(「100ってどんな数?」)
わたし 「パッケージ化された体験?
そういえば、去年はいろいろな意味で……いい面も悪い面も、外にあるものとしても、
教室内の課題としても……それを意識しながら仕事をした1年だったわ。
事前に山にカブトムシやクワガタを放しておく、
『夏休みの虫とりイベント』みたいにわざとらしいものから、
フランチャイズ化している習い事にしろ、
消費者のニーズを盛り込む幼稚園にしろ、
情報網の中で先回りがあたり前となっている子育て環境にしろ、
いろいろな場が、それ自体で完結しているパッケージ化されたものになりつつ
あるわよね。どれも悪いものじゃないし、商品としての質を約束しようとしている
だけでもあるんだけど、なら何が問題なのかといえば、参加している子が、
あれこれ得ることはできても、人や環境と直に会話していくことができない、
ということにつきるんでしょうね。
自分の反応で環境が変化するということがないし、
自分の考えが、結果を別の方向に持っていくこともないでしょ」
息子 「パッケージ化された体験は、未来がある程度固定されちゃうし、
ほかの体験の代わりにならないところがやっかいなんだろうな。」
わたし 「ほかの体験の代わりにならないって、どういう意味?」
息子 「子どもの時に、野球とか将棋に夢中になっても、
そのまま野球選手や棋士を目指す人は稀だよね。
たいてい、夢中になっていた時にした体験は、新たに興味を持った体験の中で
更新されていくよ。
パッケージ化されて他人から与えられた体験じゃなくて、
本当に自分が関わっていた体験の場合だけど。
次のもっと自分にぴったりくる体験をした時には、
前にやっていたことが別の形で活きてくるし、自分にとっての意味もわかってくる。
ぼくは、子どもの時に必要な体験って、それが別の体験と代替え可能なものか
どうかが、先々役立つかよりずっと大事なことだと思うよ」
わたし 「そうよね。お母さんも子どもたちと接していると、
いつもそれを感じるわ。
子どもって一人ひとり個性的だから、同じ体験をしていても、
その体験の何がその子に響くのか、何がその子に残っていくのかは千差万別なのよ。
例えば工作していると、
「これこれこういうふうにしたいんだ」「ここはこうでこうで」と
やたら注釈が多いけれど、不器用さのせいで仕上がりがいまいちって子がいるのよ。
それでも本人が楽しんでいるなら、工作をしながらおしゃべりしていた体験が、
理科や算数の図を見ながら分析していくのを楽しいって思う感性につながって
いくことがあるの。
一方で、作るものはこちらの模倣で作り方も大雑把なんだけど、
できたものを使って遊ぶのが大好きだった子が、それを劇遊びに発展させて、最終的に、
絵本や物語を作るのがその子の日々の楽しみになっている子もいるわ。
他の子が工作する間、ドールハウスにミニチュアを並べる遊びを繰り返していた子が、
最近になって、動画を撮影するのに興味を持ちだしたってこともある。
そんな姿を見ていると、
工作だったら、工作をいかに見栄えのいい作品を作らせていくか、
ピアノならどうやって短期間に上達させていくか、
スポーツなら競技でいい成績をあげるかっていう世界だけで、
どんどん追い立てていくのはどうかと思うのよ。
もちろん、そうした系統的な学びができるように整った環境が大事な場合もあるのは
よくわかるの。
ただ、何もかもが、そうなってしまうことが気になるのかな」
(立体迷路)
わたし 「何もかもが、そうなってしまうことが気になる……なんて歯切れの
悪い言い方になってしまうけど、自分でも自分の思っていることを整理して
捉えられていない状態なのよね。
話が脱線するけど……
子どもの頃住んでいた団地の敷地にある土で、お母さんたち当時の子どもは
よく遊んでいたの。棒を拾って、お姫様や絵描き歌のコックさんを描いたり、
ケンケンパや陣取りゲームの線を描いたり、水で周囲を囲った島を作って
蟻の世界を作ったりもした。掘ると粘土が出てくるのが面白くて、
半日かけて土を削ってみたり、泥だんごには向かない土なのに、
大量のどろだんごをこしらえて、
1階のベランダの下にある隙間に隠しておいて、何日もかけて磨いてた。
当時の子の目には、土は遊び道具のひとつとして映っていて、
さっき★が言っていた『単体で存在しているねじ』のように、
途方もないくらいいろいろな種類の可能性のイメージを重ねることができたのよ。
でも、今、砂場以外で、土があっても気づかない子も多いわ。そんなものに
自分の想像力や思考力を重ねていってもいいんだ、と思ったこともないはず。
わたしが子ども時代の情景を思い返すのは、
昔はよかったとノスタルジーに浸りたいわけでも、
昔の子はおもちゃもなしに上手に遊んでいたと自慢したいわけでもないのよね。
正論を振りかざしたいわけでも、自分のやっていることは正しいって再認識したい
わけでもない。
たぶん、今の幼い子や小学生たちと接していると窮屈そうに感じる自分がいて、
どうして自分がそう感じるのか正確な理由をつきとめたいんだと思う。
昔も今も、雨も降れば星も月も太陽も空にあるのに、不思議を感じて、
どうして?なぜ?と周囲や自分自身に問いかける子は少数派になりつつあるわ。
目に映るものに、自分の頭や心を使えるんだ、使っていいんだって気づいていないの。
お母さんが教室で教えたいのは、やっている内容がごっこ遊びであれ、
物作りであれ、実験であれ、算数の問題であれ、それに自分の頭や心を使えるし、
使ってもいいんだよ、ということにつきるんだと思う。
ただ、実際、教室という形を取って教え始めると、
他人から評価されるようなアウトプットやどんなすばらしい体験をしたのか、
新しく何を吸収したのかという点だけが注目されて、
それぞれの子がどんなものに対して自分の頭や心を使っていいと認識しているかを
気にかける人はあまりいないんだけどね。」