「鎌をかける」……体に鎌を近づけて白状させる
「鎌鼬」……加速装置が付いたイタチ」
「鎌倉」……鎌専用の倉庫
「いざ鎌倉」……新しい観光キャッチフレーズ
「片鎌槍」「両鎌槍」……続けたら早口言葉
「中臣鎌子」……藤原鎌足と同一人物
「草刈り鎌」……首や腹を切ってはいけない
「鎖鎌」……鎖のストラップがついた鎌
【ただいま読書中】『野生の白鳥』モニカ・スターリング 著、 福島正実 訳、 早川書房、1975年、1700円
「アンデルセンの物語」は世界中でよく知られています。「人魚姫」「マッチ売りの少女」「雪の女王」「みにくいアヒルの子」……まだまだまだまだ。では「ハンス・クリスチャン・アンデルセン」については? そこをうまくついたのが、ミュージカル「ハンス」でした。
「ハンス」は1805年、デンマークのオーデンセで生まれました。コペンハーゲンから馬車と船で2日半もかかる人口5000の都市では、キリスト教より古い神々が“生きて”いました。その世界でハンスは、空想的な靴屋である父親から芝居や読書の楽しみを教えられます。学校でハンスは“問題児”でした。空想癖があり神経質で痙攣性の発作をよく起こしイジメの標的でした。しかし、“恩師”のカルステンスとの出会いによってハンスは教育と思いやりを得ます。精神障害を持っていた父は早く死に、母はアル中となります(そのことは自伝には一切触れられていません)。不幸な生い立ちは、ハンスに「人に愛されたい」という強い衝動を植えつけます。しかしそれは、愛される美点であると同時に、ある種の人間からはつけ込みやすい弱点でした。
ハンスは美声の持ち主で、歌や朗読を地方貴族たちに愛されます。“パトロン”の登場です。それは極貧生活の向上はもたらしませんでしたが、ハンスに“情報”をもたらしました。コペンハーゲンには大きな劇場があり、そこではバレエというものが上演されている、と。14歳のハンスは単身コペンハーゲンに出ることを決意します。「芸術家になる」という熱意だけであちこちに自分を売り込みますが、現実は厳しく……ところがちょっとした“奇跡”がおきます。シボーニという王立声楽校長にレッスンをつけてもらえるようになったのです。しかし歌手になる夢は潰え、ハンスはこんどは俳優になろうとします。それも駄目だと今度は舞踏家に。ハンスの夢はあくまで“芸術家”でした。しかし、その頃には彼が書くものに注目が集まり、友人たちはみなハンスに忠告します。教育をちゃんと受けろ、と。しかしハンスは教育など芸術家には不要のものと思い忠告に従いませんでした。ただ、歌・芝居・ダンスは、彼が作家になるための大きな踏台でした。でもその前にやはり「教育」が必要です。ハンスは王の奨学金を得て公立中学に通うことになります。
やがてハンスは、変った詩を書くようになります。デンマークで最初の、口語体を用いた散文でした。同時に大学へも進学。「書きたい」という欲求は抑えきれず、ついに『ホルメン運河からアマーゲル島東端までの徒歩旅行』という処女作を出版。そこにきらめく才能とロマン主義の魅力と芸術家の内面そのものとが、人々を魅了します。そして、イタリアへの長期旅行によって、「ハンス」は「アンデルセン」になります。いよいよ「アンデルセンの作品」が次々と生みだされるのです。
「旅」は、アンデルセンにとって「避難」であり「創造の源」でもありました。アンデルセンの人生はほとんどが「旅」だったと言っても過言ではないでしょう。本書でいかに彼が動き続けたかを読む人は、皆驚くはずです。そして、「アンデルセンの童話」には「アンデルセンの人生」が色濃く投影されているのです。
19世紀は「科学の世紀」でした。だから私の大好きなジュール・ヴェルヌが登場します。しかし、それと同時に19世紀はまだ「神話の世紀」でもありました。その神話世界にどっぷりと浸かって育ったアンデルセンが自らの言葉で新しい「神話」を語り始めたとき、「19世紀」は変容し始めた、と言えるでしょう。ただ、アンデルセンの生涯はあまり幸福なものには私には見えません。故国での喝采を単純に求めるのにそれがなかなか得られず、それが得られる外国へ旅行してもやはり真の満足は得られず、愛する女性からは拒絶しかもらえず、結局、肉体的にも精神的にも、放浪を繰り返している人生に見えるのです。その人生の陰影を重ねると、「アンデルセンの童話」にはこれまでとは違った味わいが生じるかもしれません。