日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

村田邦夫のヨモヤマ談義⑭-私の語る「システム」論から、21世紀の新たなる「普遍主義」について、再考するとき

2020-08-24 | 日記
村田邦夫のヨモヤマ談義⑭-私の語る「システム」論から、21世紀の新たなる「普遍主義」について、再考するとき

最初に一言。

今はっきりとわかるのは、こんな風にして、あの時も、最後は「あの戦争」へと突入していったんだなぁ、と。そして、今のこのコロナ戦争でも、多くの人たちが犠牲となって、どうにもならなかったことを回顧して、また同じセリフを語るのではあるまいか。「知らなかった。教えてくれなかった。嘘の情報しか与えられず、私たちはずっと、騙されていたんだ」、と。

本当に、どうにもならない。それはそうかもしれないが、そんな気分の滅入るときこそ、私は馬淵睦夫さんの「ひとり語り」シリーズをユーチューブで聞くのが、最近の気分転換の一つの方法となっている。とにかく、この人もブレずに頑張られている。私が、例の私の語る「システム」論を俎上に載せて、これでもかと述べるのに対して、馬淵氏は、「ウォール街の国際金融資本家」と彼らの支配する「ディープ・ステート」論を、これまたしつこいほどに、繰り返して論じられている。

確かに、いくつかの論点においては、見解の相違はあるものの、目指す方向性においては類似しているのではあるまいか。もっとも、そうは言っても、氏のトランプ大統領や安倍晋三首相に対する高い評価や、中国崩壊論?等々、看過できない点もあり、「目指す方向性においては類似している」とは、簡単に言えそうにもないのだが、もうここでは、この種の話は差し控えたい。

そんなことよりも、私が馬淵さんに強く共感するのは、誰もが読める資料を基にしながら、従来の常識とされてきた権威ある通説を、真正面から批判していく姿勢である。とくに、氏の「東西冷戦は八百長」という観点から、米ソの二大対立の構図や朝鮮戦争の「嘘」を、これでもかというほどに、明快に論及されてこられたことに対しては、私は敬服せざるを得ない。私の「金の成る木」としての「システム」論からも、そうした見方には大いに後押しされたし、その他の話も、納得のいくものが多いのも事実である。

今日も、先ほど第2回目の話を聞き直していたところであった。馬淵氏が指摘されているように、アメリカにおいては、新聞やテレビの情報は、そのメディアを所有する先のウォール街の金融資本家によって、「工作された広報」であり、それによって、私たちは日々洗脳されていることを述べているが、まさにその通りであろう。

氏も強調されていたが、それはアメリカだけの噺でもなく他の先進国においても同様のことだ。それはまた、「陰謀論」でも何でもない、「常識」なのだ。「メディアが大統領をつくる、そのメディアの所有者が、大統領を決める」云々の話も、まったくそうではあるまいか。

付言すれば、日本ではどうなのだろうか。「日米合同委員会」とこの「ウォールストリート」、そして「電通」の関係を、ひとまず足掛かりとして
考えていくとしても、私には、容易には、「結論」めいたことにたどり着けない。いずれまた、馬淵さんにご教示をお願いするしかない。

それは別にしても、私がいくら常識だとして、馬淵さんの話に頷いたとしても、なおまだまだ、「市民権」を得られるには時間がかかるのではあるまいか。それを踏まえるとき、私の語る「システム」論が常識となるのは、いつの日のことだろうか。それを基本的な見方として。まあ、それはさておき、馬淵氏の国際関係や国際政治に関する「見方」が、それを支持するかしないかは別にして、より多くの人々の知るところとなることを、私は願うばかりである。

さて、「最初の一言」が長くなってしまったが、ここで、ここ最近のブログ記事で論じていたように、私たちは今こそ、21世紀の新たなる「普遍主義」を模索することが必要である、と強調していた。私がここでいう「普遍主義」について、「村田邦夫のヨモヤマ談義」⑬の記事をもとに、以下に簡単に要約しておきたい。なお、⑨の記事は、ここでは省略しているが、以下で述べる「礼節を知る」の営為に呼応する「衣食足りて」の営為の在り方を、簡単に描いている。

たとえば、私は⑬の記事において、ーーー「システム」の中で、たとえ生きていかざるを得ないにせよ、コインの裏表の関係にある戦争と平和の関係に代わる、それとは異なる別の関係に位置する「平和」を実現するために、その「組織」主体が、「日本」と「日本人」の「衣食足りて」の営為の実現と、それに呼応する「礼節を知る」営為の実現を模索する、すなわち、可能な限りにおいて「システム」の「外」に踏み出そうとするのであれば、前言を翻すことになるものの、国家であれ、民間であれ、いずれでも構わない、と私は強調しておきたいのである。ーーー

ーーー上述したくだりに関連して補足しておくと、たとえ、私たちが「システム人」として、「システム」の中で生き続けるにしても、先のように、コインの裏表の関係にある「戦争」と「平和」とは異なる「平和」を実現するための「衣食足りて」の営為と、それと相互に補完する関係に位置するような「礼節を知る」営為の実現の在り方を目指す限り、そのこと自体が、「システム」の「外」に這い出ることを意味している、と私は考えるのである。ーーー

ここに述べた「システム」の外に向かうための「衣食足りて」の営為と、それに呼応する「礼節を知る」営為の実現の模索とその歩みを、私は、21世紀の「普遍主義」である、と位置付け理解したいのだ。そして、この普遍主義の下で提供される「礼節を知る」営為の「礼節」を、21世紀の「普遍的価値」として位置付け理解したいのである。

この21世紀の普遍主義と普遍的価値は、「日本と日本人」を超えて、名実ともに、世界で共有されるものであることを、私は祈念してやまないのだが、残念ながら、世界的金融資本家が支配するウォール街が、その普遍的価値と、普遍主義に対して、立ちはだかるのは間違いないことだろう。

また、そのウォール街の支援を受けている次期覇権国の中国も、断固として敵対・反対するのは明白であるし、1970年代以降の「システム」({[B]→(×)[C]→×[A]})を構成する下位システムの一つである覇権システムも、今の米中覇権戦争の表面的、表層的対立・敵対関係をしばらくの間、横におきながら、私の提唱する普遍主義と普遍的価値に反対・拒否するために、共同戦線を張るのは確かなことであろう。

もとより、私のこうした21世紀の普遍主義やふへんてき価値を推進する「勢力」は、覇権システムの敵でもないし、敵にもなりえない非力な存在であるのは、論を待たない。それは最初から分かり切った話ではあるのだが、こうした普遍主義やふへんてき価値の在り様に関しても、それを支持するかしないかに関わらず、私たちの「選択肢」の一つとして考えてほしいのだ。

「二度と戦争(の惨禍)は繰り返しません」「〈平和〉を大切にして、守り続けます」との念仏を虚しく訴えるのであれば、私たちが今この「システム」の中で生きているということを踏まえて、より具体的な問題を考える方が、明日につながる、つなげられることではないのか、と私は思うのだ。

最後に一言。

コロナ禍で、私たちの命を守りながら、同時に、経済活動(暮らし)を維持するといった「両立」論が誠しなやかに繰り返し流布されている。私の語る「システム」の中で、私たちは生きていて、そこで「命」と「暮らし」を守ることに躍起となっている。

そもそも、この「システム」は、「命と暮らしを守る」ための自己決定権の能力における「差別と排除」の関係を前提としてつくり出されたものであり、その意味では、最初からその「両立」の実現が難しい、できない人たちを多数、含むセカイ・世界として存在しているのである。

すなわち、私たちの生きている「システム」は、そうした両立を実現させない仕組みを「バネ」として、つまり「格差バネ」として、それこそ「金の成る木」として形成され、発展・変容してきたのである。それゆえ、私たちのいわゆる「両立」論はペテン師のマスコミ組織であるマス・メディアの工作による情報提供と、それによる洗脳である。馬淵睦夫さんも、そのように考えられているのではないか、と私は勝手に思案するのである。

付言すれば、たとえ、そうしたペテン師の集団に属しているマスコミ人であっても、その中には、良心の呵責に耐えられない、と常日頃思い悩む人たちも少なからず、いるに違いない。私も「システム人」として生きてきたし、これからも生きていくので、ペテン師云々とエラそうな批判などは、もとより、できもしないに変わりはない。辛い話であるが、今回は、もうこれ以上は深入りしないで、そっと撤収するのみ。

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