飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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1987年9月 高円・田原の里

2010年05月13日 | 思い出の大和路探訪
 <1987年9月:万葉の大和路を歩く会「み魂しずまる高円・田原の里」>

奈良盆地の東方約6km、標高390mほどの山間部にある田原(たわら)と呼ばれる地域には、志貴皇子の墓である田原西陵や、その子の光仁天皇の田原東陵がある。また高円(たかまど)山の西麓に建つ白毫寺(びゃくごうじ)は、志貴皇子の山荘跡を寺としたものと伝えられている。志貴皇子ゆかりの地が今回の中心である。

 コース:近鉄奈良駅=田原・志貴皇子墓-光仁天皇田原東陵-太安麻呂墓-柳生街道・峠の茶屋-滝坂道-白毫寺-近鉄奈良駅
講師:武庫川女子大学教授 清原和義氏


春日宮天皇田原西陵:志貴皇子の墓
志貴皇子は天智天皇の皇子で光仁天皇の父であり、万葉の歌人としても名高い。
 「石走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも」(巻8─1422)
壬申の乱後の天武朝に天智の皇子が生きるのはむずかしく、まして母が采女であったことも肩身が狭かったろう。しかしこのことが志貴皇子により透明な世界と、身の安全をもたらした。


春日宮天皇田原西陵:志貴皇子の墓


光仁天皇田原東陵:志貴皇子のむすこ
田原西陵から東に約2キロの光仁天皇田原東陵
宝亀元(770)年、称徳天皇は後継者を指名せずに没し、壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は絶え、天智系が復活した。それが志貴皇子の息子、つまり、天智天皇の孫にあたる白壁王=光仁天皇であった。


田原の里は稲刈りの真っ只中だった




太安万呂の墓(S54発見)
太安万侶の墓誌が出土した場所は田原西陵の近くである。


太安万呂の墓の茶畑からの展望 奈良時代の貴族の奥津城であった田原の里風景


太安万呂の墓
太安万呂の墓誌が発見されたのは1979年1月22日。高松塚の壁画発見も大ニュースだったが、この墓誌発見もそれに劣らぬ価値のあるものだった。太安万呂は『古事記』の編者として知られているが、この墓誌発見によって、彼の実在が証明され、安万呂の没年を養老7年(723)7月7日と記した『続日本紀』の信憑性も確かめられたのである。墓誌に書かれていたのは、「左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安万呂以癸亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」の41文字。伝承が出土品によって証明された幸福な例である。


太安万呂の墓の茶畑のコスモス


柳生街道を峠の茶屋を目指して歩く


峠の茶屋(柳生街道から滝坂道への分岐点)
創業してから約180年という古い茶店だが、老夫婦二人で作られる草餅はヨモギの香りも高く、なかなかに美味。


柳生街道・滝坂道へ入る


春日山石窟仏
滝坂の道が奈良奥山ドライブウェイと交わる少し手前にあり、石切峠にさしかかる坂の左手になるため、石切峠の穴仏とも呼ばれている。


柳生街道の道標と石だたみ
この道は滝坂道と呼ばれ、江戸中期に奈良奉行により敷かれた石畳の道は、昭和の初めまで柳生方面から奈良へ米や薪炭を牛馬の背につけて下り、日用品を積んで帰っていくのに使われたという。


切られ地蔵
荒木又右右衛門がためし斬りしたと伝えられる首切り地蔵


白毫寺
高円山のふもとにあり、境内からの展望は大変すぐれている。雲亀元年(715)志貴皇子の没後、その地を寺としたのに始まると伝えられ、鎌倉時代に再興された。とくに道照が中国から宋版一切経の摺本を持ち帰ってからは一切経寺とも呼ばれ、庶民信仰の場として栄えた。現在は本堂と御影堂などが残っている。


白毫寺は萩の名所でもある
石段の参道両側には萩がビッシリと植えられている。


白毫寺本堂


五色椿
境内には天然記念物の五色椿が植えられており、奈良三名椿の一つとして有名である。


志貴挽歌(笠金村)の歌碑 高円山を望む   →万葉アルバム
境内広場の南側の片隅に「万葉歌碑」が建てられている。
歌碑には『高円(たかまど)の野辺の秋萩いたずらに 咲きか散るらむ見る人無しに』と刻まれている。この歌は、霊亀元年(715年)9月、志貴皇子が亡くなったときに笠金村が詠んだとされる歌で、萩をこよなく愛でたといわれる志貴皇子の心情がよくでている。


講師:清原和義氏の説明風景


左:三笠山、右:高円山
白毫寺をあとにして、奈良行きのバス停付近より。

1987年8月 飛鳥の夏 小墾田から軽の里へ

2010年05月03日 | 思い出の大和路探訪
 真夏の飛鳥は観光シーズンでないので観光客も少なく、のんびりゆっくりと見て回ることができる。真夏ならではの景観に出会うことができるのである。

コース:飛鳥駅・・・下平田・・・菖蒲池古墳・・・橘寺・・・川原・・・真神が原・・・甘橿丘・・・豊浦寺・・・雷付近・・・小墾田・・・軽の里・・・橿原神宮前駅


欽明天皇陵


下平田、鬼の俎の手前、多武峰を望む


菖蒲池古墳


橘寺太子殿


太子殿




橘寺観音堂




川原寺跡と細川山


川原八幡宮


川原八幡宮


飛鳥川(後方:島ノ庄、細川山)


みろく石


和田池と畝傍山(甘橿丘より)


飛鳥坐神社と飛鳥寺(甘橿丘より)


豊浦寺




雷付近の飛鳥川(うしろ甘橿丘)


雷付近の発掘現場




古宮土壇


小墾田宮伝承地


剣池


剣池の万葉歌碑  →万葉アルバムへ


軽の里付近


応神天皇軽島豊明宮跡   →万葉アルバム


軽寺跡

1987年8月 奈良の明日香

2010年04月22日 | 思い出の大和路探訪
 奈良市奈良町、奈良の明日香を散策した。


瑜伽(ゆか)神社
飛鳥神奈備に飛鳥京の鎮守として祀っていたのを、平城遷都と共にこの地に遷した。この山を平城(なら)の飛鳥山と云い、辺りを奈良の飛鳥と云う。


瑜伽(ゆか)神社社殿
社は飛鳥の元宮に対し「今宮」と呼ばれていた。また、元興寺禅定院の鬼門除け鎮守として崇められ、後に興福寺の大乗院がこの西山麓に建つに及んでその守護神として藤原氏の厚い崇敬を受ける様になって、その頃、山と社の名を宗論の「瑜伽」に替えた。


大伴坂上郎女の歌碑
「ふる里の 飛鳥はあれど 青丹よし
平城の明日香を 見らくしよしも」  →万葉アルバムへ


写真では見えないが、遠くかすかに飛鳥の大和三山が見える。


神社のたもとの飛鳥橋


元興寺


元興寺東門


元興寺極楽堂(国宝)
元興寺は南都七大寺の1つ、興福寺の「北寺」に対し「南寺」と称した。


元興寺東塔跡


東塔の礎石


高林寺:中将姫が住んでいた屋敷あと  中将姫についての詳細は→中将姫伝説を訪ねてリンクメニュー


誕生寺:中将姫誕生の地




徳融寺:藤原豊成公(中将姫の父)の邸跡


豊成公と中将姫の御廟と伝える二基の宝きょう印塔


奈良の明日香の里の家並み


1987年7月 吉野・宮滝

2010年04月15日 | 思い出の大和路探訪
<1987年7月5日 万葉の大和路を歩く会「水たぎつ吉野宮滝」>

 吉野山を登り峠から喜佐谷を下って宮滝に至るハイキングコースで、
ふたりの万葉学者の先導で充実した万葉の旅であった。

コース:近鉄吉野駅・・・金峯山寺・蔵王堂・・・稚児松地蔵・・・喜佐谷・・・象の小川・・・宮滝-近鉄大和上市駅

講師:武庫川女子大教授 清原和義氏、大阪大学名誉教授 犬養孝氏



近鉄吉野駅


金峯山寺仁王門
額に「金峯山」と書かれた「仁王門」は、重層入母屋造、三間一戸瓦葺です。建立後、南北朝1348年(正平3年)に足利尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)の兵火で焼かれたが、1455年(康正元年)再建された。


金峯山寺蔵王堂
1586年(天正14年)焼失後6度目、1591年(天正19年)東大寺大仏殿に次ぐ棟高34mの国宝・蔵王堂が再建された。重層入母屋造、桧皮葺で日本最大の建物。


吉野朝址
京都花山院を抜け出し、導かれて吉野へ入った後醍醐天皇は、始め吉水(きっすい)院を行宮とされていたが、そこが手狭になり、蔵王堂の西下に在った実城寺(じつじょうじ)を行宮にされ、寺名を金輪王寺(きんりんおうじ)と改め、終始京都へ帰還する事を願いながら、ついに1339年(延元4年)ここで亡くなった。


金峯山寺蔵王堂から中千本へ向かう途中のみやげ店がつづく道


上千本より蔵王堂を下に見る


万葉の忘れ草(現在のカンゾウ)
「忘れ草 我が下紐に 付けたれど
醜(しこ)の醜草 言(こと)にしありけり」(大伴家持)


稚児松地蔵 上千本から喜佐谷へ峠付近にある


象(きさ)の小川の源流
「吉野宮滝万葉の道」の祠の背後に「象の小川」が流れており、丁度そこは写真の様な「高滝」で、落差約10m、清洌な飛沫を上げている。


前夜の雨で増水している川を渡る


滝の上の三船の山は恐(かしこ)けど
思ひ忘るる時も日もなし


象(きさ)の小川
谷を埋めつくすばかりの杉と桧の美林を抜けると、喜佐谷(きさたに)の集落で、上千本から下って来た「象(きさ)の小川」は、青根が峰を源とする「喜佐谷川」と合流するが、万葉時代には今の「喜佐谷川」も「象の小川」として歌に詠まれている。

「昔見し 象の小川を 今見れば
いよよさやけく なりにけるかも」(大伴旅人)  →万葉アルバム


左:象山、右:三船山


喜佐谷の集落(右奥が吉野)


桜木神社(天武天皇を祀る)
「喜佐谷川」に沿って舗装されてなだらかな平坦の道を下ると、「桜木神社」がある。天武天皇が、まだ大海人皇子(おおあまノおうじ)と云われていた頃、兄の天智天皇の近江の都を去って、吉野に身を隠していたが、ある時、兄の子(甥)大友皇子の伏兵に攻められられると、傍らの大きな桜の木に身をひそめ危うく難を逃れたという。


「み吉野の 象山のまの 木末(こぬれ)には
ここだも騒ぐ 鳥の声かも」(山部赤人) →万葉アルバム


吉野川 夢のわだ付近
「桜木神社」から「喜佐谷川」に沿って下って来て 「喜佐谷川」が「吉野川」に流れ込むところが「夢のわだ」、写真の左で白くなっているところ。

「我が行きは 久にはあらじ 夢のわだ
瀬にはならずて 淵にありこそ」(大伴旅人) →万葉アルバム


「見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の
絶ゆる事なく またかへり見む」(柿本人麻呂) →万葉アルバム


犬養孝氏による説明風景


左:犬養孝氏、右:清原和義氏


吉野離宮址の中荘小学校
「柴橋」を渡ると吉野町宮滝で、橋のたもとに石碑が建ち、中荘小学校の校庭が見え、校舎の裏に吉野川流域で最大の「宮滝遺跡」が在り、また遺跡の北側から飛鳥時代以後~平安時代初期の建物跡も発見され、656年女帝斉明天皇が「吉野宮」を造ると「日本書紀」に記された「吉野離宮」と推定されている。


柿本人麻呂の歌碑
「見れど飽かむ・・・」 →万葉アルバム

1987年6月 磐余・上の宮

2010年04月12日 | 思い出の大和路探訪
<1987年6月 磐余・上の宮>
 桜井駅の南方周辺に広がる旧跡遺跡を訪ねた。古代の多くの旧跡が点在している。
途中偶然に聖徳太子関係遺跡の発掘現場に出くわした。ちょうど現地説明会が開かれている矢先で、見学者も多く熱気でムンムンしていたのを覚えている。 

コース:近鉄桜井駅-桜井戒重-土舞台-安倍文殊院-安倍寺跡-上の宮遺跡(メスリ山古墳付近)-等弥(とみ)神社-近鉄桜井駅


春日神社(桜井市戒重):大津皇子の訳語田(おさだ)の家がこのあたりにあった。


春日神社


若桜神社(桜井市市谷)
履中天皇の磐余稚桜宮跡(いわれわかざくらのみやあと)だとする説がある。
延喜式内社「磐余稚桜神社」とされる、旧村社。
多くの石灯籠が有り、古いものは宝暦10年(1761)のものが有る。
伝承では、
 履中天皇が皇后と、船を磐余市磯池(いわれいちしのいけ)に浮かべて遊宴されていた時、盃に時ならぬ桜の花びらが散りかかりました、この奇譚をめでて、この宮を磐余稚桜神社と改めたということである。
 桜井の地名の起こりの伝承:その桜を探しだし、桜樹を清水の湧く和泉のほとりに移し植えさせた、この泉は、大和の七つ井戸のひとつであったという、若桜神社の北50mほどにある「桜の井」だという。


若桜神社のうら土山より


土舞台への道


芸能発祥の地「土舞台」
西側に「土舞台」顕彰碑が建っている。「日本書紀」によると、612年(推古天皇20年)の記事に百済人からの帰化人、味摩之(みまし)が呉(くれ)で「伎楽の舞」を習得したというので、聖徳太子が彼を桜井に住まわせ、少年たちを集めて、その「呉伎楽舞(くれうたノまい)」を少年達に伝習させた所。即ち、我が国初の国立演劇研究所と国立の劇場が置かれた場所である。




土舞台からの展望、倉橋山を望む


石寸(いわれ)山口神社
『大和志』に双槻(なみつき)神社と呼ばれていたこともあり、用明天皇の磐余池辺雙槻宮(いわれいけべのなみつきのみや)の跡地であるとする説がある。


文殊池から安倍文殊院全景
「土舞台」から南へ下りて車道を1つ越すと、大和十五寺の1つ「安倍文殊院」で、安倍山崇敬寺(すいきょうじ)文殊院と号し、東大寺と同じ華厳宗。安倍氏の氏寺である。
 手前のお堂は、金閣浮御堂(仲麻呂堂)で、昭和60年(1985年)に建立された文殊池の中に建つ金色の六角堂で、安倍仲麻呂像、安倍晴明像などを祀る。


安倍文殊院本堂
本尊は「三人寄れば文殊の智恵」で知られる文殊菩薩。安倍文殊院の文殊菩薩は、京都府天橋立の切戸文殊、山形県亀岡文殊と並ぶ、日本三大文殊のひとつに数えられている文殊さんである。


西古墳
「安倍文殊院」の境内には二基の古墳があり、本堂に近い方の文殊院西古墳は、高さ6.6mの円墳である。


東古墳
更に東へ50m行った所に文殊院東古墳があり、南に開口した横穴式石室の羨道に井戸があるので閼伽井窟(あかいくつ)とも呼ばれて、玄室内に「不動明王坐像」を刻んだ石仏が安置されている。


白山神社
室町時代に建立された白山堂は、加賀の国(石川県)の霊峰「白山」をご神体とする白山神社の末社で、菊理媛命(くくりひめのみこと)が祀られている。菊理媛命は、伊邪那岐命と伊邪那美命の縁を取り持ったことで知られ、縁結びの神様として崇敬を集める神様。
白山堂は特に縁結びにご利益があると信仰を集めている。


ウォーナー碑
ウォーナー博士は1881年アメリカ生まれ。東洋芸術史家で日本美術をこよなく愛していたとある。第二次大戦、日米開戦において戦争防止を進言し、開戦となると、アメリカ政府、軍上層部に辛抱強く、奈良、京都をはじめとする古都の文化的価値の説得した。
その甲斐あって、アメリカ軍の日本本土空襲の空爆リストから外されたのであった。
桜井市の市民が、その感謝の気持ちとして、ここに「ウォーナー博士報恩供養塔」を建立したという。


安倍寺跡
バス停「生田」の直ぐ北西が「安倍寺史跡公園」で、草がぼうぼうと生えた「仲麻呂屋敷」と呼ばれる一辺15mの方形の土壇があり、昭和41年と43年の調査で出土した瓦等から昔は崇敬寺とも呼ばれた「安倍寺」の塔跡で、また、東方にある土壇は、金堂の跡と推定され、北方にある土壇は、講堂の跡と推定され、おそらく、安倍寺も法隆寺式伽藍配置だという。




瓦窯跡(鎌倉時代)


白壁の美しい民家


上の宮遺跡 左手:天満神社


遺構北方 右手:鳥見山


上の宮遺跡 石敷き遺構


石敷遺構
左上に土杭状遺構がみえる、ここから櫛が見つかった。


石組み溝の遺構

(現在の状況:奈良観光サイトより)
ここは現在は整備されて、「上之宮庭園遺跡」(桜井市文化)となっている。
古墳時代末期から飛鳥時代初期にかけての豪族居館の跡と考えられ、同時に出土した木簡、琴柱、ベッコウ等の貴重品や、ここの地名上之宮(うえのみや)から聖徳太子の上宮(かみつみや)と考えられている。


遺構南方 メスリ山古墳
古墳時代前期初頭の前方後円墳。特徴的なのは、埋葬施設の副石室がまるで遺品庫の様相を呈していることであり、規模・埋葬品とも大王墓級だが、記紀や『延喜式』などに陵墓としての伝承がなく、謎の古墳といわれている。


等弥(とみ)神社
なだらかな山容の鳥見山(標高245m)が広がり、その西麓の能登山に「等弥(とみ)神社(能登宮)」が鎮座している。


等弥神社「上社(上津尾社)」


大伴坂上郎女の歌碑
「妹が目を 跡見(とみ)の崎の秋萩は
この月ごろは 散りこすなゆめ」 →万葉アルバム


射目(いめ)立てて 跡見の岳辺の なでしこの
花ふさ手折り われは持ち行く 奈良人のため
紀鹿人 8-1549  →万葉アルバム


1987年5月 近江・蒲生野

2010年04月05日 | 思い出の大和路探訪
<1987年5月 近江・蒲生野>

近江鉄道市辺駅・・・船岡山・・・蒲生野・・・太郎坊・・・近江鉄道太郎坊宮前駅

息子を連れて滋賀県の蒲生野へ散策に出掛けた。



市辺駅


阿賀神社
天智天皇が大津から大勢を引き連れて猟にあそんだという、古代朝廷の遊猟の地、蒲生野の中心は近江鉄道の市辺駅近くの船岡山あたりと想定されている。その地を万葉の森となづけ、昭和43年に頂上に万葉歌碑が建てられた。
阿賀神社の境内うしろに万葉の森・船岡山がある。


船岡山山麗 万葉の森


船岡山の万葉歌碑
自然の巨岩に「元暦校本万葉集」の原本そのままの文字を彫りこんだ石板がはめこんである。有名な万葉歌2首だ。


あかねさす 紫野行き 標野行き
野守は見ずや 君が袖振る
(卷1-20 額田王) 
紫の にほへる妹を 憎くあらば
人妻ゆゑに 我恋ひめやも
(卷1-21 大海人皇子) →万葉アルバム


船岡山から眺めた蒲生野


うしろが船岡山


赤神山


道沿いに建つ石灯籠


赤神山の中腹に太郎坊宮がみえる
太郎坊宮(阿賀神社)
近江鉄道太郎坊駅から北へ約1km、標高350mの巨岩が露出した赤神山の中腹に、「太郎坊さん」の名で親しまれている「太郎坊宮」がある。「太郎坊」とは京都鞍馬の次郎坊天狗の兄天狗で、この社を守護していると言われている。約1400年前の開基と伝えられ、天照大神の子を祀る原始信仰の神社である。勝運授福の神として崇められ、厄除け・開運・商売繁盛にもご利益があるとされる。その昔には、聖徳太子や最澄も参拝したと言われ、また神秘的な霊山として修験者の修行の場でもあった。


太郎坊宮の石鳥居
参道から約740段の階段を登ると本殿にたどり着く。


太郎坊宮の千本鳥居


本殿前にある夫婦岩
本殿前に夫婦岩とよばれる高さ数十メートルの巨岩がある。神力によって左右に開いたといわれ、巾80cm、長さ12mの巨岩の隙間を嘘つきな人間が通ると途端に岩に挟まれてしまうといわれる。


本殿前から眼下に広がる蒲生野の眺めがすばらしい。

1987年4月 飛鳥(桧隈から真神が原・甘樫丘)

2010年03月29日 | 思い出の大和路探訪
<1987年4月12日(日) 飛鳥(桧隈寺跡-川原寺跡)>
コース:飛鳥駅・・・桧隈寺跡・・・栗原・・・下平田・・・真神が原・・・甘樫丘・・・川原寺跡・・・飛鳥駅

飛鳥で3回目かになるサイクリング、この時は息子と2人だった。
桧隈から栗原あたりは飛鳥の中でも静かなところで、飛鳥の別の良さを実感できるところでもある。 


飛鳥駅近くの分岐点 白壁の家


分岐点より桧隈への道


桧隈の里 桧隈寺がある森


桧隈寺跡


桧隈の里 桧隈の集落


桧隈の集落


呉津孫神社


栗原のお地蔵さん 「右岡寺」へと書かれている


下平田、鬼の俎の手前、遠くの山は細川山


八幡宮裏より橘寺・川原寺を望む


真神が原から眺めた橘寺全景


入鹿首塚より甘樫丘を望む


甘橿丘から遠くに畝傍山


甘橿丘展望台 桜が満開を過ぎ散っている


飛鳥坐神社に続く道路


川原寺全景


川原寺とスイセン


庚申石と川原寺

1987年4月 雨の当麻寺

2010年03月18日 | 思い出の大和路探訪
 <1987年4月、当麻寺>
 4月のある日、妻子と奈良当麻寺を訪ねた。
中将姫の當麻曼陀羅・天平時代の東西両塔・日本最古、白鳳時代の梵鐘、石燈籠などでよく知られている当麻寺。
あいにく小雨がけむる肌寒い一日だったが、しっとりとした大寺の佇まいをゆっくりと見学することができた。
まだあどけない小学三年の息子が元気に同行していたのが印象的だった。


近鉄当麻寺駅


中将餅本舗
よもぎ餅がおいしいので、当麻寺に来るたびにここに寄ることが多い。


けはや塚
垂仁天皇の時代に、當麻蹶速は出雲出身の野見宿禰(のみのすくね)と力比べをして蹴殺されたが、地元の英雄と語り継がれている。


当麻寺につづく参道


当麻寺山門
当麻寺は、白鳳時代に創建され、奈良時代の三重塔を東西二基とも残す全国唯一の寺で、白鳳・天平様式の大伽藍を有し、「當麻曼荼羅(たいままんだら)」を本尊とする「極楽浄土の霊場」である。


当麻寺境内 曼荼羅堂(奥)、金堂(左)、講堂(右奥)
当麻寺は大和と河内の境界をなす二上山の東麓にある。
現在は、浄土宗と真言宗の二宗で護持されている珍しいお寺である。


東塔と鐘楼、左手:松室院
鐘楼は日本最古の梵鐘(国宝・白鳳時代)
天平時代の東西の三重塔(国宝)


中之坊剃髪堂と白壁
この当時の趣のある白壁は今は改修されてきれいになり趣がなくなってしまった。
写真だけに残るなつかしの風景の一枚となった。


東塔と中之坊


中将姫池


日本最古の石燈籠(重要文化財・白鳳時代)


曼荼羅堂
曼荼羅堂(国宝)には中将姫ゆかりの蓮糸大曼陀羅がある。


中之坊剃髪堂
中将姫を手引きした「導き観音」として信仰を集める十一面観音をご本尊とする。天平の昔、藤原家の郎女・中将姫は幾多の艱難辛苦を乗り越え、観音様の導きによって當麻寺へ入山し、このお堂にて髪を剃り落として「法如」の名を授かり尼僧となった。
 ご本尊は中将姫の守り本尊であることから特に女人の信仰を集め、安産、健康、厄除の祈願に多くの方が訪れる。


中将姫誓いの石


中之坊の池泉回遊式庭園
中之坊庭園は、古くから大和三名園(竹林院・慈光院)と賞される池泉回遊式兼観賞式庭園。 


中之坊新書院


中之坊庭園の飛び石


牡丹の花


折口信夫の歌碑
「ねりくやう すぎてしづまる 寺のには はたとせまへを かくしつつゐし」

1987年3月 多武峰から吉野へ

2010年03月11日 | 思い出の大和路探訪
<1987年3月15日(日) 多武峰から吉野へ>
万葉の大和路を歩く会「よき人の吉野山路訪ねて」に参加した記録。
 
 奈良時代に天皇が吉野詣でで行幸したコースを辿る旅である。

コース:近鉄桜井駅=多武峯・談山神社・・・・冬野・・・・竜在峠・・・・滝畑・・・・志賀
    =六田・柳の渡し=近鉄下市口駅 (徒歩約8km)
講師:甲陽学園高校教論 山内英正さん

多武峯・談山神社から志賀までは山道を徒歩。その他は貸切バスで移動した。
日本三大美林でもある吉野杉に覆われた山道を歩き回り、帰宅後に花粉症にかかったことがわかった思い出のある旅だった。
吉野杉の花粉を相当吸ったようで、この時以来現在に至るまで花粉症はおさまらないようだ。
それでも、ひなびた飛鳥から吉野路へ続く味わいのある散策をすることができた良い旅だった。



談山神社入り口
ここは、大化の改新でお馴染みの中大兄皇子、中臣鎌足が日本の将来について語りあったといわれる談い(かたらい)山がすぐ後ろにありその頂上には大化の改新の談合の碑が立っている。談山神社という名前はこの故事に由来している。


十三重石塔
談山神社の駐車場から南門へ向かう途中、右側に折れる道がある。
そこを少し登って行くと、十三重石塔が建っている。
淡海公墓所と伝えられる十三重石塔である。


人麻呂歌集の歌碑 →万葉アルバムへ




談山神社十三重塔
桜の開花まであとわずかだった。桜の満開時は人でごったがえすらしい。
鎌足の死後、摂津阿威山に葬られていた亡骸をここ、多武峰に移して建てられたお墓で、678年に完成し。しかし戦火に焼け落ち、写真の十三重塔は1532年の再建。この塔は現存唯一の十三重塔(重文)だそうだ。


談山神社拝殿
1520年に建てられたこの拝殿の中に、鎌足公の描かれた多武峰マンダラがある。


石垣と下乗石
西門跡で、飛鳥方面への門があったところ。立派な石垣と下乗碑がある。


談山神社から冬野へ向かう道から 飛鳥を望む


冬野
左方多武峯から30分程の登り道を経て、畑から登って来たT字路にでる。
真っ直ぐ村を過ぎて行くと竜在峠に出る。
眺望の素晴らしい場所。ここでしばしの休憩。
冬野はわずか三戸の村だそうだ。標高約六百米の山上に静かにたたずんでいる。
 かつて本居宣長は長谷寺から多武峯を経て冬野を通り、竜在峠越えで吉野に入っている。
「はるかに山蹄をのぼりゆきて、手向に茶屋あり。やまとの国中見えわたる所也」と 『管笠日記』 の中に宣長が記した冬野は、今は行きかう人もなく鳥のさえずりと、谷から湧き起こる風の音だけが響いているだけである。


冬野にて 桃の花


冬野を過ぎる


竜在峠付近
冬野からは屋根伝いに吉野に分け入って、約一時間で竜在峠に着く。
峠は展望もきかないので峠らしい感じがしない。
これより三百米先の雲井茶屋跡を経て吉野の滝畑へ通じている。


竜在峠にて
み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ雪は降りける
間なくぞ 雨は降りける その雪の時なきが如
その雨の間まきが如 隈もおちず 思ひつつぞ来し
その山道を    (天武天皇 卷1-25)

西暦671年、壬申の乱の前年に大海人皇子(後の天武天皇)が妃(後の持統天皇)ほか、わずかの舎人たちを伴って越えたであろう峠の一つに、この竜在峠が考えられている。


滝畑
竜在峠南方の集落で、明治時代までは街道の要所だった所だそうだ。


吉野川 六田(むった)
音に聞き 目にはいまだ見ぬ 吉野川
六田の淀を 今日見つるかも (卷7-1105)

大淀町北六田と、南岸の吉野町六田とを結んだ、かつての「柳の渡し」付近。
平安時代に醍醐寺の僧が初めて渡し場を開いたと伝えており、以来吉野山から大峰を経て熊野へ駆ける、修験者の水垢離(みずごり)場(水を浴び身体を清める場)として尊ばれてきた。
大正までは舟や徒歩(かち)で川越えをしたものだった。
従ってこの付近は、大和平野や大阪、和歌山方面からの修験者や、吉野山への花見客でにぎわい、又吉野川をくだる”筏”のたまり場でもあったので、宿屋や茶店が建ち並んで、宿場町としても栄えた所である。


六田(むった)の河原で講師の話を聞く

ここから歩く会で用意された貸切バスで近鉄下市口駅へ着き、解散になった。

1987年2月 飛鳥(甘橿丘・豊浦・宮跡・石舞台)

2010年03月01日 | 思い出の大和路探訪
 <1987年2月11日(水)、飛鳥>
 飛鳥6回目の散策。
今回は家族で訪れ、飛鳥のポピュラーな名勝地をサイクリングで回った。
真冬だったが好天に恵まれ風もなく穏やか、空気も澄んでいるため、遠くの景色の見通しが年間を通してもこの時期が一番良く、出かけるには大好きな季節である。
飛鳥サイクリングも2回目なので道も慣れてきて、地図もなしでスイスイ回れるようになってきた。

コース:飛鳥駅・・・鬼の俎厠・・・亀石・・・甘橿丘・・・豊浦寺跡・・・甘橿坐神社・・・飛鳥資料館・・・浄御原宮跡・・・水落遺跡・・・板蓋宮跡・・・石舞台・・・飛鳥駅


飛鳥駅


鬼の雪隠(せっちん)
道の両側に大きな石造の「鬼の爼」と「鬼の雪隠」が在る。これは大昔、旅人が飛鳥の平田に差し掛かると、鬼が旅人を捕まえ、爼で料理をして食べた後、満腹になり雪隠でウンチをしたとの伝承がある。しかし、実際は西へ 約15キロ程行った二上山から巨石を切り出し、欽明天皇の陪塚(ばいちょう)として使われていた横口式石槨(せつかく)の基底石と、蓋(ふた)石と云われている。


鬼の俎(まないた)


亀石
道の脇に花崗岩で造られた長さ3.6m、幅2m、高さ2m、重さ40トンの「亀石」が南西を向いて寝ている。伝承によると、これは大昔、まだ飛鳥が湖の底だった頃、明日香村川原の鯰と対岸の當麻の蛇が喧嘩して、川原の鯰が負け、その結果、湖の水を蛇に取られて干上がって、仰山の亀が死に、その供養の為の物で、この「亀石」が西の葛城市當麻町の方を向くと洪水が起こり、明日香村が泥沼に成ると云われている。しかし、本当の所は何の為に造られたのか、今もって謎の石像なのである。


真神が原を抜けて甘橿丘に向かう 前方に飛鳥寺が見えてくる


甘橿丘の展望台に到着 耳成山(左)・香具山(右)を背に


甘橿丘から畝傍山を望む


甘橿丘から耳成山を望む


甘橿丘中腹にある万葉歌碑 →万葉アルバム


甘橿丘下ったところの茶屋で休憩


豊浦寺跡
現在向原寺と呼ばれる小さなお寺の周辺に豊浦寺があった。
ここは我国最初の女帝であった推古天皇が即位した豊浦宮があったところ。


向原寺本堂南側では、豊浦寺講堂の版築跡の遺構が常時公開されている。画像の石敷き部分が豊浦宮の遺構だとされ、その上層が講堂の建築にあたって施された版築になるようだ。




豊浦の文様石
文様の特徴は、飛鳥石神遺跡から出土した須弥山石に似ているとされているが、
元々の用途はまったく分かっていないようだ。


甘橿坐神社
向原寺(豊浦寺跡)の横を通って直ぐ裏の道に廻ると、「甘樫坐(あまかしにいます)神社」。推古天皇らを祀っている。


境内に自然石の立石がある。これは飛鳥地方に見られる石造遺物の一種で祭祀遺跡あるいは結界石の遺稿ではないかと思われる。
また、この神社の特殊行事として、クガダチの神事がある。


飛鳥資料館
入った正面に展示されている飛鳥京の立体地図


資料館庭園にある酒舟石の複製


水落遺跡 旧飛鳥小学校わきにある
660年5月(斉明天皇6年)中大兄皇子が日本初の「漏刻(ろうこく、水時計)」を造り、天智天皇に即位して後、設置したもの。


発掘風景 石神遺跡発掘中(4次)


板蓋宮跡
643年(皇極2年)4月末から政治を行った「伝飛鳥板蓋宮(でんあすかいたぶきノみや)跡」。645年(皇極4年)6月12日中大兄皇子(後の天智天皇)が、母の皇極天皇の目の前で蘇我入鹿を中臣鎌足らと諜殺し、大化改新をやり遂げた所。今は井戸を復元して史跡公園となっている。


石舞台
横穴式の石室を持つ方形墳で、日本書紀推古天皇34年に記載された蘇我馬子大臣の桃原墓と云われ、「石舞台」の名の謂われは古墳上部の封土を失い、むき出しになった巨大な天井石の上で、狐が女に化けて舞を見せたと云う説と、旅芸人が大きな石組みの上で芸を披露し、舞を優雅に舞ったと云う説が有る。




石舞台近くの万葉歌碑 →万葉アルバム

1986年11月 飛鳥(下平田から磐余道へ)

2010年02月15日 | 思い出の大和路探訪
 <1986年11月23日(日) 飛鳥(吉備姫王墓-山田道)>
 飛鳥駅から遊歩道に沿って歩いた最初の頃です。

 コース:飛鳥駅・・・下平田・・・中平田・・・定林寺跡・・・橘寺・・・岡寺・・・板蓋宮伝承地・・・旧飛鳥小付近・・・飛鳥資料館・・・山田道・・・磐余道・・・桜井駅

 飛鳥は、わりと賑やかな遊歩道沿いと、その周辺の静寂な場所に二分されます。
遊歩道沿いの下平田(猿石)・中平田(天武持統天皇陵)・橘寺・岡寺・板蓋宮伝承地などはポピュラーな観光スポットとなっており、回りやすい所ですが、
定林寺跡や磐余道はほとんど観光客が来ない所で、案内板もなく目的地を探すのに苦労します。
 今回は動と静の異なる観光スポットを回りました。


欽明天皇陵
欽明天皇の時代に、百済から仏教が伝わった。蘇我堅塩媛、蘇我子姉君を妃に皇后を石姫とする。
この後、姉妹である、蘇我堅塩媛、蘇我子姉君の子供たちにより、王位争奪戦が繰り広げられる。のちに娘の推古天皇により、蘇我堅塩媛と合葬。
欽明天皇陵は、ここではなく橿原市の見瀬丸山古墳だという異説もある。


猿石
天皇陵のすぐ側にある吉備姫王(欽明天皇の皇子茅渟王の妃)墓にある。


下平田の風景
亀石につづく遊歩道から、正面が細川山
ここからの眺めが大好きで、飛鳥に来るとこの場所から同じ構図の写真を撮ったほどだ。
この写真はその中の最初の1枚である。今は舗装されてしまったが、当時は素朴な土の道が続いている。


天武持統天皇陵
中央集権国家体制を樹立した天武天皇と、その妻・持統天皇を合葬した陵墓。
堂々とした八角墳で、近くには草壁皇子の墓と見られる束明神古墳や文武陵などもある。
数ある天皇陵の中で、被葬者が確実なのは、ここ天武・持統天皇陵だけだと言われている。
先に亡くなった天武天皇の棺と、火葬された持統天皇の骨壺が並んで安置されている。


天皇陵わきの柿の木


定林寺と定林寺跡の石柱
立部の集落を通る細い道から延びる参道を少し上がった場所に定林寺(じょうりんじ)があり、隣接地には春日神社、さらに参道を登ると国史跡の定林寺跡がある。
定林寺は、立部寺とも言われ、これは所在地の字名によるもののようだ。聖徳太子建立46ヵ寺のうちの一つだとも言われている。


橘寺
白壁の築地塀をめぐらした寺で、聖徳太子生誕の地とも伝えられる。
太子建立の七ヶ寺(法隆寺、中宮寺、法起寺、橘寺、四天王寺、広隆寺、葛城寺)の一つと伝えられている。


橘寺北側の白壁、うしろに細川山


橘寺の二面石(左)と三光石(右)
太子堂の横手にある二面石は、人間の善と悪の2つの心を彫ったものという。
聖徳太子が推古天皇の仰せにより、勝鬘経(しょうまんきょう)を3日間にわたりご講讃された時、太子の冠から日月星の光が輝いたと伝えられているのが、三光石の由来である。


塔礎石


岡寺山門
西国三十三ヶ所第7番札所として知られる。



岡寺本堂
寺の境内には桃山時代に造られた朱塗りの仁王門と本堂、書院、大師堂などが配置されている。
本尊は、天平時代の作と伝わる高さ4.5メートルの如意輪観音坐像(重文)。
塑像としては、日本最大とされている。


岡寺の三重塔


三重塔は昭和61年秋に弘法大師記念事業として、510年ぶりに再興されたということで、落慶直後の真新しい塔であった。


板蓋宮伝承地にある大井戸跡 奥に見えるのが甘樫の丘
飛鳥板蓋宮(あすか いたぶき の みや)は、7世紀中葉に皇極天皇が営んだ宮。


焼畑


畝傍山(右)




浄御原(きよみがはら)伝承地
7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。近年の発掘成果により同村、岡の伝飛鳥板蓋宮跡にあったと考えられようになっているようだ。


飛鳥資料館 特別展「壬申の乱」


資料館の庭にある石遺跡(復元したもの)


須弥山石


吉備池
桜井市吉備。この池は新しい用水池で古代の磐余の池ではないが、眺めがよく歌碑も立っている。
吉備池の築堤には大津皇子の辞世の歌といわれる万葉歌「百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を…」(3-416)の歌碑が建てられている。


大伯皇女の歌(吉備池西堤)
うつそみの 人にあるわれや 明日よりは
二上山を 弟世(いろせ)と わが見む  →万葉アルバム


大津皇子の歌碑(吉備池北堤)
ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を
今日のみ 見てや 雲隠りなむ  →万葉アルバム


東池(磐余の池跡の一部)
桜井市池之内の御厨子観音そばにあり、このあたりに広がる低地が古代の磐余の池跡ではないかといわれている。その一端に小さな東池がある。

1986年10月 飛鳥(越・佐田から桧隈へ)

2010年02月01日 | 思い出の大和路探訪
 <1986年10月12日(日) 飛鳥(岩屋山古墳-中尾山古墳)>

 飛鳥駅の西側に広がる越と佐田の岡は訪れる人も少ない静かなところ、そこから飛鳥の桧隈の里を経て話題の高松塚を回りました。

コース:飛鳥駅・・・岩屋山古墳・・・牽牛子塚古墳・・・マルコ山古墳・・・束明神古墳・・・岡宮天皇陵・・・桧隈寺跡・・・文武天皇陵・・・高松塚古墳・・・飛鳥駅


越の村落


岩屋山古墳
近鉄飛鳥駅の裏側にある越の集落の中にある。
研磨された花崗岩の切石を積んだ精緻な石室を持つ古墳として知られている。
「岩屋山式」石室の標準的な存在である。


牽牛子塚古墳
終末期古墳で別名「御前塚」「あさがお塚古墳」と呼ばれている。
被葬者については古墳の立地や歯牙等から斉明天皇と間人皇女の合葬墓と考える説が有力のようだ。


真弓の丘
近鉄飛鳥駅の西方に広がる低い丘陵地帯が真弓の丘。草壁皇子(くさかべのみこ)が眠っている。
万葉歌”外に見し 真弓の岡も 君ませば 常つ御門と 侍宿(とのい)するかも”(草壁皇子に勤めていた舎人が皇子が亡くなり葬られた時に歌った歌)。


マルコ山古墳
奈良県で初めて発見された六角形墳として有名。
築造は7世紀末~8世紀初め、終末期の古墳。被葬者は不明だが天智天皇皇子・川島皇子の墓の説がある)


佐田の岡
”朝日照る 佐田の岡辺に 群れ居つつ 我が泣く涙 やむ時もなし”
(人麻呂追悼挽歌)


束明神古墳
春日神社の境内にある八角形墳で、草壁皇子の墓という説が有力である。
中央部に墳丘をつくった大規模な終末期古墳。 


岡宮天皇陵(草壁皇子墓)
のどかな田園を望む緑濃い真弓の丘の中腹にある。
現在「公式に」草壁皇子の陵とされているのが、この岡宮天皇陵。


桧隈の里(ひのくまのさと)
桧隈の里は飛鳥時代に百済から来られた渡来人が多く住んだ里。
明日香の里に当時「飛鳥寺」「川原寺」「山田寺」、そして数々の天皇の御殿や施設が造られたが、それらの建築物は全て渡来人の技術によるものだといわれている。


桧隈寺跡
ここは7世紀に建立された東漢(ヤマトノアヤ)氏の氏寺があったところ。
西側に中門があり、その門を入ると正面に塔、左手に講堂、右手に金堂が配置されていた。 現在は大きな礎石が草むらに残り、柵に囲まれて重要文化財の十三重の石塔が建っている。


於美阿志(おみあし)神社
檜隈寺跡に祀られている於美阿志神社。
早くから飛鳥に根づいたと思われる東漢(ヤマトノアヤ)と呼ばれる人々の祖・阿智使主(アチノオミ)氏を祀るとされている。


文武天皇陵
天武天皇と、持統天皇の孫である文武天皇は24歳で若死にし葬られている。


文武天皇陵付近から越・真弓の岡方面を望む


高松塚古墳
藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見され有名になった。


高松塚古墳(右)と刈入れ前の田んぼが連なる風景
発見から14年しか経っていないので、まだひなびた田園風景が見られる映像。
現在では歩道や周辺が整備されたため自然の面影がなくなったのが残念である。


中尾山古墳
高松塚古墳に向かう途中にある八角形の古墳。八角形ということは天皇陵である
可能性が高い。文武天皇の陵墓ではないかとの説が有力。

1986年6月 二上山と竹内街道

2010年01月25日 | 思い出の大和路探訪
 <1986年6月8日(日) 二上山から竹内街道、「近鉄文学散歩」>
 ちょうど五木寛之の「風の王国」を読んだ時期で、二上山に興味があり参加した。
行って見て大津皇子にからむ古代ロマンが色濃く感じられ、当麻の地に興味を引かれた最初でもあった。難解な「死者の書」を読み始めたのもこのあとであった。

 悲劇の王子・大津皇子が死を賜ったのは、丁度1300年前。折口信夫の「死者の書」にもある皇子の奥津城を尋ね、五木寛之の異色のロマン「風の王国」で二上山を疾風のように駆ける遍路たちを追ってみる。

コース:二上神社口駅・・・傘堂・・・鳥谷口古墳・・・祐泉寺・・・馬の背・・・鹿谷寺跡・・・(竹内街道)・・・孝徳天皇陵・・・上ノ太子駅 (徒歩約8km)
講師は大阪成蹊女子短大教授 岡田保造さん


二上山(二上神社口駅からあぜ道に入ったところから)


傘堂
江戸時代初期、飛騨の「左甚五郎」が建てたと伝えられ、1辺42cmの方柱1本の上に1辺1間(1.8m)で方形の傘が乗った様な形で、本瓦葺の頂上に瓦製の宝珠露盤を乗せている。


傘堂をあとに二上山に向かう


祐泉寺(左)、石柱(右)
五木寛之の「風の王国」に次のように出てくる。”登り道の左に、上の方に四角い窓をくりぬいた石柱があり、その一面には「二上獄南叡山修学院祐泉寺」と彫られ、山上方向の面に「南無阿弥陀 仏の御名を呼ぶ小鳥 あやしや たれか ふたかみの山」と彫られた老僧無学の歌を見出す。速見は馬の背を越えて雌岳へ駆け登り、「どちらへ行こうかとすこし迷って、雄岳のほうをふり返ったとき、彼は信じられないものを見た。霧の中にぽっかり浮かんでいる雄岳の山頂ちかくを、すばらしいスピードで登って行く姿があった。」”


馬の背より雄岳を望む


雄岳頂上(標高517m)から二上山雌岳山頂(手前)、葛城・金剛山系(奥)を望む


雄岳山頂にある大津皇子の墓
大津皇子は、第40代天武天皇の第3皇子として生まれ、余りにも勇敢で聡明な資質のため、天皇の死後わずか1ケ月にして、父の天武天皇の皇后(継母)で、母の妹(叔母)でもあった第41代持統天皇に謀反の罪をきせられて、24歳の若さで死罪に処せられた。


雄岳山頂に葛木二上神社も鎮座している、「岳の権現」として親しまれている


雄岳山頂付近


鹿谷寺跡、古代の石切場 講師の岡田さん
古代の石切場跡に凝灰岩の尾根を幅10m程度南北に切出し、小平地に造られた8世紀奈良時代の寺院の跡と云われている。


十三重石塔(我国最古)


竹内街道:竹内峠付近より二子山を望む
「竹内街道」を上がって行って集落を抜けると国道166号で、更に西へ1.8キロ登ると「竹内峠」、道路標識に「大阪府南河内郡太子町」と書かれ、峠の頂上が大阪と奈良の県境である。


孝徳天皇陵 皇極天皇の同母弟であった

大和棟の民家:棟の中央に「盆栽」が植えられている


太子町を通る竹内街道 街道の風情が残っている

1986年6月 大和三山

2010年01月18日 | 思い出の大和路探訪
 <1986年6月22日(日) 大和三山:「万葉の大和路を歩く会」>

 この時初めて奈良サンケイ新聞社と奈良交通が主催している:「万葉の大和路を歩く会」に参加した。参加者200人以上いただろうか。歩く会はちょうど満5周年を迎えるときだった。この会がきっかけで以降、10回程歩く会に参加し、大和路各地を探訪することができたのである。
 また、なによりもこの時の講師が万葉学者で名高い大阪大学名誉教授の犬養孝(1907-1998)さんであったことである。犬養さんの万葉を愛する人柄に接し、また万葉歌を高らかに独特の調子で歌い上げる姿に感銘したのであった。
(犬養孝さんは、この時は79歳で日焼けした元気な姿だったが、その後91歳で他界された)

コース:橿原神宮西口駅・・・畝火山口神社・・・畝傍山登山・・・本薬師寺跡・・・藤原宮跡・・・畝尾都多本神社・・・香具山中腹・・・大官大寺跡・・・水落遺跡・・・甘樫丘・・・橿原神宮前駅 (徒歩約11km)


畝火山口神社と畝傍山
畝傍山:標高199m、大和三山の中で最も高い山で、火山が噴出してできた山。山麓には橿原神宮神苑や神武天皇陵の森が広がり、荘厳な雰囲気でより神聖さを感じさせてくれる。畝傍山の麓は、神武天皇が宮を開いたところとされている。


畝火山口神社
気長足姫命(神功皇后)を祀り、安産の神として信仰されている。


畝傍山山頂


橿原神宮
橿原神宮の歴史は比較的新しく、明治時代に作られたもの。この神社の由来は、日本書記に書かれている、神武天皇が大和の難敵を次々と征服し、畝傍山のふもとに造営を思い立ったという事実に基づいている。橿原神宮は、当時の国策と密接な関係があり、富国強兵の「神国日本」のシンボル的な存在となっていた。


本薬師寺跡
藤原京にあった薬師寺跡で、奈良の薬師寺は藤原京から平城京に遷都されるときにこの地より建物が移されたとされている。移された薬師寺と区別する為、ここは「本薬師寺跡」と呼ばれている。現在はこの地に建物はなく礎石と土壇を残すのみである。


本薬師寺跡にある大友旅人の歌碑 →万葉アルバムへ


藤原宮跡から耳成山を望む
耳成山:標高140m、大和三山の中では最も均整のとれた円錐状の美しい姿をしている。元々は火山でもっと高い山であったが、盆地の陥没で沈下して山の頭部だけが残ったらしい。人の顔にたとえて、耳が無いように見えるので耳無山→耳成山と呼ばれるようになったそうだ。


解説している犬養孝さん(藤原宮跡の大宮土壇にて)


藤原宮跡をあとにし香具山に向かう
香具山:標高152m、香具山は他の二山と違って火山ではなく、多武峰(とうのみね)山系から延びた尾根が、侵食で残った部分が独立峰に見えるようになった山。風土記では天から降ってきた山との伝承があり、大和三山の中で最も神聖視された山で、そこから「天の香具山」とも呼ばれている。


香具山のふもとにある畝尾都多本神社
畝は、うねうねしているところ、尾は、鳥獣のように山が裾を長く引いている所をさし、畝尾は山の裾のことをいう。古来、この神社の境内地全体を泣沢の森といい、水神として特に延命の神として仰がれている。


香具山中腹へ向かう行列


香久山中腹にある舒明天皇の万葉歌碑 →万葉アルバムへ


天の岩戸神社(香具山南麓にある)
天照大神の岩戸隠れの場所と伝承され岩穴を神体とする神社。同神社に磐座があることに着目して、これを太陽の昇る穴として、畝傍山と同神社を結ぶラインが、飛鳥時代以前にあった古代の「太陽の道」とする説もある。


大官大寺跡
香具山から南に位置しており、塔と講堂の土壇がわずかに残っている。礎石は明治時代の橿原神宮造営の際に持ち去られた。聖徳太子が平群額田部に建立した熊凝精舎がその起こりという。浄御原と藤原京時代には最も位の高い寺で、高市大寺とも呼ばれた。


甘樫丘での犬養さんの解説が始まる
甘樫丘は、大化の改新以前に、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子が権勢を示すために丘の麓に邸宅を構えていたと考えられている。
標高は148mで、丘の北側にある展望台からは、大和三山、藤原京、飛鳥京などの風景を望むことができる。


甘樫丘からの眺め 畝傍山(左)、飛鳥川(右)、藤原宮跡と耳成山(右端)


甘樫丘からの眺め 八釣山(左)、飛鳥坐神社(左手前)、多武峯(中央)、飛鳥寺(中央手前)、真神原(右手)


飛鳥坐神社(中央)参道沿いの大和風民家


甘樫丘中腹にある志貴皇子の万葉歌碑 →万葉アルバムへ

1986年5月 佐保路

2010年01月11日 | 思い出の大和路探訪
 <1986年5月、佐保路>
 奈良佐保路の寺社巡りと広大な平城宮跡を散策した。
妖艶さを漂わせる秋篠寺の木造伎芸天立像と法華寺の木造十一面観音立像をじっくり鑑賞するのがねらいだった。華やかな天女のイメージといにしへの寂れた寺院との対比、現代に再現しようとしている平城宮跡のおおらかさ、いろんな側面が見え隠れできる旅であった。

コース:西大寺駅・・・秋篠寺・・・神功皇后陵・・・佐紀神社・・・平城宮跡・・・法華寺・・・海竜王寺・・・奈良駅


秋篠寺
秋篠寺といえば、伎芸天(木造伝伎芸天立像)の寺として有名で、また苔むした庭と木々に囲まれた美しい寺である。


秋篠寺本堂

 秋篠寺の木造伎芸天立像


神功皇后陵
平城宮の北部に広がる佐紀・盾列古墳群にある。
神功(じんぐう)皇后は第14代仲哀天皇の皇后、応神天皇の母で、息長帯比売の命(おきながたらしひめノみこと)という名前もある。
(2008年2月、この神功皇后陵において、日本の考古学における画期的な出来事が起こった。宮内庁が初めて陵墓の立ち入り調査を認めたという)


佐紀神社
奈良市佐紀町、平城宮跡近く、佐紀路沿い、御前池の西にある。


平城宮跡
平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏即ち内廷と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙の所謂外朝から成り、約120ヘクタールを占めていた。


平城宮大極殿跡
(平城遷都1300年に当たる平成22年春の完成を目指し、文化庁が第1次大極殿正殿の復元を進めている)


復原建物・宮内省


法華寺
法華寺は、聖武天皇御願の日本総国分寺である東大寺に対して、光明皇后御願に成る日本総国分尼寺として創められた法華滅罪之寺である。寺地は平城宮の東北に位し、藤原不比等公の邸宅だったところ。


法華寺の湯殿


法華寺本堂

 法華寺の木造十一面観音立像


海竜王寺


海竜王寺本堂


海竜王寺の五重塔模型