【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

バターつきパンを落とす

2011-08-16 18:39:43 | Weblog

 マーフィーの法則に「バターつきパンが落ちるとき、バターが塗ってある側が下になる確率は、カーペットの値段に比例する」というのがありますが、そもそもバターつきパンをテーブルの外に落とすという粗忽自体がすべての不幸の始まりなんですよねえ。マーフィーの法則を責めている場合ではないでしょう。

【ただいま読書中】『人生を料理した男』ジェフ・ヘンダーソン 著、 楡井浩一 訳、 アスペクト、2008年、1800円(税別)

 幼いときから盗癖のあった著者は、長じて麻薬の卸元になります。ギャングからコカインを大量に仕入れて加熱処理をすることでクラックに加工して売り捌いて大金を稼いでいたのです。コカインの仕入れ値は1kg14500ドル。それを慎重に熱処理すると1.5倍の量のクラックが得られ、それが1kg16500ドル(委託販売の場合は18500ドル)で売れます。週に1回10kgのコカインを仕入れると、儲けは?
 自身は酒も麻薬もやらない著者にとって、クラック販売は金儲けのための手段でしかありません。そのために街中に中毒者が溢れていることには無関心です(無関心でした)。そして、手段はともかく、大成功して大金持ちになったら、それは「成功者」なのです。そして著者は20歳そこそこで「成功者」になりました。彼らがラスベガスのホテルに繰り込んで大金を使うと、ホテルは大喜びです。どんな手段で稼いだ金でもそれを散財してくれたら「大切な顧客」なのですから。ここには「アメリカン・ドリーム」のちょっと寒々とする一つの姿が描かれます。いくら大散財をしても、それは「金があるから使う」だけの行為で、自分の何も“豊か”にはならないのに、それ以外を思いつけない著者の生活が冷静に描写されます。
 しかし「ドリーム」はいつまでもは続きません。著者は逮捕され、235箇月の懲役を宣告されます。そして、刑務所で著者は「中毒者の姿」を直視することになります。「自分は商売をしていただけだ。人を殺したりしていない」がただの言い訳でしかないことを悟らされたのです。刑務所で生き抜くために著者は宗教に興味を持ち、さらに高校卒業資格を取り、黒人ワークショップを開設します。厨房の仕事を割り当てられたとき、「鍋釜洗いかよ」と著者はぼやきます。自分の人生に転機が訪れたことも知らずに。
 著者には「底辺からのし上がりたい」という強い動機があります。育った社会では(“手本”がワルの人間ばかりだったから)著者は麻薬取引でのし上がることになったのですが、刑務所ではその動機が厨房の仕事に結びつきます。つまらない下働きも嫌がらずにこなし周囲の“手本”を観察して学ぼうとします。すると“上”から声がかかります。「おまえにチャンスをやろう」と。そしてついに著者は「夢」を持ちます。出所したら家族みんなのために料理を作りたい。いつかは自分のレストランを持ちたい、と。思えば、著者はこれまでの人生で、刹那的な欲望充足は望んでいましたが、「夢」を持ったことはなかったのでした。生まれて初めて著者は「自分が何をしたいのか」を知ったのです。
 厨房の仕事は、著者の料理の腕を上げると同時に著者の人間性も向上させます。ティーンエイジャー意識向上プログラムの受刑者講師にも就任して、高校生に「道を踏み外したらどうなるか」を講演して回るようになったのです。そしてついに刑務所の厨房で囚人側責任者に就任。著者は「これまで学んだ調理技術を惜しみなく利用し、麻薬ビジネスでも役だった天賦のリーダー性を存分に発揮する機会が訪れた」と嬉しそうに書いています。
 そしてついに模範囚として出所。しかし「塀の外」には、著者の想定外の世界が待っていました。ここからの波瀾万丈の物語の面白さは、ぜひ本書から直接味わってください。最上級のコース料理を食べるような楽しみが待っていることを保証します。