあ。あの戦争や歴史教科書、その他いろいろなことを考えると、ここも無理だろう。

**記事投稿後、肝心なことを言うのを忘れていた。おかしなものだ。日本人が好きな色の白い人たちの住む欧米諸国はどうかという話を、どうしてなのか言及していないことに、ずっと後というか、今しがた気が付いた次第。日米安保体制の下、戦後一貫して奴隷の如く奉仕させられてきた米国は、有事の際に普通の庶民を受け入れてくれるのだろうか。またあれほど自由、民主主義、法の支配、人権といった普遍的価値を共有するとして、対・中国包囲網に加わっていた他の白人の支配する諸国はどうだろうか。残念ながら無理だろう。私にはそれが分かっていたので、欧米諸国に関しては、書き留めることさえしなかったのに違いない。

そんなこんなで、結局は、どこにも逃げられそうもない。それを考えただけでも大変だ。それでは、仕方なくこの日本にとどまるしかないのか。ロシアによる爆撃によって廃墟と化した今のウクライナの惨状を見るにつけ、明日の日本と重なってしまう。日本は四方を海に囲まれているから、簡単には逃げられない。爆撃もされ放題となりかねない。それでも、安倍や菅、小泉、さらには竹中等々は、ちゃっかり、国民のお金(税金)を元手にして彼らの利権蓄財を介して人道回廊ならぬ「利権回廊」をつくっているだろうから、最後には逃げられてしまうのが落ちだろう。


それはさておき、私には、「プーチンの暗殺指令」といったニュースが公然とネット空間で飛び交う中、世界各地で「平和」を願う大合唱の動きが、皮肉にも、私を覇権システムの中に押し留めてしまい、そこから逃げ出すことを断じて許さないような響きとして伝わるのは、一体どうしてなのか。

あまりにも常軌を失したメディア・言論空間の中で繰り返される狂気と化した平和や民主主義を礼賛する言説の洪水は、何かもうイジメの構図そのものではあるまいか。すなわち、必ずどちらか一方に、そしてその一方は、あらかじめメディアを総動員しながら「善」とされ、他方は「悪」とされているのだから、もうどちらに加わるかは、押して導氏なのだ。

その約束事をもし、破ろうとするならば、それは恐ろしい顛末が待ち受けているかのようだ。さらに、傍観者の立場はさらさら許されないといった重苦しい雰囲気が漂っている中で、私たちに踏み絵を迫るように思えて仕方がないのだ。どちらか一方に与しろと迫るやり方に対して、「それはおかしいのではないか」という声をかけた瞬間、もうこれでもかというばかりに猛バッシングの嵐が待ち受けているように思えるから、これでは自由だとか民主主義がどうだのとか、ましてや平和云々を論じることもできない。

そんなことさえ許さない今の風潮なのだ。そうした圧力というか暴力を私たちに行使しているものの「正体」こそが、民主主義的手続きをある時は要求し、またある時はそうした手続きで選ばれた政権をクーデタで公然と転覆させても何ら恥じることさえしない「不当な勢力」ではあるまいか。

私は今でもはっきりと覚えている。民主主義的手続きを経て選出されたチリのアジェンデ政権を、暴力でもって打倒した米国の民主主義政権と米国CIAのクーデタ工作、そしてそれと連動しながら、米国に支持・支援されたチリのピノチェト将軍の指導する軍事政権の誕生の歩みを。これは、ウクライナにおける歴史と酷似しているのではあるまいか。

この時、世界中でそれは断じて許されない、ピノチェト軍事政権の不当な暴力支配と米国の民主主義政権の過ちを許してはならない云々の世界的大合唱は残念ながら、おこらなかったのだ。それどころか、むしろ逆に、そうした暴挙を歴史の表舞台から目につかないように、メディアの報道は、この時も偏向報道に努めていたのだ。その偏向報道は、今回のウクライナ危機においても、「健在」ぶりを発揮している。そこには、それを可能とさせる、私の語る「システム」の下でつくり出されたグローバルな巨大な権力集団の存在が確認できる、と私はみている。そして、今まさに「システム」は、この権力集団を使って、現下のウクライナ危機を演出することにより、{[B]→(×)[C]→×[A]}で描かれる世界・セカイのさらなる発展に向けて邁進中なのだ。

****またまた記事投稿後に、〈現下のウクライナ危機を「演出」〉の箇所が気になって仕方がなくなり、ヤマカッコとカギカッコで、何とか誤解を避けようとして、追加修正した次第である。「演出」などの軽い言葉を使いたくはなかったのだが、私の語る「システム」はそんな風に、何ら罪悪感など持ち合わせてはいないのだ。それは「システム人」としての私たちも、自分たちに火の粉が及ばない限りは、対岸の火事でしかないはずだ。明日は我が身となって跳ね返ってくる覇権システムと「システム」の中で生きているはずなのに、いつもながら、それが現実の私たちの姿である。

(最後に一言)

ずっと以前の記事で、私は「阿修羅掲示板」について、もうそろそろ「卒業」したい云々と述べていたが、その際、そうはいっても、おそらくはこれからも見ることをやめないだろう、と述べていたのだが、実際、今もずっと見ている・聞いている。

とくに、こうした危機の際には、コロナ危機も含めてだが、「(阿修羅)総合アクセスランキング(瞬間)」には、救われる思いでいっぱいだ。下手な学術論文(オットー、これはまさに私自身)など足元にも及ばない記事がいっぱい、詰まっている。読者のコメントからも学ぶものが多々ある。これでもか、と私の無知を知らされるのだが、それはそれでありがたいというしかない。

もとより、すべてにわたり賛成というか納得するわけでもないのだが、それにもかかわらず、今の偏向した時代にあって、バランス感覚を確認・保持させてくれる上で、とても貴重な言論空間であるのは間違いなかろう。私自身も投稿を何度か試みたのだが、なかなかうまくできないので、投稿はあきらめた次第。それでも、これからもお世話になるだろうから、陰ながら応援していきたい。


***(付記)

それにしても、私たちは臆面もなく「人道回廊」などの用語を使うのだが、そもそも私からすれば、よく言えるワイ、なのだ。私はいつも論じているように、私の語る「システム」論の世界・セカイの中で、私たちは生きている。それは、覇権システムとそれを前提としてつくり出されてきた世界資本主義システムと世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」空間である。

それに関しては、これまでも何度も私は語ってきているが、ここでは(2022,2,26)の記事(私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき)のある下りから引用貼り付けておきたい。

そこで、私は次のように述べていた。すなわち、ーーー「システム」に突き当たるのではあるまいか。その最初は、個人や集団や共同体(国家)間における自由とか主権として位置づけられる自己決定権の獲得とその実現をめぐる力(暴力)と力(暴力)の争奪戦を介した親分ー子分関係に見る差別と排除の関係を前提として作られてきた覇権システム・

次に、その覇権システムを構成する親分ー子分関係を前提として、親分に都合のいい、それゆえ子分にはたとえ理不尽な関係だとしても、「衣食足りて礼節を知る」の営為とその関係のネットワークが張り巡らされていく。それは、当然ながら、子分においては、「衣食足りず礼節を知らず」の営為とそのネットワークも同時並行的に作られていく。

そこから、力のある個人、集団、共同体から、力のないそれらの間に、私の語る「システム」論で提示している{[Aの衣食足りて(経済発展)→礼節を知る(民主主義の発展)]→[Bの衣食足りて・足りず(経済発展)→礼節を知る・知らず(民主主義の発展)]→[Cの衣食足りず(経済発展)→礼節を知らず(民主主義の発展)]}の営為のグローバルな関係のネットワークが作られてきたということなのだ。なお、このモデルは1970年代までの世界・セカイの関係を示すものである。また、以下のモデルでは、(経済発展)、(民主主義の発展)は省略していることを、ここで断っておきたい。

個人間、集団間、共同体間においても、先の図式のような関係が成立すると同時に、それらの関係にはすべて、差別と排除の関係が刻印されている。それゆえ、たとえば、私たちが後生大事に唱え続けてきた基本的人権とその実現に関しても、こうした差別と排除の関係が該当することから、私がこれまで何度も言及してきたように、{[Aの人権]→(×)[Bの人権]→×[Cの人権]}の関係が成立することになる。ーーー、と。ーーー

それゆえ、私たちが「人道」というとき、それは差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきた「システム」の提供する「「道徳」であるということなのだ。何とも恐ろしい人道ではあるまいか。当然ながら、そんな道徳と結びついた回廊が安全なはずがない。私たちの生きている世界・セカイである「システム」(空間)それ自体が、差別と排除と何ら矛盾しない人道を絶えず提唱していることに、もうそろそろ気が付く時ではなかろうか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が不思議に思うのは、私たちはいつも「常在戦場」である覇権システムの中で生きているにもかかわらず、そのシステムそれ自体を平和に対する脅威として、その打倒・破壊を求める「平和」のデモの声は聞こえてこない

2022-03-06 | 日記

私が不思議に思うのは、私たちはいつも「常在戦場」である覇権システムの中で生きているにもかかわらず、そのシステムそれ自体を平和に対する脅威として、その打倒・破壊を求める「平和」のデモの声は聞こえてこないのに、今回のウクライナ危機に際しては、まるで人が変わったかのように、「大本営発」のメディアに煽られて、わけのわからない「世界平和」を叫びだす。まったく、「あの戦争」から何も学べてはいない。ー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」
と「センソウ」を再考するとき(続・続・続)


(最初に一言)

ウクライナのゼレンスキー大統領は今どこにいるのか。彼が最後まで共に戦えと強制動員したウクライナの男たちは悲惨な末路を迎えている。これまた「あの戦争」と酷似してはいないか。私たちは、これからも同じような過ちを繰り返して生きていくのに違いない。だが、その愚を少しでも回避するために、たとえ騙すゴミの提供する情報であれ、注意して聞いていると、その中にも違う音色の声が聞こえたりもする。

ある番組で、ウクライナ人の男性が「最後まで闘おうとしていたが、やはり間違いだった。逃げるべきであった」、と悲壮感を漂わせて話していたのが印象的であった。逃げるべきなのだ。戦ってはならない。それゆえ、どうすれば逃げられるのかを、いつも考えておくしかない。戦うのも大変だが、この逃げることを考えて、それを実行に移して、それが成功するまで考慮して、逃げおおせるのは、これは相当に大変なことだから、今から相当に準備しておかねばならない。

頭ではこんな風に考えていても、現実には相当に厳しいことだ。たとえば、野党の中で協力してくれる政党はあるのか。社民党は、共産党は、令和新撰組は、どうだろうか。今からその「逃げ道」を作ってほしいのだ。国会論戦の中で、どんどんしてほしいことだ、たとえば、どこかの国が受け入れてくれるような交渉を今からしてほしいのだ。それこそ、これからの政治争点として、国民の声が聞こえる一大運動にしてはどうだろうか。

読者は、私のこの声をどう聞くくのだろうか。そんなことをする政党などいないことはわかっている。なぜなら、彼らは国会議員だから、彼らの生活の田、目にも支持者が一人でも減ればどうにもならないから、私の提言には耳を貸さない。おかしなことだ。この逆が今の福島ではあるまいか。できるだけ、福島に多くの者を帰らせようとしているのは、誰なのか。その連中も、先の国会議員と同じレベルだから、自分たちの利害しか考えていない。どうしてこんなことになるのか。そこには覇権システムが抱える問題が見え隠れしてくるのだ。


私たちはいつも覇権システムというそれこそ「常在戦場」の空間の中で生きているのだから、戦争を煽る者、戦争に人々を巻き込むもの、その存在こそを、まずは許すべきではなかろう。それゆえ、いずれの指導者(親分)も許してはならないはずなのだが、いつもどちらかが善であり正義の存在であるかのような空気が支配するのはなぜなのだろうか。その理由は簡単だろう。常在戦場としての覇権システムであるにもかかわらず、そのシステムを〈丸ごと〉批判・非難することなく、そのシステムの中でも、善や正義を守ろうとする、「良い親分」が存在していると私たちが覇権システムの存在を許容しているからに他ならない。

同時に、そのシステムを丸ごと批判できないように、私たちは、覇権システムを前提としてつくり出されてきた普遍的価値と普遍主義の名の下で、それこそおぎゃーとこの世に生まれ落ちた瞬間から、頭のてっぺんから爪の先に至るまで、毎日毎日それこそ「洗脳」状態に置かれている。そうした状態は、さらに世界資本主義システムと世界民主主義システムを担い支えることによって、物心ついたころには、一端の「自由な戦士」として、すなわち、普遍的価値と普遍主義のためならば、すなわち、自由と民主主義とそれらの拡大のためには、命を賭して戦っても、最後まで守ろうとする、その意味では私の語る「システム」を担い支える「兵士」として、つくられていくのである。

それは無理もない。今回の戦争状況・状態を見てもわかるように、私たちは力のある親分たちが動員するあらゆるハード・ソフト・スマート・ハイブリッド等々の「武器」の前ではまったく無力なのだから。その「無力」なはずの私たちが何か力を持っているように思える瞬間は、その親分の誰かを良い親分として、その親分が提供する武器と一緒になって戦っている・戦わされているときなのだ。その意味では、「悪い」親分も「良い」親分も、私たちを彼らの「捨て駒」としているために、私たちを心底、解放することはないのである。


そして、これもまた歴史の苦い教訓なのだが、「敵」と「味方」に分かれて戦っていた親分(子分)たちが、いつしか戦いをやめてしまったかと思うと、それまで戦っていた親分たちが、子分たちにはわけのわからないような「手打ち」をして、それで幕となる。だが、常在戦場の覇権システムは決して、その歩みをやめないことから、次の戦争は必ず必至とならざるを得ないのだ。


この問題と関連?して、先ごろの安倍元首相の核保有・核のシェアリング発言が社会で物議をかもしているようだが、その発言に対して、共産党の志位委員長が第9条を持ち出して、我が国においては、そうした核武装で戦争へと導く指導者の登場を許してはいないと反論したそうだ。

どちらの発言も「間の抜けた発言」ではあるまいか。そもそもこの日本それ自体が覇権システムという常在戦場の空間の中に置かれていることから、国境線を持ち出す議論そもそもが志位氏の防衛感覚の遅鈍さを明らかにしているだけでなく、この日本にどれだけの在日米軍基地があり、どれだけの核の配備がなされているかの確認すら日本人には許されない現実・現状を鑑みれば、すでに9条(あるいは非核三原則)それ自体が、その意味を有していないのだ。安倍氏に関して語るのは、時間の無駄でしかない。「もう引っ込んでいろ」という以外に何もないだろうが。

そもそも第9条とセットとして語られてきた戦後日本の平和憲法は、覇権システムを前提としてつくられた近代憲法なのだ。そのことを、私たちは忘れてはならないのだ。この関連から付言すれば、ウクライナ危機とロシア軍の侵攻・戦争を解説している日本の専門家の発言に垣間見られるのは、彼らがほとんど覇権システムと言う暴力空間の中で、私たちの美辞麗句で飾られている普遍的価値や国際秩序がつくられてきたとの認識、理解がそもそも希薄であるというお粗末さなのだ。

換言すれば、自由、民主主義、人権、平和といった普遍的価値の実現に暴力がいつも発動されてきたということを、すなわち民主主義と帝国主義とは「水」と「油」の関係ではなく、「水と油」の「混然たる一体的」関係を構成しているということを、まったく理解できない連中なのである。


(最後に一言)

この覇権システムは言うまでもなく相当に手ごわい存在である。そのシステムの維持存続のために、システムに都合のいい「衣食足りて」の営為のグローバルな関係のネットワークをつくり上げてきた。同時にまた、自らの正当性・合法性を維持・擁護するために、「礼節を知る」の営為のグローバルな関係のネットワークをつくり上げてきた。いわゆる、自由、民主主義、人権、平和、法の支配等の普遍的価値を、彼らの「国際秩序」の源とするべく、その価値の実現としての普遍主義を世界の隅々に推し進めてきたのである。

ここで注意しなければならないのは、等しく普遍的価値、国際秩序と言っても、それをつくり出す構造というか仕組みは異なるということである。何度も論述してきたように、1970年代以前の普遍的価値、国際秩序をつくり出してきた構造は、A、B、Cの関係から構成される「システム」であったのに対して、1970年代以降、今日にかけてのそれは、B、C、Aの関係から構成される「システム」であるということだ。

それにしても、もうそろそろテレビ局はウクライナ危機を巡るロシアの戦争について、「真打ち」の馬淵睦夫元ウクライナ大使にご登場をお願いしたらどうだろうか。これまでのメディアの報道がどれほど嘘だらけであったのかがよくわかるというものだ。とはいえ、おそらくそうはならないから、残念なのだ。やはり本当のことを語れる識者は、「システム」には、うっとおしいというか、ウザイ存在だから。まあ、馬淵氏のおかげで、バランスの取れた情報を、自分なりに理解整理することができるのだから、このような類の人とネットで出会えればそれは素晴らしいだろう。そこからさらに、「真実」を求める新たな旅が続いていくのだから。

*(付記)

なお、言うまでもないことだが、私は馬淵氏の発言や著作のすべてに関して、支持・賛同しているわけではない。あくまでも、私のバランス感覚の保持、修正、回復のために、氏との適度な距離を保ちながら、氏から学ぶべきことを吸収していることを、念のために断っておきたい。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする