【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

グローバル

2011-11-12 19:19:17 | Weblog

 「グローバル」「グローバリズム」などと日本のマスコミはよく言いますが、日本のマスコミ自体は「グローバルな存在」でしたっけ? たとえばその報道は世界でアルジャジーラの報道よりも多く引用されている?

【ただいま読書中】『アルジャジーラとメディアの壁』石田英敏・中山智香子・西谷修・港千尋 著、 岩波書店、2006年、2500円(税別)

 著者の4人はそれぞれ別々の分野の専門で(ただし誰もアラブ・イスラームの専門家ではない)、たまたま「アルジャジーラ」という“接点”で結びついています。
 アルジャジーラは、カタールの首長とその従兄弟(アルジャジーラ創設委員会議長)によって1996年に作られました。首長は「(衛星放送なのだから)カタールから発信するニュースは、国境を越えて話題性の高いものにする」ことを求めました。イギリスBBCのアラビック・サービス・テレビがサウジアラビアとのトラブルで潰れ、その技術者が大量に馘首されましたが、彼らがアルジャジーラ創設の核となりました。アルジャジーラはまずアラブ世界に衝撃を与えました。質の高い「メディア」は西洋だけではない、と。さらに複数の視点を提示する手法も、権力者の提灯持ちのメディアしか存在しなかったアラブ世界では、新鮮でした。そしてアルジャジーラが質的に大きく変化したのは、1998年12月22日、バグダッド爆撃の日です。現場にいた映像メディアはアルジャジーラだけでした。その映像は全世界に流され、そのインパクトはアルジャジーラにも及びます。アルジャジーラが西洋的なメディアになり始めたのです。アフガニスタンでも、現場にいた映像メディアはアルジャジーラだけでした。そして「9・11」。そこで世界の多くの人にアルジャジーラは“認知”されることになります。
 面白いのは、サウジアラビア政府がアルジャジーラを敵視していることです。何しろ“言うこと”を聞きませんから。そこで自分で資本を出してアルジャジーラに対抗するアルアラビア(アル=アラビーヤ)というチャンネルを作っています。アルジャジーラを敵視するのはサウジアラビアだけではありません。アメリカもまたそうです。ファルージャ包囲攻撃の最中、現地にいて放送していたのはアルジャジーラだけで、多数の犠牲者が出ている実態が伝えられましたが、その報道を誤りだと強く非難したのはラムズフェルド国務長官でした。「アメリカ」とはグローバリズムのアイコン、とアメリカ人は思っています。しかしそこにアルジャジーラという「別の基準によるグローバリズム」がぶつけられ、「アメリカ」は無効化(少なくとも価値の切り下げを)されてしまいました。そのためでしょうか、2001年11月にはカブール支局が、03年4月にはバグダッド支局がアメリカ軍に爆撃されています。
 伝統的な価値観を持つムスリムからもアルジャジーラは不評です。何しろ、女性キャスターが政府高官に平気でインタビューをする場面を放送するのですから。あるいは、ディベート番組を放送して「反対意見を言って良いのだ」という姿勢そのものを一般に広めるのですから。(そして「異論を唱えられることを嫌う」権力者からは、アルジャジーラは敵視されます。たとえば独裁者とか、あるいはメディアをコントロールしたいアメリカとか)
 アルジャジーラの“お手本(の一つ)”はBBCです。国家メディアだから非市場的、国家メディアなのに非国家的な公式メディア、というきわどい“生き方”が気に入っているようです。倫理規定では宗教観が慎重に排除されています。もちろんアラビア語放送がイスラムを完全に排除することは不可能でしょうが、アラブ各国の政府がアルジャジーラに不快感を示すことを見ると、少なくともその倫理規定はきちんと生きて機能しているようです。日本にいるカタール大使は「アルジャジーラはわたしたちの誇りです。ときどき頭痛の種ですけれどね」と苦笑するのですが、“スポンサー”であるカタールにとっては、アルジャジーラが存在することがすなわち「自由を重視するカタールという国」の宣伝そのものになっている、という認識のようです。
 アルジャジーラのニュースでは「イラク戦争」ではなくて「(米英軍の)イラク侵攻」、「自爆テロ」ではなくて「自爆攻撃」と表現されるそうです。それがまた「アルジャジーラは“反米”だ」という非難を生むのですが、「マスメディアは“親米”でなければならない」理由はなんでしたっけ? というか、アルジャジーラは「反米」とか「親米」の主張をしているのではなくて、その判断を視聴者に委ねようとしているようです。
 アラビア語メディアというきわめて「ローカル」なメディアが「グローバリズム」を旗印にすることで、アラブ世界に“風穴”を開けました。しかしそれは同時に「グローバルな世界」にも風穴を開けることになりました。なぜなら「グローバル」と言いながらその世界がアラブを無視することで成り立っていた(実はちっとも「グローバル」ではなかった)ことをアルジャジーラが明らかにしてしまったのですから。ここで私は最初の“問い”に戻ります。日本のマスメディアは、ローカルなものなのでしょうか、それともグローバルなもの? 本当はそういった「二分法」から遠いところにアルジャジーラは存在しているようではあるのですが。




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