日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私が不思議に思うのは、私たちはいつも「常在戦場」である覇権システムの中で生きているにもかかわらず、そのシステムそれ自体を平和に対する脅威として、その打倒・破壊を求める「平和」のデモの声は聞こえてこない

2022-03-06 | 日記

私が不思議に思うのは、私たちはいつも「常在戦場」である覇権システムの中で生きているにもかかわらず、そのシステムそれ自体を平和に対する脅威として、その打倒・破壊を求める「平和」のデモの声は聞こえてこないのに、今回のウクライナ危機に際しては、まるで人が変わったかのように、「大本営発」のメディアに煽られて、わけのわからない「世界平和」を叫びだす。まったく、「あの戦争」から何も学べてはいない。ー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」
と「センソウ」を再考するとき(続・続・続)


(最初に一言)

ウクライナのゼレンスキー大統領は今どこにいるのか。彼が最後まで共に戦えと強制動員したウクライナの男たちは悲惨な末路を迎えている。これまた「あの戦争」と酷似してはいないか。私たちは、これからも同じような過ちを繰り返して生きていくのに違いない。だが、その愚を少しでも回避するために、たとえ騙すゴミの提供する情報であれ、注意して聞いていると、その中にも違う音色の声が聞こえたりもする。

ある番組で、ウクライナ人の男性が「最後まで闘おうとしていたが、やはり間違いだった。逃げるべきであった」、と悲壮感を漂わせて話していたのが印象的であった。逃げるべきなのだ。戦ってはならない。それゆえ、どうすれば逃げられるのかを、いつも考えておくしかない。戦うのも大変だが、この逃げることを考えて、それを実行に移して、それが成功するまで考慮して、逃げおおせるのは、これは相当に大変なことだから、今から相当に準備しておかねばならない。

頭ではこんな風に考えていても、現実には相当に厳しいことだ。たとえば、野党の中で協力してくれる政党はあるのか。社民党は、共産党は、令和新撰組は、どうだろうか。今からその「逃げ道」を作ってほしいのだ。国会論戦の中で、どんどんしてほしいことだ、たとえば、どこかの国が受け入れてくれるような交渉を今からしてほしいのだ。それこそ、これからの政治争点として、国民の声が聞こえる一大運動にしてはどうだろうか。

読者は、私のこの声をどう聞くくのだろうか。そんなことをする政党などいないことはわかっている。なぜなら、彼らは国会議員だから、彼らの生活の田、目にも支持者が一人でも減ればどうにもならないから、私の提言には耳を貸さない。おかしなことだ。この逆が今の福島ではあるまいか。できるだけ、福島に多くの者を帰らせようとしているのは、誰なのか。その連中も、先の国会議員と同じレベルだから、自分たちの利害しか考えていない。どうしてこんなことになるのか。そこには覇権システムが抱える問題が見え隠れしてくるのだ。


私たちはいつも覇権システムというそれこそ「常在戦場」の空間の中で生きているのだから、戦争を煽る者、戦争に人々を巻き込むもの、その存在こそを、まずは許すべきではなかろう。それゆえ、いずれの指導者(親分)も許してはならないはずなのだが、いつもどちらかが善であり正義の存在であるかのような空気が支配するのはなぜなのだろうか。その理由は簡単だろう。常在戦場としての覇権システムであるにもかかわらず、そのシステムを〈丸ごと〉批判・非難することなく、そのシステムの中でも、善や正義を守ろうとする、「良い親分」が存在していると私たちが覇権システムの存在を許容しているからに他ならない。

同時に、そのシステムを丸ごと批判できないように、私たちは、覇権システムを前提としてつくり出されてきた普遍的価値と普遍主義の名の下で、それこそおぎゃーとこの世に生まれ落ちた瞬間から、頭のてっぺんから爪の先に至るまで、毎日毎日それこそ「洗脳」状態に置かれている。そうした状態は、さらに世界資本主義システムと世界民主主義システムを担い支えることによって、物心ついたころには、一端の「自由な戦士」として、すなわち、普遍的価値と普遍主義のためならば、すなわち、自由と民主主義とそれらの拡大のためには、命を賭して戦っても、最後まで守ろうとする、その意味では私の語る「システム」を担い支える「兵士」として、つくられていくのである。

それは無理もない。今回の戦争状況・状態を見てもわかるように、私たちは力のある親分たちが動員するあらゆるハード・ソフト・スマート・ハイブリッド等々の「武器」の前ではまったく無力なのだから。その「無力」なはずの私たちが何か力を持っているように思える瞬間は、その親分の誰かを良い親分として、その親分が提供する武器と一緒になって戦っている・戦わされているときなのだ。その意味では、「悪い」親分も「良い」親分も、私たちを彼らの「捨て駒」としているために、私たちを心底、解放することはないのである。


そして、これもまた歴史の苦い教訓なのだが、「敵」と「味方」に分かれて戦っていた親分(子分)たちが、いつしか戦いをやめてしまったかと思うと、それまで戦っていた親分たちが、子分たちにはわけのわからないような「手打ち」をして、それで幕となる。だが、常在戦場の覇権システムは決して、その歩みをやめないことから、次の戦争は必ず必至とならざるを得ないのだ。


この問題と関連?して、先ごろの安倍元首相の核保有・核のシェアリング発言が社会で物議をかもしているようだが、その発言に対して、共産党の志位委員長が第9条を持ち出して、我が国においては、そうした核武装で戦争へと導く指導者の登場を許してはいないと反論したそうだ。

どちらの発言も「間の抜けた発言」ではあるまいか。そもそもこの日本それ自体が覇権システムという常在戦場の空間の中に置かれていることから、国境線を持ち出す議論そもそもが志位氏の防衛感覚の遅鈍さを明らかにしているだけでなく、この日本にどれだけの在日米軍基地があり、どれだけの核の配備がなされているかの確認すら日本人には許されない現実・現状を鑑みれば、すでに9条(あるいは非核三原則)それ自体が、その意味を有していないのだ。安倍氏に関して語るのは、時間の無駄でしかない。「もう引っ込んでいろ」という以外に何もないだろうが。

そもそも第9条とセットとして語られてきた戦後日本の平和憲法は、覇権システムを前提としてつくられた近代憲法なのだ。そのことを、私たちは忘れてはならないのだ。この関連から付言すれば、ウクライナ危機とロシア軍の侵攻・戦争を解説している日本の専門家の発言に垣間見られるのは、彼らがほとんど覇権システムと言う暴力空間の中で、私たちの美辞麗句で飾られている普遍的価値や国際秩序がつくられてきたとの認識、理解がそもそも希薄であるというお粗末さなのだ。

換言すれば、自由、民主主義、人権、平和といった普遍的価値の実現に暴力がいつも発動されてきたということを、すなわち民主主義と帝国主義とは「水」と「油」の関係ではなく、「水と油」の「混然たる一体的」関係を構成しているということを、まったく理解できない連中なのである。


(最後に一言)

この覇権システムは言うまでもなく相当に手ごわい存在である。そのシステムの維持存続のために、システムに都合のいい「衣食足りて」の営為のグローバルな関係のネットワークをつくり上げてきた。同時にまた、自らの正当性・合法性を維持・擁護するために、「礼節を知る」の営為のグローバルな関係のネットワークをつくり上げてきた。いわゆる、自由、民主主義、人権、平和、法の支配等の普遍的価値を、彼らの「国際秩序」の源とするべく、その価値の実現としての普遍主義を世界の隅々に推し進めてきたのである。

ここで注意しなければならないのは、等しく普遍的価値、国際秩序と言っても、それをつくり出す構造というか仕組みは異なるということである。何度も論述してきたように、1970年代以前の普遍的価値、国際秩序をつくり出してきた構造は、A、B、Cの関係から構成される「システム」であったのに対して、1970年代以降、今日にかけてのそれは、B、C、Aの関係から構成される「システム」であるということだ。

それにしても、もうそろそろテレビ局はウクライナ危機を巡るロシアの戦争について、「真打ち」の馬淵睦夫元ウクライナ大使にご登場をお願いしたらどうだろうか。これまでのメディアの報道がどれほど嘘だらけであったのかがよくわかるというものだ。とはいえ、おそらくそうはならないから、残念なのだ。やはり本当のことを語れる識者は、「システム」には、うっとおしいというか、ウザイ存在だから。まあ、馬淵氏のおかげで、バランスの取れた情報を、自分なりに理解整理することができるのだから、このような類の人とネットで出会えればそれは素晴らしいだろう。そこからさらに、「真実」を求める新たな旅が続いていくのだから。

*(付記)

なお、言うまでもないことだが、私は馬淵氏の発言や著作のすべてに関して、支持・賛同しているわけではない。あくまでも、私のバランス感覚の保持、修正、回復のために、氏との適度な距離を保ちながら、氏から学ぶべきことを吸収していることを、念のために断っておきたい。

 


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