日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(訂正・修正版)私の語る「システム」論から、〈哲学界のロックスター、マルクス・ガブリエルの倫理資本主義論を聴いて

2024-09-15 | 日記


(訂正・修正版)私の語る「システム」論から、〈哲学界のロックスター、マルクス・ガブリエルの倫理資本主義論を聴いて考えたこと 9/13(金) 11:32配信 『AERA』〉と〈75歳以上の医療費「3割負担」拡大、60代後半の就業率「57%」目標に…高齢社会対策大綱を閣議決定『読売新聞』〉の二つの記事を再考するとき


*記事を投稿した後に頭の中で内容についていつものように見直していた。その際、〈「さすが」左翼的経済政策ーーー「歯止めをかける」ーーー〉云々のくだりを踏まえた次の段落の話で、読者に誤解を与えかねない論の流れがあったので、改めて(訂正・修正)した記事を投稿したことを読者に断っておきたい。




(最初に一言)


 前回記事の続きをと思っていたのだが、今回記事ではどうしてもタイトルで紹介した記事を再考することが大切だと考えて、少し回り道することにしたい。私もいつお迎えが来てもおかしくない歳なので、できる限りかけるときは書いておきたい。次回は私の移民と難民を受け入れる云々の話における「条件・制限」問題について、より突っ込んだ論を展開するつもりだ。




 それにしても、「あちら側の彼ら」は、私の語る「システム」の提供する語用論者には事欠かないと見えて、「倫理資本主義」を提唱しているマルクス・ガブリエルの話を『アエラ』に掲載しているようだ。倫理資本主義の考え方は何もガブリエルが初めてではない。イギリスでは「騎士道精神」とか、「共通善」を重視する資本主義論というか、「自由主義」経済の行き過ぎを制限する論も既に知られるところだ。ただ、私がここで言いたいのは、私たちの語っている「資本主義」とは、本来ならば、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」を前提とすることによってはじめて実現される1970年代までの{[Aの衣食足りて→Aの礼節を知る]→[Bの衣食足りて・足りず→Bの礼節を知る・知らず]→[Cの衣食足りず→Cの礼節を知らず]}の、そして1970年代以降から今日に続く{[Bの衣食足りて→Bの礼節を知る]→[Cの衣食足りて・足りず→Cの礼節を知る・知らず]→[Aの衣食足りず→Aの礼節を知らず]}の営為の関係を前提としてつくり出されてきた{[Aの衣食足りて]→[Bの衣食足りて・足りず]→[Cの衣食足りず]}の、また{[Bの衣食足りて]→[Cの衣食足りて・足りず]→[Aの衣食足りず]}の営為の関係として描かれる世界資本主義システムに他ならないということである。それゆえ、資本主義をそれがひとりでにその歩みを始めたかのように位置づけ理解するのは差し控えたほうがいい、と私はみている。*なお、図式に関する詳しい説明はここでは省略する。このブログ記事でも何度となく述べているので、それを参照されたい。


 それを踏まえた上で先のガブリエルの話に戻ろう。彼の主張の論点は、記事に従うならば、「資本主義と倫理観は共存できるのか」を論の軸として、〈■「資本主義は倫理的でなければならない、■巨大企業が利益を優先して社会を壊す行為は「新しい全体主義」、■個人が利己的でも、社会は利他的にふるまう〉の各論から構成されている。正直なところ、こんな議論があちら側の彼らの社会では、「よりまともな・ましな」話とされるのかと思うとき、これではとてもではないが、先は見えないといわざるを得ない。本当にこの人は資本主義に関する「哲学」云々の論を展開しているのだろうか。世界経済の中で進行する超富裕層から極貧層に至る階層ピラミッドの成立の歩みを見るならば、暴走する資本主義の前では、とてもではないが「倫理」云々の出番などありはしない、と私はみている。もう、私は笑うしかない。マトモにこの人の議論と付き合う暇などない。


 それを断った上で付言するとき、すぐ上でも述べていたように、私たちの生きている社会・世界は、1970年代までの{[Aの衣食足りて→Aの礼節を知る]→[Bの衣食足りて・足りず→Bの礼節を知る・知らず]→[Cの衣食足りず→Cの礼節を知らず]}の営為の関係から、1970年代以降から今日に続く{[Bの衣食足りて→Bの礼節を知る]→[Cの衣食足りて・足りず→Cの礼節を知る・知らず]→[Aの衣食足りず→Aの礼節を知らず]}の営為の関係へと「システム」の構造的転換・変容を経験している。それゆえ、1970年代までのAにおける「システム」の「高度化」の「段階」の歩みの下に享受できた経済的豊かさに裏打ちされた左翼における経済政策の提言は比較的容易であったのに対して、今日のAに見られる「システム」の「低度化」の下では経済発展もままならず、それゆえ「さすが」左翼的経済政策であると礼賛されるような提言は期待できないし、これから深化する低度化の歩みに歯止めを打てる経済政策など望めないと考えるのがマットウな話である、と私はみている。


 今の日本の左翼的?あるいは野党の令和新選組が提唱する消費税の廃止など、これはとてもではないが、左翼の経済政策と考えてはいけない、と私は言わざるを得ない。誤解のないように言えば、別に令和の批判ではない。令和は当然の話をしているだけで、ただ私からすれば、消費税廃止によっても、「システム」の低度化の深化の歩みに歯止めをかけることができない、と私は述べているだけなのだ。日本と日本人は、〈「システム」とその関係の歩み〉の中でその歩を進めざるを得ないことから、今のAに位置する諸国と諸国民は、「システム」の低度化とその深化を当然の流れとして受け入れるしかないのだ。それゆえ、左翼的とされる経済政策を提言するとすれば、先ず箱の歩みを的確に理解しておかなければならないのだが、それはほとんど現状では期待できない、と私はみている。


 さらにそうした問題に加えて、さすがに私とは異なる次元で活躍されている研究者が、「正直な話」をするのは難しいだろ。う。それゆえ、たとえばガブリエルは倫理資本主義を、最善の哲学的見解として提唱した、と私は勝手ながら見ている。私からすれば、何も恥ずかしいことではない。むしろ、これからの〈「システム」とその関係の歩み〉に逆らって、再びAの米国が、また日本が世界の頂点に戻ることができるかのような戯言をぬかすことの方がより罪深いというべきだろう。これに関しては、少し前に紹介した野口 悠紀雄氏〈2040年、中国のGDPは「日本の10倍」に…!多くの日本人がまだ気付いていない、その時起こる「重大で深刻な問題」〉(9/10(火) 6:04配信 『現代ビジネス』〉の記事を参照されたい。


 それにしても、以前の記事でガブリエル氏の論とコラボさせて拙論を展開したことのある私には、氏の倫理資本主義云々に関する議論に行き着くことは予想されるとしても、それでもやはり、失礼ながらこれほどひどくなると「オー・ノー」と絶叫するしかないのだ。本当に残念でしかない。だが、あちら側の彼らは、ことさら氏を持ち上げるだろうから、こちら側の私たちから見れば、こんなどうしようもない話だと一蹴しても、びくともしないどころか、あちら側の彼らの社会に残存する良心的な、それこそ倫理的使命感を持って社会の改革・改良に取り組んでいる人たちの共感・支持を得るのかもしれない。


 私は思うのだが、こうした知的後退?がまかり通る社会では、当然ながら今の自民党総裁選での候補者による新自由主義的路線の徹底化に対する日本社会の中から沸き起こる非難や批判など、到底期待できないと私は確信している。先の倫理資本主義論は、小泉進次郎氏の提唱する経済政策に警鐘を鳴らすどころか、自民党が標榜するより良い国民生活を保障する「倫理」的訴えと何ら矛盾するものではなかろう。そして、そこから当然の帰結として、タイトルにある『読売新聞』が報じたもう一つの国民生活における「改悪」が、これまた許されてしまうのだ。ここまで舐められてしまうと大抵の国民は怒り狂ってもおかしくはないのだが、毎度のこと、自民党総裁選劇場の前でどうにもならないといったところだろうか。


 それにしてもだが、〈75歳以上の医療費「3割負担」拡大、60代後半の就業率「57%」目標に…高齢社会対策大綱を閣議決定〉とはまさに火事場泥棒的所業といわざるを得ない。自民党総裁選の候補者たちも、この閣議決定を所与の前提として選挙戦を戦っているのは間違いなかろう。これは詐欺師?のやり方だ。本当ならば、候補者たちは、この閣議決定と、これまでの岸田政権下の政治に関して、各人の見解を国民に向かって述べるのが筋なのに、驚くことにそれには蓋をしてしまって、あたかも過去の自民党政治とは決別して出直すかのような主張のオンパレードだから、この人たちは少し以前の統一教会と自民党の根深い癒着の構造や「政治とお金」にまつわる由々しき問題を始めとした自民党政治の破廉恥さを忘却したのかと、こちらの方が戸惑うばかりなのだ。


 アメリカやウクライナに対して気前よくばらまかれた国民の巨額の血税を、日本国民の生活の安全保障に、何はともあれ最優先事項として回すのが当然であるはずなのに、それは決しておこなわれない。もし、そのような当然と思える政治行為の後で、先の閣議決定となるのであれば、それは致し方なかろう。勿論それができない理由は私もわかっている。日本の権力者は、日本と日本人をダシにして、彼らの出世と保身をより強い者から保証してもらおうと必死である。彼らも私の語る差別と排除の関係を前提とした「システム」の中で生きているから。情けないといえばそれまでだが、夏目漱石も言うように、強い者と交際すれば強い者に従う以外にほかにはないから。問題は、それを正直に国民に伝えられるかどうかなのだが、勿論そんなことはしないし、できない。それは命取りになるから。


 それゆえ、もしこんなどうしようもない政治に終止符を打たなければと思うならば、よりましな野党とその候補者を探そうとなる。ところが、この先がなんともいかないことに気が付くから、私には万事休すとなってしまうのだ。連合やその他の少しは力のあるグループに所属している人々は、立憲とその野党共闘を支持して、何某かの利権に与れるかもしれないが、私のような孤独な高齢者の声など彼らは真剣には聞こうとはしない。勿論、彼らもそれなりの見え透いた芝居はするのだが、結局はほとんど無理であることを知る、知るーーーの連続であった。彼らも来る者は拒まずであるのだが、彼らの方から率先して孤独な有権者の方に歩み寄ることはしないのだ。選挙の前だけはびっくりするように、歩み寄ってくるときもあるが、所詮はその時々の選挙での議席確保・獲得が最優先なのだ。


 誤解のないように付言しておく。私は野党とその政治家を批判するつもりはない。これは自民党とその政治家に対しても然りだ。「システム」人の私に偉そうなことを言う視角はないから。それを断って言うと、自民党や公明党もそうだと思うのだが、立憲や共産党、社民党は、いわゆる「後継者」問題に直面しているのではあるまいか。野党を支える党員やボランティアの人員不足は、相当に深刻であるかもしれない。そこにはこれまで野党の支持母体であった労働組合と組合員の減少は勿論だとしても、野党も与党も高齢化と少子化、若者や中高年の有権者の政治離れ等々の諸問題に対して、有効な対応・対策を打ち出すことができていないのではあるまいか。ただし、与党も野党も現状のままで構わないと考えているのかもしれない。なぜなら、選挙戦を経て議員となれば、それだけでメデタシメデタシなのだから。あくまでも私の勝手な意地悪な思い込みであるとすれば、それはそれでいいのだが。




(最後に一言)


 すぐ上で指摘した政党の後継者問題は、そのまま日本と日本人の後継者?を巡る問題につながってくるのではあるまいか。それゆえ、与野党が彼らの後継者問題を棚上げにすることは、そのまま日本と日本人の重要な「生き残りを巡る安全保障」問題を棚上げする・たなざらしするのを意味するといわざるを得ない。それを踏まえるとき、ひょっとして今の国会議員は、自分たちの後継者をごくごく身近な範囲の問題に限定して、身内に後を継がせれば何の問題などないと考えているのかもしれない。そこから世襲議員の生産と再生産が繰り返されるとすれば、日本社会の高齢化や少子化、老若男女の命と暮らしを守る問題は、ますます後回しにされるだけとなるに違いなかろう。世襲議員というとき、そこには連合やその他の労組関連グループの後押しを受けた議員も含まれると私はみている。たとえ選出される議員がある時点で別の議員となったとしても、その背後に同じ組合やその関係・関連支援団体が位置しているとすれば、それもある意味での世襲に他ならないだろう。


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