日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

№14「陰謀論」の「陰謀」とは、「金を稼ぐための人間行動における合理的選択〉であり、その選択においては、「1」も「99」も何ら変わらないとの私の見方を、私の語る「システム」論から、改めて再考するとき

2023-03-02 | 日記

№14「陰謀論」の「陰謀」とは、「金を稼ぐための人間行動における合理的選択〉であり、その選択においては、「1」も「99」も何ら変わらないとの私の見方を、私の語る「システム」論から、改めて再考するとき


(最初に一言)

 私たちは、私の語る「システム」を担い支える「システム人」であることから、そもそも「1」と「99」に区分される前に、同じ存在であると自覚・自戒した方がいい。その区分けは、金を稼ぐ「能力」の違いを意味している。そして「99」においても、その能力の違いは、まさに天と地の開きがあるのではなかろうか。


 この世界を動かすのはお金であり、それゆえ、そのお金をたくさん持っている、お金をつくり出す能力のある者の行為は、どうしても「陰謀」と結び付けられてしまいがちだ。巨万の富を稼ぐとなれば、尋常な手段ではできないと、普通の人間ならば考えてしまう。それゆえ、国際金融資本や世界的な巨大な多国籍企業の日常的営業を、批判的観点から見るのは当然ではあるまいか。

 それに対して、彼らの営業を擁護する側にいる人々からすれば、そうした批判や非難はなんとも目障りなものと映ることから、それらに「陰謀論」とのレッテルを張るのではあるまいか。だが、それは決して、陰謀論で片付けられるものではない。但し、正確に言えば、「陰謀」などではなく、金を稼ぐとすれば、おそらくそうすることの蓋然性が高い「人間行動における合理的選択」と言い換えた方がいい、と私はみている。

 そうした選択を、陰謀論云々の論で煙に巻きたい者たちの中にも、おそらくは、その人間行動における合理的選択なるものの異常さというか、度し難い犯罪に、気が付く者もいるのではなかろうか。ある意味では、それは当然なのだ。なぜなら、その合理的選択には、いろいろなレベルの〈金を稼ぐ〉ための「人殺し」が含まれていて、その最高のレベルは戦争ということになるからだ。普通の「人間らしい」感性を持つ者であれば、陰謀論云々にすり替えて、あたかもそんなことなどないかのように済まされない出来事が、それこそ雨後の筍のように頻発していることに気が付くはずなのだ。

*なお、すぐ上で述べている「人殺し」とは、少々過激な物言いではあるが、その意味は、相手の命を直接的には奪わないとしても、間接的には奪うことに手を貸しているとの意も含んでいる。同時に、その際の殺し方は肉体的・物理的暴力は勿論のこと、精神的・心理的暴力も含んでいる。さらに、そうした殺しにまではいかないまでも、相手の人間としての存在を、ほとんど抹消してしまう暴力行為も想定して使っていることを、ここで断っておきたい。また*は、記事投稿後に追記したくだりである。。

ところが、残念ながら私たちは、差別と排除の関係を前提とした「システム」の中で生きており、「親分ー子分」関係に逆らったり、そこから遁れるのは、それほど簡単ではない。卑近な例だが、親分である米国との関係を介した日本政治と外交を見れば、それはよくわかることだ。

 同時にまた、その米国の政治と外交に、それこそ国際金融資本が、DSがどれほど深く関与しているかについて、こと細かく論じた著作や論考が、「陰謀論」として一蹴されてしまうのは、それが陰謀でも何でもなく、現実を描いたものであることから、私の語る「システム」の主導的利害関係者には面白くないからに違いない。

 なお、これについて付言すれば、前回記事でも指摘したように、私は私の語る「システム」論との関連から、ーーー私をその(巨大な私的)権力と一蓮托生的に生きるように導いている「私」と他の無数の「私」とを結び付けている関係を―ーー、ひたすら考察するだけである。


 ところで、ここまでの話は「1」に関係した話であったが、それでは次に、「99」に関係した話をしてみたい。それについて語る際、私は大リーグの大谷選手のトレードにまつわる、年俸総額がいくら云々の話題に目を向けたい。まだ、はっきりとはしないのだが、10年総額で480億ドル?相当となるらしい。円換算では、年40億円以上となるらしい。日銀の新総裁は3千万で、首相は4千万との比較もされていた。とにかく桁外れで、口があいたままだ。

 とはいえ、私はそんな話には興味津々だから、その他の稼ぎのいいスポーツ選手や芸能人の年俸についても、いろいろとネットで調べてみた次第。そこからわかったことは、なんと、テレビ出演のフリー・アナウンサーも、数億稼いでいることに気が付く。そればかりではない。お笑い芸人の売れっ子となるや、十数億とかなのだ。あのミヤネヤの宮根氏も数億を稼ぐのだから、「99」の話は、最初から空中分解していたも同然だ。

 それにしても、「99」に位置していると思われた人の、勿論、それは私の勝手な思い込みであるのだが、なんと金を稼ぐ者の多いことかと、あきれてしまった。私の周りには、誤解のないように付言すれば、この「周り」とは、私の知人ではないが、「この人も億、あの人も億、たぶん億、きっと億」だらけとなっていることに、今さらながらの浦島太郎的気分となる。

 そして、私はとなれば、「相対的貧困ライン」付近にいるではないか。
勿論、退職して無職となり、年金生活者だから、それは仕方がないとしても、それでも年金生活者の中には数千万を保障されている者もいる。勿論、退職前の年収が桁違いなのだから、それも致し方がないと言えば、そうなのだが。それにしても、正規と非正規の格差もさることながら、「99」の中の国民というか、市民というか、主権者というか、有権者というか、日本人というか、それらの範疇の中の格差がはなはだしいことを、嫌というほどに思い知らされたわけである。


 そこから、改めて「1」対「99」について考えてみた。私の周りの億を稼ぐ者たちも、「1」には到底、移れないが、だからと言って、「99」の中に含むのもおかしいだろう。彼らもそんな意識はないはずだ。そんなことをここ数日間、ヒガミ根性丸出しで、ああだこうだとぼやきながら想像していたので、いつも以上に下を向き、謙虚なフリをせざるを得なかった。それにしても、私はいつの間にか、老いぼれてみすぼらしくなり、ついには性根までもが腐り始めている。

 
(最後に一言)

 それにしても、やはりどこかおかしいのではあるまいか。石川啄木の「はたらけどはたらけど猶わが生活らくにならずぢっと手を見る」ではないが、ひどすぎるとしか言いようがないのだ。ほんの一例だが、私の周りで働いている介護士や看護師、理学療法士や作業療法士、保育士や教員の給料は、今の国会議員の仕事ぶりと照らし合わせるとき、議員のそれに比べて、あまりにも低いとしか言いようがないのだ。

 たとえ、その思いが、引かれ者の小唄だ、と冷笑されたとしても、私はそういわざるを得ない。確かに日本の賃金は低い、もっと賃上げを、との声もあるのだが、それもさることながら、この生活上の格差は、許しがたいものとして、私には思えて仕方がないのである。

 それゆえ、私は何としても、持たざる者が持てる者から生活する上において、不足する分を、こちらに回せと、正当に要求・要請できる論を、一刻も早く提唱しなければとの思いに突き動かされている。以前の記事でも紹介した「ささやかな革命」論の提唱とも、相互に補完し合う、関連した内容となるに違いない。とにかく、落ち込んでいる暇はない。付言すれば、それは憲法の規定がどうのの論ではない。憲法では、持たざる者の人権を守るのは容易ではないのだ。

*だが、そうはいっても、憲法の保障する「人権」規定を「逆手に取る」、そうした思想的闘い方を、私の語る「システム」と理論的にやり合うためには、必ずや闘いのどこかの局面において、必要とするのは必至となる、と私はみている。なお、この*のくだりは、記事投稿後に追記したことを断っておきたい。


(付記)

 本当は、3月1日付の記事を投稿したかったのだが、書き始めたのが少し遅かったこともあり、今までかかってしまった。それでも、また少しやる気が出てきたのは、喜ばしい限りである。だが、前途は多難であるのは、少しも変わるところではない。

先ほど、記事の追記を2か所したこともあり、改めて、記事の投稿日時を変更したことを、断っておきたい。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする