飛鳥への旅

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1987年6月 磐余・上の宮

2010年04月12日 | 思い出の大和路探訪
<1987年6月 磐余・上の宮>
 桜井駅の南方周辺に広がる旧跡遺跡を訪ねた。古代の多くの旧跡が点在している。
途中偶然に聖徳太子関係遺跡の発掘現場に出くわした。ちょうど現地説明会が開かれている矢先で、見学者も多く熱気でムンムンしていたのを覚えている。 

コース:近鉄桜井駅-桜井戒重-土舞台-安倍文殊院-安倍寺跡-上の宮遺跡(メスリ山古墳付近)-等弥(とみ)神社-近鉄桜井駅


春日神社(桜井市戒重):大津皇子の訳語田(おさだ)の家がこのあたりにあった。


春日神社


若桜神社(桜井市市谷)
履中天皇の磐余稚桜宮跡(いわれわかざくらのみやあと)だとする説がある。
延喜式内社「磐余稚桜神社」とされる、旧村社。
多くの石灯籠が有り、古いものは宝暦10年(1761)のものが有る。
伝承では、
 履中天皇が皇后と、船を磐余市磯池(いわれいちしのいけ)に浮かべて遊宴されていた時、盃に時ならぬ桜の花びらが散りかかりました、この奇譚をめでて、この宮を磐余稚桜神社と改めたということである。
 桜井の地名の起こりの伝承:その桜を探しだし、桜樹を清水の湧く和泉のほとりに移し植えさせた、この泉は、大和の七つ井戸のひとつであったという、若桜神社の北50mほどにある「桜の井」だという。


若桜神社のうら土山より


土舞台への道


芸能発祥の地「土舞台」
西側に「土舞台」顕彰碑が建っている。「日本書紀」によると、612年(推古天皇20年)の記事に百済人からの帰化人、味摩之(みまし)が呉(くれ)で「伎楽の舞」を習得したというので、聖徳太子が彼を桜井に住まわせ、少年たちを集めて、その「呉伎楽舞(くれうたノまい)」を少年達に伝習させた所。即ち、我が国初の国立演劇研究所と国立の劇場が置かれた場所である。




土舞台からの展望、倉橋山を望む


石寸(いわれ)山口神社
『大和志』に双槻(なみつき)神社と呼ばれていたこともあり、用明天皇の磐余池辺雙槻宮(いわれいけべのなみつきのみや)の跡地であるとする説がある。


文殊池から安倍文殊院全景
「土舞台」から南へ下りて車道を1つ越すと、大和十五寺の1つ「安倍文殊院」で、安倍山崇敬寺(すいきょうじ)文殊院と号し、東大寺と同じ華厳宗。安倍氏の氏寺である。
 手前のお堂は、金閣浮御堂(仲麻呂堂)で、昭和60年(1985年)に建立された文殊池の中に建つ金色の六角堂で、安倍仲麻呂像、安倍晴明像などを祀る。


安倍文殊院本堂
本尊は「三人寄れば文殊の智恵」で知られる文殊菩薩。安倍文殊院の文殊菩薩は、京都府天橋立の切戸文殊、山形県亀岡文殊と並ぶ、日本三大文殊のひとつに数えられている文殊さんである。


西古墳
「安倍文殊院」の境内には二基の古墳があり、本堂に近い方の文殊院西古墳は、高さ6.6mの円墳である。


東古墳
更に東へ50m行った所に文殊院東古墳があり、南に開口した横穴式石室の羨道に井戸があるので閼伽井窟(あかいくつ)とも呼ばれて、玄室内に「不動明王坐像」を刻んだ石仏が安置されている。


白山神社
室町時代に建立された白山堂は、加賀の国(石川県)の霊峰「白山」をご神体とする白山神社の末社で、菊理媛命(くくりひめのみこと)が祀られている。菊理媛命は、伊邪那岐命と伊邪那美命の縁を取り持ったことで知られ、縁結びの神様として崇敬を集める神様。
白山堂は特に縁結びにご利益があると信仰を集めている。


ウォーナー碑
ウォーナー博士は1881年アメリカ生まれ。東洋芸術史家で日本美術をこよなく愛していたとある。第二次大戦、日米開戦において戦争防止を進言し、開戦となると、アメリカ政府、軍上層部に辛抱強く、奈良、京都をはじめとする古都の文化的価値の説得した。
その甲斐あって、アメリカ軍の日本本土空襲の空爆リストから外されたのであった。
桜井市の市民が、その感謝の気持ちとして、ここに「ウォーナー博士報恩供養塔」を建立したという。


安倍寺跡
バス停「生田」の直ぐ北西が「安倍寺史跡公園」で、草がぼうぼうと生えた「仲麻呂屋敷」と呼ばれる一辺15mの方形の土壇があり、昭和41年と43年の調査で出土した瓦等から昔は崇敬寺とも呼ばれた「安倍寺」の塔跡で、また、東方にある土壇は、金堂の跡と推定され、北方にある土壇は、講堂の跡と推定され、おそらく、安倍寺も法隆寺式伽藍配置だという。




瓦窯跡(鎌倉時代)


白壁の美しい民家


上の宮遺跡 左手:天満神社


遺構北方 右手:鳥見山


上の宮遺跡 石敷き遺構


石敷遺構
左上に土杭状遺構がみえる、ここから櫛が見つかった。


石組み溝の遺構

(現在の状況:奈良観光サイトより)
ここは現在は整備されて、「上之宮庭園遺跡」(桜井市文化)となっている。
古墳時代末期から飛鳥時代初期にかけての豪族居館の跡と考えられ、同時に出土した木簡、琴柱、ベッコウ等の貴重品や、ここの地名上之宮(うえのみや)から聖徳太子の上宮(かみつみや)と考えられている。


遺構南方 メスリ山古墳
古墳時代前期初頭の前方後円墳。特徴的なのは、埋葬施設の副石室がまるで遺品庫の様相を呈していることであり、規模・埋葬品とも大王墓級だが、記紀や『延喜式』などに陵墓としての伝承がなく、謎の古墳といわれている。


等弥(とみ)神社
なだらかな山容の鳥見山(標高245m)が広がり、その西麓の能登山に「等弥(とみ)神社(能登宮)」が鎮座している。


等弥神社「上社(上津尾社)」


大伴坂上郎女の歌碑
「妹が目を 跡見(とみ)の崎の秋萩は
この月ごろは 散りこすなゆめ」 →万葉アルバム


射目(いめ)立てて 跡見の岳辺の なでしこの
花ふさ手折り われは持ち行く 奈良人のため
紀鹿人 8-1549  →万葉アルバム


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