日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

№21私の語る「システム」論から、改めて「市民革命」〈前・後〉の「私的権力」体制に見られる〈連続性〉について、問い直すとき(続)

2023-03-14 | 日記

№21私の語る「システム」論から、改めて「市民革命」〈前・後〉の「私的権力」体制に見られる〈連続性〉について、問い直すとき(続)


*およそ生殺与奪の権力を掌握している者は、黒を白へとひっくり返すのも簡単であるように、私的権力に仮面を被せて公的権力にすり替えるのも容易である。

**私たちは国家・政府なるものは私たち国民の代表であるとの間違った思い込みによって、彼らの仕出かした過ちを批判する際に甘くなるとすれば、それはとんでもないことである。彼らは私的権力であって、公的権力として存在していないのだから、徹底した批判をしない限り、彼らの愚行を反省してやめるどころか、さらに金の成る木としての「システム」の維持・発展とその存続に邁進・猛進するばかりである。

***私たちはその「システム」を担い支持してきたシステム人としての弱さを自覚・自戒すると同時に、それ以上に、「システム」とその主導的利益集団の私的権力の存在を許してはならない。

****そのためにも、私たちは「私」の単なる集合体としての国民と、その私的権力の存在である国家ではなく、その集合体を「公」的集団として位置付けられると同時に、その公的権力として存在する「共同体」の創造を、目指していかなければならない。

*****その際、ここで言う「私」とは、差別と排除の関係を前提とした「システム」を担い支える存在であるのに対して、「公」とは、そうした「システム」を批判・拒否して、差別と排除を許さない仕組みを担い支えようとする存在として、位置づけ理解される。

******その道のりは、相当に困難であるのは容易に想像できるのだが、それを踏まえながら、先ずは私たちが当然のように信じ込んできた従来からの「普遍的価値」や「民主主義」、「公」と「私」、「国家」と「国民」等々の「歴史叙述の神話」の呪縛から自らを解放していく以外にはない、と私はみている。


(最初に一言)

 もし日本国憲法の日本国という国家が単なる私的権力として存在するとすれば、そんな憲法をありがたく守ろう、となんて主張したりはしないはずだ。だが、私たちの多くは?、未だにそれを守ろうとしていることを鑑みるとき、おそらくその日本国家を公的権力として存在している、と位置づけ理解しているからに他ならない。果たして、本当に日本国家を含む近代国家は、公的権力として存在しているのだろうか。それは公的な存在とはまったく異質の次元の異なる、私的権力として存在してきたものではないのか。

 ここで、私のあのモデルで描いた世界の構造を、もう一度思い出してほしい。差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきた「システム」とその関係(史)である。その「システム」の主導的利害集団を構成していたのは、いわゆる市民革命の中心的指導者であった。

 彼らは、王族に匹敵するあるいはそれを凌駕する富の所有者である。今日でいうところの国際金融資本とその担い手たちであり、その祖先ともいえる彼らこそ、近代市民革命の「私」としての「市民」たちであった。その意味では、絶対王制と何ら変わらない私的権力体制の継続が今日に至るまで続いている。その歴史は、トマ・ピケティの著作『21世紀の資本』とも重なる、と私はみている。


(最後に一言)

 本論が始まったばかりなのに、もう疲れてしまった。それにしても、疲れることばかりの社会だが、私の人生も、あともう少し。それまでに書き残しておきたいことは、できるだけ書いておきたい。ただ、それだけが私の人生の楽しみとなった。それではおやすみなさい。しっかりと生き切りましょう。たとえ面白くない世の中だとしても。〈必ず〉いいことが、たとえ少しでも、(必ず)巡ってくると信じて。それではおやすみ。

 


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