日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

№23私の語る「システム」論から、改めて以前のブログ記事で論じた「公」と「私」の関係に関する記事内容を、読み直すとき(2)

2023-03-19 | 日記

№23私の語る「システム」論から、改めて以前のブログ記事で論じた「公」と「私」の関係に関する記事内容を、読み直すとき(2)


*前回記事での強調点を、(最後に一言)に置いて述べていたので、先ずはこのくだりを、引用貼り付けておきたい。


(最後に一言)

 やはり、最後の最後で、なお。「私」と「私」の関係であるにもかかわらず、「私」と「公」の関係が、それでも何か存在しているかのような、誤ったメッセージを読者に送っている記事内容となっているくだりが散見される。勿論、私は「私」=「公」=「私」となることを十分に理解した論の展開をしているのだが、それにもかかわらず、もっと踏み込んだ形で、すべてにわたって述べているとはいいがたいように思えるのも事実ではあるまいか。

 私的権力が公的仮面を被って云々とも指摘はしているのだが、国家・政府を、なお私的権力として存在しているとまでは、断言していないように思われる。それは、まだこの時点においては、*私の語る「システム」とその関係それ自体が、*私的権力とその利害集団関係者の集合体であり、*それはどれほど多くのかつ巨大な集合体となろうとも、私的権力の存在以上にはなり得ないことを、私は的確に言及できていなかったことに、最近気が付いた次第だ。

 再度ここに引用貼り付けした(最後に一言)の次のくだりを、読者には今一度噛みしめてもらいたい。すなわち、〈*私的権力とその利害集団関係者の集合体であり、*それはどれほど多くのかつ巨大な集合体となろうとも、私的権力の存在以上にはなり得ない〉のくだりである。換言すれば、それは「公的権力」としても存在し得ないと同時に、「公的空間」も形成できないということを意味している。


(最初に一言)

 それでは、今回記事では以前のブログ記事の第2回目となる記事を取り上げて、それについて論評したい。早速その記事を引用貼り付けておく。なお、前回記事でも指摘していたように、文章内容の訂正と修正、段落編成の手直し等をしていることを、ここで断っておきたい。読者は、とくに*の付いているくだりに目を向けてほしい。


ーーー記事の引用張り付け、開始

(2018,3,25)

「公」的空間とは何か。「公」と「私」の関係を考える(2)

 まだ、固有名詞の私と、いわゆる「私」と「公」について、詳しい説明をしていないが、今はこのままで話を続けたい。なお、これまでの話で、私が意識しながらこのブログ記事で述べていた「思想」に関して言えば、ルソーの「一般意思」、フロイトの「無意識」「自我」「超自我」、フロムの「自由からの逃走」、サルトルの「実存主義」、そして、レヴィ=ストロースの「野生の思考」、グラムシの「ヘゲモニー」等々であるが、そんなことを言うと彼らに叱られるかもしれない。彼らの思想を表面的になぞっただけだから。

 ただ、私はいつも自分のモデルのセカイというか、私の語る「システム」の自己完結運動の歩みの中に、彼らの思想を置き直して、批判的観点から再考している。特に、覇権システムや、「システム」の自己完結運動の歩み(歴史)、またその際、その歴史のいかなる「段階」で、そうした思想が語られているのか、システムの側から見た時、彼らの思想はいかなる問題点を有しているかを、批判的に考察している。偉そうな物言いであり、彼らには迷惑千万な的外れな言いがかりだろうが。


 ところで、私は「政治」を語れる「私」を探すのだが、残念ながら、みんな興味はないらしい。政治を語る視覚障碍者に出会ったことがない、今までのところは。ここでも、私の言う「政治」の説明が必要だが、これまでの記事において、私なりに話してきたつもりだ。誤解を恐れないで言えば、点字ブロックや音響信号機をもっと増やしてといった要求は、それはそれでとても大切な問題ではあるのだが、それはここで私の考える「政治」ではない。

 政治の大切さ云々など、もうどうでもいいのかもしれない。私は既存の市民運動家も含めて、既成政党の語る政治には期待していない。というのも、彼らはほとんど、憲法がどうのから始まり、第9条が危ない、民主主義が危機に瀕している等々と繰り返し叫ぶのだが、それ以前に語るべき「政治」の話があるだろうに、と私は腹が立つばかり。

 私はなんとか、今よりは少しマシな政治をと考えるのだが、障碍者に期待し過ぎるのも、やはり無理があるのかもしれないし、かと言って、健常者にも期待できないし、といろいろ頭の中で試行錯誤する間に、次第に熱は冷めてきたところだ。勿論、今の政治家連中には、さらに期待していないのだが。もっとも、だからと言って、私は私なりに、のたうち回るしかないし、それしか脳がない。それゆえ、今回もまた堂々巡りの話をするだけだ。しかし、やはり以前とは異なり、絶望感は増したが、それほどへこたれてもいない。私には「私」の役目というか、役割があると信じているから。


 前回の記事において、私は以下のように述べた。すなわち、*---目が悪い理由にしたくない。ただ言えるのは*これまでの思考のパラダイムを大転換しない限り、非力な私が似たような「私」と一緒になって公的空間を作ることは難しいと考える。そうしない限りは、たとえ「バリア・フリー」云々と言っても、ただ段差のないーーー、と。正直に言えば、*私はこうした試みが簡単にできるとは考えていないし、むしろ以前以上に、絶望的な作為だと考えるようになってきた。

 もとより、既に固有名詞として存在する私は、「システム」の提供する「公的」ならぬ「私的空間」の中でがんじがらめになっている。「システム」は、すなわち、*「親分ー子分」関係を基本とする「帝国主義」関係を体現した覇権システムと、その覇権システムの下で創造された資本主義システム、民主主義システムの*三つの下位システムそれら自体が*「公」的存在として、誤って理解されている。そうした意味で、「システム」の有する圧倒的ヘゲモニーの影響力の下で、私の試みがどれほど無謀な、ドン・キ・ホーテとしてふるまおうとするかも、十分に分かっていることである。

 と言うのも、私は結局のところ、既存の「システム」に替わる、あるいは、それはとても無理だとしても、*「システム」の中で、新たなるもう一つの「衣食足りて礼節を知る」営為の関係が実現可能となる公的空間を創造しようとしているからだ。とてもではないが、絶望的な話だ。しかしながら、以前とは違って、へこたれない私をいまは強く実感できるし、絶望状態においてもしっかり向き合い、引き受ける役割が私にはある、と確信しているのだ。オメデタイと思うが、それでいいのではあるまいか。

 もっとも、そうは言っても、現実はやはり厳しい。最近の出来事を少し述べておきたい。私は自身のモデルでA、B、CとかB、C、Aといった{[衣食足りて→礼節を知る]→[衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[衣食足りず→礼節を知らず]}の営為の関係における自己決定権力の優劣関係を示してきたが、それは丁度、福沢諭吉の語る「文明ー半開ー野蛮」における「製物の国」と「産物の国」の関係とも相重なるものである。同時にまた、文明においても、半開においても、矢版においても、それぞれの内部で、同じように、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係がつくられていることを示している。

 それゆえ、私が一緒になって「私」と別の「私」の関係からなる「公」をつくろうと試みる際、そうした「私」は、いつも{[衣食足りて→礼節を知る]→[衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[衣食足りず→礼節を知らず]}の営為の関係を構成する「私」と「私」と「私」の関係から構成されている「私」ということを理解しておく必要がある。

 たとえば、私が、[衣食足りず→礼節を知らず]の営為に従事する「私」と「公」的関係をつくろうとした時、相手の「私」は、もっと力のある「私」を欲することが容易に推察されるだろうし、力の無い、弱い立場にある「私」は、[衣食足りて→礼節を知る]の営為を担う「私」に、積極的に組み込まれたい願望を示すのである。当然と言えばそれまでだが、「寄らば大樹の陰」である。私が弱い力しかないと相手の「私」が感じた瞬間、もう私にはどうしようもないこととなる。

 さらに、私も、そうした別の「私」のいやらしさや、どうしようもない性癖(その一番は、自分と関係のないことには徹底して無関心であり、本当に関係ないかを問わない、問うことをしない)に辟易しているのだ。「教養」というものに付きまとう恐ろしさというか悲しさを、私たちも感じることがあるのではあるまいか。

 少し以前の記事で、教養を有した者たちの問題点を述べていたが、それに勝るとも劣らない教養、というか素養の無い、それでいて教養を親しまない、親しもうとしない者の悲しさ、情けなさには愛想が尽きるのだ。ここでいう「教養」、「素養」とは、世間一般で語られている「教養のある」それとは異なり、先の性癖に向き合う能力を涵養しようとする心、精神であるが、こう言う私にも、さすがに、「あなた何様なのか」と、ほとほと愛想が尽きる、疲れてしまうのだが、正直な感想なのだ。

 無論、これは視覚障碍者だろうが健常者だろうが、障害の有無には関係のないことだ。ああ、また嫌われてしまったが、これまた仕方がないことだ。と言って、安倍さんや麻生さんたちに代表される「私」は、私のような考え方をする「私」を相手にはしないし(それは、既成政党や市民運動に従事する人たちも同様だが)、私も少し遠慮したいと言いたいが、所詮、私は鼻から相手にされていないのが実情だ、悔しいけれど。さらに悔しいのは、私が一緒になって、「公」や「公的空間」を創造しようと手をつなぎたい相手の「私」からも、そっぽを向かれている。とにかく、難しい。どうにもならないことなのだろうか。

ーーー記事の引用張り付け、終わり


(最後に一言)

 前回記事でも感じたのだが、言葉が足りないくだりが、今回もまたあるのに気が付いた次第。その部分はできる範囲で訂正・修正している。なお、以前投稿した記事(2018,3,25日付)は、そのまま何も手を加えていない。ただし、以前のブログ記事の下に、今回記事も貼り付けていることを、ここで断っておきたい。

 それにしても、なかなか大変な挑戦を試みてきたことには、今更ながら「こいつホンマにバカじゃない」である。それでもバカは死ななきゃ治らない、と昔から言われてきたので、これから先も、最高のナイスバカを目指すことにしたい。いつもこんなバカに付き合ってくれて、ありがとう!

 


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