【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

脱走

2010-11-22 18:53:31 | Weblog
捕虜収容所からの脱走映画と言えば、私は「大脱走」「勝利への脱出」を思い出します。だけどその逆、「ドイツ軍の捕虜が収容所からの脱出を企てる」映画って、ありましたっけ? 連合軍だろうとドイツ軍だろうと、捕虜は当然脱走を企てるものでしたよね。それは一種の“義務”じゃなかったかな。

【ただいま読書中】『捕虜』パウル・カレル/ギュンター・ベデカー 著、 畔上司 訳、 フジ出版社、1986年、3500円

カナダのボウマンヴィル収容所から、ドイツ本国にUボート派遣をカナダ東岸に派遣するよう求める暗号の手紙が届きました。目的は収容所を脱出した後のドイツ軍人の収容。デーニッツはそれを許諾しますが、その主な理由は捕虜の精神的健康状態が脱走計画に夢中になることで維持できる、という期待でした。捕虜は脱走の準備を始めますが、その中には針金と煙草の箱から無線通信機を作り出すことも含まれていました(著者のカレルは、アメリカの捕虜収容所でその手の通信機を使ったことがあるそうです)。で、実際に一人は海岸にまでたどり着いています。情報漏れがあって(あるいは手紙の暗号が解読されていて)迎えに来たUボートは駆逐艦に追われることになりましたが。
グアンタナモ米軍基地での“テロリスト”への拷問を思わせる処遇も登場します。U-546の乗員は捕虜収容所ではなくてニューファウンドランドの刑務所に入れられそこで拷問を受けました。戦争が終結したから戦時捕虜ではなくてナチスの犯罪者というリクツだったのかもしれませんが、明らかに国際法にも国内法にも違反している行為です。
遠くオーストラリアにもドイツ軍捕虜収容所がありました。ここでも脱走計画はありましたが、捕虜は本気ではありませんでした。だって収容所の外は砂漠や荒れ地です。どうやってドイツまでたどり着きます? しかも食事は(捕虜の推定で)一日3000Kcal以上。“快適な生活”に慣れた捕虜は、本国送還後生活のギャップでも苦しむことになりました。
オーストラリアや英軍の収容所では、捕虜を政治信条で色分けしました。民主的な人は「白」、ナチスは「黒」、中間は「灰色」。収容所内での扱いや本国送還時期はその色で区別されました。ソ連の収容所でも似たことをしていたのを思い出します。さらに、こちこちのナチ主義者はそうでない人間に対して暴力をふるい、ドイツ人同士の殺し合いまで起きます。管理者はその対応に苦慮しました。(45年春の調査では、「白」は15%、「黒」は54%だったそうです)
第二次世界大戦中、英軍の手に落ちたドイツ兵は370万人。うち40万人が英本国に抑留されましたが、英国の一般市民よりも良い食生活だったそうです。日本でも戦争中は刑務所内の方が一般市民より良い食生活だったのを思い出します。
収容所からまっすぐ帰れなかった捕虜も多数いました。帰還前にフランスや英国で強制労働をさせられたのです。ただ、英国本国で特筆すべきは、元捕虜に対して友情や愛情を感じる人がけっこう多かったことでしょう。47年には英国女性と恋に落ちた元ドイツ兵が「禁じられた関係」で軍事裁判にかけられ禁固1年を言い渡されます。ところが英国世論はそれに反発。結局判決は政府によって覆されました。本書には面白い数字が載っています。「計796人のドイツ人捕虜が英国女性と結婚した。失恋して自殺した捕虜は二人だった」。
敗戦後のドイツでは捕虜が大量に出ました。武装解除されたドイツ兵は全員「捕虜」だったのです。45年6月に761万人! まともな扱いができる数ではありません。ライン河畔では、牧草地などを鉄条網で囲い、100万の捕虜が1ヘクタールあたり2000~3000人ずつ詰め込まれて「収容所」とされました。まるで動物の群れ扱いです。体を入れられる段ボールの空き箱があればラッキーでした。手とスプーンで掘ったたこつぼが雨で崩れてそのまま墓穴になることもザラ。配給食料は乏しく餓死者まで出ています。ライン河畔のブレッツェンハイム地区では56000人中3000人“だけ”の死亡。ソ連管轄地区では降伏後の捕虜死亡率が25~90%に及ぶところもあったそうですからそれでもまだマシだと思うべきなのでしょう。こういった捕虜への扱いのひどさを見ると、ナチスやユダヤ人虐殺への憎しみが、こういった所に噴き出していたのかもしれないと思えます。「罪を憎んで人を憎まず」ではなくて「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」だったのかな。
暗然とするのは「子供の檻」です。44年にドイツは15歳で体重50kg以上なら徴兵していました。国防軍に動員されたヒトラー・ユーゲントにはそれ以下の年齢層も含まれていました。そういった少年たちも軍服のままで捕まると「戦時捕虜」になったのです。米軍もさすがにこれには特別扱いをすることにして、12歳~18歳の少年をアッディシーに集めました。1万人。皆腹ぺこでしたが、餓死者は出なかったそうです。
戦後のフランスは荒廃していて、深刻な労働力不足に悩んでいました。だからフランス政府は各連合国に「ドイツ人捕虜を引き渡せ」と熱心に求めました。ドイツ軍が敷設した1000万の地雷除去・鉱山労働・農場の仕事……“仕事”はいくらでもあり、「捕虜はフランスの生命線である」と政府は言明しています。しかし、大量の捕虜(100万人)を面倒を見る“体力”はフランスにはありませんでした。自分たちでさえ食うや食わずなのです。そこで何が起きたかは、大体想像通りです。
スウェーデンの国際法違反、ユーゴスラビアでの“”(赤十字の看護婦も強姦虐殺され、さらにはドイツ人修道士が「ファシスト聖職者」と規定されて銃殺されます)。広範なインタビューから浮かび上がる「戦争」の実像は、読んでいて悲しくなります。とても悲しくなります。日本は敗戦でひどい目にあったと思っていましたが、まだまだ甘かった。
ドイツに捕まった連合軍捕虜の運命も過酷でした。特に赤軍兵士は……その“復讐”のように、ソ連でのドイツ兵捕虜は本当にひどい目に遭います。350万人がソ連の捕虜となり、100万以上が死んでいます(それでも、ドイツの捕虜になったソ連兵よりは“良い”数字なのだそうですが……)。
戦争の狂気、復讐に対する復讐、残酷さと冷淡さ……それらの行為の主語はすべて「人間」です。私とあなたを含む人間。ただ、本書には「救い」も示されます。過酷な状況でも勇気を示す人。そしてみじめな境遇の人に示される人間性。特に本書では「ロシア女性の優しさ」が列挙されています。国の体制と国民性とは別のものなのでしょう。



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