虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

その子らしさに導かれて成長する

2013-12-28 17:57:54 | 子どもの個性と学習タイプ

先日、ベビーのグループレッスンに1歳代から通ってくれている●ちゃん(3歳)のお母さんから

こんなうれしい報告をいただきました。

●ちゃんは出産予定月より数ヶ月はやく未熟児として生まれました。

そのため月齢は生まれた日から数えずに、お腹のなかにいたはずの数ヶ月分を引いて計算していくように

病院から指導されていたそうです。

未熟児で生まれた子は運動面や言葉や知能の発達がゆっくりになりがちだからということで、

定期的に検診に通い、発達の検査を受けておられます。

今回のうれしい報告というのは、

発達検査の後で、「運動面でも知的な面でも非常に発達が良好なので、

もう未熟児として生まれた分の月を引かずに、生まれた日を誕生日として

月齢を計算してください」と指導されたという話です。

数ヶ月の発達の遅れどころか、

言語面でも巧緻性の面でも、1年以上月齢が上の子の能力をしめしているので、

「未熟児で生まれて、こんなに複雑なことまでおしゃべりし、いろんなことができるなんて!

ととても驚かれたのだとか。

わたしも、まだハイハイで動き回っていた時期から●ちゃんの成長を見守ってきましたから、

それを聞いて、とてもうれしかったです。

(↓今回のレッスンの写真を撮りそびれたので、過去の●ちゃんのベビーのレッスンの様子の写真を

載せますね。)

 

 

子どもの知能を高めたり、発達をよくするために、

あんな方法がいい、こんな方法がいい、といろんな情報が飛び交っていますよね。

でもわたしは、そうして外から情報を集めてくるよりも、

目の前の子どもの「その子らしさ」としっかり付き合うことで、

その子の持って生まれた潜在能力は最も伸びると

感じています。

 

遊びにしても、工作にしても、会話にしても、何かするたびに

その子らしさはさまざまな形で表現されています。

そこで、親御さんのアンテナが、

「他の子よりできるか、上手か、参加しているか、失敗しないか、ママ友との関係」といった

ことにばかり向けられていると、

その子らしい個性の輝きに気づけけませんよね。

いつの間にか、その子らしさは曇っていくのではないでしょうか。

 

今回の記事で紹介した●ちゃんは、

「自分でやりたい」という気持ちが強い子で、はっきりしたひとつの目標を定めて

練習して、完璧にできるようになる達成感を求めるタイプでした。

 

「自分でやりたい」という気持ちが強いとひとことでいっても、

子どもによって

「どんなことがしたいのか」「どんな風にしたいのか」

「何を得意としているのか」「何を訓練によって洗練させていこうとしているのか」

「どのような接し方があっているのか」

「どのような環境が適しているのか」

千差万別です。


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少し前に、発達障がいの子の記事に対して次のような質問をいただいていました。

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奈緒美先生のブログだったかどうかははっきり覚えてないのですが、

“人の気も知らず、エジソンだなんだ言うのはやめてくれ”といった

親御さんの記事を目にしたことがあるのですが(断片的でゴメンナサイ)

こういったことに関してどのようにお考えですか?

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ちまたで「エジソンやアインシュタインが発達障がいだったのでは?」という話題が

よく取り上げられるため、

それに関して過敏に反応する方もいらっしゃるのだと思います。

 

発達障がいの子はどの子もエジソンのような天才的な能力を発揮する

ことができるとまで言ったら、極端で問題のある意見ですよね。

 

でも発達障がいのある子の「こだわり」や「過集中」といった特性が、

最もよい形で使われたなら、

それはその子の潜在能力を大きく開花させることにつながると

思っています。

わたしは発達障がいのある子ほど

「その子らしさ」に気づいて、それを支えることで伸びていく子らはいない

と感じています。

 

それは発達障がいのある子たちの身近にいる方の多くが

実感しておられることだとも思います。

 

エジソンやアインシュタインのようになれる子がいると言えばオーバーでも、

「エジソンやアインシュタイン並みに

 

寝ても冷めても○○のことばかり……それにどれだけ情熱と時間を

注げるかという点では世間で言う天才に引けを取らない……

 

という発達に凸凹のある子らは

一般的なバランスの取れた発達をしている子の

何十倍にものぼるのではないでしょうか。

 

バランスが悪い、凸凹がある、とは

裏を返せば、そういうことでもあるからです。

 

 

それが天才を生み出す確率にどう影響するかまでは

わかりません。

でも、そうした発達に凸凹のある子の凸部分やこだわることや、過度に集中することに

スポットライトを当てて、

「その子らしさ」を大事にしながら成長を見守ることで、

その子の成長する力は加速すると感じています。

 

「その子らしさ」や成長の可能性の芽は、

子どもの好きなことや喜ぶことで見つかるのはもちろん、

親御さんの目からすると心配しか感じ取れないようなシーンでも

たくさん見つかります。

 

たとえば、2、3歳の自閉っ子がお友達から

何かを奪い取りにいくことを繰り返すとします。

そんなシーンも、

客観的にふたつの視点から眺めれば、

子どもの成長のための鍵を見つけることができるかもしれないのです。

 

ふたつの視点というのは、

ひとつは、見たままに、

「他の子から物を奪い取る」という行為を止めに行って

「お友達のものを取っちゃダメ」と教えたり、相手の子を気づかったりすること

で、

たいていの方がそうした対応に追われて疲れ果ててしまっている

ことでしょう。

 

もうひとつの視点は、しつけはしつけとして対処しつつも、

奪い取りに行こうとする行為も、「その子らしさ」として

コミュニケーションを避けがちな自閉っ子にしては

成長のきっかけになるかもしれない、と捉えるのです。

 

 

「この子は何に惹きつけられて。繰り返し取りに行こうとしているんだろう?」

 

「物を取るという行為とはいえ、お友達に接近することは嫌でない様子。

もめない形で遊びを成り立たせる工夫はできないか?」

 

「この子がしつこくこだわる物の色は?素材は?

触った感触は?音は?動きは?お友達のどのような持ち方に

欲しい気持ちが刺激されているの?」

 

「この子の物を取りに行こうとするエネルギーをもっと肯定的な活動に

変化させられないかな?」

 

「物を奪おうとする時に、大人が相手をして、じらしたり、

アイコンタクトを取ったり、やり取り遊びのきっかけを作れないかな?」

 

そうした問いを自分にかけながら

子どもの姿を眺めて、いろいろと子どもへの働きかけを

ためしてみるとよいのではないでしょうか。

 

「その子らしさ」がなかなか見つからないようなタイプの子も

少し視点を変えて子どもの活動を眺めることで

新たな発見があるものですよ。

 

最初の質問からちょっと話が逸れてしまいましたね。

「人の気も知らず」というのは、親御さんの言葉なのか、

発達障がいの当事者の方の言葉なのかはわかりませんが、

おそらく辛い現実にたくさん遭遇されたのだと思います。

でも、凸凹のある人が生き辛く能力を発揮することができないのは、

ハンディーのせいだけでなく、

凸凹を許さない周囲の不寛容にも原因があるはずです。

 

シアトルに来て、こちらで暮らしている方に聞いたところ、

アメリカではADHD等の発達障がいを持った方が社長になっている率が

とても高いのだそうです。

アメリカでは人の能力に凸凹があることを

そのままでよしとして認めているお国柄があって

そうしたことが可能になっているという話でした。

アメリカにはアメリカの問題点もあるのでしょうが、

「人間、少しくらい凸凹があったっていいんじゃないか?」という

おおらかな考え方が、ハンディーがあってもがんばって努力していく力のもと

にもなるのではないか、と感じました。



自閉っ子の★くんと 賞状

2013-12-27 19:20:25 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

自閉っ子の★くん。これまで自分が出したおもちゃや道具の後片付けをせずに

注意されるたびに大騒ぎして、お友だちに自分の分まで片付けさせていました。

それが、今回のレッスンでは、

一大決心をした様子で、自分の分だけでなく、年下のお友だちの分まで片付けをしてあげた揚句、

満面の笑みでした。

そこで、「合格!」とか「1とうしょう!」などと書いた

賞状を作ってお祝いすることに……。

★くんは金色が大好き。★くんの要望で、

賞状は金色の色画用紙に金のリボン付きシールを貼って作ることになりました。

 

ゆっくりでも、ひとつひとつ自ら成長していく姿を見ていると

本当にうれしいですね。

 

就学準備のために、レッスンの最初に、時間割を作って、

「理科、算数、国語、休憩時間」などを決めて活動しています。

1時間目は理科で、スライム作りやろうそくの実験を。

 

 算数の時間には、数の分解を学びました。

↑ ★くんも自分で問題を作ってわたしに出していました。

 


お正月にいかが? 算数が好きになるゲーム、数遊び

2013-12-26 19:46:20 | 算数

今日、アメリカに住んでいる知人から嬉しい電話をいただきました。

知人が働いている幼稚園(シアトルの『シークレットガーデン』という科学の幼稚園です。)で

運営していた虹色教室の算数遊びを取り入れたクラスが好評で

園長先生もレッスンの内容に強い関心を寄せてくださっているという話でした。

17名の子どもたちがどの子も目を輝かせて

さまざまな算数遊びに取り組んでいるそうです。

 

 

幼稚園などの集団でする算数遊びとは関係がないのですが、

お家で楽しむ算数が好きになるゲームや数遊びを紹介します。

(リンク先では、写真のゲームで遊んでいるところを記事にしています。)

計算が好きになる遊び

 

100がいっぱいと単位の変換

『カメレオン』

 

『ピタゴラス』

『マテックス』

 

 

『スクウェアスピリット』

 

『折り紙と大きな数』

 

『3歳前後の子たちと算数遊び』


『地頭力』が育つ幼児期

2013-12-25 20:28:07 | 教育論 読者の方からのQ&A


昨日は、シアトルからからもうすぐ4歳になる★くんが遊びに来てくれました。
去年の夏のレッスン以来、1年ぶりの再会です。
元気いっぱいのやんちゃくんで、去年は自分の我を通そうとがんばる姿が目立ちましたが、今年はその強い気質が
集中力や我慢強くがんばりぬく根気に変化してきていました。
「この一年、虹色教室で紹介してくださっている工作や実験に励んだところ、
以前は物を見たら、買おうよ、買おうよと騒いでいたのに、
このごろは、何でも工夫して自分で作るようになってきました。」
とうれしい報告をいただきました。

ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てなくてはならないことを教えようと、
「あんなところにペットボトルが落ちているね。どう思う?」とたずねると、目を輝かせながら、
「あれがあれば面白いものが作れるね。~や~が作れるよ」
という返事が返ってきて、思わず吹き出してしまったそうです。

一般化するほどたくさんの事例にあたったわけではないのですが、
海外から教室に来てくれる子たちと会うと、
身体の引き締まり方や目の力、自分がしっかりある感じに、、
「子どもってこういう存在だったのか……」という驚きます。
今の日本で暮らしていると、身体感覚や「自分」という感覚がスポッと抜けたように成長しがちですよね。
スポーツをさせて、体を鍛えている子も、
大人に「見て!見て!自分のことを評価して」とアピールすることに忙しく、心の面では自分がないように見える場合がよくあります。
海外にはその国なりの子どもを「ダメ」にしてしまう要因も多いそうですが……。

★くんといっしょに「ピタゴラスイッチ」を作って遊びました。
「このエレベーターの先をあっちのコロコロ落ちるのがついてるところにつないで、それを、やどかりさんのお家のところにつないだら?」
「これはね、こういうお話なの。
ここから、誰か出てきたら、あっ、上から何か落ちてくる!危ない!そうだっ、ここに逃げよって、この下に行って、それが、こっちにつながっていて、こことここが引っ付いているの」と、遊び方がダイナミック。

部分に集中して製作しているときも、
常により大きな視点からも自分の作業を眺めて、いくつもの物を複合的につなげていこうとする姿や、ストーリーをこしらえて展開しようとする姿が見られました。

しっかり『地頭力』が育っているな~!と、感心

『地頭力』という言葉は、幼児を育てている方の間で、けっこう話題になっているものの、正確に定義するとどういうものか言い表しにくいものですよね。

『地頭力を鍛える』問題解決に活かす「フェルミ推定」
 細谷 功  東洋経済新報社

が、地頭力というのは本当のところ、どのような能力なのか、どのようにすれば鍛えられるのか納得できる良書でした。

著書によると、
地頭力の本質は、「結論から」「全体から」「単純に」考える三つの思考力。

地頭力を鍛えるための強力なツールとなるのが「フェルミ推定」という小難しげな名前がついているものですが、
物理学者フェルミが得意だったことから命名された
「つかみどころのない物理量」を短時間で概算することです。
「フェルミ推定」は、問題解決の縮図で、地頭力を試したり鍛えたりするツールとして有用とされていますが、
自由工作や自由なブロック製作の場では、
簡単な形とはいえ、自然に使いこなせるようになっていく力でもあります。

地頭力って、
要は、
どれも幼児期にこそ育つもので、
幼児の幼児らしさを奪わないことこそ、子どもに地頭力のベースをつけてあげられるのだな~と感じました。

フェルミ推定に一番求められるのは、問題解決に対しての好奇心なのだそうです。

幼児はもともと自分のぶつかった問題を失敗を通して解決しようとする
強い好奇心を持っていますが、
大人が失敗させず、手助けばかりし、子どもの自由を少なくすると、そうした性質はなくなっていきます。
教室の子たちを見ていると、年長さんくらいになると、自分の全頭脳と全経験を総動員して、問題解決に、好奇心いっぱいで自分を投入しようとする姿がありますが、
育ちの中で、そうした力をほどんど失ってしまっている子も多いのが気がかりです。

「結論から」「全体から」「単純に」考える地頭力の本質といえるものは、
子どもが生得的に持っている物の捉え方や考え方、物への取り組み方そのものといっていいものです。
幼児が、外でたっぷり遊んだり、
友だちと群れて遊んだり、悩んだり、我慢したり、喜んだり、創作したりする
うちに、自然に身についてくるものです。

日本の場合、時間も空間もやたら区切って、
子どもが大きな視点から世界を眺めることが難しいのです。
すると、「結論から」「全体から」見ることが難しくなります。
また子どもの成長を急がせることで、「単純に」考えることができなくなってしまいます。
ただ何より子どもの地頭力を育む元凶となるのが、
大人の狭いステレオタイプな物の見え方や見方を
ちょっとでも早く賢い子に仕上げようとして、教え込んでしまう、刷り込んでしまう、干渉しすぎてしまうことに
あるように思います。
幼児には大切なことを手短にしっかり教え、それ以外は
自由にたくさん遊ばせ、たくさん失敗させるのが一番です。
 
 

精神科医の名越康文氏と、神戸女学院大学教授の内田樹氏との対談で、
こんな会話がかわされていました。
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<名越>  
僕は日々、クリニックに来るお母さん方と色んな話をしています。
子どもの場合、通じ合えた場合は、その話の全体から僕が言いたいことを摑んでくれているな、という感じがあるんですよ。
「だから、こうしておこうね」っていう軽い結論さえ言えば、「他に聞きたいことある?」って聞いても、「うん、今日はこれでいい」って言います。子どもは。
しかし、親御さんに同じ話をした場合、
「先生、結局だから私はこうしたらいいんですね」ってその話を百分の一くらいにまとめてしまう。それはそこしか聞いていないってことでしょう。
僕ね、今まで何千人かの子どもと話して、
「先生、結局こうしたらいいんですね」って聞いてきた子どもって
一度も会ったことがない。
ところが、「先生、結局だから私はこうしたらいいんですね」って言う
親御さんには少なくとも数百人会っていると思うんですね。
<内田>
コミュニケーションの現場では、理解できたりできなかったり、いろんな音が聞こえてるはずなんです。それを「ノイズ」として切り捨てるか、「声」として拾い上げるかは聴き手が決めることです。
そのとき、できるだけ可聴音域を広げて、拾える言葉の数を増やしていく人が
コミュニケーション能力を育てていける人だと思うんです。
もちろん、拾う言葉の数が増えると、メッセージの意味は複雑になるから、それを理解するためのフレームワークは絶えずウ゛ァージョンアップしていかないと追いつかない。
それはすごく手間のかかる仕事ですよね。
そのとき、「もう少しで『声』として聞こえるようになるかもしれないノイズ」をあえて引き受けるか、面倒だからそんなものは切り捨てるかで、
その人のそれから後のコミュニケーション能力が決定的に違ってしまうような気がする。
<内田>
今の日本の母親たちは、あえて可聴音域を狭くして、聞き取れる範囲を絞り込んで、その中で整合的なメッセージだけ聴き取ろうとする傾向がすごく強いと思うんです。「要するに、こうなんですね」と言って「話を終わらせる」ことに異常に固執するというのは、そういうことじゃないかと思うんです。
この間、養老先生から聞いた話ですけど、ある講演会で「子育てにマニュアルはない」ということを話された後に、聞いていた母親が先生のところに来て、
「あのー、マニュアルがない場合には、どうすればいいんでしょうか?」と訊いたという(笑)。
とにかく、話を終わらせたいんですよ、簡単に。だから自分の子どもがノイジーなメッセージを発信しても、「要するにあんたは、こういいたいわけね」っていうふうに、
端数を切り捨てて、整合的だけど限定的に「理解」してしまう。子どもが発するメッセージには、まだ輪郭の整わない、子ども自身が自分で何を言いたいのか
わからないような雑多なざわめきがたくさん含まれているんです。
でも、そうい母親はそれを聴き取ることができない。曖昧な言葉遣いというか、グラディエーションをつけることができなくなっている。
 (『14歳の子を持つ親たちへ』  内田 樹 名越康文  新潮新書
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『地頭力』の話をするのに、一見関連のない話のようでもあるのですが、
この対談で話題になっている

「可聴音域を狭くして、自分の聞きたいことだけ聞いて、それ以外は切り捨てて、整合的だけど限定的に「理解」してしまう」

という特徴は、子育て中の方々が、
気づかないうちに陥りがちな態度ではないでしょうか?

音だけでなく、見るものにしても、
あらゆる豊かな情報の中から、小学校受験や学校での評価にむすびつく部分だけ見て、後はシャットダウンしてしまうということも起こりがちです。

例えば、折り紙をぐちゃっと握りつぶしては、
「虫さん」「あめちゃん」「バナナ」などと命名する子がいたとします。

その子のお母さんが、同じ月齢の子が、上手に三角を折るのを目にして、
「うちの子も早く上手に折るようにらないかしら?」という狭い視点でだけ
子どもを眺めた場合、
「この子ったら、いつまでもグチャっとしたものしか作らないで……折り紙がもったいないでしょ!」とイライラするかもしれません。

が、お母さんが、見えているもの、聞こえてくるものを受け取る領域を広げてみると、
この子の「見立てる能力は独創的だな。くだものから生き物からよく思いついてる」
「今は、ぐちゃっと力を手にこめる作業がしたいときのようだから、折り紙より油粘土や、広告の紙などのいらない紙をたくさん与えてあげる方が良い時期なのかも」
「作品としてなりたっていないとはいえ、楽しそうにエネルギッシュにたくさん作る力があるな。できたものはゴミみたいなのに、大事にしていて面白いな」
といったことが見えてくるかもしれません。

そのように親が子ども自身と子どもの環境から
受け取るものを大きく拡げていくと、
地頭力の要素のひとつ
「全体から考える」フレームワーク思考力を育むことに
つながりやすいのではないでしょうか。

フレームワーク思考力とは、
「対象とする課題の全体像を高所から俯瞰する全体俯瞰力」と、
「とらえた全体像を最適の切り口で切断し、さらに分解する分析力」といえます。

わが子の子育ての中で、このフレームワーク思考力について、
意識したのは、小6になって息子がいきなり中学入試をしたいと言い出したときでした。
★先生とぶつかって、仲直りした話
★先生とぶつかって、仲直りした話 2

の記事で、その頃の出来事を簡単に書いています。
わが家の事情で何ですが……
子どもが幼い頃は、経済的に何の悩みもなくのほほんと生活していたのですが、バブル崩壊のあおりを受けて、ダンナがリストラにあい、
その後は、自営業で、食べていくのがやっとの暮らしをしていました。

そこに6年生に進級しようという息子の「私立中学に行きたい」があったもんですから、まさに晴天の霹靂で、
「お母さんは入学金を何とかしてあげるから、あなたは勉強を自分で何とかしなさい」と、本屋に連れて行って、受験したいという学校の赤本……選ばせると灘中の赤本だったのですが……を購入して、後は本人任せにするしかなかったのです。
それで、私は郵便局のパートで、晩の10時をまわって帰宅する生活がはじまり、
息子はというと、それまで学習習慣がないもんですから、
やったりやらなかったりではあるものの、灘中の赤本と格闘していました。

それまで私立の勉強をしたことがない子にいきなり灘中の赤本は無茶なようですが、
当時はあまりに中学入試の知識がなかったので、
「まずどういう受験問題が出ているか研究して、
それから必要な参考書なり問題集なりを探しに行こう」という順序で
入試と関わるしか、
何から手をつけたらよいのか想像もできなかったのです。

それと私にとって一番興味があったのは、受験に合格するかどうかではなく、
初めて自分からこういうことがしてみたい!と言い出した息子が、

途中で投げ出さずに、どこまでがんばれるのかな? ということと、

どんな順序で、どんな風に勉強していくのかな? ということだったんです。

自分なりに方法を模索するのか、何か私に頼んでくるのか、息子の出方を見る前に、私が先まわりしてレールを敷くのはおかしな気もしたので、
少し様子を見ることにしたのです。
 
地頭の話からちょっとわき道にそれてますが……

灘中の赤本は、最初、あまりに難しくて親の私にもちんぷんかんぷんでした。
どれを見ても公立の高校入試の問題よりもはるかに難解でした。
ただ最初に赤本を買ったおかげで、
市販の中学入試用の問題集を何冊仕上げたところで、それだけでは
これらの問題を解けそうにないことだけはわかりました。

うちの息子というのは、「難しさ」に魅了される子です。
勉強自体は、6年生になるそのときまで、きちんとしたことがなかったものの、
物を作るときは、それを作ることは不可能でしょう……というものに惹かれて、紙1枚で何がなんでも作りたいものを作ってしまおうとするし、
パソコンでもテレビゲームでも友だちとの遊びでも、どこから手をつけたらよいのかわからないような
難しさを感じさせる場面でこそ、燃えるタイプなのです。

それで、受験がしたいというので本屋に連れて行ったときも、
何冊か過去問に目を通させると、
これはどれもどうやったら解けるのか見当もつかないないな……のオンパレード
だった灘中の赤本にすっかりのぼせてしまって、
息子の頭の中は、
受験するのはここ以外考えられない~というモードになってしまったのです。

そんな適当な理由でスタートした受験勉強ですが、
小学校に受験校に送るための資料をお願いしに行くと、
そんな無茶な……それはやめた方がいい……と、強く反対され、
しまいには算数専門の教師が怒り出す始末でした。
また、息子が軽い気持ちで友だちに受験することを話したため、
子どもを有名な受験塾に通わしている親が、そんな受験がどれほど
とんでもないことか……
まず自分の子の通っている塾で何位くらいにいるのか確認しなさいよ……
と外部の子用のテストの案内を持ってきました。

息子はといえば、「不可能」とか「難しい」とか「無理」とかいう言葉が無性に好きで、それに強烈にそそられるタイプですから、
そうして外から圧力がかかるほど、
火に油を注ぐのと同じで、
「絶対、灘中に行くんだ。この本全部できるようになるよ」と言って、
ひとりで過去問に目を通していました。

その頃は、中学入試というのがどういうものか、何が出るのか、何から手をつけていいものかさっぱりわからなかったため、
息子は公式も何も知らない状態で、灘の過去問を
問題の文面の情報から導けそうなものを自己流に膨らませて、
何とか答えまで持ち込もうと四苦八苦していました。
そうするうちに、シンプルに考えていけば解けるタイプの問題は
自力で答えが出せるし、
難しいものも答えを見れば、納得できるという状態にはなってきました。

そのあたりで、再度、本屋に行くと、
日能研やサピックスの出している問題集や、
『中学への算数』という雑誌
などを選んでいました。

私も、そうした問題に目を通すうち、すっかり中学入試問題の面白さに
心を奪われて……今の虹色教室も
その時期火がついた「私の中学入試問題オタク」な趣味の延長線上にある
のですが、
その年はとにかく掛け持ちでいくつもバイトやパートをしているので、
時間に追われていました。
ですから、外で遊びほうけてたり、テレビゲーム三昧したりしながらも、
何とか飽きることなく続けている息子の受験勉強の進行を
傍らからチラチラ覗き見るだけでした。
 
(受験の話の続きは次の記事で書きますね)話が脱線するのですが、地頭力を育むため(かつて正確にその言葉を意識していたわけではありませんが)に、わが子が幼児期や小学生の頃、私が特に気をつけていたことを書いた過去の記事をもう一度紹介させていただきます。

<「よく見る」ということは「あまり見ない」ということ>

このブログでは、何度も、
子どもを「よく見る」とか、「よく観察する」ということを
書いているのですが、
この「よく見る」ということほど誤解されやすいことは
ないような気がします。

「よく見る」というのは、ただ目の前の子どもの行動を
より細かいところまでチェックするという意味ではないのです。

むしろ普段、それまでの自分の思い込みや先入観という色眼鏡を通して、
近すぎる位置から子どもを眺めていたのを、
かなり後ろまでさがって、
ぼんやりした視界の中で見直してみる。

理性で見ていたものを、
感情や直感を通して眺めてみる。

自分が子どもにとって全てを知っている神様みたいな位置で見ていたものを
意識して「見ない」部分を設けて見る。

そんなさまざまな「見る」の形は、
極端に言うと、「よく見る」って、「あまり見ないこと」なんだ~
とも言えたりするのです。

どうしてこんなことをするかと言うと、

子どもって
いずれ変化して成長していく存在なので、
今、現在の様子を数値化するような形で観察してしまうと、
とんでもない間違いをおかしてしまうからです。

例えば、パンダの赤ちゃんってすごーく小さいのはご存知ですよね。
そのサイズとか、能力とかを
細かく観察して、あひるのヒナと比べるとします。
すると、いずれこうなるに違いない…
と思う予測が、巨大なアヒルと手乗りパンダ…みたいに、
ケタ外れにおかしなことになってしまうんです。

ですから、よく観察するというのは、

自分の見方の偏りを修正して、
大きな視野で心で見る

ということでもあるんですね。
つい子どもの行動にうんざりしたり、叱ったりすることが多くなっている時は、
それが必要だと思います。

それと大事なのは、
「あえて見ない」
と言う事です。

過干渉の害は分かっていても、
子どもを見るという事に関しては、ついつい行き過ぎが起こりがちなのが
今の時代です。
でも私達の子ども時代も、
自分の失敗やら、欠点やら、発達途中の多くの事柄を、
隅から隅まで親に把握されていたとしたら、
きっときちんとした大人になれなかっただろうし、
生きることにうんざりしてしまったように思うのです。

私たち大人が、今を元気よく生きれているのは、
大人の目が、「ふし穴」だったからでもあるんですね。

現在は、軽度発達障害児の問題行動なんかも、
つぶさに大人に観察されています。
特別な配慮が必要なので、
それも大切だったりはするのです。
でも、それが、かえって子どもの成長の足を
引っ張っていないのでしょうか?

昔は、子ども時代、大人の見えないところで
たくさん悪さをしながら過していた人も、
大人になるとしっかり生活している方がたくさんいたように思います。

今は、見ることによって、
大人たちから投げかけられる醜い未来像のせいで、
そのイメージどおりの悪い未来を歩んでいる人が多い気がします。

見るとき、理性で見ることと、
感情や直感で見ることのちがいを例にあげると、
こんなことがあります。

刑務所に入っている人に対して、
感情や直感を通して見る時には、
その人が、きちんと人生を建て直し、
心を愛情で満たして人間らしく生活する姿が見えると思います。
しかし、理性で数値化しながら見るならば、
今現在の問題点ばかりが目に付いて、
一生そのまま犯罪にまみれて生きる姿しか見えないと思います。
そしてそういう見方が、その人の人生を決定付けてしまうように感じます。

それは極端な例ですが、
子どもに対しても、
近視眼的に見すぎることは、
未来に悪い影響を及ぼすこともあることを
わかっていただけたのではないでしょうか?

知人の陶芸の先生の息子さんのことでこんな話を聞きました。
その子の偏差値が30台だった時、
その子が医学部に行きたいといったので、
周囲の人はバカにして笑ったそうです。
でも、お母さん(陶芸の先生)だけは、
その子を正しく見ていて、
「きっとあなたなら行ける」と応援していたそうです。
その息子さんは、最終的に京大に進まれました。

よく見るということは、こういうことだなぁと思っています。
 
『地頭力』が育つ幼児期 5

『地頭力』が育つ幼児期 6

『地頭力』が育つ幼児期 7

『地頭力』が育つ幼児期 8


『地頭力』が育つ幼児期 9

学校に通い出したらどんどん勉強嫌いになっていく?

2013-12-25 13:23:56 | 教育論 読者の方からのQ&A

親子のコミュニケーションのリズムが映像から伝わってくるアニメ

の記事にこんなコメントをいただきました。

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子どもって、本当に「surprise」が大好きですよね。「surprise」には、子ども自ら意欲的にワクワクドキドキしながら、時間も忘れて活動する姿を目にします。
何かはわからないけど、きっと、あっと驚くすごくいいもの‥‥以前記事にされていた「明後日の感覚」に似ているのかもしれませんね~。
お父さん熊やお母さん熊のように、私も子どもたち自身が見つけた「surprise」を一緒に楽しんで行きたいです。
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コメントにあった『明後日の感覚』について取り上げた過去記事を紹介しますね。


『明後日(あさって)』の感覚って聞いたことがありますか?
アーティストの日比野克彦氏が、哲学者で大阪大学総長の鷲田精一氏との
対談中に使っておられた言葉なんですが、
目にしたとたん、
「良い言葉だな~」という感動を通り越して、
自分の生きてきた方法とか、やってきたこととか、考えてきたこととか、
そうしたもの全てに太い一本の芯が通って、
「あ~、私はこうした感覚を大事にしてきたんだ」
と納得したような気持ちになりました。


日比野氏が、

明日のことはある程度はっきりわかる。1ヶ月後のことは全然わからない。自分の絵の描き方やワークショップなどの共同作業は、
ちょうど、「明後日」のように、ぼんやりと大まかなところだけわかっている感じなんです。
……(中略)ある一つのアクションが次のアクションを生み、この人と出会ったから、このアクションにつながっていく。
いつもその連続です。
絵も同じで、大まかな方向性はありますが、「黒い線を描いた、この次はどうしよう」と、まず一手を描かないと次の一手を思いつかないものです。……(略)

と、アーティスト自身が先行きを正確に把握しないまま進んでいくプロジェクト
について、「明後日」の感覚という言葉で言い表したところ、

鷲田氏が、

そういうプロセスには、「新しい社会性」とでもいうものを模索していくヒントがあるような気がします……(続く)

といったこと答えておられるんです。

以前、教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 1
教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 2
教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 3
教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 4
教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 5
教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 6
という一連の記事を書いて、教育の場に、『ブラックボックス』という言葉が必要なのでは?……といったことを書いたことがあります。
子どもたちが、ブラックボックス化する世界に生きていることを無視したまま、、パソコンや携帯ゲームや、○○○計算や○○時間といったよさげ~な方法だけ取り入れても、子どもたちが主体的に勉強していく方向には、
機能しないんじゃないかな?
という疑問を言葉にしたものです。
(多くの方が、同じようなことを考えていたそうでした)


日比野氏の『明後日(あさって)』の感覚という言葉に出会ったとき、村上陽一郎氏の『ブラックボックス』という言葉を目にしたときと同じような強い衝撃を受けました。
そして、この『明後日(あさって)』の感覚という言葉もまた、
「教育現場に必要な言葉じゃないかな?」
「子どもが意欲ややる気を取り戻すキーワードじゃないかな?」という
思いにかられました。

虹色教室で子どもたちに学ばせているとき、私には、
どうすれば子どもたちのやる気や意欲が盛り上がってきて、知りたい!調べてみたい!もっとがんばりたい!という気持ちになるのか、
だいたいのところ勘でわかっているんです。

それは、「自分は既存のきまったコースをなぞってるだけじゃないんだ」という感覚……というか、
「ある方向性はあるけれど、進んでいく先はガチガチに固まったもんじゃないんだ」
「自分のアイデアや考えや発言が、未来を変えてく影響力を持っているんだ」
という感覚でレッスンを受けているということです。

教室で、時々、にんじゃブームとか、日本全国のゆるきゃらを覚えようブームとか、宇宙の実験ブームとかが巻き起こるのですが、
最初の火付け役の子たちの時期には、
黒い布切れにもぐって宇宙気分を味わうことから、宇宙への興味が膨らんでいくような、教材は整ってないし、やることは見えてないしで、
言わばレッスンとしたら、「レベル低い!」状態なんです。
でも、そんなカオスな時期こそ、子どもたちは、「こうしたら?」「これしたい!」「なんでだろ?」と主体的に自分で動いて、それは熱心に学びたがるんです。
そのブームが飛び火して、他の子たちの興味も加わるにつれ、
私は子どもたちがワクワクして熱中していた学習課題を扱いやすい教材にして、
「宇宙」といったタイトルのついた箱の中に溜めていきます。

すると、大人の目には、箱を開けるだけでワクワクするような
教材パックができあがるんです。
もたつかずに、「わ~」っという感動や、
「そういうことだったのか」という知識を得るのも手っ取りばやくて、
大人は満足。
でも、最初の子たちに比べたら、ものすごく良い教育環境……のはずが、
後の子たちほど、しら~っとやる気がない状態に陥ってしまいがちなのです。
そこから、発展させて自分で調べてみようという気持ちになりにくく、
「見て、不思議でしょ?」と、笛吹けど踊らずという状態です。

同じように見えるけど、
むしろ、後の方がよっぽど魅力的なのに、
何がどうやる気や意欲を半減させるのでしょう……?

大人が何日も前から事前に準備していた魅力的なプロジェクトよりも、
下の記事のような3歳の子のふとした発見の方が、どうして子どもたちの探求心に火をつける場合があるのでしょう?

★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 1
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 2
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 3
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 4
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 5

子どもの意欲ややる気の盛り上がりって、ランダムでその日のお天気で決まっているように見えて、
やっぱり言葉にして整理できる一定のルールが存在する気がしています。

うちの息子が、小学3,4年生の頃、
ビデオカメラ片手に友だちと映画を撮ることに熱中していたことがありました。
上映会というのに、引っ張っていかれて見たら、
期待以上の面白さで、
「今度、もっと良いのができたら、公募に応募したらどう?
映像作品の募集がないか調べてあげるわ」と言ったことがあります。
すると、息子は呆れたように、
「お母さんは、遊びってものがわかっていないな~。
何かのためとか、結果とか気にせず、自由にやるから遊びで、
だから面白いんだよ」
と言い返されたことがあります。

子どもって、もともと功利的じゃないんですよね。
「遊び心」が汚されていない場や時間の中ではじめて、
いきいきと自分を発揮できるし、
思いきりがんばれるし、頭をしぼりきって考えられるのでしょう。
それと、遊んでいる途中で、映画作りが、探偵ごっこに変わるかもしれないし、
まったく別の興味へと流れていくかもしれない
という未来が固定されていない感じが、
今の集中や全力投球を支えているのでしょう。

そういえば、昔、私が通ってた小学校や高校(中学は荒れてました)は、きちんと学校としての秩序は保たれていたけれど、日比野氏の言った
『明後日(あさって)』の感覚というものが、いろんな場の底流に流れていて、
私たちの好奇心を持続するのに役立っていたな~と思いあたりました。


私が、この『学校に通いだしたら、どんどん勉強嫌いになっていく?』なんて、
衝撃的なタイトルをつけた理由は、
神戸女学院大学文学部教授の内田樹氏の著書『下流志向』で、
勉強を嫌悪する日本の子どもとして、次のような一文を目にして、
何だか心に引っかかっていたからなのです。

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子どもたちが勉強をしなくなっているということはメディアも繰り返し報道しておりますからご存知だと思います。
手元の資料はちょっと古いのですけれども、岩波ブックレットのものです。九十九年ぐらいまでの数字しか出ておりませんが、
その後も新聞で報道されているはずですから、
このIKA(国際教育到達度評価学会)発表の数値はおそらく下がりつづけていると思います。
このデーターからわかるのは、日本の子どもたちは今や
世界で最も勉強しない子どもたちになってしまった、ということです。
         (『下流志向』内田樹 講談社文庫)

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私も、子どもたちが、小学校に通い出してから、次第に学習が伸び悩んでくることについて、過去にこんな記事を書いたことがあります。

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地域の親御さんたちの集まりに出たとき、

利発でハキハキした幼児を育てている親御さんに
小学校高学年や中学生の子を持つ親御さんたちが、
「かしこいのは今だけよ~小学校に上ったらどんどんフツーの子になるから…」
とアドバイスしているのを聞いたことがあります。

この先輩母さんたちは、
別段、意地の悪い気持ちからそうしたアドバイスをしているわけでもなくて
よくある事実…自分たちが経験したことをそのまま口にしているだけなのです。
現実に幼児期に輝いていた子たちが
小学校生活を送るうちに
ごくごく平均的な能力の子に近づいていく…のはめずらしくありません。
小学校受験を終えて、有名な私立の小学校に通っているという子も
同じような道をたどるとよく聞きます。

私も月一度の工作教室をしていたころ、こんなことが何度かありました。
幼児期には言語力も思考力も発想も巧緻性もずばぬけているな~と感じていた子が小学生になった後、
親御さんとお会いしてお話すると、
算数や国語の成績も普通で、あれから工作をすることもない…とおっしゃるのです。
とても賢い子ですから、それは一時期のことで、
高学年、中学生になると伸びてくるのかもしれません。

それにしても、なぜ幼児期に能力が高かった子が
だんだん学力が平均化していくのでしょう?

私は小学生の暮らしや遊びから
脳に良いもの 脳を育てるものが
どんどん失われているからではないかな…と感じています。

塾や習い事に行っている時間が長いと
頭を使っているように錯覚しますが、
実際には脳の一部分を慣れによって鈍らせた形で繰り返し使っていることの方が
多いと思います。
主婦にしてもパートで同じような作業を繰り返していると
しんどいし、確かにその仕事の効率は良くなり技術もマスターするでしょうが
脳そのものが高度になるわけではないですよね。

私が子どものころは、小学○年生 の付録は
説明書とにらめっこしながら何時間もかけて作らなければならないものばかりでした。
田舎に帰省すれば将棋や難しいゲームを習って
年上の子のグループに入れてもらってました。

小学校ではあやとり、シャーリング、編み物、お手玉、読書などが
休み時間のみんなの楽しみでした。
放課後は友だちといろいろ計画しては実行し、失敗しては学びました。

遊び時間も長かったから話したいこともたくさんあって
「せんせい あのねという作文帳には
毎日書きたいことがたくさんありました。
親に聞いてもらいたいこともたくさんあったし、
友だちとじっくり話すこともいろいろありました。
先生に読んでもらったお話は、そのまま妹や近所の幼い子に
話してあげていました。
また暇な時間がたっぷりあったので、読書もずいぶんしました。
特にかつての子が賢かったわけでもないでしょうが、
塾に行く子なんてめずらしかったけれど、学校の勉強についていけない子はほとんどなかったように思います。

それが最近の小学生の暮らしや遊びは、

話す 表現する 相談する 友達に習う あこがれる 
聞く 読む 書く 見る 考える 改良する 発想する 想像する 推理する
作る 学ぶ 感じる 感じたことを伝える 選ぶ 反省する 計画する
熟練する 達成する

など…放っておいても小学生が内側からの衝動で
自然に発達させようとするものを伸ばせる
時間も環境も精神的な基盤も
貧しいのです。
そうしたものの代わりに
テレビやビデオや携帯や携帯ゲームや習い事などが
隙間を埋めています。

私は、小学生には、表面的な成績につながりそうな勉強や
外から評価される習い事の技術を上げることにばかりさせるのでなく

脳を育てる

という観点からのアプローチが大事なのじゃないかな? と思っています。

それは、その子のやってみたいという活動…
(ビーズのアクセサリー作りやキャンプでも秘密基地作りやお料理など)
にじっくりかかわらせてあげることです。子どもは自分の脳に必要な活動を
その時期ごとにやりたがりますから…。
その後、親子で言葉を使って感想や感動を伝えあうと
良いのではないでしょうか?

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上の記事に対して次のようなコメントをいただきました。

「正しい生活習慣や道徳教育、豊富な自然環境、
内側からの衝動による主体的な遊びをたっぷり…
などだけで、勉強という意味での学力がつくかというとそうでもないような気がするのですが、
どうでしょうか?

最近その様な事を考えていて、先生の少し前の記事
『2、3歳児の遊びを知的な学びの世界につなげるには」
というような事がとても重要なポイントなのではないかな、と感じています。』



とても大切な指摘だと思います。
そうなんです。小学生の生活や遊びに豊かさを取り戻してあげることは大切。
でもそれだけでは、まだ足りないものがあって、
いろいろやらせたことが、そのまま学習意欲に結びつくかというと
わからないですよね。

うちの子の小学生時代、子育て環境をナチュラルで良いものにしよう~と
がんばっている方々と、
よく交流していました。いくつかの親子のサークルにも参加していました。
いっしょにキャンプに行ったり、
子どもたちに演劇を見せたり、泥んこ遊びや手芸や料理をしました。

確かに、そうした活動は子どもたちをたくましくも
自発的も利発にもしているようでした。

けれど私は何か物足りませんでした。

ひとりひとりの子どもは個性的で魅力的な子なのです。
ただ親たちのがんばりが、
子どもたちのやる気や活力に火をつけているというより、
空回りしているような、大人と子どもの温度差を感じたのです。
イベントの合間に、子どもたちがずらりと並んで、マンガを読んでいる姿にも
少し引っかかりました。

何が物足りなかったのか……と言えば、

子どもたちのエネルギーがいつも分散してしまって、
知的なものや、自分自身を向上させていく方向に
つながっているように見えなかったのです。

参加している子どもたちはそれぞれ塾や習い事にも通っていました。
そうして豊かな体験もして…それでも、ひとつひとつのイベントが、
あ~面白かった~で終わっていくのはなぜなんだろう?
と感じていました。

エネルギーが分散してしまう…
そう感じた理由は、
子どもたちが、自分を、
肯定的で将来さまざまな可能性が花開いていく存在として
イメージしていないように
感じたからです。
小学生の中学年くらいで
30代後半の主婦のつぶやき…みたいな自分へのあきらめの
言葉があるのです。
またあこがれて自分の将来のイメージを重ねられる人物が、
いないようなのです。

自分という核がない感じ

これは現代の子に共通するものなのかもしれません。

勉強してがんばって自分を大きく成長させたい 夢を実現させたい
という意志のない子に勉強をさせることは、
難しいです。
エネルギーの方向が
これから訪れる未来の方向に向かわずに
今すぐ受けれる快感のところでとどまっている場合、
いくら周りが熱くなっても、本人のやる気は年々冷めていくのではないでしょうか。

多くの親御さんは
子どもが何かできるようになることにはとても興味を持っています。
能力が他人からどう評価されるかにも関心があります。

けれども
子どもの心が何を欲しているか
夢見ているか
あこがれているかに無関心な方は多いです。
学習に対する意志や意欲を高めるよりも
義務でがんじがらめにして、やらねばならない状態を作って
子どもを操作する方が手っ取り早いと感じている方もいます。

子どもを操作したくはない
それに操作してもうまくはいかない…

ならどうすればいいの? と悩んでしまいますよね。

私は学習に対する意志や意欲は、

適度な飢餓感から生まれるように感じています。

食での飢餓感ではありません。
さまざまなものが与えられすぎたり、環境が整いすぎたり、何でもできすぎたり、ほめられすぎたり、やることが最初から決まっていたりせずに
ちょっと足りない、物足りないという経験から生まれる飢餓感。
それが
足りないものを補おう、欠如感を埋めようという気持ちや、
より良い状態にあこがれる気持ちを育くむように思うのです。

刺激が強くて、何でもすぐ満たされる生活をしていると、
地味な活動には少しも心が動かなくなります。でも勉強って本当に地味な作業の連続でもあるんですよね。

例えば、質のいい学習ソフトが出てるので、DSで勉強すると手っ取り早く知識を吸収することができます。
けれども、そうした学習法を繰り返していると、

地味に紙工作をするときのように、刺激が少ない対象に自分から創造的に関わっていこうとする態度が失われるように思うのです。

とにかく勉強って、
どこまでいっても『地味』な相手です…。

それを好きになって、何年間も努力し続けよう…と思うなら、

自然の不思議に心を動かされたり、
手作業をすることに心地よさを感じたりするような
今の時代を逆行するような地味~な感性が必要だと思うのです。

みんなからスポットライトを浴びて表彰されなくても、
親から認めてもらったり、好きな先生からちょっと褒められることに
喜びを感じられる感性が必要だと思うのです。

知りたいな~なぜだろう!という欲求が満たされたときの満足感。
自分のできるようになったことを、お友だちから「教えて~」と頼まれるときの誇らしい気持ち。
ひとりだけできなかったことを、何とかがんばってできるようになったときの達成感。

教育産業の都合や大人のエゴに絡んだものが、子どもの世界を引っ掻き回さなければ、いつの時代の子も、学習にリンクしていくそうした地味~な喜びを、心地よく感じる存在です。

でも、今の時代、先に強すぎる刺激を受けすぎると、(食前にお菓子を食べてしまったときのように)地味~な喜びを感じる感性が鈍ってしまうのではないでしょうか。

子どもの脳を育てるためには
環境と遊びが大事♪

でもそれだけでは足りないですよね。

何が足りないのでしょう?

子どもが自分の人生を自分で歩んでいるという実感

自分でできるようになりたいと感じること。やりたいことを選ぶこと。うまくいかないときに自分で悩むこと。飽きたときに自分で決意すること。
親や先生がやるべきことを決めて、ただ受動的にそれをこなすだけでは、高学年を過ぎるころには、だんだんエネルギーが枯れていきますよね。

適度な飢餓感

知的な遊びを楽しく感じるくらいの刺激の強すぎない暮らし。
工作に喜んで取り組めるくらいの、努力なしに結果を手にしすぎない暮らし。

遊びの世界が技術をマスターすることや
知的な好奇心を満たすこと
好奇心を広げることにリンクしていること。

読書が子どもの義務ではなくて、
家族にとっての楽しみであること。

あこがれたり、知的な興味を共有しあえる仲間がいること。

『個性と才能を見つめる総合学習モデル』J.S.レンズーリ
で紹介されている子どもの個人の才能を適切に伸ばす環境を
用意する。
(これに関しては、またの機会にくわしく紹介しますね)

そうしたことのひとつひとつがとても大切なのだと思います。
もちろん幼児にとっても!

ただ足りないものがあるからと
あせる必要はないと思います。
まず何が足りないか気づいた時点で、
大きな進歩ですから。
足りないもの…というのはプラスするより、
今あるものから何かを減らしていくとうまくいくものがほとんどのはずです。
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上の記事を書いたとき、
私は自分の感じとしては持っていたものの、言葉にすることができなかったし、それが言葉になることを意識したこともなかったので取り上げなかったのですが……

前回の記事で書いた
『明後日(あさって)』の感覚という言葉に出会ったとき、

この感覚が、あまりにも子どもの世界から取り除かれてしまったことも、
子どもの意欲低下や無気力の理由のひとつにちがいないと強く感じました。

ちょうどできあがった電池で動くおもちゃでばかり遊ぶのと同じように、
完成度が高く全て管理され、自分の進路は遠い先まで見えすぎるほどに見えてしまうことへのしらけた気持ち。
かと思えば、これも電池製のおもちゃと同じようにからくりや理由がわからない
ブラックホールだらけの世界。

そうした世界で、
学ぶことに、魅力や愛情を感じたり、
学ぶことで、責任感や自立心を育むのは難しいですね。

なら、どうすればよいのでしょう?
私は、前回紹介した日比野克彦氏と鷲田精一氏との
対談の中にその答えのひとつが隠れているように感じました。
 
虹色教室では、子どもたちと小さなものから大きなものまで、
さまざまな創作活動をすることがよくあります。
子どもの興味に引っかかったものを、先行きについては『あいまい』なまま
気の向くままに、
その都度、学べそうな要素をいろいろ盛り込みながら作っていきます。
こうした制作活動は、たいていの場合、
いつも最初に期待していたよりも何倍も良い結果を得て終わります。

はじめ結果が読めないのは、その子その子の個性が混じるからです。
子どもによって、作ってるうちに、歴史や地理に強い興味を抱くようになったり、緻密に計算された作品を作るようになったり、根気が伸びたり、
自己肯定感が上って、何ごとにも積極的になったり、
算数や理科が得意になったりとさまざまです。

そんな風にそれぞれが得るものは異なるけれど、
手でする作業と、自分のなかの美を感じる気持ちと接触した後って、
必ずといっていいほど、
期待以上の結果を手にすることになるのです。

何かすごい作品を作ろうと力むのでなくて、
面白そうだ~というアンテナにかかった作業にモクモクと熱中してみることで、
子どもは素直になり、落ち着き、個性的な「自分」という感覚や、
自由な生命力を取り戻すように見えます。

積み木で、幼稚園や小学生の子たちと、
海上のピラミッド モン・サン・ミシェルパルセノン神殿を作ったことがあります。
そうした製作はたった一日の出来事ですが、
その後、教室では、
古代のカレンダー ストーンヘンジ
ピサの斜塔、コロッセオなど遺跡を作る子たちが続出し、
学習への集中力や海外の文化に対する興味が高まりました。

日比野克彦氏と鷲田清一氏は、アートの

絵でも工作でも何かをつくることで、気持ちを共有したり、
コミュニケーションの輪が広がったり、新しい発見ができたりする

という機能に着目しています。

「気持ちの共有」「コミュニケーション」「新しい発見」の3つは、
虹色教室でも、製作活動中やその後で起こりやすいことです。

子どもが作品を作ったとき、時折、それを教室に飾っておいてあげると、
「私も飾って!」と言い出す子がいて、
描いたものを「誰か」が見てくれることがうれしくてたまらないという気持ちが、他の子の作品にも興味を持ち、
自分の中にその良さを取り込んでいこうする態度に変わるときがあります。

また、ひとりの子の作品が、たくさんの子の心を揺さぶって、電子工作や歴史的な建造物を作るといったことが流行することがあります。

だれかが発見した科学的な仕組みを、
別の子たちが別の作品で利用することが流行るときもあります。
「新しい発見を発表しなくちゃ!」というワクワクする気持ちと、小さなアイデアが広範囲に影響を及ぼす力に子どもひとりひとりが感動する気もちを持っています。

教室では、自然に遊びが共同制作へと流れていくことがよくあって、
ピタゴラスイッチのような装置ややどかりハウス(だんだん巨大化して屋根つきを作ります)などを、
「ぼくは、ここするから、そっちたのむよ」「これどう?いいでしょ?」「うん、すごいすごい!」といったやりとりをしながら、
熱中する姿がみられます。
完成の喜びが、「磁石について、くわしく調べたい」「恐竜の時代について研究したい」など、強い知的好奇心に結びつくこともよくあります。

製作の場で、
「気持ちの共有」「コミュニケーション」「新しい発見」が活性化されることと、
日比野氏の『明後日』の感覚といったものはつながりがあると感じています。

「こういうものを作りなさい」「それぞれ個人で」
など、ルールや先行きがかっちり決まりすぎていると、
ただ作った~で終わっちゃいがちなんですね。
子どもを見ていると、人って個人的に何か上達することよりも、人とコミュニケーションを取ることや、互いに響きあうとき、誰かの役に立ったとき、
認め合ったときに、
一番いきいきするんだなと感じています。良い作品ができたとき、高い点数をつけてあげるより、
「みんなに、どうやったら
こんな風にできるのか教えてあげてちょうだい。
みんなに、どこを工夫したか説明してあげてね!」
と言った方が誇らしげな顔をしているのです。


日比野氏の言葉に、次のようなものがあります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そう展覧会でも、「この絵いいよね」という人もいれば、無言で通りすぎていく人もいる。
絵は同じでも、判断は百人百様です。
絵はダンボールに絵の具がのっているだけのものですが、人によっては、見た瞬間に時空を超えることもできる。
それって、芸術の力としては、絵描きの力よりも見る力のほうがすごいんじゃないか。
それで、だんだん、見る力のほうに興味が移ってきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
子どもに創作させるとき、「わが子が何を作ったか?」「他の子より上手か?」という点だけ気にかける親御さんはいるのです。
でも、本当は何も作っていなくても、他の子の作品を「見る」だけでも、
見る力が高まっているんですよね。

「見る」力だけでなく
★幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ で取り上げた
さまざまな力が、製作をお友だちと共有しあう場では、向上するのだと思います。

脳への「入力」自体が変わる、と言っても過言ではないのでしょうね。

日比野氏は美術を日常のなかに機能させる機会を広げることを、
自分の役割と感じておられます。

美術を日常のなかに機能させる大切さって、すごく感じた出来事があります。
去年、母の死の後、
私は母への供養の意味もあって、曼荼羅風の絵を何枚も描きました。

どうして曼荼羅かというと、
母が末期癌におかされて入院中、「暇つぶしに」と、
色鉛筆のセットと分厚い曼荼羅塗り絵というのを持っていったことがあるのです。
母は、クリスチャンだったので、曼荼羅とかかわりがあるわけじゃないのです。ただパッチワークが好きだったので、
曼荼羅が母の縫うパッチワークのパターンのようにも見えて
買っていったのです。

数日後、入院先を訪れると、母のベッドに
向かいのベッドの人がやってきて、
「○さん、ありがとう。2枚も塗らせてもらっちゃったわ。心が落ち着くわ~ほんとに楽しいわね~」と言って、例の曼荼羅塗り絵を差し出しました。
母に塗り絵の進行状態を見せてもらうと、何十ページももう塗られていて、
メモの欄に、病室の人らしき名前や看護士さん、実習生の方などの
名前がつづられていました。

塗り絵の隙間には、○さん(母)に出会えて、私は感動しました。この塗り絵作業に(勝手にプロジェクト化していたのでしょうか?)
参加させていただけて、どんなにうれしかったか……といったメッセージが、
看護の実習生や看護士さん、病棟内の友人によって、いくつもいくつも書かれていました。

この曼荼羅塗り絵は母の形見としてもらおうかと思ったのですが、母が旅立つとき棺の母の顔の傍らに入れさせてもらうことにしました。

母のいた病棟は病が重い人が多くて、
暗い気が立ち込めているような感じがあったのに、
きゃっきゃっとはしゃぎあう高校生たちのような
雰囲気で、塗り絵をしてよろこんでいる病棟の人々の姿と、それぞれの個性が
あらわれる色遣い、タッチなどの面白さが
今も目に焼きついています。

私も、スケッチブック一冊分、曼荼羅の絵を描き続けて、
ようやく母の死を静かに受け入れられる心境へと移っていった
気がします。

アートの力すごいですね。

病棟の空気を一新したアートの力が、子どもたちの無気力な心に
変化を起してくれないかな?
とそんな夢を抱きました。



続きを読んでくださる方はリンク先に飛んでくださいね。
 
学校に通いだしたら、どんどん勉強嫌いになっていく? 4

学校に通いだしたら、どんどん勉強嫌いになっていく? 5 (冒険心とポジティブシンキング?)


学校に通いだしたら、どんどん勉強嫌いになっていく? 6 (冒険心とポジティブシンキング?)

学校に通いだしたら、どんどん勉強嫌いになっていく? 7 (好奇心が枯れていく小学生)

学校に通いだしたら、どんどん勉強嫌いになっていく? 8 (子どもから地頭力を奪わない子育て)

学校に通いだしたら、どんどん勉強嫌いになっていく? 9(これでおしまいです)
 



デュプロで作る数の分解を学ぶ算数ゲーム

2013-12-24 14:44:44 | 算数

数の分解を学ぶ算数ゲームをデュプロブロックで作ってみました。

子どもたちに大盛況で、(帰宅時間だったので)もう一度やりたがるのを諦めさせるのに一苦労しました。

ブロックを写真のようにブロック用の基礎板に取り付けます。

2人で遊ぶ時は、同じものを2つ用意します。

基礎板がない方は並べるだけでもOKです。

あひる3わをスタート地点からゴールに

全て到着させたら、勝ちです。

サイコロを振って、出た目の数だけ、アヒルを動かすことができます。

アヒルは3わのうちどれを動かしてもいいし、数次第で

何わ動かしてもいいです。

 

たとえば、さいころで4が出たら、1ぴきのアヒルを4つ進めて、ゴールに到着させることも

できるし、

4の数を1+2+1と考えて、

1わを1進め、もう一わを2進め、もう一わを1進めることもできます。

 

「同じ色と形の組み合わせを作ってみよう」というゲーム中。

2段にチャレンジしています。

お正月に遊ぶ手作りゲームの見本のひとつです。『忍者ゲーム』

3歳10ヶ月の★ちゃん、4歳2ヶ月の☆ちゃん、4歳6ヶ月の●ちゃんの

レッスンの様子です。年長の★ちゃんのお兄ちゃんの◆くんと2歳2ヶ月の●ちゃんの妹の

◎ちゃんも参加しています。

 

クリスマス向けの劇に出演したという★ちゃん。

「それなら、劇場を作ってみようか?」というと大喜び。

劇場の前に長いすをセットしていたところ、◆くんが、

「こういう風に上から光らせるライトがいる」と言いながら、ブロックで作った台の上に

懐中電灯を乗せました。

そこで、透明セロファンでスポットライトの色を変える仕組みを作ることに。

◆くんの意見で、劇場の前に駐車場や飛行場がセットしてあります。飛行機で劇場に来る人が……?

●ちゃんが絵具を使いたがったので、みんなで絵具遊びをした後で、

こすってお金を作ったり、紙を挟んで立体的な形を作る道具で遊んだりしました。


親子のコミュニケーションのリズムが映像から伝わってくるアニメ

2013-12-24 14:02:39 | 幼児教育の基本

子育てがわからなくなった方に(子どもの魂と触れ合う)

の記事に次のようなコメントをいただきました。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

いつも興味深く拝見しています。
今回の記事を読んで、ふと私が好きな番組にいつも感じている居心地の良さや素晴らしさは親子や友達のコミュニケーションのリズムの素晴らしさなのかな、と思い至ったのでコメントさせていただきました。
私は在米で、その番組はLittle bearという子供向けの短編アニメです。少し古いアニメのようですが、主人公の子熊の思いつきを家族や友達が楽しみつつ展開していくエピソードが大好きです。
一つ、紹介させてくださいね。英語ですが、ベッドに入りたくなくて色々言ってみる子熊とそれを楽しみつつ、ベッドにいれる両親が魅力的です。わたしもこうなりたいなぁ、と思いつつ^^;

http://www.youtube.com/watch?v=ZRG6ueyf42o&sns=em

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

とてもすばらしいアニメだったので、

いくつか他のものも見てみると、とても面白かったです。

クマくんの姿は、どれも教室での子どもたちひとりひとりと重なります。

英語が苦手という方も、言葉がない状態で、クマくんの行動や表情から

何を感じ、何を考え、何をしようと思っているのか感じ取りながら、

それに周囲がどのように対応しているのか見ていただきたいと思いました。

 

http://www.youtube.com/watch?v=S30hxsTFpPk

パパクマとクマくんのやりとりがすばらしいです。

教室で、子どもの体験不足を指摘すると、習い事やお出かけのような何か特別な体験をしなくてはならないのかと

構えてしまわれる方が多いです。

子どもの体験は、ごく普通の日常生活の中で、子どもの心と声に

少しだけ寄り添うことによって生まれるものだと思っています。

このクマくんのアニメの中には、

大人の子どもへの寄り添い方のヒントがたくさん隠れています。

 

 

http://www.youtube.com/watch?v=l-kcXXZIVLs&sns=em

虫めがね片手に、いろいろな発見をするクマくん。

 

http://www.youtube.com/watch?v=ewXziGeit10

 

http://www.youtube.com/watch?v=D-zY_ybfrAo


ボードゲーム作り と パパの手作りのしかけ絵本

2013-12-23 19:52:15 | 初めてお越しの方

 

小学1年生の★ちゃんと☆ちゃんのレッスンで、ボードゲーム作りをしました。

ひとつひとつのコマの内容に凝り過ぎて、時間が足りなくなってしまいました……残念。

お家に帰ってから続きを作るそうです。

 

下の一連の写真は、★ちゃんのパパが★ちゃんの誕生日の

手作りのプレゼント。

とてもすてきなしかけ絵本です。

どのページもワクワクするような面白いしかけや

ゲームがいっぱい。

★ちゃんはパパから毎年のように

手作り絵本を贈ってもらっているそうです。

 

凧につかまって、難所を抜けるシーン。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

算数タイムに、☆ちゃんが疑問を抱いていた

図形の頂点から頂点までの最短距離がどうして対角線になるのか、

紙とひもを使って確かめました。

実際に物に触れながらやってみると、

一目瞭然です。

★ちゃんが間違えていた図形の周りの長さの求め方について、

マス目にモールを置いて、考えてみました。

★ちゃんも☆ちゃんも、とてもよくわかったようです。


「ビジネスで一番、大切なこと」 と 関西人ファミリー

2013-12-23 13:48:44 | 日々思うこと 雑感

過去記事です。

 

お正月にハーバード白熱教室という番組が放送されていました。

政治哲学などという やたら堅そうな授業の割に、ニュース・バラエティーかと思うような話題がどんどん飛び出して……かなり関西人のアンテナに引っかかる内容でした。

思わず家族中で見入ったあげく、番組終了後にああだこうだと長い議論になりました。

目ざとい娘は、その直後に、『これから正義の話をしよう』というその講義を書籍化したものを買ってきていました。

それ以来、ハーバード大学のユーモアと遊び心にすっかり感服している私。

本屋に行っても、ハーバードという言葉が目に付くと、取りあえず、中身をチェックするように……。

 

そんなわけで、ハーバード・ビジネススクールのヤンミ・ムン教授の

『ビジネスで一番、大切なこと』  (ヤンミ・ムン  ダイヤモンド社)を手にしたのですが、

人間味と笑いに満ちた内容に立ち読みがやめられなくて、

そのまま棚に戻さずに売り場に向かいました。

 

このところ、私がビジネスの本をよく手にするようになったのは、

娘、息子、ダンナと私……と家族全員が いつ何回話していても飽きない話題というのが、

このビジネス関連の話だからなのですが……

興味の範囲外の話でもビジネスがらみの

話には即、反応してしゃべり出すあたり……関西人(商売人?)の血が全員流れているんだなぁ~と感じています。

 

そのせいで、何のブログだかわからないような話題に、

幼児教育について学びにきた読者を無理やり引っ張り込んでいるのですが……

疲れたら遠慮なく読み飛ばしてくださいね……

 

話を 『ビジネスで一番、大切なこと』に戻すと、

私が一番共感したところは、著者の執筆スタイルに大きな影響を与えた本が、大学生の頃読んだ『ご冗談でしょう、ファイマンさん』 (岩波現代文庫)だということ。

日々の生活や教師としての経験、研究をめぐるとりとめもないエピソードの集まりが、

読み進むにつれて心に入り込み、本を閉じる頃には科学の真髄をたくみに語った物語だと確信するようになったそうです。

私も『ご冗談でしょう、ファイマンさん』 の大ファンなんですよ。

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研究者が物事の理解に貢献する方法は二種類ある。

一つはパワーポイント的アプローチ。

複雑な現象を取り上げ、そこから不要なものを取り除いて核心にたどり着く。

もう一つはその逆で、不要なものを取り除くのではなく、思いもよらない方向から

微妙なニュアンスをくみあげ、積み重ねていく。

これがファイマンのやり方だった。科学というテーマを日常生活に織り込み、

豊かさや味わい、深みを加える。

『ビジネスで一番、大切なこと』  (ヤンミ・ムン  ダイヤモンド社 )P6より

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私もブログで自分の思いを伝えるには、ファイマンのような方法でしたいと憧れています。

どんなにあがいても、パワーポイント的アプローチはできそうにないから……

ということもありますが。

 

この本は、どこか遠くのビジネスの話題ではなく、

私の足元や心に光を当てて、「私はどんな時代のどんな環境で暮らしているのか?」「私はどのように生きたいのか? 働きたいのか?」という思いを、

浮かび上がらせてくれる本でした。

興味深かったのは、「選択肢の増加イコール多様化、ではない。むしろ製品数が増えるにつれて、違いは小さくなっていく」という話題。

 

ジュースにしろ、洗剤にしろ、店の棚では、どんどん最新の品揃えが増え続けているわけですが、

ある段階に達すると、もはや愛好家さえ区別がつかなくなるのだそうです。

カテゴリーが成熟すると、購買頻度の最も高い消費者さえ

比べる努力をむなしく感じはじめるのです。

ささいな違いに注目する愛好家が減り、違いの意味に疑問を持つ顧客が増え始めるのだとか……。

この気持ちわかるんですよ。特にシャンプーを選ぶとき……新製品が出るほど、「よいのを選んで買おう!」と意欲がなくなって、適当に特価品をかごに放り込んじゃうんですが……。

 

ヤンミ・ムンは、

 

多くのカテゴリーで差別化が難しくなっているのは、私たちが本来の競争ではない

「競争」に入り込んでいるからだ。

 

と訴えていて、でも「例外もある」と続けています。

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例外的な企業の優勢は、世界が変わりつつあること、古い知恵が新しい知恵にとって変わられようとしていることの予兆である。

そこでは、神話を最初に手放したものが優位に立つ。

これらの異端児を調べれば、有益な教訓が見えてくる。

誰でも文章の書き方、絵の描き方、音楽の演奏法を学ぶことはできるが、

歴史に名を残した巨匠は常に、それぞれの分野の境界線を新たな方向へと広げてきた。

原則を十分に理解しているからこそ、それを打破しなければならないと知っている。彼らが教えてくれるのは、暗黙の前提がどれほどもろいか、である。

ビジネスも同じだ。雑魚の集団から抜け出し、消費者と純粋な絆を生み出せる傑出した企業は、残念なほど少ない。

しかし彼らは、私たちがとらわれているビジネスの原則なるものの限界を教えてくれる。

        『ビジネスで一番、大切なこと』 (ヤンミ・ムン  ダイヤモンド社) P29      

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食事時に、こういう話題がのぼると、家族全員、誰一人黙ってないのですよ。しゃべってしゃべって、しゃべりまくる……どれだけ関心があるのか……

こうした話がどこかの企業に向けられた話のように見えず、

うちのような平凡に暮らしている関西人の家族ひとりひとりに、

自分自身のこととしてリアルに響いてくるのも……そういう変化の時代に生きているからなんだな~と感じました。

 

マイブームで……興味の赴くままにビジネス書を読み漁っていて感じるのは、

企業に向けて突きつけられている課題は、

一個人の……

私やうちの家族のメンバーひとりひとりのアイデンティティーを揺さぶるような内容

でもあるんだな~という事実。

 

「グローバル化」なんて言葉も、大きな企業の中でだけ語られる言葉じゃなくて、

うちの教室の幼稚園児にしたって、日々、「グローバル化」する世界でどう生きるかという課題を受け止めて暮らしているんですよね。

テレビ画面には遠い国の紛争や地震の映像が流れ、

子ども部屋には、世界のどこの国で作られたのかわからない物があふれているような

環境で生活しているのですから。

 

 

『ビジネスで一番、大切なこと』に、著者のヤンミ・ムンが、

子どもの頃、ある教師に感じた「いらだち」と、

大人になった今その教師に抱いている「共感」について語っていました。

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子どもの頃、ヤンミ・ムンは

知性を何より尊ぶ ある根っからの教育者である先生に出会いました。

「知性とは何ですか」とたずねると、

「知性とは、赤ちゃんの最初の言葉よ」

「知性とは、三人兄弟が手をつなぐこと」と、子どもたちが混乱するような答えを返します。

 

その答えは的外れでいらだたしくもありました。

なぜなら、それはIQテストでよい成績を取るとか、

向上心の的になるような、はっきりした行動を導いてはくれなかったからです。

 

でも大人になったヤンミ・ムンは

自分をいらだたせたその先生が、一度もそういう答えをくれなかったことを感謝するようになりました。

 

知性や資質、成果、美しさといった理想については、

具体的で測定可能で、誰もが納得する定義があると、つい安心感を覚えてそれ以上、深く考えようとしなくなるものですから。

先生はきっとそのことを理解していたのだろうと思ったからです。

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わかりやすい定義がなければ、私たちは混乱する。

居心地のよい場所から一歩踏み出すときには、誰しも不安を感じるものだ。

しかし、長い目で見れば悪いことではない。

とりわけ目的が従順な模倣者の一群を生み出すことではなく、

多様な自発的思考を促すことにあるのであれば。

あなたが教師なら、まず、学生の能力を推定し、抽象的に表現することをやめよう。

学生たちにモノサシという権威に頼らずに

他から抜きん出ることの意味を考えさせよう。やがてあなたは、学生たちが創り出す成果に

目を見張るだろう。

学生たち自身も驚くに違いない。

           『ビジネスで一番、大切なこと』ヤンミ・ムン  ダイヤモンド社

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虹色教室で過ごす時間の多くは、子どもたちの自己判断に任しているのですが、

私自身にとっても、何を教え どんな風に教えるかという面で外からの制約はほとんどなくて

自由そのものです。

そこは小さくてアットホームな教室の利点で、

それぞれの子が自分の内側にかけがえのない価値を見出し、最初は不器用だけど、しまいには驚くほど流暢に自分の得意分野を伸ばしていく姿を見守ることができます。

私は、どの子も同じ基準で計測できる鋳型を使いません。それぞれが挑戦するレベルが高い課題は用意するけど、それを比べる道具として利用していないのです。

そうすると、どの子もそれぞれが特別にすばらしいことが、

子ども自身にも親にも受け入れられていきます。

本当に子どもはどの子も個性的ですばらしいですから。

その「すばらしさ」に自分で気づくように手助けするのが、

大人の役目だと思って仕事をしています。

 

ヤンミ・ムンも、「画一的な測定法は、逸脱者や異端児、冒険家が生まれなくなる」と指摘しています。

人は相違点を可視化すると、互いの違いを際立たせるのではなく、無意識に解消しようとするのだそうです。

競争力を測るという前向きな努力が、結果的に均質化を促すムチとなるのです。

評価は、個性のない似たり寄ったりの人間を育て、独創性を奪い、議論を精彩を欠いたものに変えてしまうそうです。

 

もちろん評価や画一的な測定法が必要な場もあるはずです。学校などもそうでしょう。

でも、そうしたものは親も子も「成績」教信者にしてしまうほど、

力を持ってはいけないはずです。

 

なぜなら、測定するということは、ある何かを重視しようと選んだに過ぎず、

それ以外のものを測定していないからです。

必ずしも重要なものから測定しているわけでなく、

非常に価値があるものでも、測定者に高い能力が必要だったり、数値にしにくかったりすれば

測らないのですから。

 

 『ビジネスで一番、大切なこと』を読んでいると、

経済界を悩ましている矛盾が、教育の世界も同じように曇らせているのを感じます。

有名病院が死亡率の公表に同意すると、

死亡率を下げたくないから、重症患者を引き受けないということが起こります。

 

同じように教育の世界も、教師を評価し、

子どもを評価し、学校をランキングで比べるのにうつつを抜かしているうちに、

何が起こっているのでしょう?

私たちは大切な子どもたちを、

「市場にあふれかえる最新の性能を備えているにも関わらず、

選ぶ意欲を減退させる似たり寄ったりな商品」

のような立場に追い込んでいるのではないでしょうか。

 

先日、私が幼児の世界にまで画一的な評価が浸透して、個性がないがしろにされている状況を嘆くと、

息子からこんな言葉が返ってきました。

「さまざまなところで人を評価するシステムが進む一方で、

個性が大事、個性を伸ばすってこともよく言われるようになっているよね。

 

でも、無駄に個性を求めすぎて、『個性』と捉えられているものが、画一的になってきているんじゃないかな。

一般化されたくない、個性的でありたいと思うあまり、他人が言葉に詰まるような

ショッキングな趣味や好みを言いたがる人がいるじゃん。

でもそれもまた画一的な既存の個性のイメージに無理やり自分を当てはめている行為で、

結局、自分の好きなものが

自分でも認められていないように見えるんだよ。

つまり、個性を求めるあまり、自然に個性的であることを

自分にも他人にも認めていないように見えるんだ。

その原因のひとつに、言葉によって個性的であるよう

プレッシャーをかけられていることがあるんじゃないかな。

個性もまた画一的な見方を生む評価の対象になっている気がする。」

 

そういえば、さまざまな矛盾する言葉に翻弄されながら

成長していく子ども側の気持ちに思いや感じ方に馳せるのを忘れていました。

息子の言葉をゆっくりと咀嚼しました。

 久しぶりの息子の登校日。
朝食の準備をしながら 音楽を聴いていると、
起きてきた息子が、
あれっという表情で私が聴いているソニーのCDウォークマンを見て
「買ったの?」とたずねました。
「そうなのよ。この間 買ったCDラジカセ、1ヶ月もしないうちに壊れちゃったのよ。交換に行かなくちゃならないんだけど、出先で買ったものだからめんどうなの。
それでちょうど小さいのも欲しかったから、近所(電気店)で買ってきたのよ。

CDラジカセね……これまで音楽系のものは
神経質に国産品にこだわってんだけど、
外から見たら完璧に見えたもんだから、
聞いたことがない海外のメーカーの機械だったけど、
つい気が緩んで買っちゃったのよ。
そしたら、たちまち壊れるんだもの……」

すると、CDウォークマンについている
小さなリモコンを面白そうに眺めていた息子が、
「やっぱり日本製のものって、このちっちゃい部品の部分まで完璧ってすごさがあるよなぁ。」とつぶやきました。

「ぼくはさ、こういうさぁ、もっと日本人の職人気質のワザのすごさみたいなものが見直されてもいいと思ってるんだ。
最近は、グローバル化って言葉がもてはやされるから、
アイデアとかポジティブさとかが上で、
これまで職人的に積み上げてきたワザ的なものは下みたいに捉えられているところがあるじゃん。
もちろん、ぼくも努力努力……
そればかりを強調する言葉は好きじゃないんだ。

でも、アイデアとかポジティブさとか人間関係上の能力と、
単に努力するってことの間に、そのどちらでもない日本が大事にしてきたことってあるよね。
日本の良さって、職人レベルのすごいワザが、庶民層にあるってことだと思うんだ。
日本の場合、この技術すごいなぁって感動するような
技術とクオリティーではブランド名にできるくらいの中小企業がたくさんあるよ。
以前、日本で子どもがブランド物持つのはおかしいって叩く人々がいた
けど、そういう意見が出るのって、
ブランド物じゃなくても、
日本の品物は品質が保証されているからっているのが
前提にあると思うんだ。

海外だったら、お母さんが買ったCDラジカセみたいなの
しょっちゅうつかまされて、
ブランド物を買わないと損をするかもしれないって不安があるよね。
子どもだって。

お姉ちゃんが買った海外物のカバンも、
すぐに留め金が壊れてひどかったじゃん。

確かに、これからの世の中は、そうした職人的技術だけで乗り越えていくのは難しいのかもしれないけど、
今は軽視しすぎている気がするよ」

「お母さんは、アイデアとかコミュニケーションとか、販売の新しい形とかを開拓していける人と、そうした職人的な日本が築いてきたものを仲介する人……つまり橋渡しをする人が、もっと必要だと感じているの」
と私が答えると、
息子から次のような答えが返ってきました。

「そうだよね。ただ、ぼくが思っているのは、もう少し別のことで……
ほら、お母さんがしている仕事にしたって、アイデア勝負で自由にしているようで、
職人的なものが基本のところにあるじゃん。
中身の質の面で、かなり積み上げてきているというか……。
たとえば桜井章一さんなんか、
麻雀なんだけど、運や発想だけではない、職人的なワザを守ってきている人だと思うんだよ。

今は、アイデアだけ運だけで成功したとしても、お金さえ手にしていたら、
みんなで褒め称える風潮があるけど、
そこに職人的な積み上げて築いていく確かなクオリティーがないまま突き進んでいくのはしんどいと思うよ。
それは職人的な人を下請けにしていけばうまくいくもんでもないと思う。

日本人の職人気質のよさって、海外の職人さんに比べると謙虚なところじゃないかと思うんだ。
海外の場合、職人気質がきつくて、時計職人は時計しかつくらないみたいなプライドに固執することがよくあるようだけど、
日本の場合、質も極めるけど、他業種の物も模倣してていねいに作るってこともするよね。
これからは、新しい世界の動きを取り入れつつ、
そういう日本の職人気質の良い面が生かせるような
仕事のあり方を、大きな視野から眺めなおして作っていかなきゃならないんだと思うよ。」

高校生くらいの子から見える社会は、そんな風に映っているのか……と
私も考え込んでしまいました。




『ビジネスで一番、大切なこと』にこんなこんな一文がありました。
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人間の行動は複雑だ。学問に携わることは、真実の追究に携わることだが、私が研究の過程で学んだのは、

人間の行動に関して言えば、真実はとらえどころがないということだった。人は馴染みのあるものを求める。
いや、ときには変化を求める。人は進歩を切望する。しかし、過去を懐かしむこともある。人はもっと多くを望む。いや、実際には少ない状態を望んでいることもある。
(略)
私もまさにハンターと一緒で、消費行動の実情やその原因について見極められたと思ったとたん、論破できない何か、私の出したそれほど厳密ではない結論に穴を開ける、新鮮な視点が現われるように感じる。
研究に没頭すればするほど、私はすべてに関して断定的にはなれない自分に気づいている。

   『ビジネスで一番、大切なこと』ヤンミ・ムン ダイヤモンド社

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「ビジネス」と「教育や子育て]には、共通点があります。
それは「相手が人間だ」ということです。

その共通点ゆえに、ハーバード大で ビジネスのことを語るヤンミ・ムンの言葉は、
自宅でくつろぎながら教育と子育てについて考えている私の心をも
大きく揺さぶります。
「そう、そう!そこが問題の核心なのよ……!」と。


ブログで教え方や接し方の < how to >を紹介しても、
「同じようにやってみるのですが、奈緒美先生のようにうまくいきません」
という声をいただくことがあるのです。

「ほら、してごらん」と魅力的な演出をしても、
笛吹けど踊らず……で終わるのは、
子どもを相手にするときのお約束。

子どもから強い意欲を引き出すには、熱血先生を装うより、

「ちょっとやらせてよ」と懇願されても
「子どもには無理じゃ。あっち行っとれ」と言いつつ、
大人の作業も手伝わせるような

……田舎のおじいちゃん風の態度の方が上手くいくものです。

友だちに自分の仕事のペンキ塗りを押し付けておきながら、
まんまとみつぎ物までもらった
トムソーヤの話は有名ですよね。

人間相手ですから、相手からやる気を引き出すのに、
必ずしも「やる気を出せ!」「がんばれ!」ってエールを送る正等な方法がうまくいくわけじゃなくて、

「えーやりたいの? やめといたら?」なんて変化球が、
「勉強したい~やらせてよ、お願い!」と懇願させる結果につながったりするのです。

そこには、こうすればこうなるというマニュアルは存在しません。

虹色教室の帰り際に、
子どもが「このぬいぐるみ持って帰りたい~」と ぐずる
とき、親御さんが真剣な表情でする
「これは先生とみんなの物でしょう? 他人のものを欲しがったりしたら……」なんてお説教は、
たちまち子どもを反抗的な困ったちゃんに変えてしまいます。

けれども、「そう、このぬいぐるみが気にいったのね。遊んで楽しかったのね。ありがとうね」と子どもに共感してから、
「じゃ、ぬいぐるみをしまっておくわね」
と言うと、ニコニコしながら素直に返すだけじゃなく、後片付けまで手伝ってくれるというおまけがついてきたりするのです。

言葉ひとつ、態度ひとつで、
雲泥の差が生じるのが、「相手が人間」ということでもあるのです。


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人間を相手にするときの感性というか、
ビジネスの舞台で、他人のニーズを感じ取って 適切に対応する能力という面で、
私は 娘にはかなわないな……という思いがあって、

「この娘は社会に出て、何度も頭を打っていろんな経験をした後で、
最後には自分で起業してやっていくんだろうな~」
などと考えています。

「ハイタッチ」(共感力、人間関係の機敏を感じ取る能力、自分の喜びを見つけ、他の人々が喜びを見つける手助けをする能力、日常的な出来事にも目的や意義を追求する能力)という面で
どこまでも極めて、それを新しいビジネスのスタイルへと昇華しようと思えば、
誰かのもとでマニュアルに縛られながら働くより、
規模は小さくとも自分の判断力と気づきが生かせる仕事が合っているでしょうから。


息子の場合、将来、仕事にしたいと考えている
ゲームクリエイター
(息子の考えるこれからのゲームクリエイター像は、
既存のものとはずいぶん異なるようですが……)
としての働き方を思うとき、
作品を介しての人との関わり方について、
いつも真剣に考えている模様です。

ある時、息子がこんなことをつぶやきました。

「今、IT産業の世界は、
こんな物が作りたいと思いついた時点で、
もうすでに誰かが作っているか、同じようにひらめいて制作に入ってる人がいるような状態でさ……
いずれ飽和状態が来て、新しい良いものができても、
人がそれを求めなくなるような時期が来るのは近いと思う。

それと作品の質より何より、
ネットの世界ならではの難題にどう向き合うかで、成功 不成功 が決まってくる面があるから、
作ることだけ考えていたらいいってわけじゃないんだ」

「どういう意味?」とたずねると、
次のような答えが返ってきました。

「たとえば、違法ダウンロードへの対策でさ、
ゲームを売り出すときに、プロテクトをかけるとか、コピーガードをかけるとかどんなに厳重にしても、守りを固めるだけじゃ逆効果なんだ。

遊び感覚でそれを破りたがるハッカーはどこにでもいるし、
一番の問題は、売れないことんだ。
だって、厳重にプロテクトをかけているゲームは、
しょっちゅう誤作動を起すし、そうなると正規ルートで買ったのに盗人扱いされているようでいい気がしないからね。

だって今は、フリーでいくらでもゲームができる時代だよ。

お客さんにすれば、無料で遊んでいるときですら、遊んでやっている!
って構えがあるのに、有料でそんなことされたんじゃ、
とうてい有名にはなれないよ。
考えてもみてよ。道端にタダのゲームがごろごろ転がっているんだよ。」

「だからって手放しで違法ダウンロードさせ放題ってわけにはいかないでしょう? それを回避する方法はあるの?」

「本当に難しい問題だけど……意外だけど、
人の『善意』が唯一の解決法だったりもするんじゃない?

ゲーム会社の中には、コピーガードをつけないって、
ある年度以来、つらぬいているところもあるんだ。
そうした姿勢が、企業としてお客から愛されているから、それが成り立っているところがあるんだ。

ゲーム業界と同じように、音楽業界も、無料で手に入るものに金なんか払っていられるかって客側の思いが、制作の場を荒らしてるんだろうけど……。

それでも、売れているバンドは、
客から、あの人にならお金を払いたい……って気持ちを引き出すようなファンサービスがあって、
客の側も無料でもいいところをわざわざお金を払うんだよ。

価格競争の時代じゃないんだ。
だって、値段=品質 という捉え方はもう古いからさ。

明和電気の「なこーど」ってあるじゃん。
電気のコードにしては高い買い物だけど、
ああいう物が売れたのも、
商品の背後に見える人に対する愛着というか……
この人の商品は買ってあげたいという人の善意が刺激された面があると思うよ。

だって、人間として生きていくのに必要でない物は、買わないという選択肢があるんだから。」

「人の善意がカギを握っているって、先が見えない気がするけれど……」
と私が言うと、
息子からはこんな返事が返ってきました。

「そうだよね。確かにその通りだけど……。

でもさ、違法ダウンロードを取り締まるのは難しいしいのって、
人間は犯罪に流れやすい傾向があるからだろうけど、

同時に人は善意にも流れやすいと思うんだよ。

今は思いやりがあっても、思いやりが出しにくい時代で、
共通の敵を作ってみんなで攻撃して団結力を確かめるようなことを
よくしているけれど……

そうした集団のフィルーターがかかってないところでは、
ひとりひとりは、こういう時に善意が引き出されてくるってものを
持ってると思うんだ。

ぼくなら、これまでこのアイデアはなかったなって驚きと、
品質への安心感と制作者が見えて良い感情を持てたなら……
お金を払ってもいい気になるんだ。」

「そうね。お母さんが物を買う動機も……ほとんど本だけどね。
出版業界への愛情とか、
特に店頭販売している本屋が生き残って欲しいって思いがあるわ。
ネットの方が安く買えても、
わざわざ損を覚悟で大量の本を取り揃えているようなサービスをしている本屋で買うもの。

でも、そうした善意は、どうしても
一部のマニアックな思い入れを抱いている人に限られるんじゃないかしら。

それにしても、そんな現状じゃ、ITの世界で働いていくのも大変そうね」

「うん。近い将来、飽和状態が来るのは覚悟しているけど。
エンターテイメントの世界では、ネットの世界が進みすぎて、もうネットだけじゃ、つまらないって人も増えてきているから、
これからはネットでつながった後で、
実際、出会って何か創造的な時間を過すといった
使われ方も増えてくると思うんだ。

もちろん、そこに侵入してくる出会い系の問題には悩まされるだろうけどね。
『IT』プラス『リアルなおにごっこ』といった
実体験とネット世界がつながった物が出てきているけど、そういったものも進化するんだろうな。

ぼくが、制作に関わりたいと思っているのは、
そうしたITの新しい可能性を広げる分野なんだ。
自分のやりたいことをどう収益につなげるか、難しい課題だけど、ずっと考えていってるよ」

息子の話を聞いて、「ネットの世界とはいえ、機械の向こうにいるのは人間なんだなぁ~。
人を相手にするのは、難しくて面白い……。
ITの世界で仕事をしていくといったって、おにごっこして楽しかった~という子ども時代の実体験が役立ってくるんだな~」
そうしみじみ感じました。


今年のレッスン まとめ

2013-12-23 07:55:46 | 通常レッスン

今年のレッスン記事をいくつかまとめました。

 

2歳6ヶ月の◆ちゃん、昼と夜が気になる

 

子どもが伸びる人的環境

 

自分のアイデア 問題解決法 (3歳3ヶ月の◎ちゃんのレッスンから)

3歳児さんたちのグループ 工作 ごっこ遊び

 

考える力がついてきました (年長っさん)

算数遊びが楽しくてたまらなくなってきました♪(カードゲーム 理科の箱)

バレンタインデーのチョコ菓子作り

排水設備に興味しんしん