【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

自己管理

2011-08-04 18:58:34 | Weblog

 「三日坊主はしない」「こんどこそ締め切りは守る」「もう二度と恋なんかしない」

【ただいま読書中】『華族令嬢たちの大正・昭和』華族史料研究会 編、吉川弘文館、2011年、2800円(税別)

 かつて日本には「華族」がいました。本書は、大正期に生まれた四人の華族令嬢(京極典子、寺島雅子、勝田美智子、上杉敏子)のオーラルヒストリーです。4人が定期的に集まって座談をし、それに大学生や大学院生が混じって質問や速記をする、という形式でまとめられました。
 いやあ、“別世界”です。たとえば上杉敏子さん。彼女の母親は最後の薩摩藩主島津忠義の九女ですが、「天璋院様(篤姫)」の「今度、島津家に生まれた子どもが女の子だったら絶対に長男(徳川宗家十七代徳川家正)の嫁にしなさい」というお声掛かりで、まだ胎内にいるときに婚約をしていたそうです。他の人たちも、系図を見ると、まあ有名人著名人がごろごろと。なるほど、日本には“そんな世界”があるんですねえ。そしてその流れは、実は現代にまでつながっているのです。
 家族の世界では、男子は帝王学的教育、女子は躾け中心(あるいはお稽古ごと)、が基本です。ただ、各家で、伝統的だったりハイカラだったりの差はありました。また、先祖の祭祀は“絶対”でした。特に初代や藩祖は特別です。かと思うと、クリスマスを楽しむ家(たとえば島津家)もあります。当主は、貴族院議員になることが約束されているため、逆に、進学や就職では「華族の体面」という制約が厳しく存在していました。特に奨励されていたのは、軍人へのコースだったそうです。日本流のノブレス・オブリージュ? 「華族の銀行」として名高いのは「十五銀行」です。明治十年に華族の金禄公債で開業し、安定した経営を続けましたが、大正後半に経営が悪化、昭和二年の金融恐慌で休業となり、多くの華族が経済的打撃を受けました。
 華族の令嬢たちは、女子学習院に通いました(本書登場の4人は同窓生です)。学習院は明治十年に華族会館が管理する私立学校として開校し、明治十七年に宮内省所管の官立学校となりました。女子の学習院は明治十七年に開校、明治三十九年に学習院に併合されて学習院女学部となり大正七年にふたたびどくりつして女子学習院となっています(華族の女子は入試なし授業料なし。非華族の女子は、定員に余裕がある場合だけ入学を許され授業料を徴収されていました)。幼稚園も併設されていましたが、通園はお伴が付き添い人力車でです。したがって校内には「御供部屋」(付き添いの女中が待っている部屋)があり、そこには裁縫の教師がいて女中たちにお裁縫を教えていたそうです。面白いのは「制服」の意味です。やろうと思えばいくらでも服装を華美にできるわけで、それを制限するために制服が採用されていたのだそうです。教師も大変です。特に歴史の授業では「家康は狸親父と呼ばれて秀吉より人気がない」なんて言うと、生徒に「徳川家」がいたりするわけですから。
 女子スポーツも盛んです。避暑に行った軽井沢でのテニス、ゴルフ、スキー、スケート、マリンスポーツ……なんだか戦後の太陽族などの先取りのようです。
 デートや結婚の話では「深窓の令嬢」「良家の子女」という言葉を思い出します。新婚旅行にまで御供がつくなんて、ありですか? しかし、4人がちょうど結婚・出産の時期に、戦争の影が日本を覆います。華族たちは使用人を減らし家の規模を縮小します。建物疎開で自宅を陸軍憲兵に取り壊された家もあります(土足でずかずか上がるのは憲兵には快感だったかもしれませんが、上がられた華族の側にはショックだったでしょうね)。華族令嬢(その頃には若奥様)たちも、自分でできることは自分でするようになります。
 昭和22年に華族制度は廃止となりました。しかし本書の4人はそれほどのショックは受けなかったそうです。華族であることでの制約が多かったことからの解放感もあったし、なにより戦後の混乱の中を生き抜くことの方が大変だったのでしょう。当時はまだ30歳前後で、人生のエネルギーがまだたっぷりあったことも大きいでしょうが。多くの華族は特権を失い没落していきましたが、旧華族の肩書きと人脈を生かして新天地で成功した人も多くいました。絶対になくならない“財産”もあるんですね。