日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

ここ最近の記事を振り返って、私が改めて伝えておきたいことー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉

2022-03-18 | 日記

ここ最近の記事を振り返って、私が改めて伝えておきたいことー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき


(最初に一言)の前に、吐き出しておきたいこと


最近の私は、まるで熱にでも浮かされたかのように、記事を書いている。何か支離滅裂といったくだりも、書きながらわかるときでさえ、それ以上に、伝え残しておかねばという思いが先走って、そのまま書き進めているという状態だ。

今の私は、私自身が生きる上での私の人としてのお務め(人としての義務)を果たさなければとの一心である。いくらなんでも今の日本と日本人を取り囲んでいる、この時代の空気はおかしいし、危ないだろう。それこそ、馬淵睦夫氏や植草一秀氏の指摘するとことである。

今の日本は、「あっという間に」おかしくなるのは必至だろう。BSNHKの朝8時からの国際報道を見ても、これはもう、オカシイを通り越している。国際メデイア機関から提供される「偏向」した情報を、そのまま垂れ流しているだけだから、これではどうしようもない。戦前の日本政府・軍部の「大本営」発の出所がそっくりそのまま、まるで「ジキル」と「ハイド」の関係のように、連合国のそれに裏返っただけの感じである。

それはそうだとしても、さすがに米・英主導の連合国の仕掛ける情報戦は凄まじく、彼ら御用達の国際メデイア機関を介して、あっという間に日本人は洗脳状態の真っただ中。日本のメディアと言っても、そのほとんどがその下請けばかりだから、その効果は絶大だろう。あのテリー伊藤氏の「見解」も、あっという間に封印してしまったから、私たちは口をはさむ機会を逃がしてしまった感はありありなのだ。

それはさておき、私が何度も繰り返し語っているように、今のウクライナ危機の動向は、自己決定権の獲得とその実現のための力(暴力(と力(暴力)のぶつかり合いを介した争奪戦に見る「親分ー子分」関係の下で展開されてきた、まさに覇権システムの抱える問題が、私たちの目の前に差し出されているといったところではあるまいか。

それに関連して、ここで私のブログから削除した(2022,3,14)の投稿記事を、ここにもう一度貼り付けておきたい。正直、そこでの私の話に、それ以後も引っ掛かりを覚えて、気になっているのである。


ーーー

(2022,3,14)

〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)世界平和を希求する反ロシア・反中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリスト〉の関係と、それらの関係を結び付ける「システム」と、そこでの関係を問い直すとき(続・続)ー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき


①今回は早速、以下の問いかけから始めたい。維新の鈴木宗男氏と植草一秀氏はその政治的立場を異にしているにもかかわらず、どうしてウクライナ危機を巡るメディア報道においては、類似したように思える立場を表明しているのだろうか。

②その植草氏は、ウクライナ危機に関して、「米国の正義」の胡散臭さを批判しているのだが、その米国の歴史が体現してきた「市民革命」発の「普遍的価値」とその実現の歩みとしての「普遍主義」を批判しないのはどうしてなのか。ここには、明らかな論理の「矛盾」が見られるのではなかろうか。

③そうした「矛盾」は、馬淵睦夫氏の「グローバリズム」批判の中にも垣間見られると同時に、中野剛志氏の著作(『世界を戦争に導くグローバリズム』 (集英社新書) にも見られる。彼らはグローバリズムを批判するのだが、そこから普遍的価値や普遍主義を批判するまでには至らないのである。

*勿論、このような私の物言いに対しては、それは「見解の相違だ」と一蹴されるかもしれないが、それを踏まえた上で言うならば、私は、普遍的価値の実現の歩みとしての普遍主義こそが、このグローバリズムにも、またその関連からナショナリズムにも、そして、グローバリゼーションにも、またインターナショナリゼーションにも、密接に関係・関連している、とみているのである。なお、これに関しては、拙稿〈「グローバリゼーション」の波間に漂い続ける「民主主義」社会 : 「ポスト・グローバリゼーション」の時代ははたして到来するのか〉(神戸市外国語大学外国学研究,84,89-115 、2013)や拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」』を参照されたい。

今回はこの①から③、とくに①②について話してみたい。③に関しては、拙稿〈「歴史叙述の神話」に関する一考察ー「システム」とその自己完結運動から「歴史」を語り直す〉『神戸外大論叢』66(3)を参照されたい。なお、もう少し体調がよくなれば、これに関しても論及したい。そんな事情もあり、今回記事は、あまり深くは掘り下げることができないことを、予めここで断っておきたい。なお、今回記事もこれまでの拙論の焼き直しであることを指摘しておく。


鈴木宗男氏の〈「ウクライナにも責任」=維新・鈴木氏、ロシア侵攻めぐり 2022年03月13日 20時01分 時事通信〉に目を通しながら、私はこれに似た植草氏の記事〈正義に成りすます米国の正体(植草一秀の『知られざる真実』2022年3月 7日 (月)〉を思い浮かべていた。

植草氏は、今回のウクライナ危機を巡り、米国のイラク戦争での出来事等を再検討する必要性を説くのだが、そこからどうしてなのか、そうした米国の正義のための戦争を背後で支えてきた、いわゆる「市民革命」発の米国が体現する普遍的価値や米国による普遍主義を真正面に据えて、それと徹底的に格闘しようとはしないのだ。


その理由はすぐにわかる。その検証・検討をしていくと、すぐさま日本国憲法に体現される「市民革命」発の普遍的価値と普遍主義を批判しなければならなくなるからだ。それはまずい。となる。あるいは、最初からその関連性が理解できないのかもしれないとも想定されようが、おそらくそんなことはないはずだ。少し考えればわかることだから。

欧米の礼賛してきた普遍的価値と普遍主義の抱える問題を考察したものならば、おそらくわかることなのだが、今回のウクライナ危機に関するロシアを「悪」として米国やウクライナを「善」とする議論は問題である云々の論評などは決してしないだろう。〈ロシアのウクライナ攻撃を批判する前に、ウクライナのロシアに対しておこなってきた「許しがたい行動」をを、先ずは考えてみなさい〉式の話は、さらにそこから、これまた当然のことだが、その〈ウクライナの「許しがたい行動」を批判する前に、ロシアの「(さらに)許しがたい行動」を、先ずは考えてみなさい〉式の、それこそ「イタチごっこ」の議論の応酬となるだけだろう。

もしそれを避けたいのであれば、今の欧米がロシアを批判する際に、私たちは自由な民主主義の国であるのに対して、ロシアは、あるいは中国は、その自由や民主主義を許さない認めない国だとの議論を俎上に載せて、それを検証・検討する作業をおこなえばいいだけの話ではあるまいか。

ここで留意すべき問題は、私たちはいつも議論を「すり替えられている」ことに気が付くべきだということだ。すなわち、彼らは、欧米の自由な民主主義という「価値(観)」を共有する云々の話に終始しているだけで、決してその価値(規範)や価値観がどのようにして現実のものとなるかに関しては語らないのである。

この次元でやめておかないと、まずいことになるのを、彼ら欧米産の民主主義を高く評価する者たちはよく理解しているからだ。つまり、私の語る「平和な民主主義」社会の実現のためには、あからさまな暴力が帝国主義が必要となるからだ。それこそ、私たちの「あの戦争」とその後の占領期の出来事を理解すればすぐにわかることであろう。

付言すれば、今のウクライナとロシアの交渉を見てもわかるように、「戦争」を一方で遂行しながら、その間に、お互いに有利となるような「落としどころ」としての「平和」の地点を探しているではないのか。私たちもそうであった。途中からは、もう戦争から足を洗うなんてことは許されなくなり、最後の最後まで引きずられてしまい、挙句は原爆を二発も投下される始末。そこにも見られるように、徹底的に暴力でもって相手をこれでもかと殴り続け、殺しながら、その挙句、私たちの欧米産の「平和」で自由な民主主義社会に、あなた方も加入できて良かったね、なんて、これほど馬鹿にされた話などないではないか。

さらに、それ以上に、アホというかおかしいのは、そんなことをされても喜々として、私たちは騙されていたのだ、私たちはどこかおかしかったのだ、あの人たちはやはりすごいし、素晴らしい人たちだよ、解放軍だよ、なんて。そうなんだよ、やはり自由な民主主義はいいもんだよ。その民主主義社会になれたから、私たちは戦後の豊かで平和な社会を実現できたのだよ云々と、もう歯止めなく戯言の繰り返しをして、あれからもう何十年たったのだろうか。

その間、私たちは決して問わなかったのだ。その平和な、自由な民主主義の社会は、どうやって実現できたのかという問いかけを、私たちは自らに向けて発すことはなかったのだ。私たちは自らの身体でもって、自らを傷つけ、相手を傷つけ、血を流しながらも、その歴史を、自らの頭で、言葉でもって書き留めることをしなかったのだ。その代わりに、私たちがこれまでおこなってきたのは、先の欧米産の自由な民主主義という価値(観)でもって書き直す作業であったのだ。

それゆえ、価値(規範)のレベルの話だから、決してあからさまな力というか暴力とは、つまり帝国主義とは、覇権システムとは結び付けられないままに、民主主義の話が語られてきたのである。私たちが「せっかく」自らの手を汚し、近隣諸国を侵略して、気づつけ殺しあいながらも、そうした「貴重な体験・経験」としての「帝国主義」が何らいかされないままに、片隅に放置されたままに、時間ばかりが過ぎてしまったのである。


(最後に一言)

どうしようもない「民族」「階級」「市民」「個々人」「個人」といえばそれまでだが、今のウクライナ危機を巡るロシア発、ウクライナ発の情報戦にも示されるように、私たちはグローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)の所有するメディアによる情報操作とその影響から何とか免れながら、私たちの知・情・意のバランス感覚を保つのは至難の業だと言えよう。

私は今まで、護憲論者や第9条論者、さらには野党勢力の批判は、これでも自重してきたつもりなのだが。もうそんなことを言っている段階ではなかろう。彼らは、それこそ自公勢力や改憲勢力を批判したり非難するのだが、それは確かに彼らの仕事ではあるとしても、彼らこそ、改めて「市民革命」発の普遍的価値や普遍主義について真正面から向き合い、その抱える問題というか宿痾について、検証・検討すべきではなかろうか。

勿論、この私の「お願い」は、ダメモト話だ。もし、彼らがそんなことをしでかしてくれたならば、私は本当にうれしいのだが、それこそ彼ら自身が、これまで築いてきたすべての基盤を崩壊させ、そのほとんどを失うのは必至となるから。それは、翻って見るとき、欧米社会がもし、そんなことをするならば、それこそ欧米社会が積み上げてきた文明それ自体の瓦解を意味するだろうし、私の語る「システム」とその下でつくり出されたグローバルな巨大な「権力・利害集団(勢力)」も跡形もなく消え去るに違いない。

もっとも、この話もダメモト論だが。さらに、もしそんなことがおこったとしても、そのあとに導かれる社会もまた、差別と排除の関係から構成される別の「システム」が創造されるのに違いない。それはそうだとしても、その前に私たちの向き合うべき問題というか課題は山積している。いずれにしても気の滅入ることだが、私にできることは、最後まであきらめないで、少しでも書き続けることしか、もう他にはない。


ーーー


私は、この上に貼り付けた記事を、いろいろと考慮して、削除したのだが、すぐその後から、(2022,3,15)の記事に、(加筆。修正版)の形で、記事の前半部分をカットすると同時に、後半の部分を残しながら、改めて書き直したのである。その理由としては、やはり今の状況下において、グローバリゼーションやグローバリズムを批判する論者との「連帯」が必要」だとの私の思いが強かったからに違いない。

グローバリズムの批判が、それこそ普遍的価値や普遍主義の批判に至るまで、結び付いていない云々の私の議論は、こんな時にしてもどうにもならないとの思いの中で、ひっこめた感が強いのだ。今はそれよりも、とにかく米・英主導の「国際世論」の危うさに対峙するときなのだから、が最優先されるべきなのだ。

そんな気持ちの中で、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎し」的な私の従来のこれでもか論の問題にも、改めて気が付いた次第だ。勿論、そうは言うものの、どうしても私の戦うべき相手は、「市民革命」発の普遍的価値と普遍主義であることから、「連帯」云々と言いながらも、私の「我」が出てくることも否定できない。

それは、同時にまた、私の語る「システム」論とそこで提示される〈「システム」とその関係の歩み〉を隠すことまでは、どうしてもできないことから、普遍的価値や普遍主義云々の議論が、話の端々で出てこざるを得ないのも確か。それが、私の話をある面で、中途半端なものにしているともいえ角田が、そこはやはり、研究というか学問の性格と絡んでいる。机上の空論としての議論は、たとえ信条倫理の側面に傾きやすいとしても、必要なのだ。もしそれがなければ、責任倫理という空虚に響く言葉だけが蔓延した、誰一人として責任など引き受けようともしない現実世界を、批判的に考察するのもできなくなるから。

それを踏まえて、私の前半部から中盤部にかけての「イタチごっこ」云々の話も、削除したのだが、それに関しては、今回記事の終わりのほうで、その理由について述べているので、それを念頭に置きながら、ここでは次のような指摘をしておきたい。

結局は、その繰り返されるウクライナというかウクライナにそれを言わせている米国とロシアの正義を巡る応酬合戦を、イタチごっことして私たちが俎上に載せ手検証・検討しない限り、国際政治というか国際関係の力(暴力)というか軍事力の行使とそれを介した「平和」的結着へといういつもの落としどころへと至る歩みを、つまりは覇権システムを前提としたこれまで通りのヤクザの儀式である「手打ち」を、永久に認めてしまうことになってしまう。


(最初に一言)

それではいつものように、話を始めたい。今回は特に、ややこしい話となるので、読者にはその旨を伝えておきたい。もうここまでに、ややこしい話をしているのも確かなのに、申し訳ないのだが、もう少しお付き合いお願いしたい。


私は、あれほど普遍的価値や普遍主義を批判しながら、それにもかかわらず、現実世界においては、私も仕方なくそれを受容というか甘受している云々のことを述べていたが、そうしないと様々な恩恵にあずかれないからだ。年金受給もできないし、視覚障碍者としての各種サービスも受けられない。

そのような意味において、私は「国民」をまさに体現して生きている。国民となるということは、私の語る「システム」の世界・セカイを受け入れることから、世界民主主義システムの「規範」とされる普遍的価値を、そしてその実現の歩みとしての普遍主義を、受け入れるということでもある、と私は述べていた。

それゆえ、そこから同時に、私は、その「システム」を構成する覇権システムの下に組み込まれている以上、国民として、日本国家が巻き込まれる戦争にも動員されることを避けられなくなる、と言わざるを得ない。さらに付言すれば、私の語る「システム」の下においては、私たちは常在戦場としての覇権システムの下で生きているということから、いつも「総力戦体制」の下に、戦争・センソウへと総動員される仕組みの中で、現実には生きているということであることから、日本国家や日本政府の動員「発令」云々にかかわらず、巻き込まれながら、生きているということなのだ。

ところが、前回記事の最後のほうでも述べていたように、私たちは、私の語る「システム」と覇権システムの提供する「パックス」と何ら矛盾しない、その意味では相当に恐ろしい「平和」であるのだが、それにもかかわらず、その「平和」の中で惰眠を貪ることを一時的であれ、許されていることから、戦争・センソウ状態と背中合わせであることに気が付くのが難しいということなのだ。

いずれにせよ、私は、国民として様々な「恩恵」に与りながら、もし私が国民として戦争へと国家が動員しようとしたとき、それに対して、「私は戦争には反対であり、もし戦争をするのであれば、私はこの国から一時的に退避・避難します」云々の異議申し立てをすれば、当然ながら、「お前は国民の権利だけはちゃっかりと主張しながら、他方で国民としての国を守るという義務を放棄するような、そんな勝手が通るとでも思っているのか」云々の避難・批判の大合唱となるかもしれない。


勿論、私はそれに対して異議申し立てをする。私は確かに国民として生きてきたし、それは同時に、私の語る「システム」の提供する普遍的価値や普遍主義を受容する・甘受するということであるのは、認めよう。だが、その「システム」が普遍的価値や普遍主義を掲げながら、「平和で自由な民主主義」社会が、今まさに専制主義を信奉する国から攻撃されている云々の理由で、国民としての私を戦争へと巻き込むときには、あえてその普遍的価値と普遍主義の掲げる正義に対して、私は異議申し立てをせざるを得ない。


もともと、私が普遍的価値や普遍主義を甘受したのは、国民としての権利を保障されるためだった。勿論、国民としての義務も果たすことを忘れてはいない。だが、たとえ国民だとしても、「国家の戦争」を、私もその国家を構成する国民の一因だから、お前も国民の「当然の」義務として、戦争遂行に協力しろと言う「命令」に対して、どうして私は従わないといけないのか。やはりそれはおかしなことだろう。

国を守るということが、どうしてすぐさま国家の戦争を前提とした、戦争防衛ともっぱら結び付けられてしまうのか。国を守るというのは、国民として私の属する国家が国民の命と暮らしを守っているかということであり、戦争に巻き込まれることのないように、努めることである。私の国民としての義務は、まさに国家が戦争へと巻き込まれないように、同時に国家が国民を戦争へと巻き込まないように尽力することであり、その意味における義務なのだ。

もし、戦争ともなれば、私はもうそれ以上、国民として担う義務は、私にはないと考える。あまつさえ、馬鹿な政府によって無謀な戦争へと巻き込まれようとするときにおいて。
当然ながら、私の国民としての権利もないのは確かだろう。ウクライナの惨状を見ればわかる。住んでいた住居は爆破され、もうそこで暮らすのも難しい。たとえ戻れたとしても、私の国家との権利義務関係は、改めて作り直されなければならないのは、当然のこととなるから。

もうそんな政府が体現する国家に対する私の忠誠義務などmまっぴら御免だ。たとえ、ソクラテスが私に向かって、「悪法と言えども国の法律に従うのが筋」だと諭したとしても、である。私は戦争に国民を巻き込む法律は、たとえそれが「平和な民主主義」社会を、抑圧政権の暴力から守るためだといわれても、それには断固として反対するのみである。

なぜなら、そうした国家の、また今回の米国やEUそしてNATO加盟国が扇動する国際世論の、とくに自由な民主主義が無法な専制主義の国から攻撃されている云々の「嘘」がはっきりと、私にはわかるからだ。私の語る「システム」論の観点から見るとき、いずれの側の主張にも私は組することはできないのである。

その時、国民は義務として、そんな戦争は止めなさいという声を、政治に対して発することこそ、必要ではあるまいか。私は、いつもそう思ってきたし、私の語る「システム」論を自分自身で、さらに考察すればするほど、その重要性に気が付いたのである。そして今回のウクライナ危機に際して、改めて私は、私の語る「システム」論との関連から、普遍的価値と普遍主義の、とくに後者の抱える宿痾を何とか白日の下に曝す必要性を痛感したのだ。


それを踏まえて付言すれば、国連憲章や、日本国憲法の中に体現されている普遍的価値・普遍主義を、現実の世界において活動している政治家や公務員等は受容・甘受せざるをえないとか、私自身もそうするのは仕方がない云々の話は、もしいきなりそんなことを公然と日本国家と日本国民が世界に向かって公言した瞬間、それは国連という戦勝国の「連合国」がリードしてきた世界を敵に回すことを意味し、それこそ国連憲章の敵国条項に対する違反として、戦争を吹っ掛けられる危険性が大であると考えるからなのだ。日本はロシアや中国と異なり、「敗戦国」なのだ。

さらに今回のウクライナ危機を政府やその取り巻きの戦争屋が、ここぞとばかりに戦争を、国防を煽る口実として使う機会が増加してくると、私は考えるから、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎し」的な私のこれまでの立場を改めることの必要性と重要性に気が付いたからなのだ。とにかくどのような理由があるにせよ、わざわざこちらから進んで巻き込まれるような戦争は、絶対に避けるべしであり、そのための連帯が求められるのだ。


ところで、上述のくだりでも述べていたように、ウクライナ危機を巡るロシアとウクライナの「正義はこちらにこそある」云々の激しい応酬劇に関して、私はそれは結局は「イタチごっこ」であると述べていた。それは今でもそのように理解している。それゆえ、もう一度、歴史を遡って、そこで語られる「正義」を再考する必要性を説いたのだ。

その作業を、もし試みたならば、そこから、どうしても「市民革命」発の普遍的価値とその実現の歩みとしての普遍主義が体現してきた「正義」を改めて問い直すことになり、それゆえ、私はそうした普遍的価値、とくにその実現の歩みとしての普遍主義の正義に関して検証・検討する際には、私の語る「システム」論は、手前みそながら、それこそ格好の手引きとなる、と私は述べていたのだ。

だが、それをたとえおこなってみたとしても、現実政治には、戦争や紛争を巡り、それなりの起点と展開点があり、そこに立ち戻らない限りは、紛争終結に対する何らの有効な打開策を提供することはできないのは確かであろう。それを踏まえて言うならば、それは馬淵氏や植草氏が的確に指摘しているように、2014年の政変劇であるのは間違いなかろう。付言すれば、それはまた、覇権システムを、そして私の語る「システム」を受容・甘受してしまうことを意味してしまうのだが、それこそ責任倫理の立場に立てば、致し方がないことを、私も認めざるを得ないのだ。

既に、冒頭近くでも触れていたように、私はこの「イタチごっこ」云々の記事は削除して、それに代わる記事を投稿したのだが、そこではこの点には触れていなかったのだ。それがずっと気になっていたので、今回やっとここで言及できたことにほっとしている。


(最後に一言)


結局は、私が何度も論及してきたように、市民革命を期限とした普遍的価値とその実現の歩みとしての普遍主義の抱える問題に突き当たるのだ。それを私たちは忘れてはならないし、とくに日本と日本人はその問題、つまり普遍主義から逃げてはならないのだ。

あの戦争から戦後の日本の旅立ちにおける歴史を鑑みるとき、私たちはポツダム宣言を受諾して、米国の占領統治の下で日本国憲法の制定と施行に関わった当事者としての存在から、普遍的価値や普遍主義を、当然のこととして、何ら疑うことなく受容してきたのだが、それはそこから、「第9条」の有無にかかわらず、国民の義務としての戦争に巻き込まれてしまうということを、この際はっきりと再確認しておいた方がいいのである。

その理由に関しては、私の語る「システム」論で描いたように、国民としての存在を受け入れる限りにおいて、私の語る覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される、差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきた一つの「システム」の中に追いやられてしまうことを意味すると同時に、その「システム」の空間で生きている限りは、〈「平和な民主主義」社会の実現のために、「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉から、永久に逃れられないということを、意味しているからである。

*(付記)

記事投稿後に、大事なことを言い忘れていたのに気が付いたので、(付記)しておきたい。改めて言うまでもないことだが、戦争反対を叫ぶ者との連帯というとき、当然ながら、護憲論者であれ、第9条論者であれ、私にとっては、同じ仲間となる。それは、保守であれ、中道であれ、同じことである。もっとも、これまでさんざん批判してきたことを鑑みれば、相手側はどう見ているかはわからないのだが、それは私には、私の方からは、もう問題ではない。そんなことにこだわっている時ではなくなったのだ。相当に危なくなってきた。

 


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