えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・新たな御威光

2018年05月12日 | コラム
 新薬師寺へ続く道路へ下りる若宮の裏道には鹿がいなかった。
「鹿せんべいをくれる観光客がいませんからね」と、脇を歩く山の管理人の小父さんが言う。
 十五所巡りの一番の社の前で灰色がかった薄紫のケピ帽を取り、腰をきちっと折った一礼を捧げた姿が印象的な小父さんは後ろ手のまま、舗装されていない道をすたすたと歩いていた。途中立ち止まると、背の高い木の梢を見上げて「取らなきゃなあ、取れないなあ」と呟いていたので何かあるのかを訊ねた。小父さんは上を指さした。その先には茶色の枯れ枝が高い枝の合間に引っかかっていた。「取らなきゃいけないんですけどね、この高さじゃあはしごも届きません」景観を気にしてかとその時は思ったが、今考えるとあれが落下してうっかり観光客に当たった場合を考えていたようにも思える。

 帽子と同じ色の制服を着た小父さんは枝から話題を切り替えて鹿の話をした。現金な鹿たちは観光客のいない朝夕方はこの辺りにも姿を現すそうで、山の草をよく食べるおかげで植生が保たれているといったような話を聞きながら山道を降る。ひたすらに静かで涼やかな風が通る明るい森の中で、唐突にその一言は放たれた。

「来月はね、小鹿が生まれるんですわ」
「ああ、今いる小さい鹿は去年生まれた子どもなんですね」

「そうです。来月産卵するんですよ」

 小父さんは何気なくそう言い放つと、「ここから降りれば新薬師寺さんですから」と道路を指さし、軽い足取りで立ち入り禁止の柵をまたぐと山の中へ戻って行った。

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