日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

№47私の語る「システム」論から、改めて「僕(私)が僕(私)であるために、勝ち続けなきゃならない」世界・セカイの中で、この世に生を受けている人たちがどうにか困ららない「衣食足りて」の営為を可能とする

2023-08-03 | 日記
№47私の語る「システム」論から、改めて「僕(私)が僕(私)であるために、勝ち続けなきゃならない」世界・セカイの中で、この世に生を受けている人たちがどうにか困らない「衣食足りて」の営為を可能とする「礼節を知る」の営為は、近代憲法とその流れを汲む日本国憲法が体現する自由、民主主義、人権、平和といった「普遍的価値」では絶対にないことを、強く主張しておきたい!




(最初に一言)


 今回記事もまた、タイトルを見ただけで辟易される読者がいるのは容易に推察できるのだが、残念ながら、私は今もこうした立場に変わりはない。少し、これに関して以下に言及しておきたい。もう何度も聞き飽きたと読者には思われても仕方がないのだが。




 どうしてそうなるのか。私の語る「システム」は差別と排除の関係を前提としてつくり出されている。つまり、「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」世界・セカイを当然とした〈文明ー半開ー野蛮〉から構成される「システム」が提供する「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の中で、私たちは生きていることから、すべてにわたって、衣食が保証されることはないと同時に、そうした「衣食足りず」の世界をつくり出す「文明」の近代憲法とそこに体現される普遍的価値であるからなのだ。


 もうそろそろ気が付いてほしい、と私は切に願っているのだ。そして、1970年代以降から今日に続く「システム」では、〈半開ー野蛮―文明〉とその構成の序列が変容している。すなわち、半開と野蛮に呼応するBとCグループにおいては、「システム」の高度化の段階が期待されているのに対して、文明に呼応するAグループにおいては、今後ますますの「低度化」の深化に直面していく。


 それゆえ、1970年代までの近代憲法(日本国憲法)によって保障されていた文明の「衣食足りて礼節を知る」の営為は、今では、逆に、憲法を守っても、保証されないのだ。なぜなら、1970年代までは、文明に位置したAグループの人々は、憲法を守ることが何よりも文明、半開、野蛮から構成される差別と排除の関係を守ることを意味していたことから、差別し排除する側に立つことができ、それで「システム」の高度化における最も有利な地点を占めることができていたのである。


 これに対して、70年代以降は、半開、野蛮、文明の関係から構成される「システム」の差別し排除される側におかれてしまい、「システム」の低度化の深化から容易に脱することのできない状況・状態に据え置かれてしまう。そしてそれを憲法を守ることによって、さらに「システム」の低度化の深化の歩みを辿り続けてしまうことになるから、もう何をか言わんやなのだ。


 護憲を今の時代に叫ぶことの愚かしさを、「衣食足りず」の状態・状況に置かれている人たちは皮膚感覚で十分に理解しているのだが、野党の護憲勢力はまったく理解できていないのが現状ではなかろうか。私から見れば、こうした「システム」における構造変容・転換を把握できない者たちが庶民の代表を標榜して、野党ごっこ・政治ごっこをしていることが、政治の低迷の一番の原因ではなかろうか、ということになる。


 しかも、バブル崩壊以降、30年以上に及んで、こうした護憲を主張し続けてきたことから、今では自民党や公明党の与党と何も変わらない始末なのだ。たとえば、政府が「自由で開かれたインド・太平洋」云々と何度も繰り返すとき、野党はこれに対して、的確なアンチ・メッセージを発することができないままではあるまいか。何しろ、日本共産党も自由と民主主義を守れと熱烈に主張するのだから、何とも寂しい限りである。


 勿論、こんな話をいくらしてもどうにもならない。護憲とそこに体現された普遍的価値に大胆にメスを入れることが何よりも肝要である、と私は思考してきたのだが、こんな私の訴えに耳を傾ける人はごく少数であろうし、立憲や共産党、社民党、令和新撰組も、私の考えには同意しないだろうし、真っ向から反対するであろうから、どうにもならない、と私はこれまで、みてきたのだ。




(最後に一言)


 いずれにせよ、恐るべし、「システム」とその関係の歩みである。私は30年近くも孤独を味わい続けてきた。とくに、この10年近くの間は、無力感というか虚無感にさいなまれ、隅の方から世界・セカイを眺めてきたのだが、これが本当によく見えるというか、「システム」の如何ともし難い力(暴力)の前で、ただ黙るしかない私を、日夜イタイほどに確認するのみである。


(付記)


 最近は、またまた悶々とした日々を送っている。ユーチューブで、令和新撰組の山本太郎氏の訴えを何度も聞いているとき、今回のブログ記事を書いてみたいと思ったのだ。ただそれだけであり、別に深い意味もない。


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