【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

コピー

2010-11-07 18:35:40 | Weblog
新聞に、大学生がネット上の論文をコピペして作成するので、それを検索して指摘するソフトを大学側も使う、という記事がありました。引用だったらともかく、結論部分まで丸々コピペ(つまりは盗用)して提出する大学生がいるとは、小学生の「宿題忘れちゃった、ちょっと写させて」の世界かよ、と言いたくなりましたが……その小学生の時からマジコンでゲームをコピーして遊ぶことがふつうで、音楽や映画もコピーし放題の環境に育ったら、論文もコピーして何が悪い、と思うようになるのも仕方ないか、とも思えてきます。ただそういった人が社会人になったら、つとまるのはコピー取りの仕事だけかな?

【ただいま読書中】『バルバロッサ作戦』パウル・カレル 著、 松谷健二 訳、 フジ出版社、1986年、3500円

「友情の16ヶ月」が敗れる前日、1941年6月21日、ドイツ東部戦線の兵力は、兵員300万、各車両60万台、馬75万頭、戦車3580台、砲7184門、航空機1830機の他に、南方にルーマニアの第3・4軍がいました。対峙するソ連軍は450万。ただし、主力は少し下げておき、国境には少数の守備隊だけを置いていました。ソ連に電撃的に侵攻したドイツ軍は、地点によって差はありますが、大体予定通り侵攻には成功しました。しかしそこで不可解な6日間の停止命令。ヒトラーには「第一撃の成功」でかえって迷いが生じたのでしょうか。(西部戦線でも、ダンケルク手前でドイツ軍は進撃を停止して、結局これがあとあと効いてきます。それと同じように東部戦線でもこの停止によってソ連には予備軍をかき集める余裕が生じ、これがあとあと効いてきます)
ソ連はドイツが先端を開くことを知っていました(それは世界中での公然の秘密でした)。だから守備をがっちり固めていました。さらに、フィンランド戦では苦戦したのに新型戦車やロケット砲を使わないという“手の内を見せない”戦略まで採っていました。それなのになぜドイツ軍の“電撃”を許してしまったのか。どうも、肝腎なときに防衛戦略の足を引っ張ったのは、スターリンのようです。ともあれ、ヒトラーの“裏切り”に驚愕したスターリンは“救世主”を求め、シベリア極東軍からイェレメンコ中将を呼び寄せます。さらにシベリアの軍団を次々西に移動させました。(ここで「日本はアメリカの方を向いていてソ連に軍を向けない」というゾルゲ報告が非常に重要な意味を持ちます)
ドイツの将軍たちは直感的に敵の最弱点をつき、ソ連軍に大量の出血を強います。ところがそれはソ連にとっては“かすり傷”でした。数万人の兵が失われた?それがどうした、なのです。さらにヒトラーはまたまた逡巡します。モスクワを目指すべきか、それとも、と。そこで「モスクワではなくてキエフへ転進」とのヒトラーの命令は、後世の歴史家たちには「それが敗北の元」と不評ですが、著者はヒトラーの決定には一理あるとします。しかし……そう、この「しかし」が問題なのです。問題はその決定が遅すぎたことでした。しかしスターリンもまた大間違いの決定を行ない、その結果ウクライナで捕虜66万を含む100万の兵が失われました。(そもそも開戦前に高級将校の過半数を粛清したこと自体が大間違いだったのですが)
戦法の国ごとの違い(ドイツは戦車を「群」で使用するが、ソ連は単独で歩兵擁護に使用する、とか、森林でのソ連の偽装たこつぼは銃眼が「後方」にだけある(ドイツ軍が通りすぎてからその背後を撃つ)、とか)があまりに対照的です。戦争「文化」があまりに違いすぎると、「まともな戦争」にならない、ということかもしれません。さらに繰り返し述べられるのは「ドイツの兵力不足」です。とにかく「員数」が絶対的に不足しているのです。当時の戦争ではまだ「機械」は戦況を決定する絶対的な要素ではありませんでした(非常に大きな要素ではありましたが)。
モスクワに迫ったドイツ軍の中には、モスクワ郊外のバス停留所に立った兵士がいました。しかし雪が降り始め、泥濘の中大軍の行軍は困難になります。「零下40度」は、冬期装備を持たない兵に凍傷を起こし、マシンオイル・エンジンオイルも凍らせました。攻撃は“凍結”します。
レニングラートも陥落寸前でした。しかしそこでヒトラーは急に方針を変更。とどめを刺すかわりに航空団と機甲師団を引き抜き、歩兵だけで封鎖戦をすることにします。結局包囲下のレニングラートの重工業地帯は戦争中も稼働を続け、戦車などをソ連軍に供給し続けました(冬はラドガ湖と河川が凍結するのでそこを通じて輸送ができたのです)。
ムルマンスク・カフカスが大きなエピソードとしてはさまって、話はスターリングラードへ。
ヒトラーはモスクワを横目で見ながら、南部のカフカス油田を確保しさらにイランにまで手を伸ばそうと画策します(「ブラウ作戦」と命名されました)。そこでアフリカのロンメルと合流したら、中東の油田もすべて手に入ります。ソ連も大兵力を投入します。ドイツ軍の三倍をクリミアの防衛に投入したのです。ドイツのマンシュタイン元帥は奇抜な戦略でそれに応じます。ドイツ軍の大勝が二つ続き、ヒトラーは赤軍崩壊の日は近いといい気になります。しかしその先にスターリングラードが待っていました。スターリンは“学習”をし、主力を温存しながら撤退を続け、ドイツ軍を死地に引き込んでいったのです。本来スターリングラードはドイツ軍の主要目標ではありませんでした。ただ、諸般の事情(ドイツの予備兵力不足(本書では「最後の大隊」と表現されます。ロンメルがアフリカ戦線で要求した(そして得られなかった)ここぞと言うときに絶対的に必要だった予備兵力は東部戦線でも得られなかったのです)、燃料不足、ヒトラーの油田へのこだわり、ソ連軍の撤退戦略)などが複雑に絡み合って、思わぬ脚光をその都市が浴びることになってしまいました。ドイツ軍は続々スターリングラードに突入しますが「最後の100m」でソ連軍は持ちこたえます。スターリンが各所からかき集めて次々投入した予備兵力が、効いたのです。さらに、ドイツ第6軍はいつの間にか自分たちがスターリングラードで包囲されていることに気づきます。しかしヒトラーは「戦線突破(つまりは撤退)」を許しませんでした。空中から補給するからそこでがんばれ、と。

悲惨な戦場の描写の連続の本書には、ほのかなユーモアも漂います。戦場の兵士たちが持っていたユーモア感覚が、インタビューを通じて本書にも投影されてしまったのでしょうか。私がにやりとしたのは、それまでほぼ無敵だったドイツの37ミリ対戦車砲がソ連の新型戦車(特にT34)に無力なことが露呈した瞬間「聴診器」というあだ名をつけられてしまったというエピソードでした。ともかく「1000人の自由意志による協力者」による本書の物語としての“厚み”は半端ではありません。物理的にもずいぶん分厚い(600ページ近い)本ですけれどね。



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