日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

№20私の語る「システム」論から、改めて「市民革命」〈前・後〉の「私的権力」体制に見られる〈連続性〉について、問い直すとき

2023-03-11 | 日記

№20私の語る「システム」論から、改めて「市民革命」〈前・後〉の「私的権力」体制に見られる〈連続性〉について、問い直すとき

*いわゆる「絶対王政」なる〈私的権力〉体制を、いわゆる「市民革命」なるものによって、「近代国民国家」としての「公的権力」体制の誕生としてこれまで描かれてきた「歴史叙述の神話」の壮大なるウソ物語を、私の語る「システム」論から描き直す必要性に改めて気が付いた。これまでの私の議論は、画竜点睛を欠くの感がする論となっていたように思われる。その理由として、これまでの論では、本来ならば、〈「私」と「私」〉の関係に過ぎないものを、いつも〈「私」と「公」〉の関係が成立・存在しているかのように、完全に見誤っていたことが大きく影響しているのである。

**1648年のウェストファリア体制は、これまでの絶対君主である私的権力保持者を中心・主体とした主権国家とする国際的承認・表明であった、と私はみている。そこでは主権国家の担い手は絶対君主である私的権力の保持者であるということであった。それが1789年のフランス革命に代表される市民革命によって、国民を担い手とした革命により、主権国家と国民国家の主人公である国民が公的権力の担い手として存在する、と位置づけ理解されることによって、市民革命の前・後で、大きな断絶が、すなわち「私的権力」体制から「公的権力」体制へと権力構造の転換が、導かれたとの壮大な物語が誕生することになった。

 私たちは、それゆえこうした神話の世界の中でこの21世紀にあっても、それを何ら疑うこともなく信じて生きているのだ。今こそ覚醒すべき時である、と言いたいところだが、覚醒などしないで、これまで同様に、眠っていた方がいいかもしれない。その方がずっと楽なのだから。正直なところ、そんなことをしても、何も変えられないことに、これまで以上に、より一層気が付いてしまうだけだから、さらに苦しくなるばかりだ。

 まあ、そんなことは今までもずっとわかっていたのだから、どうこう言うものでもあるまいが。今回記事はここまでにしておきたい。何か相当に疲れてしまった。こんな時は、それこそ、少し眠った方がいい。(続)

 


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