日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

№22私の語る「システム」論から、改めて以前のブログ記事で論じた「公」と「私」の関係に関する記事内容を、読み直すとき(1)

2023-03-15 | 日記

№22私の語る「システム」論から、改めて以前のブログ記事で論じた「公」と「私」の関係に関する記事内容を、読み直すとき(1)


(最初に一言)

 「画竜点睛を欠く」云々と、私自身の「公」と「私」の関係に関する以前の記事を、批判的に見直す必要性を、前々回くらいの記事で指摘していた。それを踏まえて、今回記事は、ずっと以前の、3回連続となる「公」と「私」についての記事を再度、引用貼り付けながら、再検討してみたい。今回記事はその第一回目である。


 以下に貼り付けた記事を、改めて見直しながら、その感想としては、いい意味では「まったくブレていない」、悪い意味では、「成長がまったく見られない」というところか。これは、もうし方あるまい。ただし、私自身で自画自賛するつもりはないのだが、私の考えというか思いは、なんとか伝えられているようだ。

 早速だが、第1回目の記事を引用貼り付けておく。その後で、記事内容についての今の私の感想なり見方を述べることにしたい。読者は、記事を斜め読みでも構わないので、ざっと目を通してほしい。とくに*の付いているくだりには注意してほしい。


ーーー記事の引用張り付け、始め(なお、ここに再度、引用張り付けするにあたり、文章内容の補足や訂正、段落を新たに設けたことを断っておきたい。)

(2018、3、23)

「公」的空間とは何か。「公」と「私」の関係を考える(1)

 かつて丸山眞男は彼の有名な論考(「超国家主義の論理と心理」)で、戦前の日本と欧米諸国の「公」と「私」の関係における比較論的考察から、前者の特徴として「公」的権力が「私」に関わるすべての空間を、すなわち「真・善・美」の空間(世界)でさえも、包摂・包含していると論じた。その一方で、市民革命を遂げた英国などでは、「私」が主体となって構成される「公」的空間としての国家権力を描いていた。

 大胆にわかりやすく換言すれば、丸山は*公的権力が個人の心の内面を、つまり精神的世界までも支配・管理することの危険性を鋭く描いている。その意味では、「公」的権力と「私」の関係は非常に重要な問題なのである。*国家・政府の「公」的権力の「私」物化問題が、安倍内閣を批判する際において、最近よく取り上げられるのだが、これもまさに*「公」と「私」の関係における公的空間の重要性を説いているのである。それゆえ、私たちは「公」や「私」、「公的空間」について考察するのをどうしても避けられないこととなる。これらの点を踏まぇて、先の続きに戻るとしよう。

 丸山の国家間関係を捉える視角は「一国枠」であったから、こうした結論は無理ないとしても、「関係」論的枠から見れば、*明治日本国家・政府の背後にあって日本が組み込まれている覇権システムとそのシステムを構成する覇権国の英国(当時)と非覇権・中心国、準周辺国、周辺国との関係を考慮した際の「公」と「私」の関係は、それほど単純なものとはならない。

 また、上述したように、丸山によって、明治日本におけるそれよりも、高く評価されていた英国の「真・善・美」の世界を取り巻く「公」と「私」の関係に加えて、*英国の資本主義システムと民主主義システムにおける「公」と「私」と「公的空間」の関係を見るとき、それらのシステムは、*力のある「私」が力のない他の「私」を呑み込みながら、「公」と「公」的空間をつくり出していることがわかる。

 こうした「公」と「公的空間」と近代市民憲法、そして日本国憲法との関係をみるとき、近代憲法も、またその一つの具体例としての日本国憲法も両者ともに、そうした「公」と「公的空間」を擁護してきたのである。*そうした「公」と「公的空間」の抱える差別と排除の関係を、近代市民革命の母国とされる英国や仏国や米国は、何ら疑うこともなかったのである。

 それゆえ、これら諸国は、従属国や植民地を自らの下に、力のない弱い「私」的存在として組み込みながら、〈覇権国―非覇権・中新国―準周辺国ー周辺国〉に見られる差別と排除の関係をつくり出すことに成功したのである。そして、その関係を、近代憲法も日本国憲法も何ら疑うことなく、正当化・合法化してきたのである。

*その意味では、両者ともに、「公的空間」における「人権侵害」を正当化する憲法だということがわかる。*この英国が「主体的」につくり出した公的空間に、戦前の日本と日本人が呑み込まれたことで(勿論、他の準周辺国も周辺も呑み込まれたのだが)、*明治以降の日本の私的空間の一つを構成した〈真・善・美〉の世界は、いびつな影響を受けざるを得なくなるとみるべきだろう。

 付言すれば、丸山はこうした「公」と「私」の理想的な関係を築いた英・米・仏国がどうして、準周辺、周辺地域における「公」と「私」の関係を構成できる「空間(国家)」の実現さえも許さなかったのかという点に関しては何ら言及していないのである。(この点に関しては、拙論を参照されたい。なお、失礼ながら出典は略す。)

*ところで、今日の日本の〈真・善・美〉の私的空間は、他の資本主義、民主主義システムの公的空間と同様に、*有力な「私」が「公」を支配、管理して、大多数の無力な「私」を統制できるように、*「私」=「公」の空間をつくり出しているのではあるまいか。この公的空間の内部は、私のモデルで描いたA、B、Cの、あるいはB、C、Aの関係に呼応した関係が、つくられているのである。たとえば、Aの国家の内部で、さらにA、A A´、A´´のように、「私」と「私」と「私」との間で、力の優劣関係がつくり出されているのだ。

*その関係は、{[衣食足りて礼節を知る]→[衣食足りて・足りず礼節を知る・知らず]→[衣食足りず礼節を知らず]}の「私」と「私」と「私」との三者の自己決定権にみる力の優劣関係から構成されている。つまり、その意味では、*力の弱い「私」が主体となって構成される「公」的空間が創造されないままなのである。*ラジオやテレビといった*〈「公」(私)的空間〉で、「私」が公的仮面をかぶりながら、公的空間をむさぼりつくしている。*(なお、これに関しては、拙著『「日本人」と「民主主義」』、『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」』を参照されたい。)

*国際金融資本・世界的多国籍企業が支配・統制するテレビやラジオそしてネットの世界で、どうでもいい、つまらない「私」的コメントや解説が充満している。*それらが「事実」さえも作り替えていく。たまらない。息苦しくて窒息してしまう。)*私はいつもそうした*偽装「公」的空間に対して身構えながら生きることを余儀なくされている。どうすれば、こうしたおかしな関係に異議申し立てができるのだろうか。

*おかしなことに(いや、何もおかしなことではないのだが)、「自由」な「民主主義」の社会で閉塞感漂う世界がつくられている。*これは、自由な民主主義社会が本来あるべき姿から「変質」した結果なのか。それとも、*もともと自由な民主主義社会はそうした性質を兼ね備えていたのに、私たちがそれに気が付かなかっただけなのか。もしそうだとすれば、それでは、どうして気づかないままだったのか。

 振り返れば、「デモクラシーを全体主義から、テロから守る」ための戦争という掛け声はよく聞いたのだが、*「私たちの公的空間をそのデモクラシーから守る」(ための闘争)を!、といったシュプレヒコールを、私たち自身が一度でも発したことがあっただろうか。*と言うのも、そのデモクラシーは自由主義的世界に包含された「公的空間」を提供するものだから、*最初から力のある「親分」の空間に、力のない「子分」が生活することを強いられる自由なのだから、*いつも私たちはそのデモクラシーから、どうやって身を守るかを考えていなければ、大変な災厄に直面することになる。

 福島原発事故での東電の「営業の自由」の名の下の支配に菅直人や枝野幸男(現、立件民主党代表)等が率いた民主党政権はなすすべもなかった。*自由を規範とする憲法を護憲する限り、そうなるのは必至だろう。何しろ、親分である覇権国の米国の、覇権システムを下位システムとする、私の語る「システム」が提供する「自由」であるから。

*米国のFRBは民間銀行だとよく言われるが、つまり「民間」=「私」だが、*同時にその「私」はいつでも「公」的存在となれる力を持っている。その意味で、「私」=「公」=「中央」となるのだ。こうした関係の中で私たちが生きていることを、私たちは痛いほど自覚しておかなければならない。もっとも、自覚したからといって、何が変わるのか、と問われれば、何も変わらないと言ううしかないのもその通りだろう。

*それにもかかわらず、公的空間を力のない普通の庶民である「私」が、再度つくり直すためにも、ニュースや新聞記事で、FRB、アメリカの中央銀行に該当するという決まり文句をラジオやテレビで聞きながら、「中央」=「政府」=「公」=「私」の意味している「私」とは、力も富もない普通の名もないその他大勢の「私」とは次元の異なる世界に暮らしている超お金持ちを意味する「私」であるということを、何度も噛みしめることによって、やはり何かのおかしさに気が付くかもしれない。

 もし、気が付かないとすれば、もう終わりというしかあるまい。誠に、遺憾であり残念なのだが、これまた、どうしようもないだろう。勿論、それがどうしたである。何も悲観することはない。私はただ淡々と自分の役割を果たすだけだから、こうして訴えるだけである。

(今回からテーマを変えてみた。ただし、内容は前回の続きであるが。前回は少しきつかった。わかりやすく伝えたい気持ちと裏腹に、大事なところを伝えられないもどかしさが残った。目が悪い理由にしたくない。ただ言えるのはこれまでの思考のパラダイムを大転換しない限り、非力な私が似たような「私」と一緒になって公的空間を作ることは難しいと考える。

 そうしない限りは、たとえ「バリア・フリー」云々と言っても、ただ「段差」のない空間(部屋)といった意味でしか理解されないと思うのだ。力のない、いわゆる「弱者」とか「障碍者」に関しても、まだまだ批判的に論及されるべき問題が多々あるのも現実なのだ。おそらく、私は弱者に対して甘くはないし、むしろ厳しい見方をするのではあるまいか。これから、少しずつ、もっと身近な話をしてみたい。)

―ーー記事の引用貼り付け、終わり


(最後に一言)

 やはり、最後の最後で、なお。「私」と「私」の関係であるにもかかわらず、「私」と「公」の関係が、それでも何か存在しているかのような、誤ったメッセージを読者に送っている記事内容となっているくだりが散見される。勿論、私は「私」=「公」=「私」となることを十分に理解した論の展開をしているのだが、それにもかかわらず、もっと踏み込んだ形で、すべてにわたって述べているとはいいがたいように思えるのも事実ではあるまいか。

 私的権力が公的仮面を被って云々とも指摘はしているのだが、国家・政府を、なお私的権力として存在しているとまでは、断言していないように思われる。それは、まだこの時点においては、*私の語る「システム」とその関係それ自体が、*私的権力とその利害関係者集団の集合体であり、*それはどれほど多くのかつ巨大な集合体となろうとも、私的権力の存在以上にはなり得ないことを、私は的確に言及できていなかったことに、最近気が付いた次第だ。

 


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