沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩548 日米政府官僚が沖縄に対してやっていることの正体 沖縄タイムス記事

2015年09月12日 17時36分08秒 | マスコミジャーナリズム

「止めよう!辺野古埋め立て」2万2千人が国会包囲

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=132649

SEALDs「しぶとくいこう」国会前で廃案訴え

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=132638

「自民は大政翼賛会的」山崎拓氏、首相の無投票再選を批判

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=132634

これが現在の自民党の本質であり、かつてない党内縛りと緘口令でできた「物言えぬ党」に成り下がったのである。この翼賛政治が、安倍晋三独裁政権のやりたい放題、言いたい放題、非論理、非倫理、反知性、反理念の愚連隊まがいの軍国主義一直線政治を完遂させようとしている。


詩548 日米政府官僚が沖縄に対してやっていることの正体 琉球新報記事

2015年09月12日 13時40分31秒 | マスコミジャーナリズム

翁長知事「大変遺憾だ」 沖縄防衛局の作業再開に

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-248801-storytopic-271.html

稲嶺市長「県民の思い考えていない」 知事に早期取り消し求める

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-248794-storytopic-271.html

きょう国会包囲 新基地断念訴え3回目

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-248786-storytopic-271.html


詩595 沖縄からの発信 30 選ぶべきでない道2

2015年09月12日 09時00分05秒 | 政治論

 対共産勢力における戦争準備法案という机上の空論を国家の法律として具体化するという安保法案が強行に採決されようとしている。リアルで現実的具体的な稟議となると途端に歯切れの悪い答弁に終始する安倍政権の醜態が国会で繰り広げられているが、一方ではあの東日本大震災を彷彿させる大水害がまるで狙い撃ちするように東日本の河川に次々と襲い掛かった結果、国民は再びこの国の「政治の貧困」という情けない現実に直面させられることになる。

 安倍晋三に決定的に欠けているのは、天災や戦災など何事につけ国民が感じている痛み、あるいは予想され想像される理不尽な苦痛、向後確実に襲いかかるであろう、なくもがなの戦争準備による標的化という恐怖、といったリアルで現実的具体的な国民の不幸感への配慮だ。彼らのこれらに対するシカト、無視、沈黙は彼らが(その自己主張実現のための)内心乗り越えるべき「迷い」の一つ、ではない。その「迷い」によって顧慮されるはずの民意への限りない「寄り添い」であり、「政治的技術」が苦心すべき唯一の根拠である。しかし、辺野古に関してだけでもこれらの真摯な対応というのはこの安倍政権には微塵も見られない。この点だけでこの政治集団化した人群の劣悪さはたとえようもないものとなっている。

 その因源には政策立案集団である官僚たちの業務懈怠体質(長い物に巻かれろ、寄らば大樹、無用な汗を流すのは御免だ)があり、彼らの言い分が目に見えない権威を保っていることだ。明治維新後大日本帝国が構築した官僚国家体制は、基本的には国策決定機関の枢要としての位置づけであり、その徹底して法的身分保障された官僚優遇措置により超エリート化したヒィーラルキーだった。明治以来というしろものがこの官僚機構であり、それは基本的に敗戦の戦後改変対象とさえならなかった、つまり時代がかった封建遺制として残存し続けた。我々は、そのことに気が付いてはいたが、民主政権が示したようにむしろ政治主導の斬り込みが逆に官僚主導の木乃伊取りになってしまったという、不可思議な結果として現象したわけだ。しかしこの意味も頗る単純なところにある。即ち、この国が敗戦国縛りばかりでなくアメリカ合衆国によって決定的に傀儡化されている、ということだ。

 ここまでがこの国の矛盾の核心であろうが、安倍晋三はじめ日本会議以下自民党の今やっていること、やろうとしていることは、結局戦後政治の最大の本質である、憲法に保障された「国民主体」の政治的機能化を覆す前時代的官僚主導の封建的集権的政策決定に走ろうとしていることだ。明治維新以降の明治政府の官僚機構が必然的に担ったのは「急速な近代化」という至上命題があればこそだった。文明開化、富国強兵、殖産興業、条約改正、地租改正など、山積みする課題をクリアするにはどうしても国家が養成した超エリート頭脳集団が必要とされ、伊藤博文が中心となってその体制づくりに全力を傾注したのだ。しかしこの国家的要請に基づく言わば「血も涙もない」エリート集団がやってしまったことこそ先の大戦とその失敗に至る道の下準備にほかならなかった。と、我々は認識している。敗戦の痛手は、それを忘却するには余りにも深く、疼き続けている。この痛みを、安倍晋三は顧みない。

 国民の痛みの感覚を無視している安倍政権を生んだのは他ならぬ我々自身だが、しかし、元はと言えばその下地は、帝国が叫ぶ「鬼畜米英」の対象そのものであった米国という「不倶戴天の敵」(のはず)に対する、余りに従順な戦後日本の在り様だ、とは「戦後民主主義」が長いこと言い募ったところではあった。それもいつの間にか立ち消えた。

 恐らく、この国は今、米国による傀儡国家としての日本国(米国主導の戦争に加担し協力させられる、ということ)になりきろうとしている。しかし、国民がそのことをはっきりと知らなければ、憲法(その理念と9条)だけが傀儡国家外しの機能を担っていたこれまでの現代史が根本からひっくり返ることになる。それが現実的必然とも思われるのだが、要は「戦争忌避の念」というものが打ちのめされて「戦争礼賛」までいかなくとも「戦争肯定」の意思にはなるに違いないということだ。彼らが想像でやろうとしている戦争が国民(自衛隊員も含め)にとっては悲惨と痛苦の最たるものだったことを、今この国の国民は忘れようとしている。(つづく)