えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

青木正児「酒の肴・抱樽酒話」読了

2009年04月21日 | 読書
:「酒の肴・抱樽説話」青木正児著 岩波文庫 1989年

――

  対酒当歌 酒を手にしたら、まず詠おう。
  人生幾何 人生は短いのだ、
  譬如朝露 昼には消える朝露のように。
  去日苦多 過ぎ去ってゆく日がこんなにも多いことを、
  慨当以慷 たかぶる心のままに嘆いても、
  幽思難忘 沈む思いは消え去ることはなくて。
  何以解憂 どうすれば、この憂いは消えるのだろう?
  唯有杜康 ……ただ、酒があるだけか。

――曹操「短歌行」より 筆者意訳

とても有名な歌です。「レッドクリフ PartⅡ」でも、酒器片手に
曹操がこの歌を朗読していました。
一番有名な節が酒を詠うこの箇所かと思います。
本来は「短歌行」という曲に当てられた歌詞なのですが、
今こうして漢字だけで読んでいても語感が躍動していて、
勢いがいいのにどこか繊細な美しさのあることばが、
1800年前の憂いをふつふつと語り続けています。

さて、本の話です。

冒頭の「唯有杜康」を日本語で使いこなすおそろしい本です。
タイトルどおり、ひたすらお酒とおつまみのうんちくが
つづられた随筆です。
アテネ文庫で出た「酒の肴」と、「抱樽酒話」が一つにまとまり、
前者がおつまみ、後者がお酒で、字面だけでもほんのりと顔が
あからむようです。

作者の青木正児は、下関出身の中国文学者です。
ただの中国文学者ではなく、日本の古い文書にも通泥した
幅広い教養(使い古されていますけど)の持ち主です。
そんな彼が書いたのですから、当然、中身は中国のものかしら、
と思いきや、タイトルを見ると
「酒盗」だの「河豚」だの、「鮒鮓」だの、
あら、と思います。
日本のものではないかしら、そう思いながら本を開きます。

「鮒鮓」の章では、京都へ修学旅行した幼い日の作者が、
保存のために鮒をつつんでいる飯の腐った匂いに辟易して
捨ててしまった思い出から始まります。
この鮒鮓、私たちがふだん口にする鮓とは違います。

『およそ鮒鮓くらいわれわれの鮓と言う観念から遠いものは無い。
(略)しかしスシは漢字で見ると、鮓にしても鮨しても
 魚編であって、米偏でも食偏でもない。
 これはその主体が魚にあって飯にあらざることを
 物語るのであって、その魚を食えば飯は棄ててもよいわけである。』

さらっと作者は言いますが、おお、とこちらは引き込まれます。
漢字の世界から導入して、中国の文化を紹介する、と言う方法は
しょっちゅう行われる手腕ではありますけれども、
ここまでこなれたことばで現れる人はやっぱり、この時代の
しっかりした学者さん特有なものかも知れません。
以前紹介した奥野信太郎も、この手の人だと思います。

漢字から始まり、鮓のでき方から流れるように詩歌の引用へと
続きます。それでいて肩はこりません。むしろ、どんな味がしたのか、
当時の文人達はどうやって味わったのか、そればかりが気になります。
中国の文例が次々とおてだまのように取り出される一連は
さすがのひとことです。

お酒を飲むことを直接書いた「抱樽説話」よりも、
「酒の肴」のほうが、好きなことへの気がほどほどに抜けていて
按配がよいです。あくまでお酒が好きな人のかいた、お酒の好きな人、
お酒に関わるすべてへの文化史ではないでしょうか。
コメント
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