えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

幸田文「草の花」読了

2009年04月15日 | 読書
桜の花が散りました。
つくづくと散るための花だと思います。
花びらに、昨晩降った雨がたまっていて、風が吹くと
花びらと一緒に水滴が、横から降り初めの雨のようにとんできました。
あんまりにも今日は青天で、桃色の花びらと水滴が舞い、顔にぶつかって
つめたくて、心地よくて、いい朝でした。

ポンポン玉のように咲く八重桜の下を歩きながら、うす桃の
小さな花びらが肩口を過ぎてゆきます。
やっぱり、桜には風が似合うと思うのです。


:講談社文芸文庫「草の花」 幸田文 著

 あ、普通の感性のひと。
 そう見てしまうと、面白さ、というものは半減してしまうとおもいます。
 ありのままのことを、すっきりと書くことにかけては抜群なのです、
 この人は。

 幸田文は、幸田露伴の娘です。多くの随筆に登場する彼女の父親の方が、
 インパクトを持って残っているのではないでしょうか。
 幼い頃生みの母親を亡くし、新しい母親、洋風の学問を身につけ、キリスト
 教を信仰する知的なかたに育てられた思春期の時期をまさに「流れる」
 ように描いた随筆が本書「草の花」です。
 
 講談社現代文庫版には、表題「草の花」のほか「身近にあるすきま」、
 「きのうきょう」と三つの随筆集が詰まっています。
 書かれた年代が、「草の花」と「身近にあるすきま」の間で五年ずれています。
 この五年で、彼女が見ているものがすこしずつ異なっていったのかな、と
 思いました。

 「草の花」から引きます。
『……その日それからの時間は全部その手紙に左右されきった。
 妙な手紙、妙な文句。
 「生涯かけてあなたを愛し続けることを、主イエスの御名によって。」
 ――ここのところは正枝さんに読まれたとき、ことにぞわぞわっと
 いやだったじゃないか。 
 だのに、なぜだろう。
 誘われるのだ。
 読んでは乱され、また読んでは乱され、
 乱されることはははにも隠してたいそぞろな快さであった。』―「ふじ」より

 一方で、「身近にあるすきま」からは、 
『……一見鄙びた花ではあるけれど、よく見るとその色は
 見ざめのしない染めあがりを見せています。
 白い花びらは、雪を欺く白さではない、
 銀に光る白さでもない。
 でも、この花独特のなつかしい温かさで白いのです。
 頬につけてみたいような白さです。
 深々と清潔に白いのです。
 うす紅い花びらならなおのこと可憐です。』―「山茶花」より
 
 どちらも幸田文です。
 どちらも、一方は学生の淡い恋の時期を、一方は庭に咲く山茶花を、
 あるものを描いたものです。
 彼女が想像して夢を描いたものではありません。
 違うものを描いているのに、彼女の筆と感覚はかえっていや増しています。
 
 その筆調があまりにもまっすぐで芯が強くて、想像の余地のない
 シビアな文章に、随筆だとところどころに本人の、人のよさと言うか
 弱さが垣間見えていて、ああ、女のひとだ、と思いました。
 女だからという力みも妙な開き直りもなくて自然な、市井のままで
 ものを書ける女性は一見するとその強さ(こわさ)から、
 男の方から見ると普通なのかもしれません。
 でも、ほんとの根っこの方で女の人なのは、むしろこうしたひとなのでは
 ないでしょうか。
 
コメント
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