えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

最後のうさぎ年

2011年12月31日 | 雑記
昔、高校のころ通っていた塾の先生が私にひとこと。


「大学に入ってからは、今よりもずっと早いぞ。時間の経つのが」


つぶやくように告げた一言を受けたときから、足元を振り返るとずいぶん長い時が過ぎました。
もうそろそろ10年近くが過ぎようとしている。
大人になり、会社人になる私の周りは、だんだんとゆるやかに老いたり成長したり、周りのふと見たときの姿に愕然としながら毎日、週の5日は、抑えつけられるように会社へ通っている。
帰って振り返るほどの力はなくて、お湯に入って食事をとって、やっと次の日を迎えられる程度。


仕事で何ができるか。仕事で何をするか。仕事を何にするか。


かつてはそんなに悩まないことだった。前に背中があって、動いている手を見ることができた。
誰かが働く姿を見ることがだんだんとなくなってから、すぐ目の前の背中がどういうふうに手を動かしてきたのもわからなくて、手探りで選択することの恐ろしさ。なんでもできるということには選択が伴う。

選択には時間制限がある。時間は過ぎてゆく。
それに焦りながら、周りの変化に動揺しながら、手が何も動いていない自分を見た年、今年はそういう年だった。

ここで何かを書いてゆくことも、そろそろ4年になろうとしている。
4年前の私、今を見てどう思うだろう。
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年の瀬のこと

2011年12月29日 | 雑記
「年が暮れるとまた新しい年がくる。それを繰り返して長い長い時間が果てしなく続いている。
 もし月日にくぎりをつけなかったら、それは果てしのない長さと気の遠くなるような思いにされるであろうが、一年一年のくぎりをつけてゆくことで、人は気分を新たにしながら生きてゆくことができる。」―『宮本常一著作集13 民衆の文化』(傍線筆者)

 だいたいの企業であれば、昨日が仕事納めの日だったのではないだろうか。私が働く会社も昨日で一年の仕事が終わり、今日から新しい年を迎えるための休みの時期にはいる。けれど企業のほんとうの一年のくぎりは3月31日で、新しい始まりはいつも4月からで、正月は一年のくぎりではなく、一年の内のくぎりにすぎない感覚がある。でも一年のくぎりがぎりぎり正月に保たれているのは、家でその間の時間を過ごすからではないだろうか。

 実家がある人は実家に帰り、親と住む人は一緒に掃除をしたり、飾り物を買いに行ったり。そうして年が暮れるにつれてだんだんと高まってくる気分がある。家のなかが普段と異なる空気に包まれる。ちりのない玄関には小さな松飾、神棚(宅には神棚が2つある)に張られる新しいしめ縄が用意され、銀器を磨くシンナーのにおいがリビングに漂う。窓を磨いて、カーテンを洗いなおして、書きながら掃除のゆううつを覚えるけれども迎える朝のすがすがしさを思い描いてなんとかがんばる。休む元日は背を丸くして過ごす。

 家の中で若さと老いがよく見えるようになってきた。気分を新しくするということは、ただ年を取るということではなくて、年をとることで変わるものをながめてゆくことでもある。積み重ねてきた年の回数をいやおうなく数で見せられる。何かができるようになった、とか、資格を取った、とか、形にできてわかりやすいものならばよいけれど、たとえば考え方とか、ものの見かたとか、心の置き方とか、見えづらいもの、特にそばで接していればいるほど違いが分からなくなるものは、とにかく重ねた年と成長してゆく姿でかすかに感じてゆくしかわからなくなる。

 耳の遠くなった祖母はゆるやかに私たちとの距離が遠くなってゆく。母がわたしに話すことに嫁らしい愚痴がふえた。年上のいとこたちがてきぱきと相手を見つけて相手の家に入っていってしまった。全体的にいろんなことが遅くなってしまった家のなかのくぎりは、20を過ぎて少し経った今加速度的に増えている。家のそとのくぎりは人を知らずに突風のように吹いてゆく。

 立っている足元に何があるのか、踏みしめているものはなにか、もっているものは何か、静かに静かに知らないうちに、関わるものから人は変わってゆく。一年のくぎりは、誰にでも平等にかわるということを教えてくれる。
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うつわ・揃い

2011年12月25日 | 雑記
 物心ついたときから二種類の漆のお椀をつかっている。ひとつは表面の円弧を切り落として、角ばった面にうっすらと木地の見える浅いお椀、もう一つはつるりとした、楕円をまっぷたつにした形の深いお椀、どちらも汁椀として食卓に並ぶ。そしてどちらも外側は黒、内側は朱に塗られている。陶器の飯椀がつぎつぎと欠け、割れ、食器棚から消えてゆくのに対して、彼らは黙って食器棚の中に居続けている。ということに今気が付いた。

 朝起きて、あたたかいものを口にするとき彼らの朱色がだんだんとものを食べるにつれて明らかになる。持ち上げて口にして傾けるたびに目へ朱色を刷り込みつつ淡々と役目を果たすと、ささっと食洗機やスポンジで汚れを落としておとなしく食器棚に戻る。今更ながらに、ほんとうに今更ながらに、朱墨のように素直な朱の器物がそばにいることを思う。

 池袋西武で21日からはじまった「うるし・おわん・うつわ展」は、それぞれキュウ漆と蒔絵で人間国宝に認定された小森邦衛と室瀬和美、そしてその弟子たちの作品を展示している。気に入った作品があれば購入もできる。30代~20代の若い人たちの手が作るうつわはどれも作家ごとに少しずつ気を入れたところが異なっていておもしろい。すでに買い手がついているものも多い。でも、数個を一度に買ってゆく人はほとんどいないのだという。あれっと思う。椀物、お箸、片口と杯、ひとつずつが別々の人に買われてゆく。不思議な気持ちになる。けれどそれは、私がまだ家族と暮らしていて、同じお椀で一緒に食事をとっているからこそ感じる違和感だった。

 それは日常で使うためのものの形を取っている。でもひとりぼっちで使われることを余儀なくされるうつわたちがここにはあまりにも多かった。技芸に比して、仕方のないことなのかもしれない。値段を一目見ればすぐにでもわかることだ。漆はその性質上、手間をかけなければならない。漆を精製するところまで遡ると作り手が減っている。それは如実に数値となって反映されざるを得ない。でも、それでも、揃いの姿で誇らしげに佇むものたちが、とても寂しい影をひいているように見えて仕方がない。

:付記というか言い足りないことの雑記
 芸術品と日用品をごっちゃにするなと言われそうですし漆という技法が日常に対して手の届きづらいものになってしまった現在は一つを愛でるという使い方のほうが個の台頭に併せて正しいのかもしれませんパンフレットにも「MY漆器を手に入れ」うんたらと書かれており私も専用のぐい飲みを買ったりしています。
 ただ物品、特に食器を見る視点のひとつとして家族とか人が揃うことが私の中に根強いだけなのです。
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ただ見たということ

2011年12月18日 | 雑記
「……お能には何かそれ以上の美しいものがあり、それに出会うことだけがお能を見るといえるのではないでしょうか。」――『お能の見かた』 白洲正子著 東京創元社より

 諸手を広げて拍った。すげないほどにさらりとこなされたその身振りをひるがえして友枝昭世演じる汐汲みの老人はきびきびと手を動かし、腰を沈め、田子を両肩にかけて立つ。汐を汲んだ。田子が置かれたところへ戻る。何かを見送るように止まる。老人のいたましい背中から明らかに何か別のものへと変わった背中がそこにある。田子を下ろしてからの一歩はほかの力に呼ばれるように、一足一足に力があった。能「融」の前半を終える一足である。

 ワキ方の旅の僧が訪れた京都の六条に過ごす8月の一日が「融」で過ごされる時間だ。初めて訪れた都で僧は妙な老人に出会う。田子をかつぎ、腰蓑をつけて、街のど真ん中なのにまるで漁師のようないでたちだ。だが、かえっておかしな老人に僧は笑われてしまう。ここはかつての河原の院、源融の大臣の塩竈の浦。何千人もの人が汐を汲むために行き来をしていた地なのだと。ひとしきり僧に昔を語り京を語るうち、老人は汐汲みのことを思い出して手を拍った。
 京を語るうちからだんだんと僧と老人のやり取りは地謡に引き継がれ、思い出す頃には地謡がことばをすべて引き受けて音楽にしてしまう。それに合わせた老人の汐汲みは舞の先触れのように若々しさの混じる早い足取りに変わる。そして僧は何かを、来るものはわかっているが何かとしか言いようのないものを待つために一人、そこに残り続けた。

 「磯枕。苔の衣をかたしきて。苔の衣を方敷きて。岩根の床に夜もすがら。なほも奇特を見るやとて。夢まちがほの。旅寝かな夢まちがほの旅寝かな。」

 この一言が切り出されるのを待っていたのは僧だけではないだろう。

 現のなかに見る夢を待っていた僧に、当たり前のごとく姿を現した融の大臣は舞う。扇を開いて狩衣の袖をひるがえし、あちらを見ては立ち止まりこちらを見ては立ち止まる。
 ひるがえる白い衣に金と赤の扇、鮮やかな橙色に菊の縫い取りの小袖と床を踏みしめる力強い音は、どれも彼の権勢をことほぐはずのものなのに、彼に与えられた面は眉根をきつく寄せて憂いている。時々その面がほほ笑むことがある。かと思えば傲然と僧を見下ろす。ことばのない音楽で舞う。僧はどこを見るともなしに座を崩さず座り続けている。私はひたすら舞う面をみつめていた。

 それで私が何を見たのかもわからないまま能は終わった。ただ何ともいえない胸の苦しさと、能楽堂いっぱいに漂うものを、舞った友枝昭世が確かにのこしたことだけしかわからなかった。
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大津のこと

2011年06月22日 | 雑記
東海道の終点の二歩くらい手前、あと山一つ越えれば京のみやこが待っている街が大津だ。滋賀県の県庁所在地でもある駅を降りたのは小雨の降る朝だった。通勤のピークは既に過ぎていて、駅を降りる人も登る人もまばら、どの駅に行っても見上げるほど高いビルの姿もなく、バスが2台も入ろうとすればいっぱいになってしまうほどの広さのロータリーにはタクシーが4台たむろしていた。かつては琵琶湖を望む宿場として栄えていた面影は、どうどうと東へ伸びる道路に交差してまっすぐ大津港へ伸びる坂の道のひろさにわずかに残されている。

ここで昔、京都へ向かう、あるいは江戸へ向かう旅人がちょっとした手土産に買っていたものがあった。大津絵である。正確にはぴったり大津ではなくて、ちょっと西の方に進んだ追分の辺りなのだけれども、ともかくそれが売り出されたのは大体1624~1643年の寛永のころだった。お金はないけれど、部屋にありがたい仏様や神様のお姿をかけておきたい普通の人々のための絵がその始まりだった。今で言えば絵葉書やペナントを壁に貼り付けて飾る、といったような感覚だと思う。それがだんだんと花売りの女や鬼たちの戯画になり、浮世絵のような絵に発展していった。店の傍で次から次へと描かれた線はせわしくて勢いがあり、はみだしても気にせずに俗臭をたっぷり匂わせている。
俳風柳多留に「手習子 大津絵ほどは どれも書き」と読まれているように、細筆で丁寧に描かれたり刷り出された絵からは程遠いつたなさ、できばえ。部屋に飾られてほこりや日光に晒されてぼろぼろになり、また新しい絵を買ってかけるための消費絵画だ。その繰り返されたつたなさの中に溶け込んでいた美しさが柳宗悦の目にとまり、再評価されたのは大谷で大津絵が描かれなくなった1900年代のすぐ後のことだった。

今でも三井寺の観音堂を右手に進み、神社を背にして坂を下りて鳥居をくぐった先に「大津絵の店」がある。今でも大津絵を書き続けている4代目の主人の店だ。古典的な画題のほか、各種の伝説から新しい画題を作って描くこともしている。その筆法は古い大津絵そのままで、ちょっと見ただけでは見分けがつかないほどそっくりに描くことができている。筆法と書いた。筆法なのだ。大津絵を大量に描いてきた無名の手の筆づかいの方法なのだ。それゆえ、下絵を敷いた絵を上から正確になぞろうとする手つきのように線が繊細にふるえ油断がない。黒地に緑で描かれた模様を、はみでないようにかつ直線に落ちないよう確実に描かれていた線は今に筆法を伝えようとする守り手そのものであり、青いすがたが美しいと切り取られたトマトのように熟さない線だった。ああやはりな、と思って店をあとにした。大津絵画家はいても大津絵はもうない。

もともとの絵の手の動かし方に一番似ているものは、お寺に出かけていって御朱印を頼むとなんとなくわかるのではないだろうか。仏様や神様の名前を描くために真剣になるからだに対して、朱墨をふくませてひとふでがきで朱印帳に滑らせてゆく手の余裕は慣れということばくらいが丁度よい。見ているうちに描き終えて最後に真ん中を押さえるようにはんこをぼん!と押してすかさず薄紙を敷く。線は太く悠々としている。描かれたものに価値はないのだけれど、そこはかとなく見ていて気持ちのよくなる線がくっきりと刻まれている。朱印帳と300円を出せばだれにでも、同じように描く。

それを見て受け取る感覚が、わずかに昔の感覚を思わせる気がするのだ。
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目と手

2011年06月12日 | 雑記
ものを見る視点は二つある。そのものを見た自分と、そのもの自体と。

なるたけものを作る手を考えながらものを見る。それは作者に近づくことだ。

近づくことであって、見つめることとは又少し異なってくる。

見るのも読むのも触るのもむつかしい。
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パソコンの音

2011年06月11日 | 雑記
何かしらタイピングをしている途中、金属でできたオープンリールを巻き取るような音に合わせて、左手を通して伝わる振動がある。パソコンが動くための大切な器官、ハードディスクがおそらく底に格納されている。壊すのが恐ろしくネジを抜いて蓋を開けてみたことはないのだけれど、あまりに速くたくさん回転している時は人間と同じで、使いすぎた神経のように細かく激しくふるえているのがわかるので、そこにあるのだろう。回転と信号をうまい具合に組み合わせて機械は動いている。

コンピュータとしてはもう寿命で、起動するたびに古いMDをコンポにかけたときのようなかすれた音を立てながら、いっしょうけんめいに命令を実行する。時間はずっとかかるようになった。起動させてすぐにソフトウェアを使おうとすると、まずツールバーにそのソフトウェアの名前が表示される。「ちょっと待って下さい、これをやればいいんですよね」と命令を確認して、「私はこれを覚えています。やろうとしています」と看板をかかげる。たとえばメールを送ろうとソフトを起動させると、まずそのソフトウェアの準備ができるまでに3分、たまったメールを受け取るまでに2分、「新規作成」ボタンを押してメール作成用の画面をもうひとつ出すのにまた2分、たまたまウィルスソフトの更新作業にかちあうとさらに時間が加わる。必死なのだとほほえましくなる。一旦起動すればきちんと動いてくれることがわかっているので、電源をつけて使いたいソフトウェアのボタンをいくつか押して、しばらくほっぽらかしておけば用事を済ませて戻ってくるころには準備が終っているのだ。そしてそのころには規則正しく吐き出される息のようなファンの音だけがしんしんとパソコンから響いている。呼吸が整ったあとは同時並行の作業も平然とこなしてくれる。えらいなあと思う。(さすがに動画などのダウンロードには息切れするようだけれど)

息切れとか吐き出すとか、だんだんと音が呼吸になっている書き方をしているけれども、愛着があるから人のように思えているわけでもなく、コンピュータが動くためには空気の流れが必要で、涼しい空気を取り込み電気で熱くなった空気を排熱する仕組みがあるというそれだけのことなのだ。「竹中さん」という名前はあるけれども。
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ひざこぞう

2011年05月29日 | 雑記
雨天にもかかわらずレンブラントの展示は盛況だった。盛況な美術館は、見せる側にとっては嬉しいのかも知れないけれども、見る側はたまらない。特別展示用の広い地下室へ降りるために下りる階段からさざめきが絶えず耳に届く。ひとりで見に来ているひとは少なくて、たいがいは誰かと一緒、カップルだったり女の子同士だったり、赤ん坊をかかえたり。階段を下りた。もぎりの人のこげ茶色の前髪がチケットを切るときに前かがみになって、またもどることをしきりに繰り返している。また階段を下りた。さざめきがざわめきになる。あわだつ空気に負けないよう気合を入れて自動ドアをくぐった。雨のこもる人いきれ。

その時代らしい絵を描く人と、次のステップに進みすぎてしまって今見ると新しく見える絵がある。レンブラントはその辺り、やっぱり後者なのかな、と思う。他の人が雰囲気の差程度に扱っているさまざまな技法を、陰影と光のキーワードで捉えて突き詰めているすがたはとても面白い。けれど、無条件に素敵だ、と脳髄にとびこむような感触の絵は少ない。なんというか、顔かたちやスタイルはものすごく綺麗なのだけれどお近づきになりたいとおもいづらい人のような、そういう線の人だ。描かれている人の、画家の目にうっかり捕まえられてしまった表情はばつぐんに楽しいのだけれど。『音楽家(聴覚)』の鼻の赤い男たちなんか、なんともわくわくしてきませんか。キリストの背景で顔をおさえていたり、そっぽを向いているおっさんたちの引き結ばれた口元のそれぞれに、思惑が見えかくれしませんか。

でも女の人はけっこう苦手だったのかなあ、と思う。裸体の女性を描いた版画がいくつも展示されているのだけれど、その膝がことごとく肉詰めしたゴムチューブのように単純な曲がり方をしていてきわめて不自然なのだ。腕が男の人のように肉のそげた腕をしていたりと、裸でまがっている間接が塩ビ人形のようでそこから以下の肉感がない。膝、膝、ひざのことごとくがあんまりいただけない。お肉がついて色っぽければよいというわけでもないのだけれど。

この人を見るときには、あまり線に注目しないで、陰影、光と影に照らし出される加減を見るほうが楽しいようだ。
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イーダのうなじ

2011年05月28日 | 雑記
部屋の最後、集中がつきたあたりで行き過ぎるか、彫刻の部屋から入ってくるとまずそのまま右に曲がってしまい足をとどめることがむずかしい一枚が国立西洋美術館にある。ヴィルヘルム・ハンマースホイの「ピアノを弾くイーダ」の一枚だ。

静謐と言うことばに似合う白を持つ画家だ。うす曇の陽射しのような灰色の光と、それを受ける白い壁、白いドア。つやのある石か曇りガラスを敷いたような、ぼんやりとした光沢のある床はテーブルの脚の影をほのかにふちどりながらそれを支えている。曇り空のような室内の手前、鉄色の皿を載せた丸い木のテーブルからもう数歩歩いた先の開かれた白いドアの奥で、淡い紺色の服の女がオリーブ色の木でできた何かに向かい合っている。紺色の服の襟からのびる首の白を際立たせて茶色の髪がくたびれたようにわずかにはねている。語りかけられているのか、語ろうとして途中で止まる会話のような、ひたすらに静かな空間なのだけれども、見る心はなぜか複雑な綾を感じ取り、落ち着かなくなる。冷たそうにみえるけれども、触れた指先の皮膚に包まれた肉だけがじわりとあたたまるような、距離の難しい絵だ。

この絵は通路の突き当たりにかけられている。
いろいろと派手でかつ柔らかく、当時の斬新さを集めきった、筆先に技巧と力ののった絵画のなかを精一杯すり抜けた、最後の部屋にいたる通路の脇にかけられている。次の部屋に向かう人はまず間違いなく目にしているはずなのだけれど、四角い部屋を丸くはくような足取りで次の部屋へとするする進んでしまう。隣の壁に飾られた絵たちからかけ離れた白の佇みはめだたない。次の絵、という惰性で見られることはいやみたいだ。そのくせ、廊下の途中のような長い壁に飾られるとどうしてよいかまごついてしまう。部屋の中であって、横に広がる風景をもたないからか、脇を固める絵なしに突き当たりにいるほうが似合っているような気もする。

まっすぐに絵に向かう。十歩ほど近づくと絵の両脇から差し込む光が、部屋の広さを感じさせてくれる。一歩ごとに部屋へ近づく。大部屋のように開け放たれたふすまのはしから床の間を覗くように扉の敷居をまたいでゆく。テーブルの部屋に入るのは、絵から3歩。画家の妻イーダがいる部屋を画家といっしょに望む。画家でも入れない奥の部屋で、イーダはピアノを弾いている。中心から左上にずれたうなじがそこだけ霜のように白い。ドアも壁も、天井も白いのだが光は吸い込まれたようにうなじだけを白く染めているのだ。

隣に、イーダの兄イルステズの描く彼女の肖像がある。わずかに八の字に下がった眉の下の目はくるっとしているし、上向き加減の鼻はそばかすが似合い、いつまでも少女のような笑顔が似合う女性だと思う。だが口元は笑顔を押さえるように閉じられている。それでも塗りこめられた肌の底にあたたかな笑顔の色が見え隠れする。兄の筆だからかも知れない。その温度が、ハンマースホイの描くうなじには限りなく少ない。むしろ部屋そのものに薄められて、広がっているのだ。イーダの生活する部屋の空間や空気と言ったものに画家の味わう気配が閉じ込められている。
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ぼやっとしていると

2011年04月16日 | 雑記
窓辺から桜の木を眺めていると、下のほうから徐々に花開いて、今週の中ごろにやっと、テッペンまで花が開きました。
そこで満開です。一番下のほうの花が散る前に、テッペンが花開いた瞬間が満開。

そこから一気に加速して、散る。

雪のように降る桜を見上げる後ろで芽吹くケヤキの若緑がこのころの目の楽しみです。

ちょっとぼんやりする時間が長くなっています。
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