私の語る「システム」論から、いわゆる「合法的殺人」に込められた「含意」を再考するとき
我ながら、語彙力不足を痛感している。「合法的殺人」に替わる言葉が見つけられないままに、昨日の記事では、そのまま「合法ーーー」なる用語を使ってしまったが、そのせいなのか、ずっと気になって、情けないことに、今もこうして記事を書いている次第。
「合法的殺人」という言葉で、私が言いたかったのは、本来なら「殺人」の直接的、間接的関与者であるにもかかわらず、そうした「関与」に対する知覚すら感じることなく、生き続けることが社会によって、正確に言えば、「システム」によって許されていることから、それは「システム」が「殺人」に関与したにもかかわらず、法律的には何ら悪いとされないで済まされている状態に、「お墨付き」を与えていることを示しているということである。(これに関連して、付言すれば、「システム」の提供する「戦時国際法」によって、私たちは「戦争」における「殺人」(殺し合い)を、「特定の条件」の下で、「合法化している。)
話がややこしくなるのを避けるために、私のモデル(ここでは1970年代までのモデルを念頭においてほしい。)を使って換言すると、{[Aの衣食足りて]→[Bの衣食足りて・足りず]→[Cの衣食足りず]}の関係を、私は、あのJ・ガルツングの「構造的暴力」(概念)を踏まえて、さらに彼が描けなかった「システム」の「構造的圧力(関係)」を表す際に使うのだが、そこに示されている関係から、私が伝えたいのは、Aの先進国の「北」による、Cの「南」の途上国に対する「暴力」の構造化を、覇権システムに体現される「親分ー子分」関係の力と力による「暴力」関係が正当化、合法化しているということである。
さらに、そうした関係を、{[Aの礼節を知る]→[Bの礼節を知る・知らず]→[Cの礼節を知らず]}の関係が、正当化、合法化しているということである。少しややこしくなるのを承知の上で、それを図式化すれば、以下のように示されよう。
{[Aの礼節を知る]→[Bの礼節を知る・知らず]→[Cの礼節を知らず]}→{[Aの衣食足りて]→[Bの衣食足りて・足りず]→[Cの衣食足りず]}ーーー①
①の関係を逆から描くと以下のように示される。
{[Aの衣食足りて]→[Bの衣食足りて・足りず]→[Cの衣食足りず]}→{[Aの礼節を知る]→[Bの礼節を知る・知らず]→[Cの礼節を知らず]}ーーー②
さらに①は、以下のように示される・
{[Aの礼節を知る]}→{[Aの衣食足りて]→[Bの衣食足りて・足りず]→[Cの衣食足りず]}ーーー-③
また②は、以下のように示される。
{[Aの衣食足りて]}→{[Aの礼節を知る→{[Bの礼節を知る・知らず]→[Cの礼節を知らず]}ーーー④
さしあたり、ここでは③を例にして、少し補足しておきたい。私たちのAの先進国の「礼節を知る」で示される自由、人権、民主主義という普遍的価値とその世界大への拡大である普遍主義は、これまた同様に、覇権システムに体現される力と力の暴力関係によって、正当化、合法化されているのだが、この普遍的価値と普遍主義によって、先の構造的暴力関係が、さらに正当化され、合法化されていくのである。
私たちの多くは、勿論、こうした関係の存在というか所在について、ほとんど理解しないままに、無自覚、無知覚の中で生きている。それゆえ、いつも他人事のように、世界の中の「不幸な人たち」を見て、なんとかしなければならない、助けてあげなければいけない云々の話となるのだ。
今回は、この辺でやめておくが、コロナ禍の社会の問題をあれこれ考えていく中で、またまた「合法的殺人」などという物騒な物言いをしてしまったのだが、「システム」の中で生きている私たちには、もはやそんな物言いは「過激」でも何でもないはずなのだ。もし、上で示した①から④の関係を担っている「システム人」としての私たちの生き方を少し考えただけでも、これはもう「凄い」のなんて、そんな程度のものではないだろうから。
最後に一言。
どうもいけない。寝ようとしていたのに、また少し気が付いて、起きた次第。研究にとりつかれているというよりは、私の方がとりついたようだ。もっとも、そんなにたいそうなことを言う必要もないが。
結論から言えば、先に示した図式は次のように書き換えられる。念のために記しておく。
③から、{[Aの礼節を知る]→[Cの衣食足りず]}(それを逆から言えば、{[Cの衣食足りず]→[Aの礼節を知る]})の関係が、また④から、{[Aの衣食足りて]→[Cの礼節を知らず]}(それを逆から言えば、{[Cの礼節を知らず]→[Aの衣食足りて]})の関係が、それぞれ実現するところとなる。
なお、ここに示した図式は共時態関係モデルであることから、様々な関係に書き換
えられることを付言しておきたい。
我ながら、語彙力不足を痛感している。「合法的殺人」に替わる言葉が見つけられないままに、昨日の記事では、そのまま「合法ーーー」なる用語を使ってしまったが、そのせいなのか、ずっと気になって、情けないことに、今もこうして記事を書いている次第。
「合法的殺人」という言葉で、私が言いたかったのは、本来なら「殺人」の直接的、間接的関与者であるにもかかわらず、そうした「関与」に対する知覚すら感じることなく、生き続けることが社会によって、正確に言えば、「システム」によって許されていることから、それは「システム」が「殺人」に関与したにもかかわらず、法律的には何ら悪いとされないで済まされている状態に、「お墨付き」を与えていることを示しているということである。(これに関連して、付言すれば、「システム」の提供する「戦時国際法」によって、私たちは「戦争」における「殺人」(殺し合い)を、「特定の条件」の下で、「合法化している。)
話がややこしくなるのを避けるために、私のモデル(ここでは1970年代までのモデルを念頭においてほしい。)を使って換言すると、{[Aの衣食足りて]→[Bの衣食足りて・足りず]→[Cの衣食足りず]}の関係を、私は、あのJ・ガルツングの「構造的暴力」(概念)を踏まえて、さらに彼が描けなかった「システム」の「構造的圧力(関係)」を表す際に使うのだが、そこに示されている関係から、私が伝えたいのは、Aの先進国の「北」による、Cの「南」の途上国に対する「暴力」の構造化を、覇権システムに体現される「親分ー子分」関係の力と力による「暴力」関係が正当化、合法化しているということである。
さらに、そうした関係を、{[Aの礼節を知る]→[Bの礼節を知る・知らず]→[Cの礼節を知らず]}の関係が、正当化、合法化しているということである。少しややこしくなるのを承知の上で、それを図式化すれば、以下のように示されよう。
{[Aの礼節を知る]→[Bの礼節を知る・知らず]→[Cの礼節を知らず]}→{[Aの衣食足りて]→[Bの衣食足りて・足りず]→[Cの衣食足りず]}ーーー①
①の関係を逆から描くと以下のように示される。
{[Aの衣食足りて]→[Bの衣食足りて・足りず]→[Cの衣食足りず]}→{[Aの礼節を知る]→[Bの礼節を知る・知らず]→[Cの礼節を知らず]}ーーー②
さらに①は、以下のように示される・
{[Aの礼節を知る]}→{[Aの衣食足りて]→[Bの衣食足りて・足りず]→[Cの衣食足りず]}ーーー-③
また②は、以下のように示される。
{[Aの衣食足りて]}→{[Aの礼節を知る→{[Bの礼節を知る・知らず]→[Cの礼節を知らず]}ーーー④
さしあたり、ここでは③を例にして、少し補足しておきたい。私たちのAの先進国の「礼節を知る」で示される自由、人権、民主主義という普遍的価値とその世界大への拡大である普遍主義は、これまた同様に、覇権システムに体現される力と力の暴力関係によって、正当化、合法化されているのだが、この普遍的価値と普遍主義によって、先の構造的暴力関係が、さらに正当化され、合法化されていくのである。
私たちの多くは、勿論、こうした関係の存在というか所在について、ほとんど理解しないままに、無自覚、無知覚の中で生きている。それゆえ、いつも他人事のように、世界の中の「不幸な人たち」を見て、なんとかしなければならない、助けてあげなければいけない云々の話となるのだ。
今回は、この辺でやめておくが、コロナ禍の社会の問題をあれこれ考えていく中で、またまた「合法的殺人」などという物騒な物言いをしてしまったのだが、「システム」の中で生きている私たちには、もはやそんな物言いは「過激」でも何でもないはずなのだ。もし、上で示した①から④の関係を担っている「システム人」としての私たちの生き方を少し考えただけでも、これはもう「凄い」のなんて、そんな程度のものではないだろうから。
最後に一言。
どうもいけない。寝ようとしていたのに、また少し気が付いて、起きた次第。研究にとりつかれているというよりは、私の方がとりついたようだ。もっとも、そんなにたいそうなことを言う必要もないが。
結論から言えば、先に示した図式は次のように書き換えられる。念のために記しておく。
③から、{[Aの礼節を知る]→[Cの衣食足りず]}(それを逆から言えば、{[Cの衣食足りず]→[Aの礼節を知る]})の関係が、また④から、{[Aの衣食足りて]→[Cの礼節を知らず]}(それを逆から言えば、{[Cの礼節を知らず]→[Aの衣食足りて]})の関係が、それぞれ実現するところとなる。
なお、ここに示した図式は共時態関係モデルであることから、様々な関係に書き換
えられることを付言しておきたい。