日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

№16「持たざる者」が生活上の必要経費の不足分を、「持てる者」から、つまりはそれは巡り巡って「システム」からということを意味するのだが、正当に支払わせることの合理的根拠を、私の語る「システム」論から

2023-03-06 | 日記

№16「持たざる者」が生活上の必要経費の不足分を、「持てる者」から、つまりはそれは巡り巡って「システム」からということを意味するのだが、正当に支払わせることの合理的根拠を、私の語る「システム」論から、改めて再考するとき(続)


*前回記事の私の「戯言」には、私自身も驚いた次第だ。改めて、「歴史叙述の神話」の呪縛から、自らを解き放つのに、これほどまでも苦しむのかと痛感している。やっと戯言のレベルが普通のそれに近づいてきたのではと思うと同時に、これからが本当の勝負なんだ、と私自身に対して、言い聞かせている。


(最初に一言)

 前回記事での私の問題意識に対して、福沢諭吉の『文明論之概略』は「外国交際」におけるある種の様々な「ハラスメント?」を想像・連想させる著作であったことに、今さらながら気づかせてくれるのではあるまいか。私の語る「システム」論で描く「システム」とその関係から、それについて考察してみよう。


 元より、私たちの知る「ハラスメント」とは、職場や学校における様々なハラスメントを指しているのだが、改めてそれらの内容に目を通すとき、そこで描かれている人間関係は、国家(共同体)と国家(共同体)の人間集団関係にも、そのまま該当・適用できるのではないか、と私はみている。そうした観点から今一度、福沢の著作を捉え直すならば、そこから力のない者や持たざる者は、生き残りをかけた日々の戦争・センソウの中で、ハラスメントを我慢しながら、半ば問題なしとして受容せざるを得ない生き方を甘受している、そうせざるを得ないように暮らしているのを、教えてくれているように思われる。

 福沢の著作は、外国による力(暴力)を介した開国強要によって、無理やり国際関係の中に組み込まれてしまった、当時の「日本」と「日本人」の「無念さ」ヤ「情けなさ」が滲み出てくるような描写となっている。まさにイジメでしかあるまい。そんな日本と日本人であるにもかかわらず、その外国から受けた「イジメ」を、すぐさま近隣諸国に対して試みるのだから、彼の著作が侵略を正当化・合法化する内容であると解釈されても、それはある意味においては、致し方ないであろう。

 だが、同時にまた、彼の著作は当時の諸外国とその仲間入りを果たした日本に対する「侵略」批判の書としても読み直すことができるのではあるまいか。当時の「文明」の抱えた宿痾を告発する内容に満ち溢れた著作として、少なくとも私はそう理解している。今日、かつての植民地主義を謝罪している宗主国であるこれまでの先進諸国は、その謝罪に際して、宗主国と植民地間のいかなる関係に対して、謝罪を表明しているのであろうか。

 もし、私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉に対する謝罪でないとすれば、その謝罪はほとんど意味のないものとしか、私には思われないと同時に、それにもかかわらず、それはまた、当然そうなるであろう、と私自身も考えざるを得ないのだ。だからこそ、なのだが、「システム」とその主導的利害関係者は、とくに国家・政府は、その国民に対して、その中の持たざる者たちの、日常必要な生活経費の不足分を、充当すべき責任を負うということである。換言すれば、持たざる者は、それを自己決定権・人権侵害状態からの正当な回復要求として、主張できるということなのだ。

 福沢の「文明」論は、まさにそうした自己決定権・人権に対する侵害を、本来的には描いたものとして、捉えることのできる内容なのだが、福沢自身はそれ以上に、加害者として、つまりは「文明」国として、日本と日本人が位置することを求めたことから、そのような読み方は許されなかったに違いない。さらに、福沢の野蛮を脱して文明に与すべしとの「脱亜論」の提唱により、そうした見方が支配的となったのは仕方あるまい。
 
 それにもかかわらず、こうした生き方のために、福沢はなんと悲惨な結論にたどり着いたのだろうか。長谷川三千子氏の論考「難病としての外国交際」においても紹介されているように、福沢は、「和魂洋才」では文明人とは成り得ないことから「洋魂洋才」を唱えるまでに至り、その結果として、たとえ日本が文明国と変貌したとしても、その担い手は以前のような和魂の持ち主ではない日本人となっていることを鑑みれば、一体何のための文明開化であり、日本の近代化であったのか、ということになるに違いない。

 既に、当時の明治期の近代日本とその後の歴史の歩みは、もはや日本人が主人公となる物語ではなかったのだ。それは諸外国の、特に英国とその背後に位置する巨大な私的権力によって、彼らの思い描く歴史を、すなわち私の語る「システム」とその関係の歩みを、システム人として担い支持する歴史を歩んできたのだ。本当につまらない歴史の歩みであったというしかあるまい。そして、その成れの果てが今の日本と日本人の惨状であるのは、言を俟たない。

 日本の持てる者は、それにもかかわらず、今後もそうした歴史を歩むことに、何も疑問を感じることもなかろう。それゆえ、持たざる者たちこそが、21世紀の残りの歴史を的確に位置づけ理解し直すことから、先ずは始めるべきであろう。そのためにも、持たざる者たちは、自らの羅針盤として依拠すべき新たな「みんしゅしゅぎ」論を、できうる限り速やかに、創造することに努めるべきではあるまいか。そのための一助として、私のこれまでの研究が役立つことを、ひたすら願う次第だ。

 これまで何度も繰り返し言及してきたように、憲法が法律がどうのではないのだ。私たちは、元来この世に生を受けた瞬間から、私たちの命と暮らしを保障する「じこけっていけん・じんけん」を手にしているのである。世界中のどんな国家・政府であろうと、これを保障できない権力は、自らの正当性・合法性を主張できない、その存在それ自体が許されないのである。それを自覚・自戒することが、私たちにとって何よりも大切なことなのだ。今こそ覚醒すべき時である。


(最後に一言)

 今回記事では、福沢の『文明論之概略』の内容を思い出しながら、主に国家と国家との関係におけるハラスメント?とそれを巡る問題について論究したのだが、今回記事で取り上げた問題は、それでは「私」と「私」の人間関係に、一体どのような形として投影・反映されているのだろうか。次回はそれに関して考察してみたい。(続)

 


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