「沖縄から見た日本」における現在の日本国は、残念ながら、近代化以来根本的に決定的な歴史的誤謬を犯しているが、その改善が放射能汚染同様、手の施しようがない状況であることも認知せざるを得ない。この、破滅へのシナリオが始原的に用意されていたとすれば、日本人は本来絶滅危惧種ならぬ、絶滅すべき民族、だったのかもしれない。古代マヤ、インカ、あるいはその他の伝説的文明に類似して、ある日忽然と人類史から消え去るということも考えられないことはない。
「日本沈没」という地理上の地学的現象のみならず、なんらかの衝撃により国家的に破綻するというシナリオである。あるいはマヤの予言のように人類諸共滅びさるのか。こうした見解に到るのはなにも大震災ばかりが、脅威的に不安と予感を醸しだした結果ということもない。
「方丈記」の世界ではないが、少なくとも災厄の連続する現象界を目の当たりにする我々が内心思うのは、どうにかして「命を助かりたい」の一事にほかならないのだろう。
一方、「無常」を慨嘆して隠遁し、「晴耕雨読」の趣味生活に耽溺するという、言わば「恵まれた余剰生活者」に安住するのも可能なら結構なことだ。
さて幸運にも災難を免れて生き延びたにしろ、この命の価値というのはどこでいかにして計量されるものだろうか。
沖縄の地元紙を読む限り、日本政府が、オスプレイ配備に関するアメリカの、7月準備10月実施という計画提案に難色を示したという報道にもかかわらず、嘉手納基地爆音訴訟については、これを「甘受せよ」というお達しだ。
難色を示したのは「7月準備」についてであり、この行為が普天間配備の実施に当たって風当たりが厳しくなるという部分にすぎない。
辺野古が情勢的に徐々に問題点が曖昧になって行く一方、普天間固定化・オスプレイ配備という殺人予定行為を、なし崩しに強行していくアメリカ戦争気違いどもには爆弾でも投げつけたいのだ。これをテロへの誘惑とするなら、アメリカに対する世界中のあらゆるテロ行為を渋々是認せざるを得ない。
お前さんがたは間違っている。少なくとも太平洋戦争勝利の時点で足を踏み外したのだ。ルーズベルトが情報戦を制して大戦勝利を厳格に誘導したことが、ではなく、また、開戦にあたっての密かな陰謀についてでもなく、トルーマンによる2個の原爆投下と、戦後の民主主義理念構築に際しての数限りないアンフェアな倫理的検証においてである。
日本政府が(敗戦後も存続したのは実に不思議なことだ)軽負担経済復興第一主義という吉田ドクトリンによって、池田勇人の高度経済成長政策を実質成功させたのは、ある意味政治的勝利と言えなくもないが、焼け跡から立ち上がってなりふり構わず邁進したのは人民そのものだったはずで、それを鬼の首でも取ったかのように己の戦後体制に絶対的根拠をこじつけた死に損ないどもは、新生すべき日本の人民空間を滅茶苦茶にしたのだった。(中断)