【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

尾頭付き

2010-11-19 18:45:22 | Weblog
「今はどんな時代か」を記述するのは、けっこう難しいことです。「歴史」だったら“後出しじゃんけん”でいろいろ材料が揃っているから判断がしやすいのですが、「現在」はこれからどう転ぶか不定だからなかなか何かを断言するには勇気が必要です。おっと、“発端”と“経過”と“結論”が見えている歴史でさえも意見が割れますね。だったらこれからどうなるかわからない「現在」をどう評価するかが難しいのは当然とは言えるでしょう。歴史だったら尾と頭がついているから胴体の判断はけっこうできるけれど、「今」は尾頭のどちらかと胴体だけで、残りの部分を推定しなければならないのですから。
……ところで「未来」は「尾」?それとも「頭」?

【ただいま読書中】『百姓一揆とその作法』保坂智 著、 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー137)、2002年、1700円(税別)

タイトルに一目惚れで、読むことにしました。
1749年(寛延二年)陸奥国で大規模な百姓一揆が起きました。ところがその記録「伊信騒動記」には「此度の騒動、天草四郎や由井正雪等の類一揆にハあらで強訴のことに候得ば、手道具を不持ハ勿論のこと」とあります。つまり当時の“常識”では「手道具(武器)を所持していたら一揆」「所持していなければ強訴」となっており、だからこそ現在「島原の乱」と呼ばれる騒動は当時は「島原・天草一揆」だったのです。
信長が戦った「一向一揆」も民衆の武装蜂起です。秀吉もその力が全国に及ぶと、検地を代表とする苛政に対する反発から各地で「一揆」が起きました。だからこその刀狩りだったわけです。徳川政権成立後も、大名の配置換えに伴って各地で一揆が起きましたが、島原・天草一揆が武力でねじ伏せられて以後、武装蜂起は起きにくくなります(だから江戸中期から史料に「一揆」の文字列は登場しなくなります。「武装蜂起」は起きないからそのことについては書けなくなったわけです)。しかし民衆の運動は新しい形を取りました。集団的な訴願で、これを現在われわれは「百姓一揆」と呼んでいます。なお幕府の“定義”はこうです。「何事によらす、よろしからさる事に百姓大勢申合せ候をととうととなへ、ととうして、しゐてねかひ事くハだつるをこうそといひ、あるひハ申あハせ、村方たちのき候をてうさんと申、右類の儀これあらは、居むら他村にかきらす、早々其筋の役所え申出へし」(明和七年(1770)の高札)。「徒党」「強訴」「逃散」が定義されています(それぞれ処罰の対象です)。青木虹二は「百姓一揆」を「逃散・愁訴(手続きを踏んだ訴え)・越訴(おっそ、手続き的に違法な訴え)・強訴・打毀・蜂起」に分類しました。
現在膨大な量が各地に残されている村方文書の中には「訴訟文書」が多数存在します。これは村からの、年貢や賦役の軽減を願ったり救助米の下付を求めたりした、合法的な文書です(「愁訴」に相当)。困窮した百姓はまず「走り(個人的な逃亡)」となったり村ごとに合法的な手段で藩に訴え、それで状況が改善しないときに非合法的な手段を考えました。
17世紀の史料では、「蜂起」は前半に集中していて世紀後半には発生しなくなり、愁訴・越訴が増えて逃散が相対的に減少することが読み取れます。では「訴え出るのはそれだけで命がけ」という現代の理解は正しいでしょうか。たしかに「成敗」(死刑)となった例もありますが、実は例外もずいぶんあるようです(『徳川実紀』には、将軍や大御所への直訴がいくつも記載されていますが、百姓が入牢となったのは百姓の訴えが非の場合で、是の場合には将軍即決で代官切腹などの処置がされています。家光の日光参詣の道中は直訴の山で“交通整理”が大変だったそうです)。
鎌倉幕府は関東御成敗式目で年貢を完済した百姓の逃散を公認していました。徳川幕府も慶長八年(1603)の法で同様の規定をおいています。少なくとも17世紀まで「百姓」はけっこう強い存在だったようです。もちろん幕府はそれに対して規制を加えますが、慶長八年の規定を無視するわけにもいかず、「徒党禁止」で対応しようとします。それに対して百姓は集団で(それも大規模なものは藩全体の村が連合して)の強訴で自分たちの主張を通そうとします。しかし「強訴を規制する法体系」の整備は遅れ、その結果強訴に対する処置が異常に軽かったり異常に重かったりのアンバランスが生じました。法の整備が進んだのは18世紀になってからです。有名なのは明和七年(1770)の高札で「徒党・強訴・逃散の禁止、訴人の奨励」を明確に謳っています。
なお「義民」とか「将軍直訴で一族死罪」で有名な佐倉惣五郎は、19世紀のフィクションだそうです。ただし「義民」(民のために幕府や藩に抵抗した人)は、著者が確認しただけで500人はいたそうです。
本書の後半は「一揆の作法」についてです。違法な抗議行動に作法があるのか、と言えば、あるんですね。当時「百姓騒動の作法」と呼ばれていました。読んでその内容には驚きます。たとえば起請文では、費用分担の取り決めとか犠牲者に対する補償まで盛り込まれます。旗を立てますが、多くは布や紙で、筵旗は少数派のようです。あらかじめ村々に廻状を回しホラ貝や鉄砲などで出陣。成年男子は基本的に全員参加ですが、村を維持するために留守番も決めます。得物として、鉄砲や竹槍も持ちますが、鉄砲は武器ではなくて鳴り物、竹槍もそれで人が殺害されたことが知られているのは二件だけだそうです。(維新後の各地の一揆では、竹槍での死者が多数出ています) 騒動が暴走することは、騒動を起こす側にも好ましいことではなかったのです。
江戸時代の「一揆」の多くは、革命ではなくて、藩の小さな変革を願い出ることが主目的で行なわれる、一種の示威運動でした。ただ、暴走して「作法」を外れるものもありましたが。ただ、そういった「小さな変革」が積み重なることで、「百姓」に「人間」としての意識が生まれ、同時に藩の経営にはボディーブローのような影響が積み重なり、結果として藩幕体制が揺らぐ一因となった、というのが著者の考えです。江戸時代を、固定的にではなくて、ダイナミックに捉えるこういった種類の本は、私は大好きです。



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