中学校だったか高校の時だったか、夜の国鉄に乗っていて、車窓から眺める窓の明かりの一つ一つに「自分と同じで、でも自分とは違う他人が生活をしている」ことに気づいて軽い衝撃を私は受けました。似た経験は別の時にもあります。学校の休み時間、教室の窓から外を眺めていて、渡り廊下の2階と3階を行き交う学生たちが、あんなに近いのにそれぞれがお互いの存在に気づかずに歩いているんだ、そして向こうから見たら、私も隣の教室の人間とはこんなに近いのにお互いの存在に気づかないんだ、と思ったり、安部公房の『壁』を読んで「“私”は“壁”のこちら側にしか存在できないんだ」とつくづく思ったり。私は哲学的な人間ではありませんが、こういった気づきから哲学の道に入る人もきっといるのでしょうね。私も“そっち”に行くべきだったかな?
【ただいま読書中】『フッサール ──心は世界にどうつながっているのか』(シリーズ・哲学のエッセンス)門脇俊介 著、 NHK出版、2004年、1000円(税別)
『ミラーニューロンの発見』で著者の思想の中にフッサールが重要な位置を占めていることを知って、まずは入門書で触れてみることにしました。私個人にとっても「ミラーニューロン」は重要なもので、いろいろなもの(自我とか他我)についてミラーニューロンを通して考えているのですが、そのためにはやはりフッサールについても知らなきゃ、では、ちゃんと読む前に軽くトレーニングをしておこう、という目論見です。実は先日も一冊図書館から借りてきて読んでみたのですがそれはあまりに難しくて挫折したものですから、今回は見るからに軽そうなもの(わずか100ページ)にしました。
のっけから引き込まれます。「はじめに」の冒頭の段落。
「夕暮れに穏やかな坂道を自転車で下っていくと、目の前に広がる住宅地のそこここに照明が点りはじめ、私は突然気づかされる。これまで出会ったこともない私以外の人々が、それぞれの住まいの中でそれぞれの生活を続けていて、私が今持っているような意識をそれぞれ持っているのだと。中学の頃に確かに体験したにちがいない軽い驚きの気分は、たった一度だけのものであったのか、あるいは幾度も繰り返し起こったのかは定かではない。しかし私自身の記憶の中では、この出来事は、私が世界に対する根本的な問いを立てるときの、強力なベクトルをなすものとして作動し続けている。」
これは期待できそうだ、とつぶやきながら、私はページをめくります。私と共通体験を持っている、というその一点だけでも、フッサールについてわかりやすく書いてくれそうだと期待してしまいます。
しかしフッサールの考えは、彼が人生を歩むにつれて変化してわかりにくいそうです。その中で“美味し”そうなところだけをつまみ食いすると……人が世界に対するとき、心が作用します。その、心にかかわる何かが世界を表現することを「表象」と呼びます。さらに人は「これは真実にちがいない」という確信を持って世界に対することがあります。その確信の根拠を「信念」と呼びますが、フッサールは「いくつかの信念の組み合わせ(システム)が、推論的な構造をなして全体として世界を表象する」と考えました。
ここで私は「唯識」を想起します。ただ唯識では、文字通り「唯だ識あるのみ」で最終的には「世界」は消滅してしまいますが、フッサールは「信念志向性の正しさは、信念システムの内部だけで定まるのではなくて、真偽を決定する世界の側からの制約を、知覚を通して獲得しなければならない」ともしました。なんだか堂々めぐりをやっているような気もしますが、世界が消滅しちゃうよりは私としては納得がいきます。そこで「ノエマ」(「意味内容」と「様態」とを合わせたもの)とか「ドクサ」(現実を真理であると見なす志向性)という概念が登場し、ここで私は当然意味論やソシュールの思想も想起します。フッサールは「ことばを使ってことばを記述する」行為に悪戦苦闘をしているように見えますが、ここでメタ言語を持ち出すのはたぶん“反則”なんでしょうね。
「具象としての世界」を前提として置いてみましょう。そこで私が「世界」についてなんらかの記述をしてそれをあなたに伝えたら、そのとき「世界」は「具象」ではなくて私とあなたで共有できる「一般化された世界」「抽象化された世界」になります。同様に「具象としての私」についてなんらかの記述がされた場合、そこでの「私」は「一般化された私」「抽象化された私」になりそうです。それはすなわち「(私とあなたで)共有可能な“私”」です。それは「あなた」に関しても同じこと。すると「世界」の中での「私」と「あなた」の関係は、一体どうなるのでしょう。なんだかとっても面白い世界が広がりそうで、わくわくします。
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【ただいま読書中】『フッサール ──心は世界にどうつながっているのか』(シリーズ・哲学のエッセンス)門脇俊介 著、 NHK出版、2004年、1000円(税別)
『ミラーニューロンの発見』で著者の思想の中にフッサールが重要な位置を占めていることを知って、まずは入門書で触れてみることにしました。私個人にとっても「ミラーニューロン」は重要なもので、いろいろなもの(自我とか他我)についてミラーニューロンを通して考えているのですが、そのためにはやはりフッサールについても知らなきゃ、では、ちゃんと読む前に軽くトレーニングをしておこう、という目論見です。実は先日も一冊図書館から借りてきて読んでみたのですがそれはあまりに難しくて挫折したものですから、今回は見るからに軽そうなもの(わずか100ページ)にしました。
のっけから引き込まれます。「はじめに」の冒頭の段落。
「夕暮れに穏やかな坂道を自転車で下っていくと、目の前に広がる住宅地のそこここに照明が点りはじめ、私は突然気づかされる。これまで出会ったこともない私以外の人々が、それぞれの住まいの中でそれぞれの生活を続けていて、私が今持っているような意識をそれぞれ持っているのだと。中学の頃に確かに体験したにちがいない軽い驚きの気分は、たった一度だけのものであったのか、あるいは幾度も繰り返し起こったのかは定かではない。しかし私自身の記憶の中では、この出来事は、私が世界に対する根本的な問いを立てるときの、強力なベクトルをなすものとして作動し続けている。」
これは期待できそうだ、とつぶやきながら、私はページをめくります。私と共通体験を持っている、というその一点だけでも、フッサールについてわかりやすく書いてくれそうだと期待してしまいます。
しかしフッサールの考えは、彼が人生を歩むにつれて変化してわかりにくいそうです。その中で“美味し”そうなところだけをつまみ食いすると……人が世界に対するとき、心が作用します。その、心にかかわる何かが世界を表現することを「表象」と呼びます。さらに人は「これは真実にちがいない」という確信を持って世界に対することがあります。その確信の根拠を「信念」と呼びますが、フッサールは「いくつかの信念の組み合わせ(システム)が、推論的な構造をなして全体として世界を表象する」と考えました。
ここで私は「唯識」を想起します。ただ唯識では、文字通り「唯だ識あるのみ」で最終的には「世界」は消滅してしまいますが、フッサールは「信念志向性の正しさは、信念システムの内部だけで定まるのではなくて、真偽を決定する世界の側からの制約を、知覚を通して獲得しなければならない」ともしました。なんだか堂々めぐりをやっているような気もしますが、世界が消滅しちゃうよりは私としては納得がいきます。そこで「ノエマ」(「意味内容」と「様態」とを合わせたもの)とか「ドクサ」(現実を真理であると見なす志向性)という概念が登場し、ここで私は当然意味論やソシュールの思想も想起します。フッサールは「ことばを使ってことばを記述する」行為に悪戦苦闘をしているように見えますが、ここでメタ言語を持ち出すのはたぶん“反則”なんでしょうね。
「具象としての世界」を前提として置いてみましょう。そこで私が「世界」についてなんらかの記述をしてそれをあなたに伝えたら、そのとき「世界」は「具象」ではなくて私とあなたで共有できる「一般化された世界」「抽象化された世界」になります。同様に「具象としての私」についてなんらかの記述がされた場合、そこでの「私」は「一般化された私」「抽象化された私」になりそうです。それはすなわち「(私とあなたで)共有可能な“私”」です。それは「あなた」に関しても同じこと。すると「世界」の中での「私」と「あなた」の関係は、一体どうなるのでしょう。なんだかとっても面白い世界が広がりそうで、わくわくします。
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