えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

初体験・顛末

2009年09月11日 | 雑記
先輩がたに誘われて、韓国美肌コースなるおいしいものを食べにゆこうと
いそいそ仕事を終らせていた最中でした。
浅村さん(19)が鞄を容赦なく振動させてメールを読むよう私を急かしました。
意外と自己主張が強いのかもしれません。
ともあれ、浅村さんの口元を親指でぱちんとはじいて画面を開き、
新着メールのアイコンを選んで決定ボタンを押します。


 花田さん(31)発見のお知らせ
 本日、某携帯電話会社から連絡があり、花田さんが警察署に届いたとの
 情報あり。
 詳細はのち連絡するとのこと。しばし待たれたし

 Byなめうさ母



*原文とは一部異なっているところがあります


なんと、花田さん発見のお知らせでした。
行方不明になってから一週間、花田さんは(無事かどうかは分かりませんが)
保護されて警察署のお世話になっていました。
帰宅して某携帯電話会社からの書面を確認すると、花田さんは都内の警察署で
保護されており、取りにくるように、との確かなことづけ。
花田さんの保護されているその場所は。


「青梅警察署」


都内です。りっぱな東京都内です。

花田さんは箱入りなので、たぶんプチ家出のつもりだったのでしょう。
都会の生活に疲れてもいただろうし、ちょっと空気がきれいで、水おとが
気持ちの良い青梅に行きたかったのかもしれません。
保護された先が心地よくてなかなか連絡をよこさなかったのかも知れません。

結果として「勘当」されてしまったのが唯一の計算外だったんですね。


:一週間の流れ:

反抗期のプチ家出→「花田さーん!?花田さん!!?」→

混乱・苛立ち・絶望のち現状把握→「やっぱり必要だ、電話機」→

電話機は必ずしも花田さんだけではないことに気づく→タイミングを見計らって浅村さん登場→

浅村さんは後継機で花田さんとインタフェースが変わらない上花田さんより性能がいい→

見つかるかどうか分からない花田さん、データはゼロだが新型の浅村さん→

苦悶→

某携帯電話会社のおねえさん

「薮内さん(46)がお手元に残っていますから、データは復旧できますよ」


花田さんは一年前に手元に来た=大半のデータは薮内さんと共有→


浅村さんにデータを移す


花田さんの勘当→


一週間後花田さん発見、でももう家には戻れない


:・・・・:


花田さん、身体に傷でもついていなければいいのだけれど。
とりあえず、折を見てお迎えに行ってきます。

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舌2。

2009年09月08日 | 読書
週末の電話騒動がひと段落着いたので、
また陽明タンに戻ってみます。しばしお付き合いください。
そしてこれは陽明学を前歯でほんのひとかけかじっただけの人が
書き綴っている文なので、至らないことありまくりなのです。
詳しい方、どうか教えてください。

さて、王様が変わり、宦官の悪さを告発した王陽明は左遷されてしまいました。
左遷された場所は龍場といいます。上海からずっと南西の方角、現在では貴州省・苗族の自治区となっているエリアです。
王陽明の時代も、ここは苗族の土地でした。
ド田舎どころの騒ぎではありません。中央から逃げ出したわずかな犯罪者を除いて、
ほぼ異国と呼んでも差し支えのない地域です。文化も違う、言葉も通じない上に、
湿気の多い気候が病弱な王陽明の身体に襲いかかります。
このときのことを王陽明が人に送った書簡には、

「瘴レイ(やまいだれ+萬)、蠱毒(こどく)とともにおり、魑魅魍魎とともに遊ぶ。
 日に三死あり」

(意訳:じめじめする上身体に悪いよどんだ空気に取り囲まれて、
   まるでもののけと一緒にいるようです。
   毎日三回は死にかけてしまいます。


*この「三死」については、本来「孔子家語」にある「病・刑・兵」の三つを
さすものなのですが、ちょっと意味がつかめないので意訳しました。
まったく違う意味であることは間違いありません。誰かわかる人助けて!!

慣れない地で死にかけたのは王陽明だけではなく、彼が連れてきた従者たちも
次々に疲労から病になってしまいます。
そんな彼らを、手づから看病しながら、王陽明は日夜端座して静かに考え続けます。

世の栄華はほんとうにむなしい。これは今の自分が超えているところだけれども、
「死にたくない」という思いはどうしても払いのけられない。
この一念を透徹できれば、やっと心が自由な境地でいられるはずなのに、
どうしたらそこまで辿りつけられるのだろう。

そう考え続けた王陽明は、ある日ことばを見つけました。

「格 物 到 知」

ということばの、革新的な意味を掴み取ったのです。
このことばは、『礼記』、大学篇(『大学』)の一節「致知在格物、物格而知至」に
由来します。
ともあれ彼は、このことばから、

聖人の道は自分の性にもともと充足するものだ。
理を、外のものに求めてきたのは、誤りだった。

と自覚したのでした。
後に

「心 即 理」

という三文字に結実する自覚を王陽明はここで手に入れたのです。
そしてここで言う「自分の性」というものが、「良知」という言葉で
あらわされるもの、と言ってよいのでしょうか自信がないのですが
ともあれそう思いました。テキストを読んでいて(おい)

これらの文字について、いま、語れることがまだ無いのですが、
とりあえず陽明タンをおっかけることは当面続きます。もういっぺん、
王陽明が悟りを得た後の話を書きます。

つづく。(うう)


:プチ所感:
王陽明のことを読んでゆくと、この人自体はかなり親しみやすい一面が
ある点で、他の人と変わっているんじゃないかなあ、と思いました。

たとえば、尊敬しているお父さんが無くなりそうなとき、遠くにいた陽明は
職を捨ててでもお父さんのところへ帰ろうかと思い悩みました。
結局、回復したとの知らせで思いとどまります。

「父が心配で帰ろうと思ってるんだけど、どうして誰も賛成してくれないんだ」

という陽明に、弟子の一人は、

「先生の帰りたい、という思いもまた物への執着じゃないでしょうか」

と言いました。王陽明はしばらく考え込んで、

「こればっかりは執着しない方がムリ」

といったといいます。
弟子のことばが頭から出ているとしたら、王陽明のことばは心から出ている、
そんなぬくもりが王陽明にはある気がします。

王陽明は、自分の教えを字義通りに解釈されるのを嫌って本を書くのを
しぶったと言いますが、なんとなく分かる気もするのです。

「お前らの解釈にはハートがない!ハートが!!」

なんか、こういう風に見えるんです。すごいインテリなんですけど、この辺、
「侠」にはまった王陽明の一端が見えるような見えないような。



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初体験・その後

2009年09月05日 | 雑記
昨日はお騒がせいたしました。

なくした携帯電話の花田さん(31)を使い続けることを今日あきらめて、
花田さんコピーを頼むことにしました。でも、花田さん型は人気なので
在庫がなく、やむなく花田さんの後継機浅村さん(19)にバトンタッチすることと
相成りました。

幸い、花田さんの前に使っていた薮内さん(47)のアドレス帳がまだ生きていて、
去年の九月までに登録しておいた方々のデータは浅村さんに引き継がせることが
できそうです。前からの電話番号とアドレスも、浅村さんは頼もしく引き受けて
くださるそうです。

ありがとう薮内さん。
これからよろしく浅村さん。

そして、さよなら花田さん。

せめてご遺体が見つかるよう、祈っています。

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初体験orz

2009年09月04日 | 雑記
本日、私信です。この場を使って良いものかは微妙な判断なのですが。

携帯電話をこのだだっぴろい世界のどこかにおっことしてしまいました。
人生初体験です。タイトルはせめてもの自分へのなぐさめです。

現在進行形で、公開できるこちらのアドレスのほか、
「私はここでなら連絡取れます」宣言が出来ません。

見つかるかどうか、その間をどうするかはまだちょっと検討中(ボーゼン中)
なのですが、もし急なご連絡のある方は、プロフィール欄に乗っけたアドレスに
ご一報ください。


私信おわり。ご迷惑かけまくりです。
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舌。

2009年09月03日 | 読書
ある日。
電話口で中国史を勉強した友人が熱っぽく、語り始めました。

友人:「よーめーたんがいいよ、よーめーたん!」
なめ:「よーめー……王陽明?」
友:「そう、よーめーたん。萌!!」
なめ:「も、もえ……?そーしゅーたんにもえろよ、そーしゅーたん!」
友:「いや、よーめーたんがいい!!」
なめ:「そーしゅーたんもいいぜ!!」
友:「よーめーたん!」
なめ:「そーしゅーたん!」
友:「よーしゅーたん!!」
なめ:「ろーたん!!」


そうゆうわけで王陽明さんに手を伸ばしてみることにしました。
ヤツが何にもえたのか、それが知りたかったからです。
もえどで負けたわけではありません(何の話じゃ)

王陽明(1472~1529)、本名は守仁、字は伯安。陽明は、その号です。
余姚の人。現在の上海のちょっと下くらいで生まれました。
日本では戦国時代真っ盛りですが、中国の文明としては、
清の前の王朝、つまり、文明が爛熟した頂点に近づき、またそろそろと
腐敗の影が見え始める頃です。
きっと感覚としては、明治や大正の時代と近いものがあるんじゃないか、とは
私個人の印象です。

小さな頃から書物の暗唱もすらすら、お題を与えられてすぐさまぱっと詩を
作ってしまうほど優秀な子供でした。
でも、性格は奔放で、塾の先生の手に余り、真面目なお父さんにはよく
叱られたそうです。

王陽明には「五溺」と呼ばれる惑いの時期があります。
初めは任侠の習わし、次に騎射の習わし、三つ目は詩文、
四つ目は神仙、五つ目は仏氏。
いろいろ迷ったんだな、と同時に、こうした数々のものを学んだことが、
後に収束してゆくさまが、王陽明の不思議な点ではないかと想います。

若い頃、任侠の習わしにはまったおかげで、後に偉くなってから
故郷に戻って講義したとき、彼の行状を覚えていた土地の古老が眉をひそめた、
という話が残っているほどなので、よっぽど派手だったのでしょう。
とりあえずティーンのときに任侠道と騎射、そして青年期に試験に落ちまくって
やたけたになり、詩文で思いを吐露することにはまります。このころ李白に
ちょっとはまったりもしましたが、一方で集中していたのは兵法の研究でした。
食事の時、果物の種を並べて陣形を作り、座興としたほど研究して、
当時の軍事に対して上奏も行うほどの研鑽を積みます。

でも「生きることへの真理には、詩文も兵法も届かないなあ」
という意識はいつも彼の脳裏をかすめていた。

そして、思い晴れぬまま二十八歳の時やっと、科挙に合格しました。
彼は工部、今の建設省の見習いに配属され、大勢の人夫を働かせるために
什伍の法といわれるチーム制を編み出して効率的に働かせました。
暇があれば、諸葛亮が創案したと言われる八陣図を演習していたといいます。
見習い期間が終った次の歳に、今度は雲南省の刑部、今の法務省に任官されます。
が、この刑部は当時の省庁の中でも最も激務で、三十歳の時ついに
過労で倒れてしまいました。
王陽明の父、王華が心配して、就寝する時陽明の書斎に火を置くのを禁じたのに、
陽明はお父さんが寝たスキをついて毎日夜中まで読書、血を吐くまで読書して
次の年に故郷へ帰って療養することになりました。

そしてこの帰郷の時、読書と修錬のために彼がこもった場所が、
「陽明洞」と号される場所でした。
陽明洞の場所は諸説ありますが、参考にした大西春隆氏の『王陽明』では、
道教の経典のひとつ『亀山白玉教』に、「会稽山は周廻は三百五十里、陽明洞天と名づく」
を引いて、王陽明が会稽山のふもとに庵を結んだことをさす、という論を
ここでは引きます。
ともあれ、ここで陽明は先に述べた「五溺」のひとつ「仙道」にはまり、
来客を予知したり、雨乞いに成功したりと不思議な体験を重ねます。
しかし、仙道を極めるためには全てを捨てて一人没入する、家族もなにもかも
全て捨てて、ひたすら自身の精神を練磨することが必要です。
でも王陽明は悩みます。

この道は確かに、真理を求める道のひとつだけれど、人としての情を置いてゆく
ことは自分には出来ない。

そう悩む陽明はある日、ふっと悟りました。

「おかーさんやおとーさんを思慕するのはしょうがない。子供の頃から生じるものだし!
 なによりこの情を取ったら、人が人であることを否定してしまうしね」(意訳)

なんかふっきれた王陽明。体力も回復して、各地を周遊に出かけました。
会稽から天目山に出かけ、太湖を遊覧。玄墓山に友達の都玄敬と遊びに行って、
天平山に登って。
ついでにあちこちの禅寺を廻って、仏教の研鑽、最後の「溺」にはまり、
彼の休みは終わりました。1504年に、彼は官にもどりました。

そして、次の年。
中興の明主と呼ばれた明の考宗が崩じた1505年から、彼の運命はごりっと変わります。
後を継いだ武宗は、お父さんが「頭はいいけど遊びたい盛りだから気をつけてね」
と心配したとおり、周りをとりまく宦官たちにそそのかされて歌舞と酒と女の日々に突入。

(でもよっぽどの名君じゃないと、宦官の影響を受けずにまっとうに育つのは
ほんとに難しいのです。それほど宦官は影響力を持ってました)

政治は宦官に丸投げし、劉瑾という宦官を中心に彼らの専横政治が始まりました。
お父さんが頑張って国を立て直したのに、かえって民は貧乏になるわ、
反乱軍はあちこちで勃発するわ、明の国力ががっくんと揺らいだ元凶を
作った方でもあります。

だめ息子の統治になって一年後、宦官の悪さを弾劾して投獄された人を
許すよう上奏した王陽明は、仲間とともに投獄され、棒でひっぱたかれる
罰(杖刑といいます)を受けて左遷されてしまいます。
でも、この左遷のなかで、彼は岩穴で静かに瞑想を続け、心の中で
どんどんと己の思想を深めてゆきます。

つづきは、又この後で。(続いてしまった……もえまけてる……)
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水おとの話

2009年09月01日 | 雑記
「君に届け」がアニメ化したり、
「トリコ」がアニメ化したり、
「クレヨンしんちゃん」が実写映画化したりとせわしない世の中ですが、
今さらのように

「音姫」

が気になっています。ちょっといいビルのトイレにはたいがいついてる♪の
あれです。

2年前に出来たばかりの木目のあるプラスチックのドアと壁に閉じ込められて、
ヨーグルト色のU字便座に座ってトイレットペーパーホルダーの銀のフタに
両腕おいてうとうとうとうとしていたら、隣からうがいと清流を混ぜたような
水音が聞こえてきました。
耳の中で大量のビー玉が転がっているような、どことなく金属がかった
偽ものの水音。

私の入っているトイレの扉は閉まっています。で、私がトイレに入った時は
ドアが皆開いていたので誰も入ってませんでした。
入ってきた人は、入っているのが私だとは知りませんが、誰かが入っていることは
知っているわけです。
そもそも、誰かに最中(もなかと読まないこと)の音を聞かれたくなくて水を
二回流すのが「もったいない」と、音でごまかして「省エネ」になると
大ヒットしたわけですが、んじゃどうして最中の音をそんなにごまかしたがるのか
……恥ずかしいから、が最たる理由らしい。
しかもけっこう前からです。TOTOの「音姫」が最初に発売されたのは1988年、
なんと20年以上のヒット商品。
そして、この最中の音を恥ずかしがるのは日本人特有らしいのです。

なんで恥ずかしいのか。
プライベートを視られるのがイヤとかそうゆう話は置いといて、
個人的に最たる理由は

「想像力」

なんじゃなかろうかと。
トイレに入ってうたたねして、頭がそうとうボーっとしながらも、私の耳は
隣の音にぴくっと反応しました。まず思うのは、「ああやってるな」ということ。
人が来たなあ、と同時に「ああやってるな」と思うのです。

それだけだったらいいのでしょうが、恥ずかしさのモンダイは、ドアを出た後に
始まります。出ると、当然ですが音を聞いた(聞かれた)相手と顔を合わせることに
なります。
相手の顔を見る。
つまり密室で聞いていた「音」が、実際それを出していた相手のキャラと
結びつく。しかも、その音は、わりとあっさり「何をしているか」が自分でも
分かってしまうし、何より自分でやってて「もしこのドアが開いたらわーきゃー」
という微妙な恐怖と恥ずかしさがあります。

つまり、

最中の音=あんなことをしていた人

と結びついて、

「『あの人があんなことをしている』なんて想像されているかもしれない」

原動力の恥ずかしさはここじゃないかと思います。
そんな想像力がこっそり裏で働く人が多いのではないでしょうか。
ある意味では、すごくリアルで旺盛な想像力が多くの人に備わっている……
とここまでトイレの中で考えた後でふっと、
これはキャラクター付けってことじゃないのか、と思い至りました。
つまり思考のパターンとしてはどんな女も根は同じ。とりあえず日本人なら。

……。

先月のNewtonの記事の一つに、「文化は遺伝する?」という鳥の研究があった
ことを思い出しました。



なめくじうさぎは国立メディア芸術センターが「四庫全書」にならないよう祈っています。
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