えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

水おとの話

2009年09月01日 | 雑記
「君に届け」がアニメ化したり、
「トリコ」がアニメ化したり、
「クレヨンしんちゃん」が実写映画化したりとせわしない世の中ですが、
今さらのように

「音姫」

が気になっています。ちょっといいビルのトイレにはたいがいついてる♪の
あれです。

2年前に出来たばかりの木目のあるプラスチックのドアと壁に閉じ込められて、
ヨーグルト色のU字便座に座ってトイレットペーパーホルダーの銀のフタに
両腕おいてうとうとうとうとしていたら、隣からうがいと清流を混ぜたような
水音が聞こえてきました。
耳の中で大量のビー玉が転がっているような、どことなく金属がかった
偽ものの水音。

私の入っているトイレの扉は閉まっています。で、私がトイレに入った時は
ドアが皆開いていたので誰も入ってませんでした。
入ってきた人は、入っているのが私だとは知りませんが、誰かが入っていることは
知っているわけです。
そもそも、誰かに最中(もなかと読まないこと)の音を聞かれたくなくて水を
二回流すのが「もったいない」と、音でごまかして「省エネ」になると
大ヒットしたわけですが、んじゃどうして最中の音をそんなにごまかしたがるのか
……恥ずかしいから、が最たる理由らしい。
しかもけっこう前からです。TOTOの「音姫」が最初に発売されたのは1988年、
なんと20年以上のヒット商品。
そして、この最中の音を恥ずかしがるのは日本人特有らしいのです。

なんで恥ずかしいのか。
プライベートを視られるのがイヤとかそうゆう話は置いといて、
個人的に最たる理由は

「想像力」

なんじゃなかろうかと。
トイレに入ってうたたねして、頭がそうとうボーっとしながらも、私の耳は
隣の音にぴくっと反応しました。まず思うのは、「ああやってるな」ということ。
人が来たなあ、と同時に「ああやってるな」と思うのです。

それだけだったらいいのでしょうが、恥ずかしさのモンダイは、ドアを出た後に
始まります。出ると、当然ですが音を聞いた(聞かれた)相手と顔を合わせることに
なります。
相手の顔を見る。
つまり密室で聞いていた「音」が、実際それを出していた相手のキャラと
結びつく。しかも、その音は、わりとあっさり「何をしているか」が自分でも
分かってしまうし、何より自分でやってて「もしこのドアが開いたらわーきゃー」
という微妙な恐怖と恥ずかしさがあります。

つまり、

最中の音=あんなことをしていた人

と結びついて、

「『あの人があんなことをしている』なんて想像されているかもしれない」

原動力の恥ずかしさはここじゃないかと思います。
そんな想像力がこっそり裏で働く人が多いのではないでしょうか。
ある意味では、すごくリアルで旺盛な想像力が多くの人に備わっている……
とここまでトイレの中で考えた後でふっと、
これはキャラクター付けってことじゃないのか、と思い至りました。
つまり思考のパターンとしてはどんな女も根は同じ。とりあえず日本人なら。

……。

先月のNewtonの記事の一つに、「文化は遺伝する?」という鳥の研究があった
ことを思い出しました。



なめくじうさぎは国立メディア芸術センターが「四庫全書」にならないよう祈っています。
コメント
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