8703の部屋

「ハナマルサンの部屋」です。音楽、スポーツ 世相 等々 気ままに綴ります

Y子闘病記 9.

2017-11-10 04:17:49 | 日記

実は、我が家では2016年10月に自家用車を手放していた。利用頻度、高齢運転者の事故多発等々から、「そろそろ車を手放そうか?」と提案したところ、Y子も大賛成で決断したのであった。ところが、その5ヶ月後にY子の緊急入院があるとは、「少々、早まったか?」の思いが切実であった。しかし、現実を受け止めて対処するしかないので、徒歩、バス、自転車での通院を約1ヶ月続けたが、毎日のことなので身体的負担も重くなってきていた。3月、4月はまだしも、真夏を迎える頃には徒歩、自転車は年齢的に無理と考えていた。バスは本数が少なくて大変不便であった。そのような時の「車使いませんか?」というH家からの連絡はまさしく天使の声であった。11月2日、娘夫婦が車で到着するまで、本当にありがたく利用させていただきました。あらためて人の繋がりの大切さを痛感する出来事でした。ありがとうH夫妻!

ところで、毎日私が通院して何をしていたかと言えば、まずは顔を見せること、そして時にはリハビリに立ち会うこと、時にはコンビニ弁当を持参して昼食を病室で共にすること、中でも必須なことは、洗濯物を持ち帰り処理することであった。特別な用件が無ければ行く必要性が無い時もあるのだが、そのような時も欠かすことなく通った。それが日課として組み込まれてきて、私が病室へ入ると「あら~来たの!」と嬉しそうに笑うY子の顔を見るために通った。予告無しに休むことはあり得ないことであり、Y子を悲しませてはいけない!という思いが無意識に芽生え、根付いていたようである。炊事、洗濯全く駄目男が、やらねばならぬ事態に至り、洗濯機の使い方を覚え、従来はただの運び屋であったが自ら生協やコンビニでの買い物を覚え、唯一の調理として、味噌汁を自己流で作れるようになったことくらいだが、それでも何とか半年生き延びることが出来たのは、色々な人からの差し入れや支援があったこと。そして、ほとんど調理しなくても食せる品が多くなったことであろうと思っている。(明日から、「コロフェスタin東海」へ出かけます。もちろん、Y子も一緒です。)

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Y子闘病記 8.

2017-11-08 04:54:56 | 日記

入院生活の主流はリハビリになって来ていたが、手帳で確認したところ食事に箸を使い始めたのは3月12日であった。丁度入院一月が経過した頃に主治医及び看護士長から、リハビリ専門病院への転院を勧められ、その旨をお願いしていた。先方の空きベッドの状況により、2~3週間後になるかもしれないと言うことであった。したがって、4月下旬頃にになるのではないかと考えていたが、思っていたよりも早く、4月11日の転院が決まった。この頃から、月に1~2度の帰宅(1,2泊)も可能になった。やはり、帰宅は嬉しいようで帰りには「又病院へ帰るのか~!」と名残惜しそうにしていたが、「帰りたくない!」と頑強に言い張るところが無くて助かった。

8703の病院通いは特別なことが無い限りは連日続いた。特別なこととは泊を伴う出張の時で、最初は5月初旬のTokyo Cantatで上京した時であった。この間、通院用に自転車(中古)を求めたが、久し振りに乗る自転車は決して安全な物ではなかった。大きな怪我や事故にはならなかったが、何度かコケタリもした。そして、たしかに徒歩だと急ぎ足で30分ほどかかるが、自転車だと15分ほどで着く。しかし、行きは良い良いだが、帰りがダラダラ坂が多くて大変な事がわかり、「これは真夏には無理だ!」と考えていた。そんな時、H氏より電話が入った「先生、我が家の軽自動車を使いませんか?」、以来、約6ヶ月、H家のワゴンRは我が家の救世主となった。

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Y子闘病記 7.

2017-11-07 05:36:45 | 日記

2017年3月3日の入院以来、身内、友人、知人等々多くの方が心配して病院を訪れてくださった。8703も連日病院を訪れていたが、お会いできなかった方もいて恐縮であった。しかし、Y子にとっては、自らの言葉はほとんど発することは出来ないまでも、相手がだれであるかとか、相手が話す内容はほとんど理解できていたようである。時には、リハビリの休憩時間がほとんど面談で過ぎるので疲れを心配することもあったが、本人はとても楽しそうであり、嬉しい時を過ごしていた。合唱団の仲間などは何度も訪れて励ましてくれていることは本当にありがたく、感謝申し上げたい。そのことは退院した現在も続いている。

4月11日まではI脳神経外科病院でお世話になり、その日のうちにH病院のリハビリ専門病棟へ転院した。3月3日以来、I病院のスタッフのみなさんには並々ならぬお世話をいただいた。とりわけT沢看護士の存在はY子にとってどれほど心強かったことか、計り知れないものがあった。私も色々と相談したり、状況を教えていただいたりと、頼りにさせていただきました。色々の人のお世話になりながらも、逆境にある時こそ人の真情が表れるものであるということを学ばせていただいた。自分のことを書くのはいささか面映いのだが、8703は一時は「全く途方に暮れた!」が真実である。Y子の突然の発病、入院は文字通り晴天の霹靂であり、家の中では「Y子ガンバレ!」を連呼しながら、ほとんどが初体験の家事への挑戦が始まり、「52年間の恩返し!」の想いで約3キロの病院まで、時には徒歩で、時には本数の極小なバスでの病院通いを続けていた。

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Y子闘病記 6.

2017-11-06 05:01:23 | 日記

症状が安定すると同時に、リハビリが始まった。内容は軽い身体(手足指中心)の訓練と記憶の回復(カード・写真等を見て物品名を答える)などであった。1回1時間程度の訓練が休憩を挟んで午前、午後それぞれ1,2回であったが、けっこうハードなスケジュールが組み込まれていた。そのような生活を一月ほど続けていたある日、病室を訪ねてみると自分の持ち物を全て整理し、袋詰めしてあった。私が「これをどうするの?」と尋ねると「これ以上ここ(病院)にいてもしょうがないから家に帰る。」と言い出した。しかし、「主治医が家に帰ってよろしいと言うまではここに居るんだよ。」と説得すると、比較的素直に「そうか~!」と納得したが、アイリスの団員で気心の知れた看護士のTさんが夜勤の時などは「荷物をまとめて家に帰る!」と言い張るので、「それじゃ家に電話して直樹先生に来てもらいなさい。」と言うと諦めたとのこと、彼女は電話をする要領を完全に忘却していたのである(未だに自分から電話をすることは出来ない)。

具体的症状としては、左脳のほんの一部(と思われる)の損傷であるにもかかわらず、言語を失い、数字を失い、人・物の名前を失い、方向感覚を失う、という事実があった。時計、カレンダーなど数字に関することは全く失っていた(現在は少しづつ記憶が戻りつつあるが)。しかしある時、私が歌を歌ってみようか?と童謡の何曲かを一緒に歌ってみると、メロデイーも歌詞もほとんど正確であり、歌詞などは私より確かに覚えているではないか、早速担当の指導員に尋ねてみると「歌は右脳で覚えるので大丈夫なのです。」とのこと。そのことを知らなかった私は「なんという複雑怪奇なる人間の脳よ!」と驚かされた。このようにして、8703の病院訪問は日常化していったのである。

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Y子闘病記 5.

2017-11-04 04:29:11 | 日記

Y子の病がどのような症状として安定し、どのような後遺症が残るか?大切な数日間が経過し、何とか一段落し安定したことを確認して息子は東京へ帰った。症状としては意識はまあまあ確かであり、四肢に重大な障害がないことが確認できた。とりあえず、自らの脚で歩行が出来、用も足せて、食事も出来る。予想される最悪の事態(寝たきりとか車椅子生活)は避けられたことが確認できた安堵感は大きかった。

Y子の場合は左脳の一部が損傷したために、右手、右脚にやや不自由さがあった。しかし、歩いてトイレにも行け、食事もほとんど介護が無くても摂れる状態であった。当初は右手で食事をすること(スプーンで)に難儀していたが、1週間~10日後には不十分ながら箸を使うようになるまで回復していた。しかし、現状でも右手と右脚はまだ完全には回復はしていない。箸で物をつまむようなこは自由に出来ないために、食べ物をこぼしたり、食べ残しがあったりはする。右足はほとんど支障なく歩けるが、まだ少し引きずるところがり、ゆっくり大股で歩くことは長くは続かないようである。現在、本人が最も難儀していることは言葉の問題である。自分の意志を言葉として伝えられないもどかしさに悩んでいるようだ。しかし、快眠、快食が続き元気であることは嬉しい。

注:拙文を読んでいただいている方に言い訳をさせてもらいます。この「闘病記」を起稿してから未だ日も浅いのに、No5.とは?とお思いの方もおられると思います。その理由は、私が長文が不得手であるからです。また、お人かたの文を読んでいても、とても格調が高くて素晴しいと思われるものでも、あまり長いと途中で挫折することがあります(年齢のためか?)。したがって、さして読み応えも無い拙文を長々と書き連ねることに恥じらいを覚えるのです。と言うか、長文をものにするほどの文才がないということであります。ならば書くな!という声が飛んできそうなのでこのへんで。よろしくお願いします!

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